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第2節 ― 森で声を嗅ぐもの

 森の入口には、古い石が二つ立っていた。


 ひとつは道の右側に、もうひとつは左側に。どちらも苔に覆われ、もとの形はもうわからない。村の年寄りたちは、それを「門石」と呼んでいた。けれど門といっても、扉があるわけではない。ただ、そこから先は村ではなく、森なのだと知らせるために置かれている。


 ルーシュカは、その石の前で一度足を止めた。


 振り返れば、村の屋根がまだ見える。朝霧の中に、低い藁屋根がいくつも浮かび、煙突から細い煙が上がりはじめていた。畑の向こうに、自分の家もあるはずだった。けれど霧のせいで、どれが母の立つ戸口なのかはもうわからない。


 母はまだ見送っているだろうか。


 そう思った瞬間、胸の奥に小さな不安が生まれた。呼び返されたら、きっとすぐに振り向いてしまう。けれど、もう何も聞こえなかった。村の音は少しずつ遠ざかり、かわりに森の音が近づいてくる。


 葉の擦れる音。

 枝から落ちる露の音。

 見えない小鳥が、短く鳴く声。

 どこかで木の皮をつつく、小さな嘴の音。


 ルーシュカは顎の下の結び目に触れた。


 赤い布は、きちんと結ばれている。


「行ってきます」


 誰にともなく、もう一度だけそう言って、少女は門石のあいだを通った。


 森へ入ると、空気が変わった。


 村の朝は土と煙の匂いがしたけれど、森の朝は濡れた葉と苔の匂いがした。足元の土は柔らかく、踏むたびに靴底へ湿り気が染み込む。道は細いが、はっきりしている。人が歩き、森番が通い、荷を運ぶ小さな馬が何度も踏んだ道。両脇には背の低い草が茂り、その奥に白い幹の木々が並んでいた。


 木漏れ日が、まだ低い角度から差し込んでいる。


 枝と枝のあいだからこぼれる光は、細く、金色で、地面の霧を切るように落ちていた。その光の筋の中を、小さな虫が舞っている。赤い実をつけた低木が道端にあり、朝露をまとった実は、まるで磨いた硝子玉のように光っていた。


 きれい。


 ルーシュカは思わず足を緩めた。


 森は怖い。

 そう教えられてきた。


 でも、怖いだけではなかった。


 森はきれいだった。村の庭では見たことのない花が咲いている。白い花。青みがかった薄い花。小さな星のような黄色い花。葉の裏に隠れるように咲く紫の花。どれも、触れればすぐに壊れてしまいそうに繊細で、そこにあるだけで朝の空気を少し甘くしている。


 祖母に見せたら、喜ぶだろうか。


 そう思いかけて、ルーシュカは首を振った。


 花は摘まない。

 母と約束した。


 彼女は籠を抱え直し、道の真ん中を歩いた。右にも左にも寄らないように。木の根をまたぐときも、できるだけ道から外れないように。


 森の音は、だんだん増えていった。


 最初は鳥の声だと思った。枝から枝へ移る小鳥たちが、朝の挨拶を交わしているのだと。けれどしばらく歩くうちに、それだけではない気がしてきた。


 葉の擦れる音が、ときどき誰かの囁きに似ている。

 木の幹が軋む音が、遠くから呼ぶ声に聞こえる。

 小川のせせらぎが、名前の途中でほどけたように響く。


 ルーシュカは立ち止まらなかった。


 母は言った。

 返事をする前に、考えなさい、と。


 だから彼女は、聞こえた気がする声をすぐには信じなかった。


 それでも、森は声が多すぎた。


 右の奥で、誰かが笑ったような音がした。

 左の茂みで、子どもがすすり泣いたような音がした。

 頭上では、小鳥が「チチ、チチ」と鳴く。その鳴き声が、耳の奥でなぜか「ル、ル」と短く跳ねる。


 ルーシュカは少し早足になった。


 籠の中で、陶器の瓶がこつんと鳴る。

 その音だけが、確かに自分の手元から出た音だった。


「大丈夫」


 小さく呟いた。


「道の真ん中。頭巾は外さない。名前は言わない」


 言葉にすると、少し落ち着いた。


 けれど次の瞬間、森の奥から声がした。


「ルゥ」


 足が止まった。


 それは、母の声に似ていた。


 低すぎず、高すぎず、朝の戸口で聞いたばかりの声。少し心配そうで、それでも娘を安心させようとしている声。


「ルゥ、忘れものよ」


 ルーシュカは振り向きかけた。


 けれど、喉の奥で息を止めた。


 おかしい。


 母なら、森の中まで追ってくる前に、もっと早く呼ぶはずだ。門石を越える前に。村の道を歩いているうちに。そもそも、母は忘れ物などしないように、何度も籠の中を確かめた。


 それに。


 声は母に似ていたけれど、ほんの少しだけ違った。


 母の声には、家の炉の匂いがある。麦粥の湯気と、洗いたての布と、朝の冷たい指の匂いがある。けれど今の声には、それがなかった。音だけが似ている。中身のない布を、誰かが母のかたちにかぶせたような声だった。


 ルーシュカは返事をしなかった。


 森が、ふっと静かになった。


 さっきまであれほど鳴いていた小鳥が、急に声を潜めた。葉の揺れる音だけが残る。遠くで枝がしなり、何かが地面に落ちる音がした。


 ルーシュカは籠を強く抱えた。


「返事をしないのかい」


 今度は、母の声ではなかった。


 なめらかで、低く、どこか笑っているような声。


 道の左側、白い幹の木の陰から、黒いものが現れた。


 最初に見えたのは、金色の目だった。


 朝の光を受けて、木漏れ日の中に二つの金が浮かぶ。次に黒い鼻先。濡れたようにつややかな毛並み。長い脚。森の影をそのまま獣の形にしたような、大きな狼だった。


 ルーシュカは息を呑んだ。


 逃げようとは思わなかった。足が動かなかったからだ。


 狼は、道の上に出てきた。


 けれど、普通の獣のようには動かなかった。草を踏む音がしない。土の上に足跡が残らない。身体はたしかに大きく、牙もあり、尾もあるのに、その輪郭だけが木陰に溶けるように揺れている。


 それでも狼は、礼儀正しく頭を下げた。


「おはよう、小さなお嬢さん」


 人の言葉だった。


 ルーシュカは一歩だけ後ずさった。


 母の言葉が、耳の奥で響く。


 狼より悪いもの。

 狼のかたちをした、呼び名喰らい。


 けれど目の前の狼は、すぐに飛びかかってくる気配を見せなかった。むしろ、村の祭りの日に広場へ来る旅商人のように、落ち着いて、丁寧で、どこか楽しげだった。


「驚かせてしまったかな」


 狼は言った。


「それなら謝ろう。森の朝は、どうにも声がよく響く。わたしの声も、君には急に近く聞こえたかもしれない」


 ルーシュカは何も言わなかった。


 狼は金色の目を細めた。


「よい心がけだ。知らないものには、すぐ返事をしない。母親にきちんと教えられたのだね」


 母親。


 その言葉に、ルーシュカの指が籠の縁を掴んだ。


 狼はそれを見ていた。


 見ていた、というより、嗅いでいた。


 鼻先がわずかに動く。空気を吸い込む。黒麦パンの匂い。薬草酒の苦い匂い。灯油の匂い。緋糸に染みた古い布の匂い。そして、赤い頭巾から漂う、何か熱を持った匂い。


 狼は、その赤い布を見上げた。


「美しい頭巾だ」


 ルーシュカは、反射的に結び目を押さえた。


「……ありがとう」


 返事をしてしまってから、しまったと思った。


 けれど狼は笑ったようだった。口角がわずかに上がり、白い牙が覗く。


「礼を言える子はよい子だ。だが、そんなに怖がらなくてもいい。わたしはただ、道を歩く小さなお嬢さんに挨拶をしただけだよ」


「私は、急いでいるの」


 ルーシュカは声を絞った。


「そうだろうとも。籠を持って、朝早くから森へ入る子は、たいてい大事な用がある」


 狼は道の端へ少し退いた。


「どこへ行くのかな?」


 答えてはいけない。


 ルーシュカはすぐに思った。


 祖母の家の名を、人に教えてはいけない。

 道を聞かれても、考えてから答える。


「森奥へ」


 それだけ言った。


「森奥」


 狼はその言葉を舌の上で転がすように繰り返した。


「森奥は広い。木こりの小屋もあれば、炭焼きの窯跡もある。古い井戸も、石積みの祠も、もう誰も住まない猟師小屋もある。君の行き先は、そのどれかな」


「言えない」


「なぜ?」


「言わないように言われたから」


「誰に?」


 ルーシュカは唇を噛んだ。


 母の名を言ってはいけない。

 誰の子だと聞かれても答えてはいけない。


「大人に」


 狼の目が、わずかに細くなった。


 それは愉快そうにも見えたし、舌打ちを飲み込んだようにも見えた。


「賢い大人だ」


 狼は静かに言った。


「では、籠には何が入っているのかな。パンの匂いがする。薬草も。油も少し。ああ、それから、銀の匂いがするね」


 ルーシュカは思わず籠を胸に寄せた。


「嗅がないで」


「これは失礼」


 狼はまた頭を下げた。


「狼の鼻は、どうにも勝手に働く。君が目で見るように、わたしは匂いで見る。責めないでおくれ」


「狼なの?」


「この姿は、狼に見えるだろうね」


「本当は?」


「本当の姿を知りたいのかい?」


 声が、少しだけ低くなった。


 ルーシュカは首を横に振った。


「知らなくていい」


「それも賢い」


 狼は楽しそうに言った。


 ルーシュカは、少しずつ呼吸を取り戻していた。怖い。とても怖い。けれど、相手がすぐに襲ってこないぶん、考える時間があった。


 考えること。

 返事をする前に、考えること。


 母はそう言った。


 だから彼女は、狼の質問を一つずつ、籠の中のものを数えるみたいに扱った。答えていいもの。答えてはいけないもの。答えるふりだけならよいもの。


 狼は、赤い頭巾へ視線を戻した。


「それは誰が編んだのかな」


「……家の人」


「母親?」


「違う」


「では、祖母かい」


 ルーシュカは息を止めた。


 狼の金色の目が、静かに光る。


「当たりかな」


「知らない」


「自分の頭にかぶっているものなのに?」


「言わない」


 狼は舌で牙の端をなめた。


 その仕草が獣らしくて、ルーシュカの背筋が冷えた。


「その布は、君の匂いを隠している」


 狼は言った。


 ルーシュカは答えなかった。


「いや、君だけではないな。誰かが縫い込んだ。古い手だ。若い母親の手ではない。もっと乾いた、けれど確かな指。長く糸を扱った者の手。結び目の奥に、呼び名を折りたたんでいる」


 狼は一歩近づいた。


 ルーシュカは一歩下がった。


 赤い頭巾の端が、頬に触れる。布の内側が、かすかに温かい気がした。


「君の名は?」


 狼が尋ねた。


 とても静かに。


 森の音が、その問いのためだけに遠のいたようだった。


 ルーシュカの喉が動いた。


 自分の名前。

 呼ばれ慣れた名前。

 母が呼んだ名前。

 祖母が呼ぶ名前。


 ルーシュカ。


 けれど、その名をそのまま口にしてはいけない気がした。


 自分の本当の名を言わないこと。

 今は知らなくていい、と母は言った。

 けれど、ルーシュカという名も、自分の大切な名だ。


 なら、どうする。


 少女は顎の下の結び目を握った。


「ルゥ」


 そう言った。


 狼は、ほんの少しだけ首を傾げた。


「ルゥ」


 その声で、狼が呼んだ。


 母でも、祖母でも、友だちでもない声で。


 ルーシュカは返事をしなかった。


 狼はもう一度、少しだけ甘く言った。


「ルゥ」


 それでも、返事をしなかった。


 すると狼の鼻先が、わずかに歪んだ。笑ったようでもあり、不満を覚えたようでもあった。


「呼び慣れた名ではある。だが、短い。軽い。布の表に縫われた飾り糸のような名だね。奥へ届かない」


 ルーシュカには、狼が何を言っているのかわからなかった。


 けれど、自分が正しく答えなかったことだけはわかった。


 それが少しだけ勇気になった。


「もう行く」


「そうか。引き止めて悪かった」


 狼はあっさりと道を空けた。


 あまりに簡単に退いたので、かえってルーシュカは戸惑った。狼は彼女の心を読んだように、穏やかに目を細める。


「急いでいるのだろう。森奥の誰かが、君を待っている」


「うん」


 つい返事をしてから、ルーシュカは口を押さえた。


 狼は笑わなかった。


 ただ、少しだけ鼻を鳴らした。


「年寄りを見舞うなら、手ぶらでは寂しいね」


「手ぶらじゃない。籠がある」


「パンと薬は、身体のためのものだ。だが、眠っている心には花がいる」


 狼は道の右手、木々のあいだを顎で示した。


 そこには、白い花が咲いていた。


 ルーシュカは、思わず見てしまった。


 それは道端の花とは違っていた。背の低い草の中から、細い茎がまっすぐ伸び、白い花がいくつも揺れている。朝露を抱いた花弁は、光を受けて透けるようだった。真っ白ではない。内側にほんのり金色があり、中心には小さな赤い点がある。


「森の白い花は、年寄りの眠りを軽くする」


 狼は言った。


「枕元に置けば、悪い夢が薄くなる。声がかすれた者にもよい。花の匂いが、喉をなだめるからね」


 ルーシュカの心が揺れた。


 祖母の声がかすれている。

 薬草酒は苦い。

 黒麦パンは固い。

 灯油も糸も針も、必要なものかもしれない。けれど、祖母が見て喜ぶものではない。


 花なら。


 祖母は、きっと笑う。


 窓辺の瓶に挿して、これはきれいだねと言う。森の白花は久しぶりだと、懐かしそうに言うかもしれない。


 けれど母は言った。


 花は摘まないこと。


「道から外れちゃいけない」


 ルーシュカは呟いた。


「道のすぐそばだよ」


 狼はやさしく言った。


「見てごらん。三歩。いや、君の足なら五歩かな。五歩で届く。道を失うほどではない」


「でも」


「祖母を思う心まで、禁じられてはいないだろう」


 その言葉は、ずるかった。


 ルーシュカはそう思った。


 母の言いつけを破りたいわけではない。森で遊びたいわけでもない。けれど、祖母に花を持っていきたい。祖母の声が少しでも楽になるなら。祖母が目を覚まして、少しでも笑ってくれるなら。


 それは悪いことだろうか。


 ルーシュカは狼を見た。


 狼は道の端に座っている。動かない。穏やかな目をしている。まるで、ただ道案内をしただけの親切な森の住人のように。


「本当に、喉にいいの?」


「本当だとも」


「毒じゃない?」


「毒なら、白くは咲かない」


 それはたぶん嘘だ、とルーシュカは思った。


 祖母は、白い毒花の話をしてくれたことがある。雪のように白く、蜜のように甘く、触れただけで指先が痺れる花の話。


 でも、目の前の花はその花とは違う気がした。少なくとも、毒々しくは見えなかった。


「少しだけ」


 ルーシュカは自分に言い聞かせるように言った。


「本当に少しだけ。すぐ戻る」


「それがいい」


 狼は静かに尾を揺らした。


 ルーシュカは道の端へ寄った。片足を草の中へ入れる。露が靴に跳ねた。もう片足も、草を踏む。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 道はすぐ後ろにある。


 まだ大丈夫。


 彼女は振り返った。土の道はそこにあった。籠も腕にある。頭巾も結ばれている。


 四歩。

 五歩。


 白い花は、手を伸ばせば届くところにあった。


 ルーシュカはしゃがみ込んだ。


 花の匂いは、思っていたより薄かった。甘いというより、冷たい。朝露を含んだ布のような匂いがする。花弁は細く、内側に小さな筋が走っている。その筋が、文字のようにも見えた。


 彼女は一本、茎に指をかけた。


 そのとき。


 花の内側から、声がした。


 ほんのかすかな声だった。


 耳ではなく、指先に触れるような声。


 ――ミア。


 ルーシュカは手を止めた。


 今のは、誰の名前だろう。


 風が吹いた。白い花がいっせいに揺れる。花弁の内側で、朝露が震えた。


 ――セナ。

 ――リト。

 ――エル。

 ――帰って。

 ――呼んで。

 ――忘れないで。


 声は小さく、重なり合っていた。子どもの声もあれば、老いた声もある。男の声、女の声、眠そうな声、泣いている声。はっきり聞き取れるものも、名前の最初の音だけでほどけてしまうものもあった。


 ルーシュカは、ぞっとして手を引っ込めた。


 白い花は、ただ揺れている。


 けれど、彼女にはもう、花には見えなかった。


 誰かが落としていった呼び名が、茎を伸ばして咲いている。そんなふうに見えた。


「どうしたのかな」


 背後から狼の声がした。


 ルーシュカは振り向いた。


 狼は道の上にいる。さっきと同じ場所だ。けれど、その姿が少し遠い。いや、ルーシュカが道から離れたせいで、遠く感じるのかもしれない。


「この花、声がする」


「森の花だからね」


「名前を呼んでる」


「それはよい花だ。名を覚えている花は、枕元に置くと寂しさをやわらげる」


 狼の声は穏やかだった。


 でも、ルーシュカはもう花を摘みたいとは思わなかった。


 祖母に持っていったら、喜ぶだろうか。

 それとも、悲しむだろうか。


 祖母は、名のあるものを粗末にしてはいけないと言うかもしれない。花だからといって、摘んでいいものではないと言うかもしれない。


「やめる」


 ルーシュカは立ち上がった。


「摘まない」


「なぜ?」


「おばあさまに聞いてからにする」


 狼は、今度こそ笑った。


 牙が見えた。


「よい子だ」


 その言葉は褒め言葉のはずなのに、ルーシュカの背中に冷たいものを走らせた。


 彼女は急いで道へ戻ろうとした。草が足首に絡む。籠の持ち手が腕に食い込む。頭巾の端が枝に触れ、かすかに引っ張られた。


 ルーシュカは慌てて手で押さえた。


 その一瞬。


 狼が、彼女の頭巾を見た。


 金色の目の奥で、何かが燃えた。


 それは空腹だった。


 パンでも肉でもない。もっと乾いて、もっと深い飢え。


「その布は、厄介だね」


 狼が呟いた。


「え?」


「いや、何でもない」


 ルーシュカが道へ戻ったとき、狼はもう立ち上がっていた。


「では、行きなさい。森奥の誰かが待っているのだろう」


「あなたは?」


「わたしは、森の道を知っている。君とは別の道を行く」


「ついてこないで」


「もちろん」


 狼は丁寧に頭を下げた。


「わたしは、礼儀を知っているからね」


 ルーシュカはその言葉を信じなかった。


 信じなかったけれど、どうすればいいのかわからなかった。狼に背を向けるのは怖い。けれど、立ち止まっていても祖母の家へは着かない。


 だから彼女は、道の真ん中へ戻り、歩き出した。


 最初はゆっくり。

 次に、少し早く。

 けれど走らない。


 走れば、追われる気がしたから。


 しばらく歩いてから、そっと振り返った。


 狼の姿はなかった。


 道の端に、黒い毛が一本落ちているだけだった。


 ルーシュカは息を吐いた。


 けれど安心はできなかった。


 森の声が、さっきよりも近くなっている。


 白い花の囁きが、まだ指先に残っている。母に似た声。狼の声。自分の短い呼び名を、狼が舌の上で転がした感触。


 ルゥ。


 あの声で呼ばれたとき、返事をしなくてよかった。


 本当に、よかった。


 ルーシュカは顎の下の結び目を確かめた。


「外さない」


 小さく言う。


「言わない。返事しない。道を外れない」


 道を外れたことは、心の中で少しだけ重く残った。


 ほんの五歩。

 でも五歩は五歩だ。


 母に言ったら、怒られるだろうか。

 祖母に言ったら、何と言うだろう。


 考えながら、少女は森の奥へ進んでいった。


 その後ろで、道ではない場所の影が動いた。


 狼は、もう少女の前にはいなかった。


 木の根の下を通り、倒木の陰を抜け、獣しか知らない細い通り道を滑るように進んでいた。黒い毛並みは木々の影に溶け、金の目だけが時折、木漏れ日の中で光る。


 狼は急いでいなかった。

 急ぐ必要がなかった。


 少女は道を行く。

 籠を抱え、赤い布で名を隠し、祖母のためにまっすぐ歩く。


 その道は遠回りだ。人の足のための道だからだ。


 狼の道は違う。


 沢を渡り、低い枝の下をくぐり、苔むした岩の背を越える。風の流れを読み、古い声の残り香を辿る。少女は祖母の家の名を言わなかった。母の名も、自分の奥の名も差し出さなかった。


 けれど狼は、まったく何も得なかったわけではない。


 ルゥ。


 短い呼び名。

 表の名。

 布の上に触れるだけの軽い響き。


 それから、祖母。


 少女の声がその言葉を言ったとき、空気の中に細い糸が揺れた。誰かを案じる声。誰かのもとへ行こうとする声。呼び名ではないが、関係の匂いがした。


 祖母。


 その言葉だけで十分だった。


 森奥には、古い名守りの小屋がある。

 緋糸を扱う老いた女がいる。

 赤い布を編んだ手がある。


 狼は、その手を嗅ぎたかった。


 その声を着たかった。


 そして、その声で少女を呼べば。


 狼の口が、音もなく開いた。


 いくつもの声が、喉の奥で小さく囁く。


 母の声。

 迷子の声。

 老いた男の声。

 かつて誰かが森に落としていった、帰れなかった名のかけら。


 その中に、まだ祖母の声はない。


 だから、狼は笑った。


 森の奥へ向かって、黒い影が滑っていく。

 白い花の群れが、そのあとで一斉に揺れた。


 道の上を歩く少女には、その音は聞こえなかった。


 彼女の耳に届いたのは、小鳥の声だけだった。


 チチ、チチ、と。


 まるで何か小さなものをついばむように、森の枝で鳴いていた。

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