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第3節 ― 祖母の声を着る獣

 森奥の小屋は、古い木々に守られるように建っていた。


 村から続く道をまっすぐ歩けば、やがて苔むした石段が見えてくる。その石段を十三段上がった先に、小さな開けた場所があり、そこに一軒の小屋がある。屋根は低く、壁板は黒ずみ、煙突は少し傾いていた。けれど、崩れかけているわけではない。長い年月を、風と雨と雪に削られながら、それでもひとつずつ直され、結び直され、住む者の手によって支えられてきた家だった。


 小屋の窓辺には、いつも緋糸が吊るされていた。


 束ねられた糸ではない。細い糸を何本も撚り、輪にし、風に揺れるように結んだものだ。朝の光を受けると、そこだけ小さな灯火のように見えた。森の奥まで迷わず来られるのは、道があるからだけではない。あの緋糸が、訪れる者の目を静かに引くからでもあった。


 けれど、その朝、糸は揺れていなかった。


 窓は閉じられ、緋糸は内側にしまわれている。煙突からは細い煙が上がっていたが、勢いがない。湿った薪を無理に燃やしているような、薄く、白い煙だった。


 小屋の戸口には、古い印が刻まれている。


 円でもなく、文字でもなく、蔓が絡み合ったような形。中心には針穴ほどの小さな点があり、そこから何本もの線が外へ伸びている。村人の多くは、それをただの飾りだと思っていた。けれど、森番のオルグはその前を通るとき、必ず帽子を脱いだ。子どもたちは、触れてはいけないと言われていた。


 それは、家の名を守る印だった。


 家が家であるための印。

 内にいる者が、内にいる者として呼ばれるための印。

 外から来るものが、許しなく名を踏み越えぬための印。


 その印の前で、黒い狼が足を止めた。


 狼は、小屋のまわりをひと回りした。窓の下に鼻先を寄せ、戸口の隙間に息を吹きかけ、壁板の割れ目へ金色の目を近づける。だが、どこにも入り込める隙はない。古い小屋は古いぶんだけ、あちこちに傷がある。けれど、その傷の一つひとつに、見えない糸が縫い込まれていた。


 狼が鼻を鳴らす。


 パンの匂いはない。

 薬草酒の匂いも、まだない。

 少女の足音も、まだ遠い。


 だが、ここには別の匂いがあった。


 乾いた手の匂い。

 古い布の匂い。

 火と灰と、何度も名を呼び返した者の匂い。


 名守りの匂い。


 狼の喉が、低く鳴った。


 空腹ではない。

 それは、もっと近いところから来る飢えだった。喉ではなく、耳の奥。腹ではなく、胸の奥。誰かに呼ばれたいという飢え。誰かの名を着て、誰かの家へ帰りたいという飢え。


 狼は戸口の前に座った。


 そして、少女の声で言った。


「おばあさま」


 小屋の中で、何かが止まった。


 それは糸を撚る音だった。細い指が、緋糸を少しずつ撚り合わせる、かすかな音。火のはぜる音にまぎれるほど小さいが、この家の中ではよく聞こえる音だった。


 その音が、止まった。


「……誰だい」


 老いた女の声がした。


 エルダの声だった。


 けれど、それはルーシュカの記憶にある声よりも、ずっと掠れていた。長く話せば喉が裂けてしまいそうな、乾いた紙を指でこするような声。寝台の上ではなく、まだ椅子に座っているらしい。戸口に向けられた声には、弱さと同時に、針のような鋭さがあった。


 狼は、戸板に鼻先を近づけた。


「私よ」


 少女の声。


 さっき森で聞いた短い響き。完全ではない。狼が知っているのは、少女の表の呼び名と、少しだけこぼれた息の調子だけだった。だから、その声は似ていたが、薄かった。布の表面をなぞっただけのような声だった。


「ルゥよ。おばあさま」


 小屋の中で、沈黙が深くなる。


 狼は待った。


 家の印はまだ開かない。

 戸口の古い線は、朝の薄明かりの中でかすかに赤く光っている。


 やはり、浅い。


 狼は舌の奥で、少女の呼び名を転がした。


 ルゥ。

 軽い。

 短い。

 甘いが、芯がない。


 あの赤い布が邪魔をしている。布は少女の奥の匂いを隠していた。母からの呼び声、祖母からの呼び声、血の奥にたたまれた真の名。そのどれも、狼の牙には届かなかった。


 小屋の中から、かすかな咳が聞こえた。


「……おまえは、ルゥではないね」


 狼の耳が動いた。


「どうして?」


「声が違う」


「風邪をひいたの」


「ルゥは、そういう嘘をつくとき、先に謝る子だよ」


 狼は黙った。


 戸板の向こうで、エルダがゆっくり息を吸う音がする。椅子の軋む音。彼女は立ち上がろうとしているのかもしれない。だが、身体がついてこないのだろう。床板を踏む音はしなかった。


「誰だい」


 エルダはもう一度言った。


「森のものか」


 狼は、笑った。


 声には出さずに。


「森のものが、孫の声で戸を叩くと思うの?」


「森のものだから、孫の声で戸を叩くんだろう」


「ひどいなあ」


 狼は少女の声を少しだけ歪ませた。


「おばあさま、開けて。籠が重いの。お母さんに頼まれて来たの」


 お母さん。


 その言葉で、戸口の印がわずかに揺れた。


 狼はそれを見逃さなかった。


 この家は、血族の呼び声に弱い。


 家の名を守る印は、外の悪しきものを拒む。けれど、血の内側から呼ばれるものを完全には拒めない。母、娘、祖母。そうした関係の言葉は、名ではない。だが、名のまわりに絡む糸だ。たどれば、中心へ近づける。


「ミルナが心配していたわ」


 狼は言った。


 それは少女の声ではなかった。


 今度は、別の声を使った。


 村の女の声。もう何年も前、森の入口で迷い、帰れなかった若い女の声。狼の腹の中で薄くなりながら、それでも自分の子を呼び続けていた声だ。ミルナではない。けれど、娘を案じる母親の響きはある。


「エルダ。開けておくれ。子どもが外にいる」


 戸の向こうで、エルダの息が乱れた。


「その声は」


「覚えているだろう?」


 狼は、次々に声を重ねた。


 薪割りをしていた男の声。

 薬草を届けに来ていた老婆の声。

 森番見習いだった少年の声。

 小川で溺れかけた子どもの声。

 昔、エルダの小屋に糸を借りに来て、そのまま森で消えた娘の声。


「エルダさん」

「名守りさま」

「開けてください」

「寒いんです」

「声が出ないんです」

「うちの子を知りませんか」

「ねえ、ここはどこ」

「帰り道を教えて」


 声は戸口にまとわりついた。


 小屋の印が、赤く、細く震える。


 エルダは椅子の肘掛けを掴んだ。指の節が白くなる。彼女は寝台ではなく、炉辺の椅子に座っていた。膝には緋糸が乗っている。目の前の小卓には、銀針、糸切り鋏、小さな薬草酒の杯。けれど杯にはまだ口をつけていなかった。


 彼女は、昨日から声が出にくかった。


 喉の奥に、灰が詰まっているようだった。熱もある。手元の糸が二重に見えることもあった。けれど、それでも緋糸だけは撚っていた。ミルナが娘を寄越すだろうという予感があったからだ。


 あの子は来る。


 赤い頭巾をかぶって。

 籠を持って。

 少し怖がりながら、それでも祖母に会えることを喜んで。


 だから、戸口の声がどれほど似ていても、違うとわかる。


 ルゥの声ではない。


 けれど、狼はただ少女を真似ているのではなかった。


 喰った声を重ね、昔の名を揺らし、扉の印を疲れさせている。戸口に刻んだ守りは強い。だが、古い。何度も直し、何度も縫い直した。守る者であるエルダ自身も、若いころのようにはいかない。


 声が、心の隙間に入り込んでくる。


 助けを求める声。

 帰れなかった声。

 自分が守りきれなかった者たちの声。


 エルダは目を閉じた。


「……黙りな」


 掠れた声で言った。


「その声は、おまえのものじゃない」


「では、誰のものだい」


 狼が尋ねる。


 今度は男の声だった。


「おまえが喰った者たちのものだ」


「喰われたなら、もうわたしの中のものだ」


「違う」


 エルダは、膝の上の緋糸を握った。


「声は、喰った者のものにはならない。呼んだ者と、呼ばれた者のあいだに残るものだ。おまえはそれを着ているだけだよ」


 戸の向こうで、低い唸りがした。


 狼の声から、初めて獣の音がこぼれた。


「名守り」


 その呼び方には、憎しみがあった。


「まだそんな言葉を使うのか」


「使うとも。わたしは、まだ生きている」


「その声で?」


「この声で」


「その喉で?」


「この喉で」


「その弱った手で?」


「この手で」


 エルダは小卓の銀針へ指を伸ばした。


 針は細い。短い。獣を刺し殺すにはあまりに頼りない。けれど、名を留めるには十分だった。彼女は針を握り、膝の上の緋糸へ通そうとする。


 手が震えた。


 針穴に糸が通らない。


 戸の向こうで、狼が鼻を鳴らした。


「老いたね」


「そうだね」


「声も、手も、守りも薄くなった」


「薄くなっても、切れてはいない」


「だが、あの子は来る」


 エルダの手が止まった。


 狼は、そこを噛んだ。


「あの赤い布の子は、来る。祖母を案じて、籠を抱えて、森の道を歩いている。道を外れないように、賢く、怖がりながら。けれど幼い。幼いものは、呼ばれれば振り向く」


「振り向かない」


「少しは振り向いたよ」


「……」


「花も見た」


 エルダの喉が鳴った。


 咳になりかけ、飲み込む。


 狼は、今度は少女の声をほんの少しだけ混ぜた。


「おばあさまに、花を持っていこうと思ったんだ」


 エルダは椅子から立とうとした。


 身体が言うことを聞かず、すぐに膝が折れた。小卓に手をつき、なんとか倒れずに済む。銀針が皿の上で小さく鳴った。


「ルゥに」


 言いかけて、彼女は口を閉じた。


 遅かった。


 その一音だけでよかった。


 ルゥ。


 祖母が孫を案じて呼んだ、その響き。


 狼は戸口の前で、ゆっくりと目を細めた。


 さっき少女から聞いた短い呼び名とは違う。これは、呼び慣れた者の声で紡がれた呼び名だった。糸のように細いが、深い。少女の名の表面を撫でるだけではなく、祖母と孫のあいだを結ぶ本物の糸。


 家の印が、震えた。


 それは、鍵が回る音に似ていた。


 エルダは顔を上げた。


「しまった」


 戸板の外で、黒い影が立ち上がる。


「ありがとう」


 狼が言った。


 その声は、もう少女のものではなかった。狼自身の声。低く、なめらかで、飢えを隠さない声。


「名ではないが、道にはなる」


 扉の印が赤く光った。中心の小さな点から、外へ伸びていた線が一本ずつほどける。内側から開いたのではない。外側から壊されたのでもない。ただ、血の呼び声に反応して、戸口が迷ったのだ。


 その迷いに、狼は爪をかけた。


 次の瞬間、戸が内側へ開いた。


 風が吹き込んだ。


 冷たい森の匂い。濡れた毛の匂い。喰われた声たちの、乾いた息。


 エルダは銀針を掴んだ。


「入るんじゃないよ」


 狼は戸口に立っていた。


 大きかった。外で見れば森の影に紛れる黒い獣でも、小屋の中では異様なほど大きい。背が梁に触れそうだった。金色の目は、炉火よりも暗い光を宿している。口を開くと、牙の奥で、いくつもの声がうごめいた。


「もう入っている」


 狼は言った。


 エルダは緋糸を引いた。


 糸は床を走り、戸口へ向かって張られていた。彼女がまだ若いころに仕込んだ守り糸だ。外から踏み込んだ悪しきものの足を絡めるためのもの。緋糸は狼の前脚に巻きつき、じゅっと小さな音を立てる。


 狼が眉間を歪めた。


「まだ、そういうものを」


「名守りの家だからね」


 エルダは息を切らしながら言った。


「狼をもてなす椅子はないよ」


「椅子はいらない」


 狼は前脚を引いた。


 緋糸がきしむ。切れない。けれど、狼の毛の奥から、細い口がいくつも開いた。糸に噛みつく。ひとつの口ではない。喰われた声たちの残骸が、小さな牙となって糸を噛む。


 ぶつり。


 最初の一本が切れた。


 エルダの胸が痛んだ。自分の身体の中の細い血管が切れたようだった。


 ぶつり。

 ぶつり。


 糸が切れていく。


 エルダは銀針を握り、狼へ向けた。


 針先に、緋色の小さな光が灯る。


「おまえの名を縫い止めるよ」


「わたしに名などない」


「だから飢えているんだろう」


 狼の目が細くなった。


 エルダはその一瞬に針を投げた。


 銀針はまっすぐ飛び、狼の額へ向かう。だが、狼は首を振った。針は黒い毛をかすめ、壁板に突き刺さる。そこから細い光が走り、小屋の印と繋がろうとした。


 狼は、壁ごと光を噛んだ。


 ばきり、と音がした。


 壁板に刻まれていた古い補助印が砕ける。


 エルダは小卓に手を伸ばした。二本目の針。だが、手が届く前に狼が跳んだ。


 黒い影が、炉火を覆う。


 エルダは床へ倒れた。


 肉を噛まれた痛みはなかった。


 狼の牙は、彼女の喉に触れていない。腕にも、胸にも、血は出ていない。ただ、狼の顔がすぐ近くにあり、その金色の目が、エルダの目の奥を覗き込んでいた。


「いい声だ」


 狼が囁いた。


「掠れている。乾いている。だが、奥に糸がある。孫を呼ぶ声。娘を叱る声。村の子どもの名を覚えている声。死んだ者の名を、忘れまいとする声」


 エルダは口を閉じた。


 声を出してはいけない。


 けれど狼は、声だけを喰う獣ではない。


 呼び名の匂いを追う。

 息の震えを舐める。

 思い出の中にある声を、牙で引きずり出す。


 狼の口が開いた。


 毛並みの奥で、無数の小さな口が開く。老いた女の声。少年の声。母の声。泣きながら誰かを呼ぶ声。助けを求める声。帰りたいと願う声。それらがいっせいにエルダの耳元で囁いた。


 呼んで。

 答えて。

 名を。

 名を。

 名を。


 エルダは歯を食いしばった。


 喉の奥から、声が引き剥がされる感覚があった。


 痛みではない。

 もっと深いところの剥離だった。


 長い年月、自分の中にあったもの。娘を初めて抱いたときに呼んだ声。幼いルーシュカが転んで泣いたときに呼んだ声。夜、炉辺で昔話を語った声。死者の名を縫い留めた声。そうしたものが、糸巻きから糸を引き出されるように、狼の口へ向かってほどけていく。


「……ッ」


 声にならない息が漏れた。


 狼は、それすら舐め取った。


 エルダの唇が震える。


 ミルナ。

 ルゥ。

 呼んではいけない。


 呼べば、狼が喰う。


 だからエルダは、声ではなく、手を動かした。


 床に倒れたまま、指先を灰へ伸ばす。炉の前には、今朝掻き出した灰が小さく積まれていた。白く、柔らかく、まだ奥に熱を含んでいる灰。そこに、彼女は震える指を差し入れた。


 狼は気づいた。


「何をしている」


 エルダは答えない。


 答えられない。


 声は、もう半分以上、狼の口にかかっていた。喉の奥が空洞になる。息を吸っても、そこに自分の響きがない。


 だが、手はまだ自分のものだった。


 彼女は緋糸を掴んだ。


 膝から落ちた糸束。その中の一本。もっとも細く、もっとも古い糸。かつて自分が母から受け取った糸。血で染めたものではない。呼び名を受け渡すたびに指の熱を吸い、祈りを含み、緋くなった糸。


 エルダは灰の中で、その糸を結んだ。


 一度。

 二度。

 三度。


 本当の名を、声にせず、結び目にする。


 狼が牙を剥いた。


「やめろ」


 エルダは笑った。


 声は出なかった。


 けれど、口の形だけで、たぶんこう言った。


 ――遅いよ。


 最後の結び目が、灰の中に沈んだ。


 その瞬間、狼の口がエルダの声を呑んだ。


 部屋が静かになった。


 炉の火だけが、小さくはぜた。


 エルダは床に横たわっている。息はある。胸は上下している。目も開いている。けれど、その口からはもう声が出なかった。喉は動く。唇も震える。だが、そこに響きがない。


 狼はゆっくりと顔を上げた。


 喉の奥で、新しい声を試す。


「……ルゥ」


 それは、エルダの声だった。


 掠れていて、やさしくて、少し笑うような、祖母の声。


 狼は満足げに目を細めた。


「ルゥ、こちらへおいで」


 もう一度、言う。


 今度はもっと似ている。炉辺で糸を撚りながら孫を呼ぶ声。蜂蜜菓子を隠しているときの声。転んだ子どもを慰める声。夜の昔話を始める前の声。


 狼は、その声を着た。


 毛並みが揺らぐ。


 黒い獣の輪郭が、部屋の薄闇に溶けていく。寝台の上の毛布がふくらむ。白い寝巻き。深くかぶった夜帽子。布団を顎まで引き上げた老女の形。枕元には、祖母の匂い。喰ったばかりの声が、部屋の空気に馴染んでいく。


 狼は寝台に横たわった。


 床には、エルダの身体がない。


 いや、ないのではない。


 彼女は部屋の隅、倒れた椅子の陰に横たわっている。狼が喰ったのは肉ではない。だから身体は残る。けれど、声を奪われ、呼び名を薄くされた者は、他者の目から輪郭が遠のく。薄暗い部屋の中で、エルダは影のように見えた。息をしているのに、そこにいると気づきにくい。


 それでも、完全には消えていなかった。


 炉の灰の下で、緋糸が熱を持っている。


 小さな結び目。

 声にならなかった真名。

 狼に呑み込まれなかった最後の芯。


 エルダの指が、かすかに動いた。


 狼は寝台の上で耳を澄ませた。


 遠くから、足音がする。


 まだ小さい。

 道を歩く子どもの足音。草を踏まず、道の真ん中を行こうとする慎重な足音。籠の瓶が、歩みに合わせて小さく鳴る音。


 狼は、祖母の声で小さく笑った。


「早くおいで、ルゥ」


 その声は、窓の隙間から森へ流れた。


 木々はそれを受け取り、葉を震わせる。


 道の上を歩く少女には、まだ届かない。


 けれど森は、すでにその声を覚えはじめていた。

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