終節 ― 帰れない家と呼び合う名
終節 ― 帰れない家と呼び合う名
森の夜は、ゆっくりと明けた。
最初に変わったのは、匂いだった。
夜のあいだ森を満たしていた甘い砂糖の匂いが、朝の冷たい空気にほどけていく。蜂蜜の焦げる匂いも、飴の溶ける匂いも、焼き菓子の皮が割れる匂いも、薄い煙になって木々のあいだへ散っていった。
ヘンゼルは、焦げた炉のそばに座り込んでいた。
鉄の籠から出された足は、まだうまく動かなかった。腹はいっぱいのはずなのに、空っぽのように重い。甘いものを詰め込まれた胃の奥で、まだ魔女の菓子が冷えた泥のように沈んでいる気がした。
グレーテルはその隣で、小さな布包みを膝に置いていた。
焼け残った木札。
半分だけ焦げた布切れ。
片方だけの靴紐。
飴に固められていた小さな匙。
名前の途中までしか読めない、薄い木片。
それらを、ひとつずつ拾い集めた。
家はもう、家ではなかった。
菓子の壁は崩れ落ち、白い砂糖は黒い灰になり、赤や黄色の飴硝子は地面に砕けて、朝の光を鈍くはじいていた。甘い屋根は溶け、蜂蜜の塗られた扉は内側から裂け、そこに残っていたのは、ただひとつ、黒く焼けた炉の跡だけだった。
名焼き炉《オーフェン=ノミナ》。
けれど、その白い火も、もう燃えてはいない。
炉の口は開いたまま沈黙し、奥には、焦げた文字のような灰が積もっていた。近づくと、 灰の中でかすかに何かがきらめいた。砂糖ではない。火の粉でもない。
焼かれてもなお、消えきらなかった名のかけらだった。
グレーテルは、その灰へ手を伸ばした。
熱くはなかった。
ただ、ひどく冷たかった。
「……この子たち」
声を出すと、喉の奥が痛んだ。
魔女に押さえられた口元には、まだ砂糖のざらつきが残っている気がした。大きな声を出すな、と言われた。お兄ちゃんの名が割れてしまう、と言われた。
けれど、割れたのは兄の名ではなかった。
割れていたのは、焼かれた子どもたちの名だった。
「帰りたかったんだよね」
布包みの中で、木札がかすかに鳴った。
返事ではない。
けれど、返事のように聞こえた。
ヘンゼルは唇を噛みしめた。籠の中で甘く鈍らされていた頭が、ようやく少しずつ自分のものに戻ってきていた。
ヘンゼル=ミルカ。
その名を、彼は心の中で何度も呼んだ。
甘い菓子にされかけた名。
重く膨らみ、眠り込もうとしていた名。
妹の声で、もう一度目を開けた名。
「グレーテル」
「なに」
「ぼくたち、帰れるかな」
グレーテルは、すぐには答えなかった。
森は静かだった。
昨夜まで聞こえていた、あの子どもに似た鳥の声はない。ヘンゼル、グレーテル、と味を確かめるように鳴いていた声は、どこにもなかった。
代わりに、焼け跡の上を白い鳥たちが舞っていた。
炉から飛び立った鳥たちだった。
小さな鳥。
細い鳥。
まだ羽の先に灰をまとった鳥。
焦げた木札の欠片をくわえた鳥。
名を忘れかけて、でも忘れきらなかった声の形。
鳥たちは、焼け跡の上を一度、二度、円を描いて飛ぶと、森の奥へ向かっていった。
グレーテルは立ち上がった。
「行こう」
「どこへ?」
「鳥たちが行くほう」
「でも、パン屑はもうない」
ヘンゼルの声は、震えていた。
昨日、自分が落としたパン屑。
小さく砕いて、爪でHとGを刻んだ道。
ぼくが作る、と妹に言った帰り道。
それは、鳥に食べられてしまった。
名の印まで、食べられてしまった。
グレーテルは兄を見た。
彼女の顔は汚れていた。髪には灰がつき、頬には涙の跡が残っている。けれど、その目だけは、夜の前よりも強かった。
「パン屑じゃ、足りなかったんだよ」
そう言って、彼女は兄の手を取った。
「でも、名前は呼べる」
ヘンゼルは息を吸った。
冷たい朝の空気が、甘さに曇っていた胸の奥へ入ってくる。
「……グレーテル=ミルカ」
妹は小さくうなずいた。
「ヘンゼル=ミルカ」
二人が呼び合うと、焼け跡の上で、白い鳥が一羽振り返った。
そして、羽を一枚落とした。
白い羽は、朝の森にゆっくりと舞い降りた。雪のように見えた。けれど、それは雪よりも軽く、パン屑よりも食べられにくく、灰よりも白かった。
兄妹は、その羽を追って歩き出した。
森は、昨日と同じ森ではなかった。
同じ木がある。
同じ根がある。
同じ影がある。
けれど、昨夜は帰り道を飲み込んでいた森が、朝には別の顔をしていた。
白い鳥たちは、枝から枝へ飛び移った。
時折、羽を落とした。
羽は湿った土の上に乗り、倒木の上に乗り、黒い根のあいだに落ちた。
それは一本の道ではなかった。
途切れ、曲がり、迷い、時には見失いかける。
それでも、ヘンゼルとグレーテルが互いの名を呼び合うたび、遠くで鳥が鳴いた。
今度の声は、味を確かめる声ではなかった。
誰かを呼び返す声だった。
「ヘンゼル」
「ここだよ」
「グレーテル」
「こっち」
兄妹は何度も転んだ。
ヘンゼルはまだ足がもつれた。グレーテルは布包みを落とさないように胸へ抱えた。枝が頬を切り、泥が靴に染み込み、空腹がまた戻ってきた。
けれど、今度の空腹は怖くなかった。
痛みがある。
寒さがある。
疲れがある。
父に置き去りにされた記憶がある。
継母の言葉がある。
鳥に食べられたパン屑がある。
炉の中で聞いた声がある。
どれも消えない。
けれど、消えないからこそ、自分たちはまだ菓子ではないのだと、グレーテルは思った。
甘く焼かれて、痛みをなかったことにされるより。
お腹が鳴って、足が痛くて、胸が苦しくて、それでも名を呼べるほうがいい。
やがて、木々のあいだから薄い煙が見えた。
灰麦村《グラナ=ミル》だった。
村は、朝の冷えた霧に沈んでいた。
畑は相変わらず痩せていた。麦の切り株は雪をかぶったように白く乾き、粉挽き小屋の羽根は動いていない。広場には、人々がもう並び始めていた。
配給名簿の前に。
袋を抱えた者。
空の椀を持った者。
子どもを背負った者。
目を伏せたまま、自分の名が呼ばれるのを待つ者。
名を呼ばれた者だけが、今日の麦を受け取れる。
名がなければ、食べるものはない。
食べるものがなければ、声も出なくなる。
声が出なくなれば、名を呼び返すこともできなくなる。
ヘンゼルは、妹の手を強く握った。
村に戻ったのに、胸の奥が冷えた。
帰ってきた、と思いたかった。
でも、足はなかなか前へ進まなかった。
二人の家は、村のはずれにあった。
古い石窯のある、小さな家。
母がまだ生きていたころ、硬いパンでも笑って分け合えた家。
木の食器の底に、母が子どもたちの名を刻んでくれた家。
けれど、戸口まで来たとき、グレーテルは立ち止まった。
戸口の横に、配給名簿の写しが掛けられていた。
一家ごとの名。
受け取れる麦の量。
冬を越すために数えられた口の数。
そこに、二人の名があるはずだった。
ヘンゼル=ミルカ。
グレーテル=ミルカ。
けれど、その文字はなかった。
正確には、あった跡だけが残っていた。
削られていた。
木の板の表面には、刃でこそげた痕がある。ヘンゼルの名があった場所は、薄く白くなっていた。グレーテルの名があった場所には、別の印が塗られていた。
死亡ではない。
旅立ちでもない。
養子先の記録でもない。
ただ、配給から外された印。
家の中で生きる者として数えられない印。
グレーテルは、それを見ても泣かなかった。
昨日なら泣いたかもしれない。
森の中で置き去りにされたとき、彼女は泣いた。
鳥がパン屑を食べたときも、炉の前に立たされたときも、兄が籠の中で眠そうに目を閉じたときも、泣いた。
でも今は、泣かなかった。
ただ、兄の手を握った。
「ヘンゼル」
「うん」
「私たち、消されてた」
ヘンゼルは答えられなかった。
喉の奥に、砂糖ではない何かが詰まった。
そのとき、家の奥で物音がした。
椅子が倒れる音。
誰かが息を呑む音。
床を踏みしめる、重く、ためらいのある足音。
扉が開いた。
父トーマが立っていた。
昨日より、ずっと痩せて見えた。ひげは乱れ、目は赤く腫れ、頬はこけている。手には粉がついていたが、その粉はパンを焼いたものではなく、空の袋を何度も探った跡のようだった。
彼は、最初、二人を見ても動かなかった。
信じられなかったのかもしれない。
夢だと思ったのかもしれない。
あるいは、信じてしまったら、自分がしたことを見なければならなくなるからかもしれない。
ヘンゼルは、父の顔を見た。
森へ連れていった人。
戻ってこなかった人。
でも、最後まで目をそらしていた人。
弱く拒み、弱く負けた人。
その父の口が、震えた。
「……ヘンゼル」
声は、かすれていた。
けれど、その名は確かにヘンゼルへ届いた。
「グレーテル」
グレーテルの肩が、小さく震えた。
名を呼ばれた。
配給名簿から削られていても。
森に置き去りにされても。
パン屑の印を鳥に食べられても。
菓子の家で焼かれかけても。
父の声が、二人の名を呼んだ。
その声で、兄妹は初めて足を止めた。
帰れたのか。
帰れなかったのか。
答えは、簡単ではなかった。
父は駆け寄り、二人を抱きしめようとした。
ヘンゼルは、一歩だけ後ろへ下がった。
父の腕が、宙で止まった。
グレーテルは兄の手を握ったまま、父を見上げた。
父の目に、痛みが走った。
「すまない」
その言葉は、あまりにも小さかった。
森の暗さを消すには足りない。
炉の熱を消すには足りない。
名簿から削られた跡を戻すには足りない。
それでも、その言葉は落ちた。
床の上ではなく、二人のあいだに。
「……すまない。戻るつもりだった。いや、違う。違うな。俺は、戻れなかったんじゃない。戻らなかった」
トーマは膝をついた。
子どもの前で、大人が膝をついた。
「おまえたちを、置いていった」
家の奥から、かすかな物音がした。
マルタがいた。
戸口の陰に、青ざめた顔だけが見えた。彼女は出てこなかった。二人の名を呼ばなかった。謝らなかった。ただ、削られた名簿から目をそらし、布を握りしめていた。
グレーテルは彼女を見た。
怒りがなかったわけではない。
森よりも、魔女よりも、家の中で聞いたあの声のほうが怖かった。
子ども二人分の麦があれば、冬を越せる。
あの言葉は、まだ耳に残っている。
けれどグレーテルは、その場で叫ばなかった。
彼女は、布包みを開いた。
焦げた名札が、朝の光の中に現れた。
セリ。
ロム。
ミナ。
トト。
半分しか読めない名。
焦げて、もう誰のものか分からない名。
でも確かに、誰かのものだった名。
ヘンゼルは、その布を父へ差し出した。
「この子たちも、帰りたかった」
トーマは、焦げた木札を見つめた。
何かを言おうとして、言えなかった。
グレーテルは続けた。
「名前を戻して」
その声は、震えていた。
けれど、炉の前で魔女を押したときと同じ強さがあった。
「私たちだけじゃなくて」
彼女は布包みの中の木札へ手を置いた。
「森にいた子たちの名前も」
村人たちが、いつの間にか集まっていた。
配給名簿の列から離れた者。
桶を抱えたまま立ち尽くす者。
自分の子を背中に隠す者。
目を伏せる者。
マルタを責めるように見る者。
けれど、誰もすぐには声を出せなかった。
なぜなら、この村には、消えた子どもがヘンゼルとグレーテルだけではなかったからだ。
飢えた冬。
実らない畑。
止まった粉挽き小屋。
少しずつ減っていく配給。
いつの間にか家からいなくなった子。
親戚のところへ行ったと言われた子。
森で迷ったと言われた子。
病で死んだと記された子。
名簿の端に、小さく線を引かれた子。
誰も、深く聞かなかった。
聞けば、自分も答えなければならなくなるから。
白い鳥が、家の屋根に一羽とまった。
その鳥は、小さく鳴いた。
すると、布包みの中の焦げた名札が、かすかに震えた。
村の古い記録役だった老人が、列の後ろから進み出た。彼はもう長く名簿を読むだけの仕事をしていて、新しい名を書くことはほとんどなかった。
老人は、ヘンゼルとグレーテルの前に膝を折り、焦げた木札を一枚受け取った。
そこには、半分だけ文字が残っていた。
ミ――。
その先は読めなかった。
老人は、長い沈黙のあとで言った。
「読めるところまで、書こう」
グレーテルは首を振った。
「読めないところも」
老人は顔を上げた。
「読めない名は、間違えてしまう」
「空けておいて」
グレーテルは言った。
「その子が帰ってきたら、続きを書けるように」
その日、灰麦村《グラナ=ミル》の広場に、もう一枚の板が立てられた。
配給名簿の横に。
麦を受け取るための板ではない。
生きている者を数えるためだけの板でもない。
家にいる者だけを記す板でもない。
帰らなかった子。
帰れなかった子。
帰る場所を失った子。
帰る途中で名を食べられた子。
甘い家に焼かれかけた子。
誰かに忘れられかけた子。
その名を書くための板だった。
最初に、ヘンゼルが自分の名を書いた。
ヘンゼル=ミルカ。
次に、グレーテルが書いた。
グレーテル=ミルカ。
削られた跡を隠すためではない。
削られたことを、なかったことにしないために。
その下へ、焦げた名札に残っていた文字が書き写された。
セリ。
ロム。
ミナ。
トト。
ミ――。
読めない名。
半分だけの名。
空白を残した名。
村人たちは、それを見ていた。
誰かが泣いた。
誰かが顔を背けた。
誰かが、家へ走って戻り、古い子どもの匙を持ってきた。
誰かが、戸棚の奥から小さな靴を出した。
誰かが、言えなかった名を、震える声で口にした。
白い鳥たちは、広場の上を旋回した。
パン屑を食べた鳥ではない。
戻れなかった名を、空へ運ぶ鳥だった。
夕方、ヘンゼルとグレーテルは家の炉辺に座った。
母の古い石窯は、まだそこにあった。
木の食器も、戸棚の奥に残っていた。
グレーテルは、自分の器を取り出した。
底には、母が刻んだ名があった。
グレーテル。
小さな文字。
少し曲がった文字。
けれど、誰かが食べ物を分けるために刻んだ名。
ヘンゼルの器にも、同じように名があった。
二人はそれを膝に抱えて、しばらく黙っていた。
家には戻った。
けれど、捨てられる前の子どもには戻れない。
父の腕に抱かれても、森の記憶は消えない。
名簿から削られた跡は、元どおりにはならない。
甘い匂いを嗅げば、きっとしばらくは震える。
鳥の声を聞けば、あの夜の道を思い出す。
パンを砕くたび、ヘンゼルは爪で刻んだHとGを思い出すだろう。
それでも。
グレーテルは兄の器を見て、そっと言った。
「ヘンゼル」
兄は顔を上げた。
「なに」
「呼んでみただけ」
ヘンゼルは少しだけ笑った。
本当に少しだけだった。
けれど、それは菓子の甘さではなかった。
「グレーテル」
妹は、器を抱えたままうなずいた。
「なに」
「呼んでみただけ」
炉の中で、小さな火が鳴った。
その火は、名を焼く白い炎ではない。
パンを焼くための、弱く赤い火だった。
外では、夜が降りはじめていた。
森はまだそこにある。
飢えも、すぐには消えない。
名を書いた板だけで、失われた子どもたちが戻るわけではない。
それでも、広場には新しい板が立っている。
パン屑の道は消える。
鳥に食べられてしまう。
雨に溶け、土に埋まり、朝にはどこにも残らない。
けれど、呼ばれた名は、すぐには消えない。
呼ぶ者がいるかぎり。
呼び返す者がいるかぎり。
たとえ帰る家が、もう昔の家ではなくても。
ヘンゼル=ミルカ。
グレーテル=ミルカ。
二人は炉辺で、互いの名をもう一度だけ呼び合った。
その声は小さかった。
けれど、甘い家の焼け跡よりも、森の奥よりも、ずっと遠くまで届いた。




