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第1節 ― 蒼髭館の花嫁

 クラヴィア家に、縁談が届いたのは、雨の降る朝だった。


 雨は、古びた屋敷の屋根を叩き、割れた雨樋から細い銀糸のようにこぼれていた。庭の薔薇はもう何年も手入れされておらず、花をつける枝よりも、枯れた棘のほうが目立つ。門柱に刻まれたクラヴィア家の紋章も、半分ほど苔に覆われ、かつてそこに金箔が差されていたことなど、近づいて指でなぞらなければ分からなかった。


 それでも、屋敷の奥にはまだ、クラヴィア家がクラヴィア家であったころの名残があった。


 記録鍵の間。


 そう呼ばれていた小部屋で、イリス=クラヴィアは姉のアンナと並んで、古い鍵束と記録札を整理していた。


 壁一面に、鍵が吊るされている。


 銅の鍵。銀の鍵。黒ずんだ鉄の鍵。柄の部分に人名が刻まれたもの。紋章の形をしたもの。持ち主の死とともに封じられたもの。もう開く扉が失われたもの。


 クラヴィア家は、かつて王都の記録鍵を管理する家系だった。


 遺言、婚姻、血統、財産、封印室、貴族家の私的記録。人に見られてはならないものを閉じ、人が忘れてはならないものを開く。その境界を守る家だった。


 けれど今、その家に残っているのは、開ける相手を失った鍵と、管理料の支払いが途絶えた記録箱ばかりだった。


 イリスは、机の上に積まれた記録札の埃を布で払った。


 薄茶色の髪が頬に落ちる。指先はインクと錆で汚れていた。彼女はその汚れを気にしなかった。クラヴィアの娘として残された仕事は、もう多くない。けれど、それを手放してしまえば、この家は本当にただの古い屋敷になってしまう。


「この鍵、まだ生きてる」


 アンナが一本の小さな鍵を持ち上げた。


 柄に刻まれた名はほとんど消えていたが、鍵の先に、ごく淡い光が残っている。


「どこのもの?」


「分からない。記録札がないわ。たぶん、依頼主の家ももう残ってない」


 アンナはそう言って、苦く笑った。


 姉はイリスより三つ年上だった。背が高く、言葉も目つきもまっすぐで、弱っていくものを黙って見ていることが苦手な人だった。イリスが埃を払い、壊れた箱を直し、欠けた記録札をつなぎ合わせるのに対し、アンナはよく窓の外を見た。


 外へ出る道を探しているように。


 この家から逃げるためではない。


 この家を、沈んでいくままにしないために。


 階上から、咳の音がした。


 姉妹は同時に顔を上げた。


 父の部屋のほうだった。


 アンナが先に立ち上がる。


「薬湯、冷めてるかも」


「私が行く」


「いい。あなたはその箱を終わらせて。午後には質屋が来るんでしょう」


 その言葉に、イリスの手が止まった。


 質屋。


 その響きは、鍵が錆びる音に似ていた。


 クラヴィア家はもう、売るものもほとんど残っていなかった。銀食器は先月消えた。客間の絨毯は冬の前に消えた。母が使っていた小さな竪琴も、父が震える手で許可を出した。


 売ってはいけないものばかりが、少しずつ売られていく。


 けれど、売っても売っても、屋敷は傾き、薬代は増え、使用人は一人また一人と去っていった。


 アンナが階段を上がっていく足音を聞きながら、イリスは机の上の鍵を見つめた。


 鍵は、扉を開けるものだ。


 昔、父はそう教えてくれた。


 だが本当は、それだけではない。


 鍵は、閉じるものでもある。


 見てはならないものを閉じる。忘れてはならないものを閉じる。誰かが勝手に書き換えないように、名を閉じる。声を閉じる。記録を閉じる。


 その鍵を守る家が、いま自分たちの名さえ守れなくなっている。


 その日、昼を少し過ぎたころ。


 クラヴィア家の玄関に、王都の大貴族からの使者が立った。


 黒い雨外套をまとった男だった。胸元には、青い封蝋の印がある。深い藍色の円に、鍵と薔薇と、閉じた扉。


 イリスは封書を受け取った瞬間、その紋章を知っていると思った。


 王都の者なら、知らない者はいない。


 アズール家。


 そして、その当主。


 蒼髭公バルザール=アズール。


 王城に近い広大な館を持ち、いくつもの封地と鉱山を持ち、慈善家としても名高い男。王都の孤児院へ寄付をし、古い神殿の修復に金を出し、没落しかけた貴族家へ援助を行うことで知られている。


 だが同時に、囁かれる名でもあった。


 蒼髭公。


 青い髭の男。


 妻たちが戻らない館の主。


 封書は、縁談だった。


 バルザール=アズールが、イリス=クラヴィアを妻に望んでいる。


 読み上げたアンナの声は、途中で止まった。


 父は寝台の上で目を閉じたまま、長く沈黙した。咳のあと、浅い呼吸が続く。窓の外では雨が弱まり、雫が石畳に落ちる音だけがしていた。


「断りましょう」


 アンナが言った。


 早かった。


 まるで、その答えだけは最初から決めていたかのようだった。


「アンナ」


 父がかすれた声で呼ぶ。


「お父様、分かっているでしょう。アズール家には噂があります。前の奥方たちのことも、誰もはっきり知らない。亡くなったとか、遠方へ帰ったとか、修道院に入ったとか、言う人によって違う。そんな話、普通じゃないわ」


「噂だ」


「記録がないから噂になるのよ」


 アンナの言葉は、鋭かった。


 イリスは封書を見つめた。


 青い封蝋は、雨の日の薄暗い部屋の中でも、不思議なほど鮮やかだった。まるでまだ乾ききっていないインクのように、光を吸っている。


「確かな記録は、ないの?」


 イリスが静かに尋ねる。


 アンナは唇を噛んだ。


「ないわ。婚姻記録はある。でも、その後がない。死別の記録も、離縁の記録も、帰郷の記録も、修道院入りの記録も、何も見つからない。あるのはただ、アズール家に嫁いだという記録だけ」


 嫁いだ。


 それだけ。


 その先がない。


 イリスの背筋に、冷たいものが触れた。


 人の記録は、そこで終わるべきではない。生きていれば、何かが残る。手紙。移動。署名。病の診断。死の証。祈り。葬送。ほんの小さな帳面の隅にでも、誰かがその名を書き留める。


 それがないということは。


 消されたのか。


 それとも、消す必要もないほど深い場所へ閉じられたのか。


 父が、苦しげに身を起こそうとした。


 イリスは慌てて支える。


「イリス」


「はい」


「おまえが、嫌なら」


 父の声は、途中で震えた。


 嫌なら、断ればいい。


 そう言いたかったのだと分かった。


 けれど、その言葉の先に続く現実も、イリスには分かっていた。


 断れば、薬代は払えない。


 屋敷は手放すことになる。


 クラヴィア家の記録鍵は散逸する。


 父は、これ以上自分のせいで娘たちの未来を削りたくないと思っている。けれど同時に、この縁談がクラヴィア家を救うことも理解している。


 そのことが、彼自身をいちばん苦しめていた。


 イリスは封書を閉じた。


「まだ、会ってもいません」


「会わなくていい」


 アンナが即座に言った。


「あの男は、会えば優しくするに決まってる。贈り物をして、礼儀正しくして、こちらが断りづらくなるようにするわ。そういう人よ」


「どうして分かるの」


「戻ってこなかった女の人たちがいるからよ」


 部屋が静かになった。


 雨がやんだあと特有の、湿った沈黙が窓辺に溜まる。


 イリスは、姉の顔を見た。


 強い人だと思う。


 けれど、その強さの奥には恐れがあった。イリスを失うことへの恐れ。クラヴィア家が壊れることよりも、妹が知らない館へ閉じ込められることへの恐れ。


 イリスはその恐れを受け止めながら、それでも何も答えられなかった。


 数日後。


 バルザール=アズールは、自らクラヴィア家を訪れた。


 蒼髭公の馬車は、雨上がりの泥道に似つかわしくないほど美しかった。車輪には青銀の装飾が施され、扉にはアズール家の紋章が浮き彫りになっている。従者たちは静かで、物音ひとつ立てない。彼らが玄関前に並ぶと、傾いたクラヴィア家の屋敷が、急に自分のみすぼらしさを思い出したように見えた。


 バルザールは、噂に聞くほど恐ろしげな男ではなかった。


 年はイリスよりずっと上だったが、老いてはいない。背が高く、肩幅があり、身なりは抑制されていた。深い紺の上着に、銀の釦。手袋は白。動作は優雅で、声は低く、よく磨かれた木の床のように滑らかだった。


 そして、髭。


 顎から頬へ整えられた髭は、一見すれば黒に近い。


 だが光の角度が変わると、そこに青が浮かんだ。


 夜のインク。


 古い記録書の端に滲んだ藍。


 水底に沈めた鍵の錆。


 それは不自然な青ではなかった。むしろ、あまりにも自然に彼の顔の一部としてそこにあり、だからこそ目を離しがたかった。


「クラヴィア卿」


 バルザールは父の寝台の横で、深く礼をした。


「病床に押しかける非礼をお許しください。ですが、書簡だけで済ませるには、あまりにも大切なお話でした」


 父は疲れた声で応じた。


「こちらこそ、十分なもてなしもできず、申し訳ない」


「もてなしなら、すでに受けています」


 バルザールは記録鍵の間を見回した。


「この家には、まだ鍵が残っている。扉と記録を守ってきた家の空気がある。それだけで、わたしには十分です」


 その言葉は、美しく聞こえた。


 少なくとも、クラヴィア家の没落を笑う言葉ではなかった。


 だからこそ、イリスは慎重になった。


 相手は、何を言えばこの家の者の心に触れるかを知っている。


 客間に移ると、バルザールは贈り物を差し出した。


 父には高価な薬草と医師の紹介状。アンナには王都の記録院で使われる新しい目録紙。イリスには、小さな鍵飾りのついた銀の栞。


 惜しみなく、しかし押しつけがましくない。


 必要なものを、必要な形で差し出す。


 アンナの表情が硬くなるのを、イリスは横目で見た。


 バルザールは、それにも気づいていたはずだった。けれど、彼は何も言わず、ただ穏やかに微笑んだ。


「イリス嬢」


 彼は、初めてイリスの名を呼んだ。


 不思議な声だった。


 名を乱暴に掴むのではなく、傷つけないように掌へ乗せる声。


 けれど、掌に乗せたものを、そのまま蓋つきの箱へしまうこともできる声だった。


「わたしの館には、多くの部屋があります」


 バルザールは言った。


「客間、音楽室、温室、図書室、記録室、礼拝室、古い鍵の間。君には、そのすべてを開く自由を与えましょう」


 イリスは黙って聞いた。


「わたしの妻となる者に、不自由はさせない。望む衣も、書物も、庭も、楽師も、召使いも、すべて用意します。クラヴィア卿の療養も、アズール家が責任を持ちましょう。アンナ嬢が望むなら、王都の記録院への推薦もできます」


 それは、救いのように聞こえた。


 あまりにも整った救いだった。


 イリスは、自分の膝の上で指を組んだ。


「なぜ、私なのですか」


 アンナが小さく息を呑んだ。


 バルザールの微笑みは崩れなかった。


「クラヴィア家の娘だからです」


「家が目的ですか」


「家も、あなたも、です」


 彼は静かに答えた。


「クラヴィア家は、鍵の意味を知っている。開けることと閉じることの重さを知っている。わたしの館には、古い記録が多くあります。それを任せられる人が必要だ」


「妻ではなく、記録係をお求めなら」


「いいえ」


 バルザールは、わずかに首を横へ振った。


「妻だからこそ、任せたいのです。館の中枢に触れる者は、雇い人では足りない。家の名を分け合う者でなければならない」


 家の名を分け合う。


 その言葉は、婚姻を語るには美しかった。


 けれどイリスには、違う響きにも聞こえた。


 名を分け合うのではない。


 片方の名が、もう片方に取り込まれる。


 そんな響き。


 その後、バルザールが帰ったあと、アンナは扉が閉まるのを待ちきれずに言った。


「だめよ」


 イリスは窓の外を見ていた。


 馬車はすでに門を出ていた。青銀の車輪が、濡れた石に細い跡を残している。


「あの男の屋敷に入った女の人たちは、どうして誰も戻ってこないの」


「……分からない」


「分からないなら、なおさら怖いわ」


 アンナの声は震えていた。


「記録がないのよ、イリス。あんなに大きな家に嫁いだ人たちの、その後の記録がどこにもない。死んだなら死んだと書かれるはず。離縁したなら離縁と残るはず。修道院へ入ったなら、受け入れの記録があるはず。それがないの」


「だから、調べる必要がある」


「嫁いでから?」


 アンナが、信じられないという顔をした。


「あなた、鍵を持って中へ入るつもりなの?」


 イリスは答えなかった。


 自分でも、それが勇気なのか、無謀なのか分からなかった。


 ただ、クラヴィア家の鍵が失われていく光景を、これ以上見ていられなかった。


 父が病で細っていく手。


 アンナが眠れずに記録札を調べる夜。


 屋敷の壁から少しずつ剥がれていく家名。


 そして、蒼髭公の館に消えた花嫁たち。


 記録がないなら、誰かが探さなければならない。


 閉じられた部屋があるなら、誰かが鍵を持たなければならない。


 だが、それは口に出せなかった。


 言えば、アンナは必ず止める。


 だからイリスは、ただ静かに言った。


「このままでは、クラヴィア家も消えるわ」


「あなたが消えるよりいい!」


 アンナの声が、部屋に響いた。


 その声のあと、二人とも黙った。


 言ってしまった言葉は、鍵では閉じられない。


 アンナは唇を震わせ、すぐに目を伏せた。


「ごめん」


「謝らないで」


「でも」


「分かってる」


 イリスは姉の手を取った。


 アンナの手は冷たかった。インクと紙で荒れた指先。自分と同じ、記録に触れてきた手。


「私も怖い」


 そう言うと、アンナは顔を上げた。


 イリスは続けた。


「怖いわ。蒼髭公も、館も、戻らない花嫁たちも。けれど、怖いから目を閉じていたら、何も残せない」


「残すために、あなたがいなくなったら意味がない」


「いなくならない」


 それは約束ではなかった。


 願いに近かった。


 それでも、イリスはその言葉を言わずにはいられなかった。


 婚礼は、三週間後に行われた。


 王都の聖堂には、青い花が飾られた。


 アズール家の色だった。深い藍と、硝子のような青白い花弁。クラヴィア家から出せるものは少なく、イリスの衣装も、母が遺した古い白絹のドレスを仕立て直したものだった。けれどバルザールは、そこへ過剰な宝石を足そうとはしなかった。


 彼は完璧だった。


 完璧に礼儀正しく、完璧に優しく、完璧に控えめだった。


 青黒い髭は丁寧に整えられている。


 聖堂の高窓から差す光が彼の横顔を照らすたび、その髭は一瞬、青いインクのように光った。


 イリスは祭壇の前に立ちながら、参列者たちの囁きを聞いた。


「あれがクラヴィア家の妹君か」


「アズール公に見初められたそうよ」


「幸運ね。あの家はもう終わりかけていたもの」


「でも、前の奥方は」


「静かに。記録にないことを口にすると、面倒よ」


 記録にないこと。


 その言葉が、イリスの胸に沈んだ。


 記録にないことは、なかったことになるのか。


 誰かが戻らなかったことも。


 誰かが叫んだかもしれないことも。


 誰かの名が、部屋の奥で閉じられたかもしれないことも。


 式の終わりに、婚姻記録官が進み出た。


 白い手袋をした手に、婚姻簿が開かれる。そこには、新しいインクで二人の名が記されていた。


 記録官は、よく通る声で読み上げた。


「イリス=クラヴィア」


 イリスは、少しだけ息を止めた。


 自分の名。


 父が呼んだ名。


 姉が怒りながら呼ぶ名。


 母が鍵の持ち方を教えながら、笑って呼んだ名。


「バルザール=アズール」


 次に読まれた夫の名は、聖堂の天井へ低く広がった。


 その瞬間。


 イリスは、かすかな違和感を覚えた。


 婚姻簿の上で、自分の名のインクが揺れたように見えた。


 消えたわけではない。


 薄れたわけでもない。


 けれど、隣に置かれたアズールの名の影が、静かに伸びてくる。


 クラヴィアの文字の端を撫でるように。


 包むように。


 飲み込む前に、まず形を確かめるように。


 イリスは手の中の小さな花束を握りしめた。


 指先に、茎の硬さが食い込む。


 その痛みで、彼女は自分がまだここにいることを確かめた。


 式が終わると、バルザールは彼女の手を取った。


「今日から、君はアズール家の人だ」


 その声は優しかった。


 イリスは微笑もうとした。


 だが、聖堂の扉の外でアンナがこちらを見ているのが見えた。


 姉は泣いていなかった。


 怒ってもいなかった。


 ただ、イリスの顔を見ていた。


 忘れないで。


 そう言っているようだった。


 あなたの名を。


 あなたがどこから来たのかを。


 あなたが、何を開く家の娘だったのかを。


 イリスは、ほんのわずかに頷いた。


 バルザールの手は温かい。


 けれど、その温かさの奥に、冷たい鍵の重みがあるような気がした。


 聖堂の鐘が鳴る。


 祝福の鐘。


 婚姻の鐘。


 ひとつの家の娘が、別の家へ渡る鐘。


 イリス=クラヴィアは、その音を聞きながら、蒼髭公の花嫁となった。

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