第4節 ― 大きな耳、大きな目、大きな口
森奥の小屋が見えたとき、ルーシュカは、まず煙突を見上げた。
煙は出ている。
けれど、いつもの煙ではなかった。
祖母の小屋の煙突から上がる煙は、たいていまっすぐだった。細くても、芯がある。乾いた薪をきちんと選び、炉の奥で静かに燃やすからだと、祖母は言っていた。火は急がせると怒る。薪は詰めすぎると息ができない。だから炉も、人も、名も、ほどよく息が通るようにしておかなくてはいけないのだ、と。
その祖母の煙が、今朝は白く、細く、途中でほどけるように揺れていた。
湿った薪を無理に燃やしているときの煙だった。
ルーシュカは、籠を抱え直した。
森の道は、思っていたよりも長かった。途中で狼に会ったせいかもしれない。白い花の群れの前で足を止めてしまったせいかもしれない。摘まなかった。摘まなかったはずだ。そう自分に言い聞かせながら歩いてきたのに、いつのまにか籠の編み目に、白い花が一輪だけ引っかかっていた。
折った覚えはない。
道へ戻るとき、草に触れた拍子に絡んだのだろうか。
それとも、あの花が自分でついてきたのだろうか。
ルーシュカは何度か捨てようと思った。けれど、触れるたびに花弁の内側から、かすかな声がした。
――忘れないで。
誰の声かはわからない。女の人の声にも聞こえたし、眠っている子どもの寝言のようにも聞こえた。
だから、捨てられなかった。
祖母に見せよう。
おばあさまなら、これは摘んでいい花だったのか、持ってきてはいけないものだったのか、きっとわかる。
そう思って、ここまで来た。
小屋の前の開けた場所は、いつもより静かだった。
静かすぎた。
普段なら、窓辺の緋糸が風に揺れている。細い糸の輪が、かすかに擦れ合い、鈴よりも小さな音を立てる。それは耳を澄まさなければ聞こえない音だけれど、ルーシュカは好きだった。祖母の家に着いたとき、あの音があると、森の奥まで来ても自分はちゃんと迎えられているのだと思えた。
けれど今、窓辺には何も吊るされていない。
緋糸がない。
窓は閉じられている。鎧戸は半分だけ内側に引かれ、隙間からは部屋の暗さしか見えない。戸口の前には、落ち葉が集まっていた。いつもなら祖母が箒で掃いているはずなのに、今朝は足跡も乱れている。
ルーシュカは、小屋の扉の前で立ち止まった。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「おばあさま?」
呼びかけてから、はっとした。
呼ばれてもすぐ返事をしてはいけない。
名を言ってはいけない。
森では声を気をつけなければいけない。
でも、ここは祖母の家だ。
森の中だけれど、祖母の家だ。緋糸の家。名継ぎの小屋。自分が何度も来た場所。祖母が糸を撚り、薬草酒を温め、昔話をしてくれる場所。
だから、大丈夫。
そう思いたかった。
戸の向こうから、声がした。
「お入り、ルゥ。鍵は開いているよ」
祖母の声だった。
ルーシュカの肩から力が抜けた。
掠れてはいる。けれど、それは確かに祖母の声だった。少し低く、やわらかく、糸を撚る指先のように静かな声。森の途中で聞いた母に似た声とは違う。薄い布をかぶせたような偽物ではなく、聞き慣れた祖母の声。
けれど、ルーシュカはすぐに戸を開けなかった。
祖母の声は、いつもなら自分を呼ぶ前に、少し笑う。
ルゥ、と呼ぶとき、音の前に小さな息が入る。まるで、名前を呼ぶ前に、その名前の結び目を指先で確かめるみたいに。
今の声には、それがなかった。
ただ、名前だけがまっすぐ出てきた。
「おばあさま?」
「どうしたんだい。寒いだろう。早くお入り」
ルーシュカは、顎の下の結び目に触れた。
赤い布はそこにある。
少し汗ばんだ首もとで、結び目だけがかすかに温かかった。
彼女は扉に手をかけた。
戸は、本当に開いていた。
内側から掛け金が外れている。いつもなら祖母は、訪ねる者が来るまで掛け金をかけておく。森の小屋では、それが当たり前だ。風で戸が開くこともあるし、狐や鼬が入り込むこともある。なにより、森には、声を真似るものがいる。
ルーシュカの指が、木の扉の上で止まった。
中から咳が聞こえた。
細い、苦しそうな咳。
「ルゥ……そこにいるんだろう。わたしは、少し起き上がれないんだよ」
その咳で、ルーシュカの迷いは崩れた。
祖母が苦しんでいる。
狼のことも、森の声のことも、母の言いつけも、全部大事だ。けれど、扉の向こうで祖母が苦しんでいるのなら、立ち止まっていてはいけない。
「今、入るね」
ルーシュカは扉を押した。
蝶番が、小さく鳴った。
小屋の中は薄暗かった。
昼前の光は窓の隙間から細く入っているだけで、部屋の奥までは届いていない。炉には火がある。けれど弱い。湿った薪がくすぶり、煙は煙突へ上りきれず、部屋の天井近くに白く滞っていた。薬草と灰の匂い。古い布の匂い。灯油の匂い。祖母の家の匂いのはずなのに、どこかひとつ、足りない。
緋糸の匂いがしない。
いや、まったくしないわけではない。むしろ部屋のあちこちに残っている。壁、窓辺、小卓、椅子の背。けれど、いつも祖母の周囲にある、あの温かい糸の匂いが弱かった。
「おばあさま、ミルナお母さんが、薬草酒と灯油と、それから糸と針を」
「そこへ置いておくれ」
声は寝台からした。
ルーシュカは視線を向けた。
祖母は寝台に横たわっていた。
窓から遠い壁際の寝台。毛布を顎の下まで引き上げ、頭には夜帽子を深くかぶっている。そのせいで顔の上半分は影になっていた。頬は細く、鼻先だけが少し見える。布団のふくらみは祖母の身体の形をしていたが、いつもより大きく見えた。
ルーシュカは籠を小卓の上に置いた。
陶器の瓶が鳴る。
その音だけが、部屋の中で妙にはっきり響いた。
「具合、悪いの?」
「ああ。喉がね」
祖母の声が答える。
「声が、少し出にくいんだよ」
「オルグさんが、昨日そう言ってた」
「そうかい」
「お母さん、蜂蜜も入れてくれたよ。薬草酒、苦いから」
「それはありがたいね」
祖母は笑ったようだった。
けれど、笑い声はなかった。
ルーシュカは小卓から薬草酒の小瓶を取り出した。布をほどき、蜂蜜の小壺も並べる。灯油の瓶は窓辺の棚へ。乾かした森薬草は、湿らないように吊るす。銀針は、必ず祖母の手へ渡す。
母の言葉を思い出し、ルーシュカは銀針の包みを手に取った。
「おばあさま、これ」
「あとでいいよ」
「でも、お母さんが、必ず手に渡してって」
布団の中で、何かがわずかに動いた。
祖母の手が出てくるのかと思った。けれど出てきたのは、手ではなかった。布団の端から、黒い影のようなものが少しだけ覗き、すぐに引っ込んだ。
ルーシュカは瞬きをした。
見間違いだろうか。
部屋が暗いから。
煙があるから。
自分が森で怖いものを見すぎたから。
「おばあさま?」
「こちらへおいで、ルゥ」
祖母の声が言った。
「顔を見せておくれ」
ルーシュカは銀針の包みを握ったまま、寝台へ近づいた。
一歩。
二歩。
近づくほど、違和感が強くなった。
祖母の声なのに、祖母の匂いがしない。
エルダの匂いは、乾いた薬草と古い羊毛と、灰の奥の小さな火の匂いだった。少し苦く、少し甘く、近くにいるだけで眠くなるような匂い。けれど寝台の周りにあるのは、湿った毛の匂いだった。雨に濡れた獣の匂い。森の影の匂い。
ルーシュカは、足を止めた。
「どうしたんだい」
「おばあさま」
「何だい」
「どうして、窓の緋糸をしまったの?」
寝台の中のものが、少し沈黙した。
「風が強かったからね」
「今日は、そんなに風、ないよ」
「森の風は、村の子にはわからないものさ」
それは祖母が言いそうな言葉だった。
でも、祖母なら、そのあとに「だから風に聞いてから窓を開けるんだよ」と続けるはずだった。祖母の言葉にはいつも、もう一つ先がある。糸の端を引けば、次の結び目が出てくるように。
今の言葉は、そこで切れていた。
ルーシュカは、喉が乾くのを感じた。
「ねえ、おばあさま」
「何だい、ルゥ」
「どうして、そんなに耳が大きいの?」
言ってから、自分でも驚いた。
帽子の下、布団の上に出ていた耳が、確かに大きかったのだ。祖母の耳は小さく、薄い。耳たぶには昔、祖父からもらった小さな銀の輪をつけていた。けれど今、夜帽子の影から覗く耳は、毛に覆われ、長く、鋭く、布団の外の音を拾うようにぴくりと動いた。
寝台の上のものは、答えた。
「おまえの呼び声を、遠くからでも聞くためだよ」
ルーシュカの背中に、冷たいものが走った。
呼び声。
母は言った。
呼ばれたからといって、すべてに応えなくていい。
ルーシュカは銀針の包みを握りしめた。
「どうして、そんなに目が暗いの?」
夜帽子の奥で、二つの目が開いた。
祖母の目ではなかった。
祖母の目は薄い灰色で、糸くずを見つけるときだけ鋭く光る。今、影の奥で光っているのは、金色だった。けれどその金は明るくない。炉の火を映しているはずなのに、底のない穴のように暗かった。
「おまえの名が、どこに隠れているか見るためだよ」
ルーシュカの心臓が大きく鳴った。
どくん。
音が、部屋に響いたような気がした。
名がどこに隠れているか。
祖母は、そんなことを言わない。
祖母は、名を隠すものではなく、守るものとして話す。誰かが呼べるように。誰かが失くさないように。けれど今の声は、隠した場所を探していた。戸棚の奥の菓子を探すように。獲物の巣穴を嗅ぐように。
ルーシュカは、もう一歩下がりたかった。
けれど、足が動かなかった。
寝台の中のものは、祖母の声で笑った。
「怖がらなくていい。こちらへおいで」
「おばあさま」
ルーシュカは、自分の声が震えているのを聞いた。
「どうして、そんなに口が大きいの?」
布団の下で、影が裂けた。
祖母の口ではない。しわのある老女の唇が少し開いたように見えた次の瞬間、その下から黒い裂け目が広がった。大きく、大きく、顎の形を忘れたように開いていく。そこには白い歯が並んでいた。一本一本が細く、尖り、奥へ向かって何列も続いている。
その口の奥で、いくつもの声が囁いた。
ルゥ。
ルゥ。
ルゥ。
祖母の声だけではない。母に似た声。知らない子どもの声。男の声。老婆の声。森の白い花の中で聞いた、あの小さな声たち。
そして、寝台の上のものは、やさしく答えた。
「おまえの名を、こぼさず呑み込むためだよ」
その瞬間、赤い頭巾の結び目が熱を持った。
ルーシュカは息を呑んだ。
熱い。
火傷するほどではない。けれど、確かに熱い。顎の下で、祖母が結んでくれた糸の模様が、内側から燃えるように震えている。布が叫んでいるのだと思った。
違う。
これは違う。
目の前にいるのは、おばあさまではない。
祖母は、いつもルーシュカを呼ぶ前に、緋布の結び目を撫でた。
「曲がっているよ」と言って、指先でそっと直してくれた。
「緋糸は怒らせると絡まるからね」と言って笑った。
「この布があるうちは、森の悪いものはおまえを見つけにくい」と、冗談のように言った。
けれど今、寝台の上のものは、布を見ていない。
ルーシュカの喉を見ている。
声が出てくる場所を。
名前がこぼれる場所を。
ルーシュカはようやく、一歩下がった。
寝台の上の祖母が、ふくらんだ。
いや、祖母の形をしたものが、内側から押し広げられた。夜帽子がずれ、黒い毛がこぼれる。布団が盛り上がる。長い鼻先が、老女の顔の内側から突き出すように伸びる。白い歯が、暗がりの中で光った。
「おいで」
祖母の声が言った。
だが、その下に狼の声が重なっていた。
「もっと近くへ。おまえの本当の名を聞かせておくれ」
ルーシュカは首を横に振った。
声が出なかった。
「ルゥ」
呼ばれる。
返事をしてはいけない。
「ルゥ」
もう一度。
返事をしてはいけない。
「ルーシュカ」
心臓が跳ねた。
名前を呼ばれた。
けれど、それは母の声ではない。祖母の声でもない。自分を愛する者の呼び方ではない。狼が、森で舐め取った音を組み立てただけのものだ。
返事をしてはいけない。
ルーシュカは、銀針の包みを握ったまま、ゆっくりと息を吸った。
怖い。
怖くて、膝が震えている。今すぐ扉へ走りたい。叫びたい。母を呼びたい。森番のオルグを呼びたい。けれど、呼んだ声をこの獣に喰われるかもしれない。自分が叫んだせいで、母の名までここに引き寄せられるかもしれない。
だから、叫べない。
祖母なら、どうする。
祖母は言っていた。
糸が絡まったときは、強く引いてはいけない。焦って引けば、結び目は固くなる。まず、どこが結ばれているのかを見ること。どの糸がどの糸を巻き込んでいるのか、指で確かめること。
今、絡まっているのは何だ。
祖母の声。
狼の声。
自分の名。
赤い布。
銀針。
小屋の暗さ。
炉の灰。
そして。
ルーシュカの目が、床の方へ落ちた。
寝台の横、倒れた椅子の陰に、何かが見えた。
白い手。
しわのある、細い指。
祖母の手だった。
ルーシュカは叫びそうになった。
でも、喉を押さえた。
祖母はそこにいる。
寝台の上ではない。床に倒れている。声がない。輪郭が薄く、影のようで、気づかなければ見落としてしまう。でも、祖母の手だ。何度も糸を撚り、ルーシュカの頭巾を縫い、頬を撫でてくれた手。
その指が、かすかに動いた。
炉の方を指している。
灰。
ルーシュカは目だけで炉を見た。
白い灰の山。
その中に、ほんの少しだけ緋色が見えた。
何かが埋まっている。
祖母が、何かを隠した。
「何を見ている」
狼の声が低くなった。
ルーシュカはすぐに寝台へ視線を戻した。
心臓が痛いほど鳴っている。けれど、頭のどこかが冷えていくのを感じた。怖さが消えたわけではない。むしろ怖い。けれど、怖いからこそ、ただ逃げてはいけないとわかった。
祖母はまだ消えていない。
なら、助けなくてはいけない。
ルーシュカは、震える唇を開いた。
「……おばあさま」
寝台の上のものが、満足そうに目を細めた。
「そうだよ。おまえのおばあさまだよ」
「違う」
声は小さかった。
けれど、確かに言えた。
「あなたは、おばあさまじゃない」
部屋の空気が変わった。
炉の火が、ふっと低くなる。窓の隙間から入っていた光が細くなる。寝台の上のものが、ゆっくりと布団の中から前脚を出した。
黒い毛。
長い爪。
その爪の間に、緋糸の切れ端が絡んでいる。
「どうして、そう思うのかな」
まだ祖母の声を使っている。
でも、もう隠す気が薄れていた。
「おばあさまは、私の喉を見ない」
ルーシュカは言った。
「私の頭巾を見る。曲がっていたら直す。結び目を触ってから、名前を呼ぶ」
狼の目が、赤い布へ向いた。
憎しみのようなものが、そこに浮かんだ。
「その布が邪魔をする」
「これは、おばあさまが縫ってくれた」
「だから邪魔なのだ」
狼が布団を裂いた。
老女の姿が壊れる。
夜帽子が飛び、枕が床へ落ち、黒い毛並みが部屋いっぱいに広がった。獣の身体は寝台から溢れ、壁に影を伸ばす。毛の奥で、小さな口がいくつも開いた。どれも違う声で、かすかに笑っている。
ルーシュカは後ずさった。
背中が小卓に当たる。籠が揺れ、薬草酒の瓶が倒れそうになった。彼女は反射的に瓶を押さえた。その拍子に、籠の編み目に引っかかっていた白い花が床へ落ちた。
白い花は、灰の近くへ転がった。
花弁が震える。
――忘れないで。
また声がした。
狼の耳がぴくりと動いた。
「それをどこで拾った」
ルーシュカは答えなかった。
「道を外れたな」
狼が笑った。
「よい子のふりをしても、やはり幼い。花を見れば足を止める。声を聞けば心が揺れる。祖母を思えば、母の言いつけも少しだけ緩む」
ルーシュカは、唇を噛んだ。
確かに、そうだ。
道を外れた。
五歩だけ。
花に触れた。
狼と話した。
返事も、何度かしてしまった。
でも。
「花は摘まなかった」
ルーシュカは言った。
狼の目が細くなる。
「私は、摘まなかった。おばあさまに聞いてからにするって思った」
「だが、持ってきた」
「ついてきたの」
「言い訳だ」
「そうかもしれない」
ルーシュカは、銀針の包みを胸に押し当てた。
「でも、名前は言わなかった」
狼の口が止まった。
「あなたに、私の奥の名前は渡してない」
その言葉が正しいのか、ルーシュカにはわからなかった。
奥の名前が何なのかも知らない。
けれど、赤い頭巾の結び目が熱を持っている。祖母の手が、灰を指している。母の声が、心の奥で言っている。
あなたの名は、あなたのものよ。
誰かに呼ばれるためだけのものではない。
ルーシュカは、息を吸った。
「私は、行かない」
「来るのだ」
「名は言わない」
「言うのだ」
「返事もしない」
「もうしている」
「それでも、あげない」
狼が、ゆっくりと立ち上がった。
寝台が軋み、床板が鳴る。黒い影が、部屋の天井を覆う。金色の目が、赤い布の結び目と、少女の喉と、握られた銀針の包みを順に見た。
「では、こちらから取ろう」
狼が、祖母の声で囁いた。
その声が、いちばん恐ろしかった。
優しく、やわらかく、昔話を始めるときと同じ響きで、獣は言った。
「おいで、ルゥ。おばあさまに、顔をよく見せておくれ」
ルーシュカは動かなかった。
もう、その声には返事をしなかった。
部屋の隅で、祖母の指が、もう一度だけ灰を示した。
ルーシュカはそれを見た。
そして、怖さを飲み込むように、ゆっくりと一歩、横へ踏み出した。
逃げるためではない。
炉へ近づくために。




