序夜 ― 千夜を数える語り部
物語には、名を持つものと、名を失ったものがある。
王の年代記に刻まれた戦。
神殿の石板に残された神名。
地図に線を引かれた国々。
勝者の口で語り直された英雄譚。
そうしたものは、いずれ歴史と呼ばれる。
けれど、歴史になれなかった物語もまた、世界にはある。
森の奥で消えた少女の話。
泡となって名を失った海の娘の話。
灰の下に本当の呼び名を隠した姫の話。
鏡に映されたために、毒を与えられた娘の話。
眠りのまま国ごと忘れられた王女の話。
帰り道を鳥に食べられた子どもたちの話。
開けてはならない部屋の前で、鍵を握りしめた花嫁の話。
それらは、正史ではない。
神話にも、まだ届かない。
祈りと呼ぶには小さく、伝承と呼ぶには脆く、記録と呼ぶにはあまりに欠けている。
だからこそ、語り部はそれを拾う。
夜の果てに、ひとりの女が座っていた。
名を、リラ=ファブラという。
彼女の前には、王はいない。
処刑の刃も、玉座も、金の杯もない。
ただ、消えかけた物語の残響だけが、幾重にも折り重なっている。
リラ=ファブラは、その残響に耳を澄ませる。
誰にも呼ばれなかった名。
最後まで書かれなかった手紙。
母から子へ渡されるはずだった赤い布。
海辺に打ち上げられた貝殻の内側に残る、小さな声。
灰をかぶった炉辺に、まだ熱を失わず残っている祈り。
彼女は、それらをひとつずつ拾い上げる。
欠けたまま、汚れたまま、血の匂いを残したまま。
なぜなら、物語はきれいなものだけが残るのではない。
むしろ、あまりに痛ましく、あまりに小さく、誰にも正しく記されなかったものほど、遠い未来で別の貌を得ることがある。
ある世界では、それは童話と呼ばれる。
またある世界では、子どもを眠らせるための昔話となる。
あるいは、挿絵のついた本になり、舞台になり、歌になり、誰かの記憶の奥で、何度も何度も語り直される。
だが、まだ今は違う。
これは、童話になる前の物語。
教訓に丸められる前の、傷を持った話。
悪い狼が悪い狼である前に、誰かの名を喰らっていた頃の話。
海の娘が恋のために声を失ったのではなく、名を呼ばれるために陸へ上がった頃の話。
王子の接吻や硝子の靴や毒林檎が、まだ甘い夢ではなく、神具と呪いと記録の欠片であった頃の話。
リラ=ファブラは、薄い帳を指先でなぞる。
そこには文字がなかった。
文字になれなかったものだけが、夜露のように浮かんでいた。
「物語は、終わるために語られるのではありません」
彼女は静かに言った。
「消えないために、語られるのです」
灯りがひとつ、揺れた。
それは星ではなかった。
月でも、神殿の聖火でもなかった。
誰かが最後まで覚えていようとした、小さな名の灯である。
リラ=ファブラは、その灯を両手で包むようにして、微笑んだ。
「今宵より、七つの夜を数えましょう」
彼女の声はやわらかく、しかし遠い。
まるで、この世界のどこかで語られているのではなく、まだ生まれていない別の世界へ向けて語っているかのようだった。
「けれど、七つで終わると思ってはなりません。物語は、数えられたぶんだけ存在するのではありません。語られなかった夜のほうが、いつだって多いのですから」
帳の向こうで、森が息をした。
黒い木々のあいだに、一本の道がある。
道の端には、赤い布が落ちている。
それは血の色ではない。
炎の色でもない。
忘れられぬよう、名に結ばれた色だった。
そして森の奥で、狼が目を開ける。
その狼は、肉の匂いを追わない。
骨を噛み砕くために牙を持つのでもない。
それは、人が人を呼ぶ声を嗅ぐ。
娘が母を呼ぶ名を。
母が娘に与えた名を。
祖母が家の奥に隠した、古い血族の名を。
リラ=ファブラは、ゆっくりと物語の頁を開いた。
「第一夜は、赤い頭巾の少女の話をいたしましょう」
夜が、少しだけ深くなる。
「後の世では、これは狼に気をつけなさいという話になるでしょう。けれど、はじまりはそうではありませんでした」
彼女は微笑む。
どこか悲しげに。
どこか楽しげに。
まるで、忘れられた名をもう一度呼ぶことだけが、自分に許された祈りであるかのように。
「これは、名を喰う狼と、名を守る赤い布の物語」
そして、語り部は第一の夜をはじめた。




