終節 ― 赤い布は結び直される
小屋の中に、朝の冷えが戻ってきた。
割れた窓から森の風が入り込み、薬草酒の匂いと、湿った毛の名残と、炉の灰の匂いを少しずつ外へ運んでいく。さっきまで部屋を満たしていた声の渦は、もうほとんど消えていた。けれど完全に消えたわけではない。壁板の隙間や、倒れた椅子の脚もとや、炉の灰の奥に、まだいくつかの呼び声が小さく震えている。
誰かが、誰かを呼んでいた。
けれど、それはもう狼の腹の中から聞こえる声ではなかった。
帰ろうとしている声だった。
オルグは窓辺に立ち、森の奥をしばらく睨んでいた。銀の鉈を下ろさない。狼が逃げた方角は、木々の葉がまだざわついている。黒い影そのものは見えない。ただ、深い森の向こうで、枝が一度だけ不自然に揺れた。
それきりだった。
小鳥が、一羽だけ鳴いた。
その声を聞いて、オルグはようやく鉈を下げた。
「行った」
低い声で言う。
「今は、な」
ルーシュカは祖母の手を握ったまま、顔を上げた。
「戻ってくる?」
「腹が空けば、森の悪いものは戻る」
オルグは振り返った。眉間には深い皺が刻まれている。彼の外套は裂け、袖口には黒い霧のようなものが薄くこびりついていた。けれど目だけは、まだ森を離れていなかった。
「だが、あれはしばらく声を着られん。喰った声をだいぶ吐かされた。おまえの祖母の声も、ほとんど戻った」
「ほとんど?」
ルーシュカの声が震えた。
祖母の手が、彼女の指を弱く握り返す。
「十分だよ」
エルダは言った。
声は掠れていた。糸のように細く、時々途中で切れそうになる。それでも、狼の喉から聞こえた声とは違う。そこには熱があった。灰の奥に残った小さな火のような、自分の場所へ戻ってきた声だった。
「婆さん、無理に話すな」
オルグが言う。
「森番の声よりは、まだましさ」
「その憎まれ口が戻ったなら、まあ大丈夫か」
「大丈夫ではないね。家は壊れるし、寝台は裂けるし、薬草酒はこぼれるし、あんたは泥足で上がり込むし」
「狼を斬りに来たんだ。靴を脱ぐ暇はない」
「次は脱いでお入り」
「次があったらな」
「次などあってたまるものかね」
そのやりとりは、ひどく普通だった。
普通すぎて、ルーシュカの中で張りつめていたものが、そこでぷつりと切れた。
涙が、またあふれた。
さっきまでも泣いていたはずなのに、それとは違った。今度は怖さが遅れて身体に戻ってきたような涙だった。狼の口。黒い毛並み。祖母の声を着た獣。自分の名前を呼んだ金色の目。真名を呼びそうになった瞬間。呼んだら、祖母が戻るかもしれないと思ったこと。呼んでしまえば、狼にすべて奪われていたかもしれないこと。
それが一気に押し寄せてきた。
「おばあさま」
ルーシュカは祖母の手を握ったまま、顔を伏せた。
「私、呼びそうになった」
エルダは静かに息を吐いた。
「うん」
「呼んだら、戻ってくると思ったの。灰の糸を触ったら、わかった気がして。名前みたいなものがあって、でも、言っちゃいけないって思って」
「うん」
「でも、怖かった」
声が詰まる。
「おばあさまを呼びたいのに、呼んだらだめで、助けたいのに、名前を言ったらだめで。私、どうしたらいいかわからなくて」
エルダは、ゆっくりと手を上げた。
その手はまだ震えていた。けれど、確かにルーシュカの頬へ届いた。乾いた指が、涙の跡をぬぐう。
「よく、わたしの名を呼ばずにいてくれたね」
その言葉で、ルーシュカは声を上げて泣いた。
祖母は謝らなかった。
怖い目に遭わせてすまない、とも、自分のせいだ、とも言わなかった。言えば、ルーシュカはもっと泣いただろう。祖母が悪いわけではないのに、謝られたら、何かを許さなければならない気がしてしまう。
だから、祖母は礼を言った。
名を守ってくれたことに。
呼びたい気持ちを飲み込んだことに。
幼い手で、狼の口を縛ったことに。
ルーシュカは祖母の膝に顔を押しつけた。祖母はまだ起き上がれなかったので、床の上で半身を支えられたまま、片手で孫の頭を撫でた。いつものように、赤い頭巾の上からではない。頭巾はもう外され、裂け、灰と狼の牙の跡に汚れて、ルーシュカの膝の上に落ちていた。
祖母の指が、栗色の髪に触れる。
「布は」
エルダが言った。
「どこだい」
ルーシュカは泣きながら、裂けた緋名布を差し出した。
それは、朝に家を出たときとはまるで違っていた。
顎の下で結ばれていた紐は片方が切れかけ、縁の刺繍は何か所もほつれている。狼の牙が食い込んだ場所には、黒く焦げたような跡があった。布の端には穴があき、そこから祖母の古い緋糸と、炉の灰に沈んでいた結び糸が絡み合っている。
もう、きれいな頭巾ではない。
ルーシュカは胸が痛んだ。
「ごめんなさい」
思わず言った。
「おばあさまが縫ってくれたのに。私、破いちゃった」
エルダは、破れた布を受け取った。
指先で布の縁を撫でる。狼の牙の跡に触れ、焦げた糸に触れ、灰の中から戻った結び目に触れる。その表情は悲しそうではなかった。むしろ、ひどく静かだった。
「布はね、ルゥ」
祖母は掠れ声で言った。
「守るためにあるんだよ」
「うん」
「守った布が破れるのは、恥ではない」
ルーシュカは顔を上げた。
「でも、もう元に戻らない」
「そうだね」
エルダは、破れた頭巾を膝の上に広げた。
「元には戻らない。戻してはいけないこともある」
「どうして?」
「破れたことまで、なかったことにしてしまうからさ」
祖母は、オルグへ視線を向けた。
「森番。針箱を」
「婆さん、今縫う気か」
「今でなければ、布が狼の歯形を忘れる」
「忘れてくれたほうがいい歯形もある」
「これは忘れてはいけない歯形だよ」
オルグは何か言いたそうにしたが、結局黙って小卓の下から針箱を拾った。箱の蓋は戦いの最中に外れ、中の針や糸巻きが床に散らばっていた。彼は太い指でそれらを集め、祖母のそばへ置く。
エルダは銀針を一本取った。
ルーシュカが持ってきた包みの中にあった針だ。母が「必ず手に渡して」と言った針。その針が、今、祖母の指に戻っている。
「まだ縫える?」
ルーシュカが尋ねる。
「半分の声でも叱れるなら、半分の力でも縫える」
「手、震えてる」
「震えている手には、震えている手の縫い方がある」
エルダはそう言って、緋糸を針に通そうとした。
一度目は、失敗した。
二度目も、針穴を外した。
三度目に、ルーシュカがそっと糸の端を持った。
「私、手伝う」
エルダは少しだけ目を細めた。
「では、糸を見ておいで。引っ張りすぎず、緩めすぎず」
「うん」
「怖いときほど、強く引きたくなる」
「うん」
「でも、強く引きすぎた糸は、布を裂く」
ルーシュカは、祖母の指先を見つめた。
針が布に入る。
緋糸が通る。
裂けた場所が、少しずつ寄せられていく。
元通りにはならなかった。
穴は塞がっても、狼の牙が食い込んだ跡は残った。焦げた糸の色は、完全には赤へ戻らない。布の縁には、黒と緋が混ざった細い傷跡が並んだ。
けれど祖母は、それを隠すようには縫わなかった。
むしろ、その跡に沿って糸を走らせた。牙の跡を囲むように、小さな弧をいくつも重ねる。遠目には、葉の飾りにも、炎の縁取りにも見えた。けれど近くで見れば、それが獣の歯形であることはわかる。
「どうして、そこを飾るの?」
ルーシュカが聞いた。
「飾っているんじゃない」
エルダは言った。
「覚えさせているんだよ。布にも、おまえにも、次にこれを見た者にも」
「怖かったことを?」
「怖かったことも。守れたことも」
ルーシュカは黙った。
祖母の針が進むたび、頭巾は少しずつ別のものになっていった。朝に家を出たときの頭巾ではない。祖母からもらっただけの布ではない。母が結んでくれただけの布でもない。
狼の口を縛った布。
祖母の声を引き戻した布。
ルーシュカ自身が、手放すふりをして、手放さなかった布。
そういうものに変わっていく。
小屋の外では、森が少しずつ明るくなっていた。
東の空から光が差し込み、割れた窓の縁を白く照らす。戦いの跡はひどかった。寝台は壊れ、床板には爪痕が残り、小卓は傾き、薬草酒は半分以上こぼれている。けれど、朝の光が入ると、それらはただの破壊ではなく、何かがここで踏みとどまった跡のように見えた。
オルグは外へ出て、壊れた鎧戸を仮に立てかけた。しばらくすると戻ってきて、短く言った。
「村まで送る」
ルーシュカは祖母を見た。
「おばあさまは?」
「ここにいるよ」
「ひとりで?」
「森番が、あとで人を呼んでくる。ミルナも来るだろう」
「私、ここに残る」
「だめだよ」
祖母は静かに言った。
「おまえは帰りなさい」
「でも」
「帰るところがある子は、帰らなくてはいけない」
その言葉に、ルーシュカは胸を押さえられたような気がした。
帰るところ。
狼が奪おうとしたもの。
祖母が守ったもの。
母が朝、戸口で結び目に込めたもの。
「帰ったら、お母さんに何て言えばいい?」
「本当のことを」
「怒られる」
「怒られるだろうね」
「やっぱり」
「でも、泣かれるほうが先だろうよ」
ルーシュカは少しだけ俯いた。
母の顔を思い浮かべる。戸口で見送っていた顔。心配を隠そうとして、隠しきれていなかった顔。もし自分が裂けた頭巾を持って帰ったら、母はどうするだろう。怒るだろうか。抱きしめるだろうか。泣くだろうか。
たぶん、全部する。
ルーシュカはそう思った。
エルダは縫い直した頭巾を、ルーシュカの頭にかぶせた。
布が髪に落ちる。
朝とは少し重さが違う。
牙の跡を縫い込んだ縁が、頬のそばでかすかに揺れる。
祖母は、顎の下で紐を結んだ。
一度結び、少し緩め、また結ぶ。
朝、母がそうしたように。
「きついかい」
「少し」
「少しなら、我慢おし」
「お母さんと同じこと言った」
「親子だからね」
エルダは、結び目を指で撫でた。
その仕草を見た瞬間、ルーシュカはまた泣きそうになった。狼はこれをしなかった。祖母の声を着ても、この指の動きまでは知らなかった。
祖母は確かにここにいる。
「ルゥ」
祖母が呼んだ。
今度は、返事をした。
「うん」
それは、祖母の声だったから。
自分を奪うためではなく、帰すために呼ぶ声だったから。
「道の真ん中をお行き」
「うん」
「森で声がしても、すぐ返事をしない」
「うん」
「花は」
「摘まない。勝手についてきても、まず聞く」
エルダはかすかに笑った。
「それでいい」
ルーシュカは、祖母の手をもう一度握った。
「また来る」
「ああ」
「今度は、お母さんと来る」
「そのほうがいい」
「おばあさま」
「何だい」
「私、もっと上手に結べるようになる」
エルダはしばらく黙っていた。
それから、静かに頷いた。
「なら、まず帰ることだよ。糸は、帰ってきた手でなければ結べない」
ルーシュカは涙をぬぐった。
オルグが戸口で待っている。外套は裂れているが、森番の背中は大きかった。彼がいれば帰れる。そう思う一方で、もう誰かがいなければ何もできない自分ではない、という小さな感覚も胸の奥に生まれていた。
それは勇気というには、まだ頼りなかった。
けれど、糸の端くらいにはなった。
小屋を出ると、森は朝になっていた。
来たときよりも明るい。
木々の葉に残った露が光り、白い幹の間を風が抜けていく。赤い実は朝日を受けて小さく輝き、鳥たちはさっきよりもはっきり鳴いていた。森の声はまだ多い。けれど、もうすべてが自分を呼んでいるようには聞こえなかった。
道は、見えている。
ルーシュカは門石の方へ向かって歩き出した。
オルグは少し前を行く。時々立ち止まり、木の根元や茂みの奥を確かめる。彼の銀の鉈は腰に戻っているが、手はいつでも抜ける位置にあった。
ルーシュカは、道の真ん中を歩いた。
朝の光が、縫い直された赤い頭巾を照らす。狼の牙の跡は、縁飾りのように見えた。黒く焦げた糸と緋糸が混ざり合い、小さな弧を描いている。知らない人が見れば、最初からそういう模様だったと思うかもしれない。
でも、ルーシュカは知っている。
それは飾りではない。
怖かったこと。
守れたこと。
呼ばなかった名。
呼び戻した声。
それらを、布が覚えている。
森の途中で、白い花の群れが見えた。
昨日と同じように、いや、ほんの少し前と同じように、朝露を抱いて揺れている。ルーシュカは足を止めた。オルグも振り返る。
「どうした」
「花」
ルーシュカは言った。
「声がしたの」
オルグは、花を見た。
「古い呼び名が根を張ったものだ」
「摘んだら、だめ?」
「ものによる」
「これは?」
「今日はやめておけ」
ルーシュカは頷いた。
花の方から、かすかな声がした気がした。
――忘れないで。
ルーシュカは、返事をしなかった。
けれど、頭巾の縁に触れた。
忘れない。
声には出さず、そう思った。
森の出口が近づく。
門石の向こうに、村の屋根が見えはじめた。煙突の煙。畑の霧。井戸場の音。犬の吠える声。人の暮らしの音が、少しずつ戻ってくる。
そのとき、遠くで狼が吠えた。
ルーシュカは足を止めた。
それは、肉を欲しがる獣の遠吠えではなかった。腹を満たすための声ではない。獲物を追う声でもない。
もっと空っぽで、もっと深い。
誰かの名を探す声だった。
森の奥で、呼ばれたいものが吠えている。
誰かの声を着なければ、自分の形を保てないものが吠えている。
ルーシュカは震えた。
オルグが彼女の前に立つ。
「振り返るな」
ルーシュカは、顎の下の結び目を握った。
振り返らなかった。
遠吠えは、木々のあいだを渡り、白い花を揺らし、赤い実を震わせ、やがて朝の鳥の声に紛れて薄くなった。
門石を越えると、村の空気がルーシュカを包んだ。
土と煙と麦粥の匂い。
家の匂い。
その向こうで、誰かが彼女の名を呼んだ。
「ルゥ!」
母の声だった。
今度も、ルーシュカはほんの少しだけ待った。
声を聞く。
息を聞く。
その声の中にある、炉の匂いと、朝の心配と、結び目に込められた祈りを確かめる。
それから、返事をした。
「お母さん!」
ミルナが走ってくる。
その顔は泣いていて、怒っていて、真っ青で、そして生きて帰ってきた娘を見て、今にも崩れそうだった。
ルーシュカは籠を抱え直し、縫い直された赤い頭巾を揺らして、母の方へ駆け出した。
森は背後で静かに鳴っている。
もう、少女の名を呼んではいなかった。
けれど、遠い木々の奥にはまだ、名を探すものの残響が残っていた。
だから赤い布は、これからも結ばれる。
母から娘へ。
祖母から孫へ。
呼ばれるためではなく、奪われないために。
そして、いつか帰る道を見失わないために。




