03
「宰相から至急と聞いて何事かと思えば……。ぞろぞろと集まっていったい何があった?」
国王の政務室には、落ちた針の音さえ聞こえそうなほど重苦しく異様な空気が漂っていた。
重厚な執務机の向こう側に国王ファビオが腰を落ち着けており、頭が痛むように押さえながら深く息を吐き出す。その重々しさに飲まれたように手前のソファに座るアンドレアが小さく肩を跳ねさせるが、その隣に座すマヌエーラは先ほどの取り乱し様もなかったようにすました顔でゆったりと手元の扇子を仰ぐ。
ジュゼッペとフェデリカは、テーブルを挟んだ対面からその様子を静かに眺めていた。
ちなみに、部屋の隅の壁際にはモニカとステファノたち側近の姿もあった。共に並び立つ国王付きの近衛騎士たちに、居心地悪そうに身を縮めている。
「誰か説明を」
ファビオのその短い一言に、フェデリカが「恐れながら」と声を上げる。そしてファビオに促され、フェデリカは昨日、マヌエーラとの茶会の帰りにアンドレアに言い渡されたふたつの命を伝えた。
ひとつは、モニカ・クライトンをパレリオ侯爵家の養女として迎えること。
ひとつは、現在フェデリカに与えられている王宮の居室を速やかに明け渡すこと。
「アンドレア殿下は、養女の件については父に、居室の件については王妃陛下へ直接お伝えなさるということでしたが……」
「初耳だな」
「勝手なことを!」
フェデリカの疑問に応えるように、両者からそれぞれ否定の声が上がる。フェデリカの説明の最中、口を挟もうと声を上げてはそのたびにファビオに制止されていたアンドレアが忌々しげにフェデリカを睨みつけた。
そしてアンドレアは荒く息を吐き出し、視線をその隣に座るジュゼッペへ向けた。
「そういうことだ、侯爵。異論ないな」
「──お断りいたします」
「なっ」
反射的にアンドレアが立ち上がった直後。ドンッと重い音が部屋に響いた。音のした方を見れば、ファビオが拳を強く机に叩きつけていた。アンドレアを見据えるその顔は、どこまでも険しいものだった。
アンドレアが気勢を削がれてソファに腰を落とすのを見届けて、ファビオはジュゼッペに目を向けた。ジュゼッペが静かに頭を下げる。
「陛下の許しなく発言いたしましたこと、お詫びいたします」
「かまわん。パレリオ侯爵の怒りももっともだ。この場に限り、今後自由な発言を許す。もちろん侯爵令嬢も自由に発言してよい」
感謝を示すようにジュゼッペとフェデリカは揃ってファビオに頭を垂れ、顔を上げたジュゼッペが改めてアンドレアを見る。
アンドレアはジュゼッペの表情の静かさに気圧されながらも、威厳を見せるように胸を張った。
「何が不満だ、パレリオ侯爵」
「不満とはおかしなことを。我が侯爵家にはすでに娘も息子もおります。そこに養女を、それも男爵家から受け入れる理由がどこにあるとおっしゃるのです」
「っ、私はフェデリカとの婚約を解消し、モニカを妃と迎え入れる! パレリオ侯爵家にも益のある話だ!」
前のめりに力説するアンドレアの隣で「なんてこと……!」と悲鳴が上がる。だがアンドレアはマヌエーラの悲鳴を無視してジュゼッペを睨むように見続けた。
対峙するジュゼッペは冷ややかな表情を保ったまま、話にならないと緩く首を横に振る。アンドレアが激昂する前にファビオに名を呼ばれ、短く息を吐いて呼吸を整えてから国王を見る。だがそこにあったジュゼッペと同じ冷やかな眼差しに、肩を強張らせる。
「私も聞きたいものだな。後継もおり何の問題もない侯爵家が、わざわざ養女を迎えてまで得られる利益とはなんだ?」
「っ、それは……!」
アンドレアはぐっと拳を握り、壁際に立つモニカを一瞬だけ視界に収めると改めて国王と向き合った。
「先ほども申し上げた通り、私はフェデリカではなくモニカ・クライトン嬢を妃と迎えるつもりです。フェデリカとの婚約は解消となりますが、モニカを養女とすることでパレリオ侯爵家との繋がりは保たれます。侯爵家としても「王家に娘を嫁がせた」という事実を残せ、王家との間に確執が生じていないという対外的なアピールにもなります。これこそが双方にとってもっとも円満な解決策ではありませんか!」
言葉を重ねるほどに熱の篭もっていくアンドレアの声が部屋に響き渡る。だがその演説に部屋の一角からいくつかの感嘆がこぼされる以外、中央──国王や当事者たるパレリオ侯爵家から向けられるのは冷めきった呆れだった。
こめかみに手を当てたファビオが、深い溜息と共に言葉を絞り出す。
「その身勝手な策のどこに利益があるというのだ。婚約者のすげ替え先が身分も不確かな養女など、パレリオ侯爵にありもしない汚名を着せる気か」
「モニカの身分が不確かなど……! それに汚名とは」
「汚名以外の何がある! 親戚筋でもない家から養女を取り、その娘を実娘の代わりに王家に嫁がせる。そんなことをすれば周囲の者たちはその娘はパレリオ侯爵の隠し子ではないかと、そう勘繰るだろうな!」
そこまでを言われて、アンドレアはようやくハッとした顔を見せる。それを見てしまったファビオの口からは、最早溜息すらこぼれることはなかった。
「何より婚約者を養女に奪われることになるフェデリカ侯爵令嬢の名誉はどうなる」
「っそもそも俺はフェデリカを婚約者とは認めていない! 父上も母上も、何故おかしいと思わないのです!? たかが婚約者というだけで幼い頃から王宮で過ごし、すでに王族の一員となったかのように日々食事を共にし! この女はまるで王家に寄生する毒虫──」
「そこまでにしていただきましょうか」
ヒートアップしていくアンドレアの言葉を遮ったのは、抑揚もない静かな声だった。アンドレアが己の失言に気付き、口を閉ざすがすでに遅い。
一度吐いてしまった言葉は戻らない。そしてそんな言葉がとっさに出るということは、常日頃からそう思っていたということに他ならない。
仇でも見るようなジュゼッペのその目は、決して王族に向けていいものではない。だが、この室内にジュゼッペの不敬を咎める者はいなかった。
「アンドレア王子殿下が我が娘を避けていることは存じていましたが、まさかここまで修復が不可能なほどだったとは。いやしかし、殿下が現状に違和感を抱かれていたようで、安心いたしました」
ジュゼッペが浮かべた笑みは一見すれば親しみのこもった表情に見える。けれど凍てついたアイスグレーの瞳が溶けることはない。
「……安心だと?」
「ええ。婚約者だからと王宮に取り上げ、王族の一員であるかのような待遇を受けるのはおかしい、と。私も同意見ですよ。……まったく、実の息子でさえ理解できることがなぜ理解できない──いや、理解したくないのでしょうね」
アンドレアはジュゼッペが見ているのは自分ではないことに気付いた。ジュゼッペの視線はその隣、マヌエーラへと向けられていた。
マヌエーラは、まるでこれから裁かれる罪人のように顔を蒼褪めさせている。
そこに、声が割って入った。
「そこまでにしてくれないか、ジュゼッペ」
「あなたも同罪ですよ、ファビオ。私たちは十分忠義を果たしたと思いませんか?」
ジュゼッペの静かな問いかけに、真っ先に叫びをあげたのはマヌエーラだった。
「っ、だめ、だめよ、ジュゼッペ!」
瞳を潤ませ、唇を震わせて、必死に何かを訴えようとするその姿はまるでジュゼッペを恐れているようで、アンドレアは思わずファビオを確認していた。マヌエーラの夫であるファビオは、自分の妻のその様子を驚いた様子もなく冷ややかに眺めていた。
「だめ、とは? 王妃殿下に許しを得なければならないことなど何もありませんが」
「フェデリカを連れ出すことは許しません……! フェデリカは私の娘になるのよ! ねぇ、フェデリカ。私はあなたの母としてよくやっていたでしょう? たくさんあなたを可愛がってあげたわ。あなたも喜んでいたじゃない。だから、ね。馬鹿な真似はやめてちょうだい」
「王妃殿下」
「母と呼びなさいと言ったでしょう!」
叫びを響かせ、マヌエーラが肩で息を繰り返す。アンドレアが話しかけることを躊躇うように宙に手を浮かせたまま「は、母上……?」と呟くが、その声がマヌエーラに届くことはなかった。
フェデリカは膝の上に置いた手にそっとあたたかな手が重ねられたことで、自分の手が震えていたことに気付いた。ジュゼッペの手の中で指先を握り込み、安心させるように笑みを向ける。
それはフェデリカがジュゼッペに見せたものだったが、勘違いしたマヌエーラは表情を輝かせた。だがその直後に、その笑みは強張ることになる。
フェデリカがマヌエーラを見る眼差しは、ジュゼッペと同じ凍てついたものだった。
「私の母はルクレツィア・パレリオ侯爵夫人ただ一人です、王妃殿下」
「侯爵夫人だなんて、他人行儀な言い方はルクレツィアが聞いたら怒るだろうね」
ジュゼッペの言葉にフェデリカは困ったように微笑む。ジュゼッペもフェデリカが自分の母を他人行儀に呼んだわけではないと知っている。
そうして見せられている光景は、本来あるべき家族としての仲睦まじい姿だった。そこに誰も入り込む余地はないと、彼らがあえてそう振る舞っていることに気付かぬ者はいない。
だがそれに耐えられない者もいた。ここにはいない者への憎悪を募らせていくマヌエーラに、何度目ともわからないファビオの溜息が響いた。
「……はぁ。やはりうまくいくはずなどなかったのだな」
疲労の滲んだその声に、ジュゼッペが「だから最初から反対していたのです」と冷静に返す。ファビオは自嘲するように唇を歪め、重く深く頷いた。
そして静かに息を吸うと、まっすぐにフェデリカを見つめ、頭を下げた。一国の王が臣下に向かって頭を下げるその光景に「あなた!?」「父上!」と驚きの声が上がる。
壁際でも緊張が走る気配が伝わってきたが、ファビオが頭を上げることはなかった。
ジュゼッペとフェデリカが静かに視線を交わし、小さく息をこぼしたジュゼッペが頭を上げるように促す。顔を上げたファビオはこの短時間で老け込んだように見えた。
「謝罪は受け取りました。ですが、許すかどうかはまた別です」
「わかっている。本当にすまなかった、パレリオ侯爵。フェデリカ侯爵令嬢」
ファビオは悔悟の情を押し殺すようにかたく目を閉じた後、アンドレアを見た。
「──第二王子アンドレアとパレリオ侯爵家フェデリカの婚約解消を認める。一切の責はアンドレア及び王家にあり、フェデリカ侯爵令嬢に瑕疵など存在しない」
ファビオの宣言が下された後、フェデリカはジュゼッペと共に頭を下げ、それを受け入れた。対面の彼らのその様子をぼんやりと眺めていたアンドレアが遅れてファビオの言葉を理解し、これが何を発端に設けられた席だったかを今更のように思い出す。
じわじわと安堵と喜びが胸の奥から込み上げてくるが、素直に喜ぶにはマヌエーラが見せた醜態への衝撃が抜けきらずにいた。
「これまでのフェデリカ侯爵令嬢の献身とパレリオ侯爵家に対する賠償はすべて第二王子と王妃の私費から支払うものとする」
「婚約解消など私は認めません!」
「王妃の許可など必要ない。また、王妃には離宮での蟄居を命じる」
「そんな……っ」
マヌエーラが絶望に満ちた悲痛な声を上げるが、ファビオは一切取り合おうとしなかった。その冷めきった眼差しが返事を促すようにアンドレアを見据え、アンドレアはただ受け入れるように頭を垂れた。
「異存ありません」
「……そうか」
首の皮一枚で繋がったことへの安堵が滲んだ声に、アンドレアの背中に冷たいものが流れる。
もしアンドレアが異議を唱えれば、その先にはマヌエーラと同じ未来が待っていたのだろう。
「パレリオ侯爵。この裁定に不服はあるか?」
「私ではなく娘フェデリカにお尋ねください」
必要もない苦労を背負い続けてきたのはフェデリカだ。
頷いたファビオが改めてフェデリカに問うと、フェデリカは頭を下げて答えた。
「異存ありません」
その言葉に、ファビオは真意を探るようにフェデリカを見返した。だが父譲りのそのアイスグレーの瞳はどこまでも凪いでいるようで、本心を窺い知ることはできなかった。
「詳細は後程、財務局の者らとも話を詰めて書面に記す。私としてはフェデリカ侯爵令嬢が王宮に居を持ったことで、侯爵家が余分に支払うことになったものも補償したいのだが……」
「ああ、それは辞退します。どこにいようと娘の養育は親がするものですから」
「……わかった。尊重しよう」
ファビオが諦めるように息を吐き、解散を告げる。
重苦しい空気を残したまま、フェデリカがジュゼッペに促されて立ち上がり、近衛騎士が開いた扉から部屋を出る。その背後で誰かを呼び止めるような声が聞こえたが、それはすぐに重く閉ざされた扉の向こうに消えていった。




