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第1節 ― 緋布を結ぶ朝

 朝は、まだ村の端にたどり着いていなかった。


 空の高いところだけが白みはじめ、東の山の輪郭に薄い金色が滲んでいる。けれど、畑にはまだ夜が残っていた。黒く湿った土の上に、低い霧がゆっくりと這い、畝と畝のあいだを白い布のように埋めている。鶏小屋の中で、一羽が寝ぼけたように声を上げ、それに遅れて別の鶏が返した。遠くの井戸場では、誰かが桶を下ろす音が、朝霧の中で小さく響いた。


 村は、森のそばにあった。


 近すぎる、と年寄りたちは言う。

 けれど、離れて暮らすには森の恵みを知りすぎていた。


 薪も、薬草も、木の実も、獣の皮も、村の暮らしは森から来る。春には白い花が咲き、夏には青い実が熟れ、秋にはきのこと赤い実が籠を満たした。冬になれば、森は深く沈黙し、雪をかぶった枝が、眠る獣の背のように重く垂れる。


 だから村の者は、森を恐れながら、森とともに暮らしていた。


 ただし、子どもだけは別だった。


 子どもは森へ入ってはいけない。

 ひとりでは、けっして。


 そう言われて育った少女が、寝台の中で小さく身じろぎした。


 毛布の端から、栗色の髪が少しだけこぼれている。頬は眠りの熱で赤く、鼻先は朝の冷えに触れてかすかに冷たかった。まだ夢の中に半分いるようで、少女は眉を寄せ、何かから逃げるように毛布の奥へ潜ろうとした。


「ルゥ」


 やわらかな声が、その眠りをそっと引いた。


 少女は返事をしなかった。

 眠っているふりをしたのではない。本当に、まだ声が届いていないのだ。夢の中で、彼女はたぶん、村の裏手の小川に足を浸していた。春の水は冷たく、膝までまくったスカートの裾を濡らし、石の下に隠れる小さな蟹を追いかけているところだった。


「ルーシュカ」


 二度目の声で、少女のまぶたがぴくりと震えた。


 呼び名が、眠りの奥へ届いた。


「……ん」


「起きなさい。朝よ」


 寝台の脇に立っていた母ミルナは、片手で窓の鎧戸を少しだけ押し開けた。湿った朝の匂いが、部屋の中へ流れ込んでくる。土と霧と、まだ火の入っていない炉の冷たい灰の匂い。少女は鼻を鳴らし、毛布を顔の上まで引き上げた。


「寒い」


「寒いから起きるの。炉に火を入れる手伝いをしてちょうだい」


「今日は、まだ暗いよ」


「暗いうちに出ないと、昼前に森奥へ着けないわ」


 その言葉で、ルーシュカはようやく目を開けた。


 眠気の残った茶色の瞳が、ぱちぱちと瞬く。母の顔を見上げて、それから窓の外を見た。霧の向こうに、畑の杭がぼんやりと並んでいる。いつもの朝と同じようでいて、何かが少し違っていた。


「森奥?」


「おばあさまのところへ行くのよ」


 ルーシュカは、毛布の下で身体を起こしかけ、そのまま止まった。


「おばあさま、また具合が悪いの?」


 ミルナはすぐには答えなかった。


 彼女は窓辺から離れ、炉のそばに置いていた小さな椅子を引いた。そこにはすでに籠が置かれていた。丸い蓋つきの籠。いつもの買い物籠ではなく、森へ入るときに使う、蔓を固く編んだ丈夫なものだった。


 ルーシュカの目が、籠に吸い寄せられる。


 蓋の隙間から、黒麦のパンの匂いがした。焼きたてではない。昨夜のうちに焼き、朝まで布に包んでおいたものだ。固く、重く、噛めば酸味のあるパン。祖母の家へ持っていくにはちょうどいい。


「少し、熱があるみたい」


 ミルナはようやく言った。


「昨日、森番のオルグが帰りがけに寄ってくれたの。おばあさまは起きていたそうだけれど、声がかすれていたって」


「声が?」


 ルーシュカは思わず聞き返した。


 祖母エルダの声は、細いけれど強い声だった。糸を撚るときも、薬草を刻むときも、昔話をするときも、祖母の声はいつも静かに部屋の中を満たした。大きな声ではない。けれど不思議と聞き逃せない。糸を針穴に通すように、耳の奥へすっと入ってくる声。


 その祖母の声が、かすれている。


 ルーシュカの胸のあたりが、少しだけ重くなった。


「だから、薬草酒と灯油を届けるの。薪はオルグが置いてきてくれたけれど、細かいものは足りないでしょうから」


「私、行く」


 今度は、眠気がすっかり消えていた。


 ルーシュカは寝台から足を下ろした。床板は冷えきっていて、裸足の裏に冷たさが刺さる。思わず肩をすくめると、ミルナが小さく笑って、椅子の背に掛けていた厚手の靴下を渡した。


「行くって、まだ顔も洗っていないでしょう」


「洗う。すぐ洗う。おばあさま、ひとり?」


「ええ」


「じゃあ、急がないと」


 ルーシュカは靴下に足を突っ込み、寝癖のついた髪を手で押さえながら立ち上がった。急ぎすぎて寝巻きの裾を踏み、少しよろめく。ミルナは手を伸ばして支えた。


「急ぐのと、慌てるのは違うわ」


「わかってる」


「わかっている子は、寝巻きのまま森へ行こうとしません」


 ルーシュカは自分の格好を見下ろし、それから母を見上げた。母は少しだけ笑っていた。けれど、その目の奥には笑いきれないものがあった。


 そのことに気づくと、ルーシュカは急に黙った。


 母は、森へ行くときだけ、こういう顔をする。


 優しくて、いつも通りで、けれど指先だけが落ち着かなくなる。エプロンの端を直したり、籠の蓋を確かめたり、戸口の掛け金を意味もなく触ったりする。まるで、心配を小さな動作に分けて、誰にも見えないようにしているみたいに。


 ルーシュカはその顔を見るたびに、森は本当に怖い場所なのだと思う。


 それでも、祖母の家へ行くのは好きだった。


 森奥の小屋には、村にはない匂いがある。干した薬草、古い布、煙に燻された梁、蜂蜜を混ぜた木の実酒、針箱の中の鉄と銀。祖母はいつも窓辺に座っていて、膝の上に赤い糸や白い糸を広げていた。ルーシュカが訪ねると、祖母は振り向き、目尻を深くして笑う。


 そして、彼女を呼ぶ。


 ルゥ、と。


 その呼び方が、ルーシュカは好きだった。


 村の子どもたちは、彼女をルゥと呼ぶ。母も時々そう呼ぶ。けれど祖母の「ルゥ」は、少し違った。名前の一部ではなく、布の結び目をそっと撫でるような呼び方だった。


 顔を洗い、髪を梳かし、厚手の生成りのワンピースに袖を通すころには、炉に火が入っていた。母は湯気の立つ木椀を卓に置いた。麦粥に干し果実を少し落としたものだ。ルーシュカは椅子に座り、両手で椀を包んだ。


「おばあさま、私が行ったら喜ぶ?」


「喜ぶわ」


「薬草酒、苦い?」


「とても苦い」


「じゃあ、蜂蜜も入れようよ」


「もう入れてある」


 母は籠の蓋を開け、ひとつずつ中身を確かめはじめた。


 黒麦のパン。

 布に包んだ山羊のチーズ。

 小さな壺に入れた蜂蜜。

 薬草酒の小瓶。

 灯油の入った陶器の瓶。

 乾かした森薬草の束。

 それから、緋糸の小さな束と、布に巻いた銀針。


 ルーシュカは粥を口に運びながら、最後のふたつを見つめた。


「糸も持っていくの?」


「ええ」


「おばあさま、具合悪いのに縫いものするの?」


 ミルナの指が、緋糸の上で止まった。


 炉の火が小さくはぜる。窓の外では、霧の向こうから牛の低い鳴き声が聞こえた。いつもなら、ミルナはすぐに答える。けれど、この問いには少し時間がかかった。


「縫いものというより、結び直しね」


「何を?」


「ほどけかけたものを」


「服?」


「服も、たまには」


「ほかには?」


 ルーシュカが首を傾げると、ミルナは少し困ったように笑った。


「おばあさまに聞きなさい。私よりずっと上手に話してくれるから」


「お母さんは知らないの?」


「少しは知っているわ。でも、おばあさまほどではないの」


「どうして?」


 ミルナは籠の中へ銀針を入れ、蓋を閉じた。


「受け継がなかったから」


 その声がいつもより静かだったので、ルーシュカは続きを聞けなかった。


 ミルナは祖母の娘だ。なら、祖母が知っていることを、母も知っているはずだとルーシュカは思っていた。けれど、ときどき大人たちは、血が繋がっているだけでは渡らないものがあるような言い方をする。


 名前。

 家。

 祈り。

 古い約束。


 それらは、持って生まれるものではなく、誰かから受け取らなければならないものらしい。


 ルーシュカには、まだよくわからなかった。


「お母さん」


「なに?」


「私は、受け継ぐの?」


 ミルナは、籠の革紐を結んでいた手を止めた。


 その沈黙のせいで、ルーシュカは自分が何かいけないことを聞いたのだと感じた。椀の中の麦粥を見下ろす。干し果実がひとつ、湯気の中でふくらんでいた。


「それは」


 ミルナはゆっくりと言った。


「あなたが、いつか自分で決めることよ」


「決めていいの?」


「ええ」


「でも、決めなかったら?」


「決めなかったことも、いつかは形になる」


 ルーシュカはますますわからなくなった。


 大人の言葉は、ときどき森に似ている。入口は見えるのに、奥へ進むほど道が増える。わかったつもりで歩いていると、いつの間にか最初の場所へ戻っている。


「今日は、決める日じゃないわ」


 ミルナは、娘の表情を見てそう言った。


「今日は、おばあさまに荷物を届ける日。それから、ちゃんと話を聞いて、日が落ちる前に帰ってくる日」


「うん」


「寄り道はしないこと」


「うん」


「森で花を摘まないこと」


「おばあさまに持っていったら、喜ぶかも」


「花は村に帰ってから摘みなさい」


「森の花のほうがきれいだよ」


「きれいなものが、安全とは限らないわ」


 ミルナの声が、そこで少し固くなった。


 ルーシュカは木椀を持ったまま、母を見た。母は怒っているわけではない。けれど、ふざけて返してはいけない顔をしていた。


「……はい」


 小さく返事をすると、母の表情が少しだけ緩んだ。


「いい子」


 それからミルナは、戸口の脇に掛けてあった赤い布を手に取った。


 それは、朝の薄暗い部屋の中でも、はっきりと赤かった。


 派手な赤ではない。市場で売られている染め布のような鮮やかさでもない。もっと深く、落ち着いた色。炉の火を何度もくぐり、秋の実を煮詰めた汁を吸い、古い祈りを重ねたような緋色だった。


 ルーシュカはその布が好きだった。


 祖母が縫ってくれたものだからだ。


 縁には細かな刺繍がある。葉の形、糸巻きの形、小さな家の印、そしてルーシュカには読めない古い文字のような模様。それらはただの飾りではないと祖母は言っていた。けれど、何なのかまでは教えてくれなかった。


 ミルナは少女の後ろに回り、赤い頭巾をそっとかぶせた。


 布が髪の上に落ちる。

 耳が半分隠れる。

 首の後ろに、朝の冷気とは違うひやりとした感触が触れた。


 ルーシュカは少しくすぐったそうに肩をすくめた。


「お母さん、少し曲がってる」


「動くからよ」


「動いてない」


「今、動いた」


 ミルナは布の端を整え、顎の下で紐を結んだ。いつもより丁寧だった。結んでは、少し緩める。緩めては、また結ぶ。指先が、なかなか離れない。


「きつい?」


「ちょっと」


「これくらいは我慢して。森の枝に引っかかったら危ないから」


「うん」


「それから」


 ミルナの声が低くなった。


 ルーシュカは自然と背筋を伸ばした。


「森では、この布を外してはいけません」


「暑くなっても?」


「暑くなっても」


「雨が降っても?」


「降ったら、なおさら外さないこと」


「濡れるよ」


「濡れてもいいの」


「でも、汚れたらおばあさまが悲しむ」


 ミルナはそこで、わずかに微笑んだ。けれどその微笑みはすぐに消えた。


「布は、汚れるより、外されるほうが悲しいのよ」


「どうして?」


 ルーシュカが見上げると、母はしゃがんで目線を合わせた。


 炉の火の色が、母の瞳に小さく映っている。いつもより近い母の顔。細い眉、少し荒れた指、眠る前に髪を結び損ねたせいで頬にかかる後れ毛。ルーシュカは、母が何か大事なことを言おうとしているのだとわかった。


「いい、ルゥ。森で誰かに呼ばれても、すぐに返事をしてはいけないよ」


「どうして?」


「森にはね、声を真似るものがいるから」


 ルーシュカは一瞬、息を止めた。


「狼?」


「狼より悪いもの」


 母の指が、頭巾の結び目をそっと押さえた。


「狼のかたちをした、呼び名喰らいだよ」


 呼び名喰らい。


 その言葉を聞いた途端、部屋の温度が少し下がったような気がした。


 ルーシュカはその名前を知っていた。村の子どもたちは、冬の夜になると怖い話をする。森で泣いていた子に返事をしたら、次の日からその子の声が別人のものになっていたとか。亡くなったはずの父親の声が森から聞こえて、ついていった男が帰ってこなかったとか。狼が人間の帽子をかぶって戸口に立っていたとか。


 でも、それは子ども同士の話だと思っていた。


 怖がらせるための作り話。

 夜、寝床から抜け出さないようにするための話。

 森へ勝手に入らないように、大人がわざと怖くした話。


 けれど母は、今、作り話をする顔をしていなかった。


「本当にいるの?」


 ルーシュカの声は、思っていたより小さかった。


「いるかもしれないと思って歩きなさい」


「見たことある?」


「私は、ない」


「おばあさまは?」


 ミルナは答えなかった。


 それだけで、ルーシュカは祖母が見たことがあるのだと感じた。


「呼び名を喰べるの?」


「そう言われているわ」


「喰べられたら、どうなるの?」


「声をなくす」


「声だけ?」


「最初は」


 ルーシュカは喉に手を当てた。自分の声が、今そこにあることを確かめるように。


「その次は?」


「その人を呼ぶ声が、少しずつ狼のものになる」


「どういうこと?」


「たとえば」


 ミルナは言葉を選んだ。


「誰かがあなたの名前を呼ぶでしょう。私が、ルゥと呼ぶ。おばあさまが、ルゥと呼ぶ。友だちが、ルゥと呼ぶ。その呼び声が、あなたをここへ結んでいる」


「うん」


「でも、その呼び声を狼が喰べてしまったら」


 ミルナの指が、娘の顎の下の結び目を包んだ。


「あなたが帰る道が、薄くなる」


 ルーシュカは完全には理解できなかった。


 でも、怖かった。


 道が薄くなる、という言葉が。


 自分の足元から村へ続く道が消えていくところを想像した。母のいる家が霧の向こうに遠ざかり、祖母の小屋も、井戸も、小川も、友だちの笑い声も、自分を呼ぶ声も、ぜんぶ聞こえなくなる。


 それは、狼に食べられるよりも怖いことのように思えた。


「だから、守るの」


 ミルナは言った。


「この布で?」


「ええ」


 ルーシュカは頭巾の端をつまんだ。


「これ、そんなにすごいの?」


「おばあさまが縫ったものよ」


「おばあさまは、すごいから?」


「ええ。とても」


 その答えに、ルーシュカは少しだけ安心した。祖母がすごいことは知っている。祖母は、絡まった糸をほどける。壊れた人形の服を直せる。誰がどの薬草に弱いかも覚えている。泣いている子どもにどんな話をすれば泣き止むかも知っている。祖母が縫った布なら、たしかに何かを守れる気がした。


 けれど母は、まだ真剣な顔をしていた。


「約束して」


「うん」


「道を外れないこと」


「外れない」


「森で誰かに名前を聞かれても、答えないこと」


「答えない」


「自分の本当の名を、言わないこと」


「……本当の名って?」


 ルーシュカが尋ねると、母は一瞬だけ息を止めた。


 その間が、ルーシュカには不思議だった。


「ルーシュカは、私の名前でしょ?」


「そうね」


「じゃあ、本当の名って?」


「今は、知らなくていいわ」


「私の名前なのに?」


「あなたの名前だから、簡単に知らなくていいの」


 また、大人の言葉だ。


 ルーシュカは唇を尖らせた。


「ずるい」


「そうね。大人は少しずるいの」


「おばあさまなら教えてくれる?」


「おばあさまが、教えるべき時だと思ったら」


「今日?」


「今日ではないと思う」


 母は、そう言ってから少しだけ困ったように眉を寄せた。


「でも、話は聞いておいで。おばあさまが何か言ったら、よく覚えて帰ってきなさい」


「うん」


「祖母の家の名を、人に教えてはいけない」


「家にも名前があるの?」


「古い家にはあるの」


「うちにも?」


「あるわ」


「何ていうの?」


「今、それを聞いてどうするの」


 ミルナが少しだけ笑ったので、ルーシュカもつられて笑った。怖さが、少し薄れた。


「森で聞かれても、答えないため」


「では、知らないほうが安全ね」


「あ、そっか」


「それから、森で誰かに『誰の子だ』と聞かれても、私の名を答えてはいけません」


「お母さんの名前も?」


「ええ」


「でも、それだと、私は誰の子かわからなくなるよ」


「わからせなくていいの。森にいるものには」


 その言い方が妙にきっぱりしていて、ルーシュカはまた少し怖くなった。


「じゃあ、何て言えばいいの?」


「何も言わなくていい」


「黙ってるの?」


「黙って歩きなさい」


「失礼じゃない?」


「森の悪いものに礼儀はいりません」


 母が真面目に言うので、ルーシュカは思わず吹き出した。ミルナも、今度ははっきり笑った。けれど、すぐに娘の頬へ手を当てる。


「笑いごとではないのよ」


「うん」


「怖がらせたいわけじゃない。でも、覚えていてほしいの」


「覚える」


「返事をする前に、考えること」


「うん」


「呼ばれたからといって、すべてに応えなくていいこと」


「……うん」


「あなたの名は、あなたのものよ。誰かに呼ばれるためだけのものではない」


 その言葉は、ルーシュカには少し難しかった。けれど、母が自分の頬に触れる手が温かかったので、彼女は黙ってうなずいた。


 ミルナは立ち上がり、籠を少女の腕にかけた。籠は思ったより重かった。黒麦パンと瓶が入っているせいだ。ルーシュカは両腕で抱え直した。


「重い?」


「大丈夫」


「途中で疲れたら、切り株のところで少し休んでもいい。でも道からは外れない」


「切り株って、二股の道の前の?」


「そう。その先は右よ」


「左は?」


「行かない」


「左には何があるの?」


「行かないもののことは、知らなくていい」


「大人はずるい」


「二度目ね」


「三度目かも」


 ミルナは娘の額に軽く口づけた。


 その仕草が幼い子にするもののようで、ルーシュカは少し恥ずかしくなった。けれど今日は嫌がらなかった。母の唇が離れると、額のところに、朝よりも少し温かいものが残った。


「おばあさまに、ちゃんと食べてねって言って」


「うん」


「薬草酒は、蜂蜜を入れても残さないでって」


「うん」


「灯油は窓辺の棚に。薬草は湿らないところへ」


「うん」


「銀針は、必ずおばあさまの手に渡して」


 ルーシュカは、そこで母を見上げた。


「銀針、大事なの?」


「とても」


「なくしたら?」


「なくさない」


「もし落としたら?」


「落とさない」


「もし、どうしても落としたら?」


 ミルナは少しだけ考え、それから言った。


「拾う前に、周りを見ること」


「どうして?」


「銀は、森で目印になるから」


「誰の?」


「こちらのものにも、向こうのものにも」


 また、わからない言葉だった。


 けれど、もう尋ねている時間はないようだった。窓の外の霧が少し薄くなり、村の道に朝の輪郭が戻ってきている。誰かが牛を引いて通り過ぎる音がした。遠くで、鍛冶屋の鎚が一度だけ鳴った。


 村が目を覚ましはじめていた。


 ミルナは戸を開けた。


 外の空気が、部屋へ入り込む。冷たい。けれど、草の匂いがした。畑の向こう、森の黒い縁が霧の向こうに見えている。木々はまだ眠っているように静かだった。


 ルーシュカは戸口に立ち、籠を抱え直した。


 いつもなら、森へ向かう道は少しだけ冒険のように見える。祖母の小屋へ行く日は、何か特別なものをもらえる気がした。蜂蜜菓子かもしれない。新しい糸飾りかもしれない。古い話かもしれない。


 けれど今日は、その道の先に、母の言葉が重なっていた。


 呼ばれても、すぐに返事をしてはいけない。

 名前を聞かれても、答えてはいけない。

 祖母の家の名を教えてはいけない。

 頭巾を外してはいけない。


 ルーシュカは、顎の下の結び目に触れた。


 赤い布は、たしかにそこにある。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 母の声が、背中を押す。


 その声には、心配と祈りが混ざっていた。


 ルーシュカは一歩、外へ出た。靴の底が湿った土を踏む。霧が足首のあたりをゆっくり流れていく。振り返ると、母が戸口に立っていた。


「ルゥ」


 呼ばれて、少女はすぐに返事をしようとした。


 けれど、母の言葉を思い出して、ほんの少しだけ待った。


 母はそれに気づいたようだった。


 驚いた顔をして、それから、誇らしそうに微笑んだ。


「……気をつけて」


「うん」


 今度は返事をした。


 それは、母の声だったから。

 自分を送り出す、母の声だったから。


 ルーシュカは村の道を歩き出した。


 畑の間を抜け、井戸場の前を通り、眠たげな犬に見送られ、小さな橋を渡る。籠の中で瓶がかすかに鳴った。赤い頭巾の端が、朝風に揺れた。


 森は、まだ遠い。


 けれど、森のほうから吹いてくる風は、村の風とは違っていた。


 湿っていて、冷たくて、少し甘い。

 枯葉と苔と、白い花の匂いがする。


 ルーシュカは胸の中で、祖母の顔を思い浮かべた。


 窓辺の椅子。

 膝の上の糸束。

 細い指。

 笑うと深くなる目尻。


 早く会いたい。


 そう思うと、怖さは少しだけ小さくなった。


 少女は森へ向かって歩いた。


 その背中で、緋色の布が朝霧の中に浮かぶ。

 まるで、まだ名を持たない物語の最初の一行に、赤い印が置かれたように。

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