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第5節 ― 名を焼く炉に魔女は落ちる

 朝が来た。


 けれど、菓子の家の中に差し込む朝の光は、村の朝とは違っていた。


 灰麦村《グラナ=ミル》の朝は、いつも寒く、薄く、麦の粉を水で溶いたような色をしていた。人々は腹を押さえ、配給名簿の前で自分の名が呼ばれるのを待ち、呼ばれなかった者は、空の袋を抱いて家へ戻った。


 けれど、この家の朝は甘かった。


 壁からは砂糖の匂いがした。屋根からは焦げた蜂蜜の香りが落ちてきた。床板の隙間には、粉砂糖が霜のように積もっていた。窓の飴硝子は、朝日を受けて赤く、黄色く、やさしい色に輝いている。


 あまりにも、やさしすぎる家だった。


 だからこそ、グレーテルはその朝、目を覚ました瞬間から震えていた。


 炉の火が、いつもより白かった。


 名焼き炉《オーフェン=ノミナ》の奥で、炎が舌のように揺れている。普通の火なら赤く、橙に、炭を噛むように燃えるはずだった。けれどその炉の火は、骨のように白く、砂糖のように眩しく、見ているだけで喉の奥が乾いた。


 炎の中には、文字があった。


 小さな名。短い名。長い名。途中で焦げて読めなくなった名。


 それらは火に焼かれながら、菓子の生地の中で膨らむ泡のように浮かび、弾け、また沈んでいく。


 グレーテルは、木の匙を握りしめて立っていた。


 指先には火傷の痕があった。爪の間には砂糖が入り込んでいた。昨夜、彼女は老婆に命じられて、焦げた木札を磨かされた。読めなくなった名の上を、何度も何度も布でこすった。


 磨けば磨くほど、名は消えた。


 そのことが、怖かった。


「ぼんやりしてるんじゃないよ」


 背後から、しわがれた声がした。


 グリムヒルダ=オーフェンが、杖をついて台所に入ってきた。白く濁った目は、相変わらず何も見えていないように見えた。けれど、籠の中のヘンゼルが寝返りを打つたび、老婆の首はぴくりと動いた。


 彼女は目で見るのではない。


 名の重みを嗅いでいる。


 籠の中で、ヘンゼルは膝を抱えていた。


 昨日よりも顔色が悪い。頬は少し丸くなったように見えたが、それは元気になったからではなかった。彼のまわりに、甘い匂いがまとわりついている。蜂蜜のパン、砂糖漬けの果実、柔らかな焼き菓子。それらを無理に食べさせられたせいで、彼の身体だけでなく、名まで重たくなっていた。


 ヘンゼル=ミルカ。


 グレーテルは、心の中で兄の名を呼んだ。


 呼ぶたびに、兄のまわりにまとわりつく砂糖の膜が、ほんの少しだけ揺れる気がした。


「今日は、いい匂いがするねえ」


 老婆は籠の前にしゃがみこみ、格子の間へ細い指を差し入れた。


「ヘンゼルや。指をお出し」


 ヘンゼルは、ゆっくりと顔を上げた。


 目が合った。


 その瞳の奥には、まだ兄の光が残っていた。怖がっている。眠い。苦しい。それでも、妹を見た瞬間、ほんの少しだけ意識が戻った。


 ヘンゼルは床の隅から、昨夜拾って隠していた焼け枝を取り出した。


 以前、炉の前で折れ落ちた細い枝だった。煤で黒く、先端は乾いて骨のように固い。


 彼はそれを格子の間から差し出す。


 老婆は白く濁った目を細めた。指先で枝をつまみ、ぐにぐにと押す。


「……まだ細いね」


 老婆は不満そうに鼻を鳴らした。


「まだ焼くには早い。兄の名は、まだ芯が残っている。もっと甘く、もっと重くしてからでないと、いい菓子にならない」


 ヘンゼルは息を殺した。


 グレーテルも、息を殺した。


 けれど、老婆はすぐに顔を上げた。


 白く濁った目が、グレーテルの方へ向く。


「でも」


 その一言で、台所の空気が凍った。


「妹の名が、よく熟れている」


 グレーテルは、木の匙を取り落としそうになった。


「わたし……?」


「そうさ」


 老婆は笑った。


 笑うと、口の中に黒い歯が見えた。砂糖で固められたような歯だった。その隙間から、焦げた甘い匂いが漏れてくる。


「よく働いた。よく泣いた。よく兄を呼ばずに我慢した。いい子だねえ。寂しさも、怖さも、飢えも、たっぷり染みている。そういう子の名はね、焼くと甘いんだ」


「やめて」


 籠の中で、ヘンゼルが掠れた声を出した。


 老婆は振り向きもしない。


「おまえはあとだよ、兄さん。妹を先に焼いて、香りを足してやる。そうすれば、おまえの名ももっと柔らかくなる」


「グレーテルに触るな!」


 ヘンゼルが格子を掴んだ。鉄の籠ががたがたと揺れる。だが、格子に刻まれた細い文字が鈍く光り、彼の手を押し戻した。


 セリ。

 ロム。

 ミナ。

 トト。


 知らない子どもたちの名が、檻の鉄にからみついている。


 それは、閉じ込めるための鍵であり、同時に、閉じ込められたまま呼ばれなくなった名の墓でもあった。


 老婆はグレーテルの肩を掴んだ。


 小さな手とは思えない力だった。骨の奥まで砂糖で固められたような指が、少女の肩に食い込む。


「おいで」


「いや」


「嫌がるんじゃないよ」


 老婆は、グレーテルを炉の前へ引きずった。


 名焼き炉《オーフェン=ノミナ》の扉が開かれる。


 その瞬間、白い炎が息を吐いた。


 熱はなかった。


 かわりに、思い出があふれた。


 母の手。硬いパンを半分に割る音。ヘンゼルがこっそり自分の分をグレーテルの皿へ寄せてくれた夜。父がまだ弱々しい笑顔で二人の髪を撫でてくれたころ。継母が来る前の台所。母が木の器に刻んだ、HとGの文字。


 それらが、炉の白い炎の中で甘く焼かれようとしている。


 痛みを消すために。


 寂しさを消すために。


 帰れないことを、甘い物語へ変えるために。


「中を覗いてごらん」


 老婆が耳元で囁いた。


「火加減を見ておくれ。小さな子どもなら、奥まで入れるだろう」


 グレーテルは首を振った。


「わからない」


「何がだい」


「どうやって見るの?」


 声が震えた。


 けれど、その震えの奥に、彼女は自分でも知らない硬さを見つけた。


 炉辺で泣いていたあいだに、ただ泣いていただけではなかった。


 木札に触れた。

 読める名を心で呼んだ。

 読めない名の上にも指を置いた。

 兄の名を、何度も胸の内で呼び直した。


 そのすべてが、いま、彼女の中で細い糸のようにつながっていた。


「おばあさんが、先に見せて」


 老婆は舌打ちした。


「本当に鈍い子だね」


 彼女は杖を壁へ立てかけた。


 グレーテルの肩を離し、炉の前へ身をかがめる。


「こうやって、奥を覗くんだよ。ほら、火の白いところを見るんだ。名前がいちばんよく膨らむ場所が――」


 老婆の背中が、炉の光に白く縁取られた。


 その瞬間だった。


 グレーテルは壁に飛びついた。


 そこには、昨夜磨かされた木札が吊るされていた。


 焦げた名札。

 半分だけ残った名札。

 読めるか読めないか、ぎりぎりのところで灰に埋もれた名札。


 彼女は、その中から一枚を掴んだ。


 それは、自分たちのものではなかった。


 けれど、かまわなかった。


 誰かの名が、呼ばれることを待っていた。


 グレーテルは、息を吸った。


 そして初めて、声を大きく出した。


「ヘンゼル=ミルカ!」


 台所が震えた。


 籠の中で、ヘンゼルの目が開いた。


 砂糖に沈みかけていた瞳の奥で、ぱちりと火花が散った。


 彼は格子を掴み、喉を引き裂くように叫んだ。


「グレーテル=ミルカ!」


 兄が、妹の名を呼び返した。


 その呼び合いは、ただの声ではなかった。


 森に落として鳥に食べられたはずのパン屑。

 爪で刻んだHとG。

 母の木の器。

 灰麦村の貧しい家。

 硬いパンを半分に分けた夜。


 それらが、二人の名の中へ戻ってきた。


 籠の格子に刻まれていた名が、一斉に鳴った。


 セリ。

 ロム。

 ミナ。

 トト。


 読める名も、読めない名も、焦げて欠けた名も、音にならない音で震えはじめる。


 菓子の壁が、低くうなった。


 飴硝子の窓に、小さな手形が浮かぶ。


 砂糖の屋根の下で、誰かが泣いた。


「帰りたい」


「名前を呼んで」


「甘くしないで」


「ぼくは菓子じゃない」


「わたしは壁じゃない」


 炉の中へ身をかがめていた老婆が、弾かれたように振り返った。


「やめろ」


 その声は、もう優しい老婆の声ではなかった。


 グリムヒルダ=オーフェンの声だった。


 名を焼き、痛みを砂糖で包み、子どもたちを甘い家の材料へ変えてきた者の声だった。


「呼ぶんじゃない。呼んだら割れる。せっかく甘くしてやったのに。せっかく痛くなくしてやったのに!」


 グレーテルは泣いていた。


 涙が頬を伝い、砂糖の粉と混ざってざらついた。


 怖かった。


 本当は、足が震えていた。


 兄の声がなければ、崩れていたかもしれない。


 けれど、彼女はもう黙らなかった。


「ヘンゼル!」


「グレーテル!」


 もう一度、兄妹は呼び合った。


 その声で、籠の鍵がはじけた。


 鉄の格子に刻まれていた名が、細い光になってほどける。ヘンゼルは体をよろめかせながら扉を押し開け、籠の外へ転がり出た。


 老婆が杖へ手を伸ばす。


 グレーテルは、木札を握ったまま、その背中を押した。


 小さな手だった。


 空腹で痩せた手だった。


 けれど、その手には、兄の名と、自分の名と、炉の奥から呼び返してきた子どもたちの名が乗っていた。


 老婆の身体が、白い炎の中へ落ちた。


 炉が叫んだ。


 いや、叫んだのは炉ではなかった。


 グリムヒルダ=オーフェン。


 その名そのものだった。


 白い炎の中で、老婆の背がまっすぐに伸びた。曲がっていたはずの身体が、火に照らされ、長い影になる。白く濁った目の奥に、今まで焼いてきた無数の名が映った。


 セリ。

 ロム。

 ミナ。

 トト。

 ほかにも、読めなかった名。

 焦げてしまった名。

 砂糖に塗り込められた名。

 壁にされ、窓にされ、屋根にされ、菓子の甘さとして食べられかけていた名。


 それらが逆流する。


 甘い匂いが、焦げ臭さへ変わった。


「やめろ!」


 老婆は炉の中で叫んだ。


「甘くしてやったのに! 痛みを消してやったのに! 飢えも、寒さも、親に捨てられた夜も、全部、砂糖で包んでやったのに!」


 グレーテルは炉の前に立っていた。


 ヘンゼルが、ふらつきながら妹の肩を抱く。


 グレーテルは泣きながら、それでも炉の奥を見た。


「痛くても」


 声は震えていた。


 けれど、消えなかった。


「帰れなくても」


 彼女は、兄の手を握った。


「名前を焼かれるより、いい」


 ヘンゼルが、妹の手を握り返した。


「ぼくらは、菓子じゃない」


 彼は言った。


「ぼくらは、ヘンゼルとグレーテルだ」


 炉の扉が、内側から叩かれた。


 老婆の爪が、白い炎の中で扉を引っ掻く。


 けれど、扉の縁に刻まれていた無数の名が光った。


 今まで閉じ込められていた名たちが、今度は炉を閉じる側へ回った。


 重い音を立てて、扉が閉まる。


 白い炎が、家じゅうへ走った。


 砂糖の壁に亀裂が入る。


 飴硝子の窓が、甲高い音を立てて割れた。


 蜂蜜の扉が溶け、焼き菓子の屋根が崩れ落ちる。甘い匂いは一瞬で焦げつき、菓子の家は、優しい姿を保てなくなっていった。


 だが、そこから出てきたのは煙だけではなかった。


 焦げた名札が、床へ落ちた。


 小さな靴が、砂糖の壁の中から転がり出た。


 赤いリボン。

 木の匙。

 半分だけ読める布切れ。

 誰かの服のボタン。

 小さな櫛。

 焦げた器の欠片。


 それらは、ただの遺物ではなかった。


 帰れなかった子どもたちが、かつて確かに子どもだった証だった。


 グレーテルは、その場に膝をついた。


 ヘンゼルも隣に座り込む。


 二人とも、もう走る力はほとんど残っていなかった。腹は満ちているはずなのに、身体は空っぽだった。甘いものを食べたせいで舌は痺れ、涙の味さえよくわからない。


 そのとき、崩れた屋根の隙間から、白いものが舞い上がった。


 鳥だった。


 小さな白い鳥たち。


 けれど、それは道のパン屑を食べた鳥ではなかった。


 羽ばたくたびに、小さな声がこぼれる。


 セリ。

 ロム。

 ミナ。

 トト。


 読める名も、読めない名も、音のかたちを取り戻して、森の上へ飛んでいく。


 鳥たちは、兄妹の頭上を一度だけ回った。


 責めるようではなかった。


 礼を言うようでもなかった。


 ただ、呼ばれた者が、もう一度どこかへ帰ろうとしているようだった。


 グレーテルは、震える手で空を見上げた。


「お兄ちゃん」


「うん」


「道、なくなっちゃったね」


 ヘンゼルは、焦げ落ちた菓子の壁の向こうを見た。


 そこには、森があった。


 黒く、深く、どこまでも同じように続く森。


 パン屑の道はもうない。


 Hも、Gも、鳥に食べられてしまった。


 けれど、ヘンゼルは妹の手を握ったまま、小さく首を振った。


「道はないけど」


 彼は言った。


「名前は、まだある」


 グレーテルは、兄を見た。


 焦げた甘い匂いの中で、二人は互いの名を、もう一度、声に出さずに確かめた。


 ヘンゼル=ミルカ。


 グレーテル=ミルカ。


 帰る場所は削られていた。


 帰り道も食べられていた。


 それでも、まだ、完全には奪われていないものがある。


 崩れた菓子の家の上を、白い鳥たちが飛んでいく。


 森の奥へではなく、空の高いところへ。


 その羽音に混じって、遠く、かすかに、誰かが兄妹の名を呼んだような気がした。

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