前口上 ― リラ=ファブラの語り
森には、道を外れた者を喰う獣がいる。
そう語れば、人はうなずくでしょう。
森とは、いつでも人の暮らしの外にあるもの。枝は空を隠し、根は道を歪め、昼の光さえ葉のあいだで細かく裂かれてしまう。子どもがひとりで入るには深すぎて、大人でさえ、夕暮れには振り返りたくなる場所。
だから、森には狼がいる。
だから、森で知らない者に声をかけられてはいけない。
だから、母の言いつけを破ってはいけない。
後の世では、きっとそう語られるのでしょう。
けれど、この夜に語る狼は、肉を喰らうためだけに牙を持っていたのではありません。
その獣は、声を嗅ぐのです。
母が娘を呼ぶ声。
娘が祖母を慕う声。
炉辺に残された古い家名。
戸口に吊るされた祈り紐。
眠る者の枕元に、かすかにこぼれる呼び名。
狼は、それらを嗅ぎ分ける。
そして、近づく。
草を踏む音もなく、枝を折る気配もなく、ただ、呼び声の残り香をたどって。
ひとの名は、弱いものです。
誰かに呼ばれなければ、だんだん薄れていく。
けれど、誰かに呼ばれすぎれば、今度は奪われることもある。
名とは、扉に似ています。
呼ばれれば、ひらく。
呼び間違えられれば、軋む。
そして、悪しきものに知られれば、内側まで踏み込まれる。
この狼は、その扉の開け方を知っていました。
名を噛む。
声を舐める。
呼び名を呑み込む。
そうして狼は、喰った者の声を着るのです。
老いた母の声で、子を呼ぶ。
死んだ夫の声で、妻を呼ぶ。
迷子の兄の声で、妹を呼ぶ。
喰われた者たちは狼の腹の中でまだ呼び続け、狼はその声を、必要なときに取り出して使う。
だから、森では返事をしてはいけない。
名を呼ばれても。
母の声がしても。
祖母の声がしても。
泣いている子どもの声がしても。
まず、耳を澄ませなければならない。
その声が、本当に自分を愛する者の声なのか。
それとも、自分の名を欲しがる獣の舌なのか。
そして、赤い布は血の色ではありませんでした。
火の色でもありません。
祭りの飾りでも、娘のかわいらしさを示すための衣でもありません。
それは、名に結ばれた色でした。
母から娘へ。
祖母から孫へ。
生まれたときに呼ばれた名が、悪しきものに嗅ぎ取られぬように。
誰かの子であることが、誰かの獲物であることへ変わらぬように。
緋の糸を重ね、祈りを縫い込み、結び目の奥に呼び名を隠した布。
少女はそれを、ただの頭巾だと思っていました。
冬の風を防ぐためのもの。
森の枝から髪を守るためのもの。
祖母が縫ってくれた、自分だけの赤い布。
けれど、祖母は知っていました。
母も、ほんの少しだけ知っていました。
その赤は、少女の名を隠す色であると。
その布をかぶっているかぎり、狼は少女の本当の名を嗅げないのだと。
それでも、守りは完全ではありません。
名は、呼ばれれば揺れる。
愛されれば、ほどける。
心配されれば、こぼれる。
だからこそ、狼は待つのです。
誰かが、うっかり呼ぶ瞬間を。
母が娘を案じる瞬間を。
祖母が孫の名を口にする瞬間を。
少女自身が、自分は何者なのかを答えてしまう瞬間を。
名は、奪われるより先に、差し出されることがある。
リラ=ファブラは、そこで小さく息をついた。
夜の帳の向こうで、森がゆっくりと形を持ちはじめる。
黒い木々。
白い花。
細く続く道。
その道の入口に、ひとりの少女が立っている。
手には籠。
肩には朝の冷気。
頭には、祖母が縫った緋色の布。
家の戸口では、母がまだその結び目を直している。
結び目をきつくしすぎれば少女は嫌がる。
ゆるくすれば、森の枝に引っかかる。
それでも母の指はなかなか離れない。
心配とは、時に祈りに似ています。
送り出す者は、引き止めたい心を隠して、ただ布を結ぶ。
戻ってきてほしいという願いを、言葉にせず、結び目に込める。
少女はまだ知らない。
その朝、森の奥で狼が目を開けたことを。
狼は腹を空かせていました。
けれどそれは、肉の飢えではありません。
誰かに呼ばれたい。
誰かの名を喰いたい。
誰かの声を着て、誰かの家へ帰りたい。
そんな、古い飢えでした。
リラ=ファブラは、夜の頁に指をかける。
まだ文字にならない声たちが、頁の裏でかすかに震えていた。
「後の世では、これは狼に気をつけなさいという話になるでしょう」
彼女は囁く。
「けれど、はじまりはそうではありませんでした」
帳の奥で、少女が母を見上げる。
母は何かを言おうとして、言葉を選び、結局いつものように微笑んだ。
森は静かに待っている。
その静けさの中で、赤い布だけが、朝の光を受けて小さく燃えるように見えた。
「これは、名を喰う狼と、名を守る緋布の物語」
リラ=ファブラは、忘れられた名を呼ばぬよう、そっと声を低くした。
「そして、まだ自分の名がどれほど危ういものか知らなかった、ひとりの少女の物語です」




