表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/33

前口上 ― リラ=ファブラの語り

 森には、道を外れた者を喰う獣がいる。


 そう語れば、人はうなずくでしょう。

 森とは、いつでも人の暮らしの外にあるもの。枝は空を隠し、根は道を歪め、昼の光さえ葉のあいだで細かく裂かれてしまう。子どもがひとりで入るには深すぎて、大人でさえ、夕暮れには振り返りたくなる場所。


 だから、森には狼がいる。

 だから、森で知らない者に声をかけられてはいけない。

 だから、母の言いつけを破ってはいけない。


 後の世では、きっとそう語られるのでしょう。


 けれど、この夜に語る狼は、肉を喰らうためだけに牙を持っていたのではありません。


 その獣は、声を嗅ぐのです。


 母が娘を呼ぶ声。

 娘が祖母を慕う声。

 炉辺に残された古い家名。

 戸口に吊るされた祈り紐。

 眠る者の枕元に、かすかにこぼれる呼び名。


 狼は、それらを嗅ぎ分ける。

 そして、近づく。

 草を踏む音もなく、枝を折る気配もなく、ただ、呼び声の残り香をたどって。


 ひとの名は、弱いものです。

 誰かに呼ばれなければ、だんだん薄れていく。

 けれど、誰かに呼ばれすぎれば、今度は奪われることもある。


 名とは、扉に似ています。

 呼ばれれば、ひらく。

 呼び間違えられれば、軋む。

 そして、悪しきものに知られれば、内側まで踏み込まれる。


 この狼は、その扉の開け方を知っていました。


 名を噛む。

 声を舐める。

 呼び名を呑み込む。

 そうして狼は、喰った者の声を着るのです。


 老いた母の声で、子を呼ぶ。

 死んだ夫の声で、妻を呼ぶ。

 迷子の兄の声で、妹を呼ぶ。

 喰われた者たちは狼の腹の中でまだ呼び続け、狼はその声を、必要なときに取り出して使う。


 だから、森では返事をしてはいけない。


 名を呼ばれても。

 母の声がしても。

 祖母の声がしても。

 泣いている子どもの声がしても。


 まず、耳を澄ませなければならない。

 その声が、本当に自分を愛する者の声なのか。

 それとも、自分の名を欲しがる獣の舌なのか。


 そして、赤い布は血の色ではありませんでした。


 火の色でもありません。

 祭りの飾りでも、娘のかわいらしさを示すための衣でもありません。


 それは、名に結ばれた色でした。


 母から娘へ。

 祖母から孫へ。

 生まれたときに呼ばれた名が、悪しきものに嗅ぎ取られぬように。

 誰かの子であることが、誰かの獲物であることへ変わらぬように。

 緋の糸を重ね、祈りを縫い込み、結び目の奥に呼び名を隠した布。


 少女はそれを、ただの頭巾だと思っていました。


 冬の風を防ぐためのもの。

 森の枝から髪を守るためのもの。

 祖母が縫ってくれた、自分だけの赤い布。


 けれど、祖母は知っていました。

 母も、ほんの少しだけ知っていました。

 その赤は、少女の名を隠す色であると。

 その布をかぶっているかぎり、狼は少女の本当の名を嗅げないのだと。


 それでも、守りは完全ではありません。


 名は、呼ばれれば揺れる。

 愛されれば、ほどける。

 心配されれば、こぼれる。

 だからこそ、狼は待つのです。


 誰かが、うっかり呼ぶ瞬間を。

 母が娘を案じる瞬間を。

 祖母が孫の名を口にする瞬間を。

 少女自身が、自分は何者なのかを答えてしまう瞬間を。


 名は、奪われるより先に、差し出されることがある。


 リラ=ファブラは、そこで小さく息をついた。


 夜の帳の向こうで、森がゆっくりと形を持ちはじめる。

 黒い木々。

 白い花。

 細く続く道。

 その道の入口に、ひとりの少女が立っている。


 手には籠。

 肩には朝の冷気。

 頭には、祖母が縫った緋色の布。


 家の戸口では、母がまだその結び目を直している。

 結び目をきつくしすぎれば少女は嫌がる。

 ゆるくすれば、森の枝に引っかかる。

 それでも母の指はなかなか離れない。


 心配とは、時に祈りに似ています。

 送り出す者は、引き止めたい心を隠して、ただ布を結ぶ。

 戻ってきてほしいという願いを、言葉にせず、結び目に込める。


 少女はまだ知らない。

 その朝、森の奥で狼が目を開けたことを。


 狼は腹を空かせていました。

 けれどそれは、肉の飢えではありません。


 誰かに呼ばれたい。

 誰かの名を喰いたい。

 誰かの声を着て、誰かの家へ帰りたい。


 そんな、古い飢えでした。


 リラ=ファブラは、夜の頁に指をかける。

 まだ文字にならない声たちが、頁の裏でかすかに震えていた。


「後の世では、これは狼に気をつけなさいという話になるでしょう」


 彼女は囁く。


「けれど、はじまりはそうではありませんでした」


 帳の奥で、少女が母を見上げる。

 母は何かを言おうとして、言葉を選び、結局いつものように微笑んだ。


 森は静かに待っている。


 その静けさの中で、赤い布だけが、朝の光を受けて小さく燃えるように見えた。


「これは、名を喰う狼と、名を守る緋布の物語」


 リラ=ファブラは、忘れられた名を呼ばぬよう、そっと声を低くした。


「そして、まだ自分の名がどれほど危ういものか知らなかった、ひとりの少女の物語です」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ