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第2節 ― 鍵束と一つだけの禁忌

 蒼髭館は、王都の西の丘にあった。


 丘そのものが、古い貴族のために盛り上げられた墓標のようだった。石畳の坂道は白く磨かれ、両側には青葉を落とさない針葉樹が並び、枝の先には銀の灯籠が吊られている。昼であっても、そこには夜の気配が残っていた。風が吹くたび、灯籠の内側で淡い青火が揺れ、馬車の窓にイリスの顔を映した。


 婚礼の翌朝、イリスはその館へ迎えられた。


 青い屋根。


 白い外壁。


 窓枠には銀。


 門柱には、アズール家の紋章である《鍵を咥えた青鷲》が彫られている。


 美しい館だった。


 誰が見ても、そう言うだろう。


 けれどイリスは、馬車から降りた瞬間、喉の奥に小さな冷たさを覚えた。


 それは、恐怖とは少し違う。


 もっと静かで、もっと薄いもの。


 たとえば、長いあいだ開かれていなかった箱の蓋を持ち上げたとき、中から流れ出す古い空気のようなものだった。


「ようこそ、イリス」


 バルザール=アズールは、館の階段の上で彼女を待っていた。


 青黒い髭は婚礼の日と同じく丁寧に整えられ、濃紺の上衣には銀糸の刺繍が入っている。彼は笑っていた。穏やかで、礼儀正しく、少しも急かさない笑みだった。


 イリスは裾を持ち、馬車の踏み台から降りる。


「今日から、ここが君の家だ」


 家。


 その言葉が、石段の上で冷たく響いた。


 クラヴィア家の屋敷は古く、傾き、壁には雨染みがあった。父の咳は廊下の端まで聞こえ、アンナの縫い直したカーテンは日焼けしていた。それでも、そこには自分たちが暮らした跡があった。古い机の傷。母が使っていた茶器。アンナが怒って閉めた扉の音。イリスが夜更けまで記録を読み解いた書斎の匂い。


 この館は、あまりにも整っていた。


 整いすぎていた。


 玄関広間に入ると、青い大理石の床が足音を細く反響させた。壁には歴代アズール家当主の肖像画が並び、それぞれの下に金文字で名が刻まれている。燭台はすべて同じ高さで火を灯し、花瓶の白百合は一本も萎れていない。階段の手すりは磨かれ、誰かの手の脂さえ残っていなかった。


 使用人たちは一列に並び、深く頭を下げた。


「奥様」


 呼ばれた瞬間、イリスはわずかに肩を震わせた。


 奥様。


 それは間違ってはいない。


 けれど、そこにはイリスという響きがなかった。


 クラヴィアという名もなかった。


 ただ、館に属する者としての呼び名だけが、彼女の上に静かに被せられた。


「まだ慣れないだろう」


 隣に立つバルザールが、気遣うように言った。


「すぐに慣れる。館の者にも、君の好みを覚えさせよう。望むものがあれば、何でも言いなさい」


「ありがとうございます」


 イリスは答えた。


 声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


 バルザールは満足そうに頷き、広間の奥へ手を差し出した。


「まずは館を案内しよう。君には、この家のすべてを知る権利がある」


 すべて。


 その言葉は美しかった。


 だが、美しい言葉ほど、刃を隠しやすい。


 イリスは、そのことをクラヴィア家の古い記録から知っていた。


 廊下は長かった。


 壁には青い織物が掛けられ、窓から差し込む光は硝子を通して冷たい水色に変わる。床には厚い絨毯が敷かれているのに、歩くたび、どこか遠くで鍵が鳴るような気がした。


 最初に案内されたのは音楽室だった。


 白い竪琴。


 黒檀の小型鍵盤。


 銀の譜面台。


 部屋の中央には、誰かが弾きかけたように楽譜が開かれていた。けれど、譜面には作曲者の名がない。題名もない。ただ、途中で途切れた音符だけが、五線の上に細い影を落としている。


「この譜面は?」


 イリスが問うと、バルザールは一瞥しただけで答えた。


「古いものだ。前にこの館にいた者が、置いていったのだろう」


 前にこの館にいた者。


 誰、と彼は言わなかった。


 イリスは譜面の端に指を触れかけた。


 しかし、その前にバルザールが次の部屋へ歩き出したため、彼女は手を戻した。


 次は刺繍室だった。


 窓辺に刺繍枠が置かれている。布には青い花が半分だけ縫われていた。針は布に刺さったまま、糸はまだ針穴に通っている。まるで縫っていた人が、少し席を外しただけのようだった。


 だが、椅子の背には誰の肩掛けもない。


 裁縫箱の中には、糸巻きが几帳面に並んでいる。赤、白、灰、青。どれも使いかけなのに、持ち主の印が剥がされていた。


 イリスは、胸の奥がざわめくのを感じた。


 クラヴィア家では、針箱にも名札をつけていた。


 誰の針か。


 誰の糸か。


 誰がどの記録布を扱ったのか。


 そうした小さな名の積み重ねが、家の記録を守るのだと、父はよく言っていた。


 けれどこの館では、痕跡だけが残り、名だけが抜き取られている。


 まるで、誰かが存在の輪郭から名前の部分だけを丁寧に削り取ったように。


 寝室の一つには、古い櫛があった。


 鼈甲の櫛。


 持ち手には、花の彫刻がある。鏡台の引き出しは閉じられていたが、そこからほんのわずか、乾いた香油の匂いがした。


 温室には、枯れない白い花が咲いていた。


 花弁は薄く、触れれば壊れそうなのに、どれも同じ形で咲いている。土は湿っていた。誰かが今も世話をしている。だが、花の札に書かれているはずの名は削られ、ただ《白花》とだけ記されていた。


「珍しい花ですね」


 イリスは言った。


「昔、ある女性が好んだ」


 バルザールは微笑んだ。


「妻だった方ですか」


 言葉が出た瞬間、廊下の空気が一段冷えた気がした。


 だがバルザールの表情は変わらない。


「君は賢い」


 彼は穏やかに言った。


「そして少し、急ぎすぎる」


「申し訳ありません」


「謝ることではない。過去を気にするのは、記録鍵の家に生まれた者の癖だろう」


 イリスは息を呑んだ。


 クラヴィア家が記録鍵を扱っていたことを、彼が知らないはずはない。


 この婚姻は、クラヴィア家を救うためのものだった。


 しかし同時に、クラヴィアの名と、その古い役割を、アズール家へ取り込むためのものでもある。


 それを、イリスは改めて思い知らされた。


 バルザールは、何も隠していないように見える。


 隠しているものの周囲だけを、あまりにも美しく磨いているのだ。


 その夜、イリスは新しい寝室に通された。


 天蓋は淡い青。


 寝台は広すぎるほど広く、窓辺には銀の水差しと薄硝子の杯が置かれていた。暖炉には火が入っている。けれど炎の色はどこか青く、見つめていると、火ではなくインクが燃えているように思えた。


 イリスは一人になってから、荷物の底に入れてきた小さな帳面を取り出した。


 クラヴィア家に残っていた最後の未使用記録帳。


 表紙は擦り切れ、留め具は欠けている。


 けれど、そこにはまだ何も書かれていない。


 イリスは燭台のそばで羽根ペンを取り、今日見たものを短く記した。


 音楽室。弾きかけの譜面。名なし。


 刺繍室。半分の青花。針が残る。持ち主不明。


 寝室。櫛。香油。名なし。


 温室。白花。札の名、削除。


 そこまで書いて、手が止まった。


 これは何の記録なのだろう。


 過去の花嫁たちの痕跡か。


 それとも、いつか自分も同じように、名だけを抜かれて残されるという予告か。


 窓の外で、風が鳴った。


 イリスは帳面を閉じ、胸に抱いた。


 数日が過ぎた。


 バルザールは、夫として申し分なく振る舞った。


 朝には花を贈り、昼には館の書庫を自由に使わせ、夕食では王都の話を穏やかに語った。彼は声を荒らげない。怒りを見せない。イリスが何かを尋ねても、答えられる範囲では丁寧に答えた。


 だからこそ、息が詰まった。


 怒鳴られれば、身構えられる。


 責められれば、反論の言葉を探せる。


 けれど、完全な礼節と完璧な寛容に囲まれていると、自分の不安だけが無作法なものに思えてくる。


 イリスは館の部屋を歩いた。


 図書室には、何千冊もの本があった。


 だが、ある棚だけ不自然に空いていた。背表紙の埃の跡から、本がそこにあったことは分かる。抜き取られたのは古い家系録と婚姻記録の棚だった。


 北翼の客間には、青いリボンの切れ端が箪笥の奥に残っていた。


 東廊下の小礼拝室には、祈りの名札を掛ける釘だけが並び、名札そのものは一枚もない。


 そして、どの部屋にも鍵穴があった。


 扉に。


 引き出しに。


 小箱に。


 壁の飾り板に。


 まるで館全体が、鍵を待つ大きな箱であるかのように。


 その七日目の朝、バルザールはイリスを青の間へ呼んだ。


 青の間は、館の中央にある小広間だった。


 天井には蒼硝子のシャンデリアが吊られ、壁には深い藍色の布が掛けられている。その中央に立つバルザールは、旅装を身につけていた。濃紺の外套。銀の留め具。手袋。腰には細い剣。


「遠方の領地へ視察に行く」


 彼は言った。


「三日、長くとも五日で戻るだろう」


「急なお話ですね」


「領地から報告が来た。古い記録倉に水が入ったらしい。わたしが確認せねばならない」


 記録倉。


 その言葉に、イリスは反応しかけた。


 バルザールは、それを見逃さなかったように微笑む。


「心配はいらない。君はこの館で自由に過ごしなさい。客を招いてもよい。姉君を呼んでもよい。音楽室も、温室も、図書室も、すべて好きに使ってかまわない」


 そう言って、彼は傍らの小卓から鍵束を持ち上げた。


 金属の触れ合う音が、部屋に落ちた。


 重い音だった。


 鍵束には、大小さまざまな鍵が連なっていた。


 金の鍵。


 銀の鍵。


 青銅の鍵。


 黒鉄の鍵。


 細いもの、太いもの、装飾の多いもの、実用一点のもの。


 それぞれの持ち手には部屋の紋が刻まれている。竪琴。薔薇。書物。鳥籠。杯。月。白花。青鷲。


 バルザールはそれを、イリスの両手に載せた。


 重みで手首が下がる。


 館の重さだった。


 部屋の重さ。


 過去の重さ。


 そして、まだ名を持たない痕跡たちの重さ。


「これで館のほとんどの部屋が開く」


 バルザールは言った。


「君はこの家の女主人だ。閉じられた扉に怯える必要はない」


 イリスは鍵束を見下ろした。


 指先が冷えていく。


「ほとんど、ですか」


 バルザールの笑みが、少しだけ深くなった。


「よく聞いている」


 彼は鍵束の中から、一つの鍵を摘み上げた。


 小さな鍵だった。


 黒銀でできている。


 装飾はほとんどない。ただ、持ち手の部分に、ごく細い青い線が走っている。光の角度によって、それは血管のようにも、乾いたインクのひびのようにも見えた。


「この鍵だけは使ってはいけない」


 バルザールは静かに言った。


 イリスは顔を上げる。


「どこの鍵ですか」


「館の奥に、開けてはならない記録室がある」


 記録室。


 その言葉だけで、イリスの心臓が強く打った。


「なぜ、開けてはならないのですか」


「君のためだ」


「私のためなら、理由を教えてください」


 バルザールは責めるような顔をしなかった。


 むしろ、幼い子どもの問いを聞く大人のように、優しく首を傾げた。


「信じてほしい」


「信じているなら、なぜ開けてはいけないのですか」


 青の間の空気が、細く張り詰めた。


 使用人はいない。


 窓の外では、風が針葉樹の葉を揺らしている。


 バルザールはしばらくイリスを見つめていた。


 そして、やわらかく言った。


「人には、知らないほうが幸福な記録もある」


 その声は、あまりにも穏やかだった。


 だからこそ、イリスは理解した。


 これは信頼ではない。


 優しさでもない。


 試しですらない。


 罠だ。


 開けるなと言われた扉。


 預けられた鍵。


 知るべきではないと断じられた記録。


 そのすべてが、彼女を一つの場所へ向かわせるために、あまりにも正しく配置されている。


 バルザールは、彼女が開けることを望んでいる。


 あるいは、開けたいと思った瞬間を待っている。


 イリスの背筋に、静かな寒気が走った。


 けれど彼女は、鍵束を返さなかった。


 返せば、それで終わる。


 この館で、彼女に与えられた唯一の力を、自分から手放すことになる。


 クラヴィア家は、かつて記録鍵を預かる家だった。


 鍵とは、扉を閉じるためだけのものではない。


 誰かが閉じた記録を、正しい手順で開くためのものでもある。


 父の声が、かすかに胸の奥で蘇った。


 鍵を持つ者は、扉の向こうに責任を持つ。


 見るなと言われたものほど、誰かが見られることを待っている場合がある。


 イリスは鍵束を胸元に引き寄せた。


「承知しました」


 彼女は言った。


 バルザールは満足そうに頷いた。


「賢い妻で嬉しいよ」


 妻。


 また、その呼び名。


 イリスは微笑んだ。


 自分でも、不思議なほど静かな微笑みだった。


「お気をつけて、バルザール様」


「ああ。留守を頼む」


 彼は彼女の手を取り、鍵束ごと包むようにして指先に口づけた。


 黒銀の小さな鍵が、二人の手の間で冷たく鳴った。


 それは祝福の鐘ではなかった。


 まだ開かれていない部屋の奥で、誰かが爪先を立てたような音だった。


 その日の午後、バルザール=アズールは蒼髭館を発った。


 馬車の車輪が門を抜け、青い屋根の影から遠ざかっていく。


 イリスは玄関広間の階段上から、それを見送った。


 館は静かだった。


 静かすぎた。


 音楽室の譜面は、まだ開いたまま。


 刺繍室の針は、布に刺さったまま。


 温室の白花は、名を削られた札の前で咲いたまま。


 そしてイリスの手の中には、重い鍵束がある。


 その中で一つだけ、黒銀の鍵が、他の鍵とは違う冷たさを放っていた。


 開けてはならない。


 そう言われた。


 だが、イリスはもう知っていた。


 この館で本当に禁じられているのは、扉を開くことではない。


 扉の向こうにいた者たちの名を、思い出すことなのだ。

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