第5節 ― 緋名布、狼の口を縛る
炉の灰は、まだ温かかった。
ルーシュカは一歩ずつ、横へ動いた。
逃げるためではない。
叫ぶためでもない。
祖母の指が示した、白い灰のそばへ近づくためだった。
狼は、それを見ていた。
黒い毛並みの奥で、いくつもの口が開いている。寝台はすでに裂け、祖母の姿をまとっていた布団も、夜帽子も、枕も、床に落ちていた。小屋の壁に映る影は、ただの獣の影ではなかった。耳がいくつもある。口がいくつもある。尾の先には、誰かの指のようなものが揺れている。けれど目だけは二つだった。暗い金色の目が、ルーシュカの喉を見つめていた。
その視線が、喉の内側まで入り込んでくる気がした。
声が、こぼれそうになる。
母を呼びたい。
森番を呼びたい。
祖母の名を呼びたい。
けれど、呼べない。
呼んだ名を、この獣は喰う。
「炉に何がある」
狼が言った。
声は、もう祖母のものではなかった。祖母の声を底に敷き、その上に黒い毛皮をかぶせたような声だった。やさしさの形だけを残して、中身をすっかり飢えに入れ替えた声。
ルーシュカは答えなかった。
炉の前まで、あと二歩。
足元の床板がきしむ。
小卓の上で、薬草酒の瓶が小さく震える。
籠から落ちた白い花が、灰のそばでふるふると揺れている。
――忘れないで。
花の声がした。
ルーシュカは、唇を噛んだ。
忘れない。
でも、名前は呼ばない。
祖母の手が、椅子の陰でまた動いた。細い指。震える指。その指が、灰を示す。声を奪われても、祖母はまだそこにいた。見えにくく、薄く、部屋の影に紛れかけている。それでも消えてはいない。
ルーシュカは炉の前に膝をついた。
「触るな」
狼の声が低くなる。
ルーシュカは振り向かなかった。
灰の中に指を入れる。
熱い。
思わず手を引きそうになった。けれど、火傷するほどではない。白い灰の奥に、まだ残っている炉のぬくもり。祖母が朝まで守っていた火の名残。そこに、細いものがあった。
緋糸だった。
灰をかぶって、色はくすんでいる。けれど指先で触れた瞬間、ルーシュカにはわかった。これはただの糸ではない。祖母の頭巾の縁を縫ってくれた糸と同じ感触がした。細いのに、切れない。柔らかいのに、芯がある。
その糸には、小さな結び目が三つあった。
声にならなかったものが、そこに結ばれていた。
ルーシュカは、それを握った。
その瞬間、胸の奥に、祖母の声ではない何かが触れた。
言葉ではなかった。
名前でもなかった。
けれど、それは確かに祖母のものだった。
冬の夜、毛布をかけ直してくれた手。
熱を出したときに、苦い薬草酒に蜂蜜を混ぜてくれた匂い。
糸が絡まったとき、叱らずに一緒にほどいてくれた沈黙。
ルゥ、と呼ぶ前に、いつも緋布の結び目を撫でてくれた指。
それらが、結び目の中にあった。
ルーシュカは泣きそうになった。
「それを渡せ」
狼が言った。
低く、深く、今度は完全に獣の声だった。
「それは、おまえのものではない」
ルーシュカは、灰の中の緋糸を握ったまま立ち上がった。
「おまえが持つには、古すぎる」
狼が一歩、近づいた。
床板が沈む。爪が木を削る。黒い毛並みの中で、無数の口がいっせいに息を吸った。
「渡せ。そうすれば、喉だけで済ませてやる」
ルーシュカは振り返った。
怖い。
怖さは、消えていなかった。むしろ、さっきよりもずっと濃くなっていた。膝は震えている。灰に触れた指は熱く、銀針の包みを握る手は汗で滑りそうだった。喉は乾き、息を吸うたびに、そこから声を引きずり出されるような気がした。
でも、もう狼を祖母だとは思っていなかった。
だから、怖さの形が変わった。
知らないものへの怖さではない。
大切なものを奪おうとする相手への怖さだった。
「いや」
ルーシュカは言った。
小さな声だった。
けれど、その一音を狼は聞いた。
金色の目が細くなる。
「では、喰う」
狼が跳んだ。
黒い影が、小屋いっぱいに広がった。
ルーシュカは本能的に身をすくめた。逃げようとしたら間に合わない。扉までは遠い。窓は閉じている。小卓も寝台も、狼の身体を止めるには小さすぎる。
けれど、祖母の緋糸を握った手が、熱を持った。
頭巾の結び目も、同じように熱い。
ルーシュカは、その熱に引かれるように、顎の下の紐へ手をかけた。
狼の目が変わった。
勝った。
そう思ったのが、ルーシュカにもわかった。
赤い布を外せば、狼は少女の匂いを嗅げる。名の奥へ届く。喉を噛まずとも、呼び名を引きずり出せる。狼の口の端が、笑うように吊り上がった。
「そうだ」
狼が囁く。
「よい子だ。布を外せ。おまえの声を聞かせておくれ」
ルーシュカは頭巾の紐をほどいた。
布が、髪の上でゆるむ。
朝からずっと自分を包んでいた緋色の重みが、少しだけ離れる。途端に、部屋の空気が冷たくなった。裸になったような心細さが、首筋に触れる。
狼がさらに口を開いた。
無数の声が、その奥でざわめく。
ルゥ。
ルーシュカ。
おいで。
答えて。
名前を。
名前を。
名前を。
ルーシュカは頭巾を脱いだ。
そして、差し出すふりをした。
狼が喰いつこうと身を伸ばした瞬間。
ルーシュカは、緋名布を狼の口へ投げつけた。
ただ投げたのではない。
灰の中から掴んだ祖母の緋糸を、頭巾の縁に通した。銀針の包みを歯でほどき、片手で針を抜き、震える指で布の端をひと突きした。祖母が何度もしていたようにはできない。母のようにきれいにもできない。それでも、針は布を抜け、緋糸は結び目へかかった。
布は、狼の牙に絡みついた。
狼の口が閉じなかった。
緋名布《ルブラ=ネーム》が、獣の上顎と下顎を縛るように広がった。布の縁に刺繍されていた葉の模様が赤く光る。糸巻きの形がほどけ、家の印が浮かび、古い文字のような模様が燃えるように走った。
狼が叫んだ。
けれど、その叫びは口から出られなかった。
布が声を絡め取っている。
黒い毛並みの奥で、無数の口が開く。そこから、喰われた声たちがいっせいに漏れた。子どもの泣き声。男の怒鳴り声。女の祈る声。誰かの笑い声。帰り道を尋ねる声。母を呼ぶ声。火のそばで眠る前の、名もない昔話の声。
そして、その中に、祖母の声があった。
「ルゥ」
ルーシュカの心臓が止まりそうになった。
祖母だ。
祖母の声だ。
掠れて、細くて、半分は狼の腹の中に沈んでいる。それでも確かに、ルーシュカを呼んでいる。
「ルゥ」
呼び返したかった。
おばあさま、と叫びたかった。
いや、もっと深いところで、結び目に触れたあの名を呼びそうになった。灰の中に隠されていた、祖母の奥の響き。声にならなかった真名。もしそれを呼べば、祖母は完全にこちらを向く気がした。
けれど、狼の耳が動いた。
布で口を縛られていても、耳はある。
名を聞くための耳が。
ここで真名を呼べば、狼が喰う。
祖母が最後に守ったものを、自分が差し出してしまう。
ルーシュカは、喉まで上がってきた名前を飲み込んだ。
涙がこぼれた。
それでも、呼んだ。
「私を待っている人」
狼の身体が震えた。
緋名布が、さらに強く締まる。
「私に、この布を縫ってくれた人」
床の隅で、祖母の指が動いた。
狼の腹の中から、祖母の声が細く引かれる。名ではない。真名ではない。それでも、祖母とルーシュカのあいだにある糸が、一本ずつ張り直されていく。
「私が転んだとき、泣く前に膝を拭いてくれた人」
ルーシュカは泣きながら続けた。
「苦い薬に蜂蜜を入れてくれる人。糸が絡まっても怒らない人。私の頭巾が曲がっていたら、結び目を直してくれる人」
狼の金色の目が見開かれる。
それは名ではない。
だから喰いにくい。
けれど、それは確かに祖母を呼んでいた。
「私の帰る場所」
その言葉で、炉の灰が赤く光った。
灰の下に残っていた結び目がほどける。だが、消えたのではない。ほどけた糸は、狼の口に絡んだ頭巾へ向かって伸び、布の刺繍と結び合った。緋名布の内側で、祖母が縫い込んだ祈りが目を覚ます。
母から娘へ。
祖母から孫へ。
呼ばれた名が、奪われるためではなく、帰るためにあるように。
狼が暴れた。
寝台が完全に砕けた。壁に吊るされていた薬草束が落ち、瓶が割れ、薬草酒の匂いが部屋に広がる。黒い影が天井へぶつかり、床板に爪を立てる。けれど口は開かない。緋名布が牙の間に食い込み、喰われた声たちを逃がすまいとしていた狼の喉を、逆に縛り上げている。
そのとき、小屋の扉が外から叩き開けられた。
「伏せろ!」
太い声が響いた。
ルーシュカは反射的に床へ身を投げた。
次の瞬間、銀の光が小屋の中を横切った。
森番オルグだった。
灰色の外套を肩にかけ、泥のついた長靴で戸口に立っている。髭には朝露がつき、息は荒い。右手に持っているのは、薪割り用の鉈ではなかった。銀を刃に噛ませた、短く幅広い森番の鉈。狼や熊を倒すためではなく、森に潜む名の歪みを断つためのものだと、祖母がいつか話していた。
オルグの目は、狼を見ていなかった。
狼の中にある、声の塊を見ていた。
「やっと輪郭が見えた」
オルグが低く言った。
「嬢ちゃん、そのまま布を離すな!」
「離したら、どうなるの!」
「また見えなくなる!」
ルーシュカは床に膝をついたまま、緋糸の端を握りしめた。狼が暴れるたびに、手のひらが焼けるように痛む。布を通して、無数の声が指に噛みついてくる。返せ。呼べ。名を。喉を。ひとつだけでいい。そう囁く。
でも、離さない。
祖母の声が、まだそこにある。
オルグが踏み込んだ。
狼が前脚を振る。黒い爪が空気を裂き、壁板を削る。オルグは肩でそれを受け流し、外套の留め具を引きちぎられながらも、狼の腹の下へ潜り込んだ。
腹といっても、そこに肉の膨らみはなかった。
黒い毛の奥に、声が詰まっていた。無数の呼び名が絡み合い、糸玉のようになっている。古いものほど暗く、最近喰われたものほどまだ温かい。そこに、祖母の声もあった。細い緋糸に引かれて、半分だけ外へ出かかっている。
「名を裂くんじゃない」
オルグは自分に言い聞かせるように呟いた。
「腹を開けるだけだ」
銀の鉈が振り上げられる。
狼の目が、初めて恐怖に歪んだ。
布に縛られた口から、くぐもった叫びが漏れる。その叫びの中に、喰われた者たちの声が混ざった。助けて。やめて。帰りたい。痛い。寒い。名前を。名前を呼んで。
オルグは刃を振り下ろした。
銀の鉈が、狼の腹を裂いた。
血は出なかった。
代わりに、声があふれた。
小屋いっぱいに、声が広がる。
朝の挨拶。
子どもの笑い声。
母が子を叱る声。
父が薪を割りながら歌った鼻歌。
井戸端で交わされた噂話。
誰かが誰かに告げられなかった謝罪。
帰れなかった者が最後に呼んだ家の名。
雨の日に窓辺で語られた昔話。
赤子に初めて与えられた呼び名。
死者の枕元で、忘れないと誓った声。
それらが、渦を巻いて部屋に戻ってきた。
壁へ。
床へ。
窓辺へ。
炉の灰へ。
割れた瓶へ。
倒れた椅子の陰へ。
そして、祖母へ。
エルダの身体が、影の中から少しずつ輪郭を取り戻した。
細い指。
しわの寄った手。
白い髪。
呼吸で上下する胸。
ルーシュカは緋糸を離さないまま、祖母の方へ手を伸ばした。
「おばあさま!」
今度は呼んだ。
真名ではない。
けれど、祖母を祖母として呼ぶ声だった。
エルダの唇が震えた。
すぐには声にならない。喉が、忘れていた響きを探すように動く。
「……ル」
かすかな音。
狼の腹からまだ戻りきらない声が、喉に引っかかっている。
ルーシュカは泣きながら言った。
「ここにいる。私、ここにいるよ。名前は言わない。だから、おばあさまも、全部戻ってきて」
エルダの目が、わずかに開いた。
薄い灰色の瞳が、ルーシュカを見た。
「……よく」
声が出た。
掠れて、切れて、今にも消えそうな声。
けれど、エルダの声だった。
「よく……呼ばずに……いたね」
ルーシュカの涙が、ぼろぼろ落ちた。
狼が吠えた。
口を縛られ、腹を裂かれ、それでもまだ消えてはいなかった。黒い毛並みの奥の無数の口が、残った声をかき集めようとしている。逃げていく呼び名を噛み、空っぽになった腹を必死に閉じようとしている。
「下がれ!」
オルグが叫んだ。
狼が身を捻った。
緋名布が裂ける音がした。
完全には切れない。けれど、狼の牙に絡んでいた一部が破れ、黒い影がそこから漏れ出した。オルグがもう一度鉈を振るう。刃は狼の肩を裂いたが、今度は声ではなく、黒い霧のようなものが噴き出した。
狼は窓へ突っ込んだ。
閉じられていた鎧戸が吹き飛ぶ。朝の光が小屋へ流れ込む。黒い獣の身体は光に触れた瞬間、ぐずりとほどけた。毛皮が影になり、影が声になり、声が森の葉擦れへ紛れていく。
それでも、金色の目だけが一瞬、ルーシュカを見た。
「その布」
裂けた口の奥から、狼が言った。
もう祖母の声ではない。
喰われた者たちの声も少ない。
ほとんど空っぽになった、飢えそのものの声。
「いつか、ほどける」
ルーシュカは、破れた頭巾を握りしめた。
「そのときまでに」
声は震えていた。
それでも、言った。
「私は、もっと上手に結べるようになる」
狼の目が細くなった。
笑ったのかもしれない。
怒ったのかもしれない。
飢えただけかもしれない。
次の瞬間、黒い影は窓の外へ逃げた。
森がざわめく。
小鳥たちが一斉に飛び立つ音がした。白い花がどこかで揺れ、木々の奥へ黒いものが滑っていく気配が遠ざかる。オルグは窓際まで走り、鉈を構えたまま森を睨んだ。
「追わないの?」
ルーシュカが聞いた。
オルグは息を吐いた。
「今追っても、影を斬るだけだ」
「逃げたの?」
「この狼は、ここからは逃げた」
「じゃあ、まだいるの?」
オルグはすぐには答えなかった。
森の奥から、かすかな遠吠えが聞こえた。
それは苦しそうで、怒っていて、そしてどこか空っぽだった。
「名を喰うものは、飢えが残るかぎり森に戻る」
オルグは言った。
「だが、あれはしばらく声を着られん。おまえと、エルダ婆さんが、喉から引き剥がした」
ルーシュカは祖母のそばへ駆け寄った。
緋名布の端は、まだ彼女の手の中にあった。破れ、焦げ、狼の牙の跡が残っている。朝、母が結んでくれたときの形ではない。祖母が縫ってくれた美しい頭巾でも、もうない。
でも、まだ赤かった。
エルダの手が、ゆっくりと伸びる。
ルーシュカはその手を握った。
祖母の手は冷たかった。けれど、ちゃんと重みがあった。影ではない。そこにいる人の手だった。
「おばあさま」
ルーシュカが呼ぶと、エルダはかすかに笑った。
「……声が」
「戻った?」
「半分……くらいかね」
「半分だけ?」
「半分あれば……叱れるよ」
ルーシュカは泣きながら笑った。
オルグが、部屋の奥から倒れた椅子を起こした。外套は裂け、腕には爪痕がある。けれど彼は痛そうな顔をしなかった。銀の鉈についた黒い霧を、炉の灰で拭っている。
「嬢ちゃん」
彼は低い声で言った。
「よく、布を口へ投げたな」
「……脱いだら、負けると思った」
「普通は、脱いだ時点で負ける」
オルグは破れた緋名布を見た。
「だが、あんたは差し出さなかった。噛ませた」
ルーシュカは、手の中の布を見下ろした。
「おばあさまの糸が、炉にあったから」
「婆さんが残した芯だ」
オルグはエルダを見た。
「相変わらず、悪あがきがうまい」
エルダは目を細めた。
「……森番に、褒められるとはね」
「褒めてない。呆れてる」
そのやりとりが、いつもの大人たちの会話のようで、ルーシュカはまた泣きそうになった。
小屋の中には、まだ声の余韻が残っていた。
さっきまで狼の腹に囚われていた声たちが、完全に消えたわけではない。壁の隙間や、床板の節穴や、窓から差し込む朝の光の中に、薄く漂っている。
ありがとう、と聞こえた気がした。
帰る、と聞こえた気もした。
誰かが、遠い家の名を呼んだ気もした。
白い花は、炉のそばで静かにしおれていた。
花弁の内側から、もう声はしなかった。
ルーシュカはそれを見つめ、それから祖母の手をもう一度強く握った。
狼は逃げた。
森にはまだ、声を嗅ぐものの残響がある。
けれど、祖母はここにいる。
自分もここにいる。
赤い布も、破れてはいるが、まだここにある。
それだけで、今は十分だった。
窓の外で、森がざわざわと揺れた。
その音は、もう少女の名を呼んではいなかった。




