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第4節 ― 籠の兄と炉辺の妹

 鉄の籠が閉まった音は、森の奥で聞いた斧の音に似ていた。


 かん、と乾いた響きが、甘い家の中に落ちる。


 けれどそれは、木を打つ音ではなかった。

 帰り道を作る音でもなかった。

 何かが終わったことを知らせる、硬い音だった。


「兄さん!」


 グレーテルは籠へ駆け寄ろうとした。


 だが、その腕を老婆が掴んだ。

 小さく曲がった手だった。骨ばかりの、枯れ枝のような手。けれど力は、見た目よりずっと強かった。指先には砂糖がこびりつき、爪の隙間には焦げた菓子の粉が黒く残っている。


「おやおや、泣くんじゃないよ」


 グリムヒルダ=オーフェンは、やさしい声で言った。


「泣くと塩辛くなる。塩は甘い名を固くするからねえ」


「出して!」


 グレーテルは叫んだ。


「兄さんを出して!」


「出すとも」


 老婆はにこりと笑った。

 その笑みは、焼き上がった菓子の表面に浮かぶ割れ目に似ていた。


「ちゃんと焼けたらね」


 ヘンゼルは籠の格子を掴んだ。


 鉄は冷たかった。

 けれど、ただ冷たいだけではない。指先に触れた瞬間、細い針で皮膚の下をなぞられるような感覚が走った。


 格子には、びっしりと文字が刻まれていた。


 セリ。

 ロム。

 ミナ。

 トト。

 ユル。

 ラニ。

 焦げて読めない名。削られて途中で途切れた名。あまりに何度も爪で引っかかれ、かすれてしまった名。


 それらは装飾ではなかった。


 この籠に入れられた子どもたちが、最後に残したものだった。


 ヘンゼルは息を呑む。

 腹の奥に、さっき食べた菓子の甘さがまだ残っている。その甘さが、急に重くなった。


「グレーテル、近づくな」


 彼は妹に言った。


 声が少し震えていた。

 それを隠すために、彼は強く格子を握った。


「ぼくは大丈夫だから」


「大丈夫じゃないよ!」


 グレーテルの頬には涙が伝っていた。

 しかし老婆は、その涙を見ると、むしろ満足げに目を細めた。


「いいねえ。妹の涙はよく染みる。兄の名をやわらかくする」


「名前を、どうするつもりなの」


 グレーテルが尋ねると、老婆は首を傾げた。


「どうする?」


 まるで、当たり前のことを聞かれたような顔だった。


「焼くのさ」


 炉の奥で、火がぱちりと鳴った。


「飢えはつらい。寒さはつらい。捨てられるのはもっとつらい。だから、焼いてしまう。名も、痛みも、寂しさも、全部砂糖に混ぜて焼いてしまう。そうすれば、誰も泣かなくて済む」


「そんなの、救いじゃない」


 ヘンゼルが言った。


 老婆は籠の前にしゃがみ込んだ。白く濁った目が、ヘンゼルの顔ではなく、胸のあたりを見ている。


 そこにある名前を、見透かすように。


「ヘンゼル=ミルカ」


 老婆が名を呼んだ瞬間、ヘンゼルの身体がびくりと跳ねた。


 名を知られた。

 名乗っていないのに。


 籠の格子に刻まれた文字が、かすかに光る。焦げた名の傷跡が、甘い蜜を吸ったように濡れた。


「いい名だねえ。硬いパンのような名だ。貧しくて、ひもじくて、それでも妹を連れて帰ろうとした名だ」


「呼ぶな」


「なぜだい。名は呼ばれるためにあるんだろう?」


 老婆は笑った。


「でもねえ、呼ぶ者を間違えると、名は食べ物になる」


 彼女は戸棚から皿を取り出した。

 皿の上には、蜂蜜を塗った黒パン、砂糖漬けの赤い果実、粉雪のような白砂糖をまぶした焼き菓子が並んでいた。


 どれも美しかった。

 どれも温かかった。

 どれも、腹を空かせた子どもには抗いがたい匂いを放っていた。


「食べなさい」


 老婆は格子の隙間から、菓子を差し入れた。


 ヘンゼルは顔を背けた。


「食べない」


「そうかい」


 老婆は悲しそうに眉を下げた。


「じゃあ、妹に食べさせようか」


 グレーテルの肩が震えた。


 ヘンゼルは唇を噛む。


 食べなければ妹が傷つけられる。

 食べれば、自分の中の何かが変わってしまう。


 彼は迷い、そして菓子を掴んだ。


「兄さん、だめ」


 グレーテルが小さく言った。


 ヘンゼルは妹を見た。

 泣きそうな顔をしていた。けれどその奥で、何かを見ようとしている目だった。


 彼は無理に笑う。


「平気だよ。少し食べるだけだから」


 菓子を口に入れる。


 甘かった。


 あまりにも甘かった。


 舌の上で砂糖が溶け、喉を通り、空っぽの胃に落ちる。痛かった腹が、少しずつ温まる。震えていた手が止まる。怖さが遠のく。父の弱い声も、継母の冷たい言葉も、森で鳥たちがパン屑を啄む音も、すべてが厚い蜜の中に沈んでいく。


 よかった。


 一瞬、そう思ってしまった。


 もう寒くない。

 もう腹が減らない。

 もう帰れないことを考えなくてもいい。


 その瞬間、ヘンゼルは自分の名が重くなるのを感じた。


 ヘンゼル=ミルカ。


 母が木の器に刻んでくれた名。

 グレーテルが呼ぶときだけ、少し誇らしく思えた名。

 父が困ったように呼んだ名。

 森に落としたパン屑に爪で刻んだ名。


 それが、砂糖を吸った生地のように膨らんでいく。

 甘く、重く、動きにくくなる。

 名の輪郭が丸まり、角が取れ、怒りが鈍り、恐怖さえもやわらかくなっていく。


 ヘンゼルは格子にもたれた。


「兄さん?」


「……大丈夫」


 答えた声は、自分のものではないように聞こえた。


 老婆は満足げに頷く。


「いい子だ。飢えた子は、甘さを疑わない。疑えなくなる。そうして名はよく膨らむ」


 それから毎朝、老婆は籠の隙間からヘンゼルに指を出させた。


「見せてごらん」


 ヘンゼルは最初、自分の指を差し出した。


 老婆はその指をつまみ、顔を近づける。白く濁った目は、やはり身体を見ていない。肉の厚みでも、骨の細さでもない。そこに染み込んだ名の甘さを確かめている。


「まだ細いね」


 老婆は言った。


「まだ焼くには早い。もっと甘く、もっと重くならないと」


 その日の夜、ヘンゼルは籠の床に落ちていた焼け枝を見つけた。


 細く、硬く、黒い枝だった。

 おそらく昔、炉から飛び出した薪の欠片だろう。半分だけ焦げ、半分だけ木の芯が残っている。


 彼はそれを握った。


 翌朝、老婆がやって来る。


「指をお出し」


 ヘンゼルは焼け枝を格子の隙間から差し出した。


 老婆はそれをつまんだ。

 濁った目が細まる。


「まだ細いねえ」


 彼女は首を振った。


「もっと食べさせなくちゃ」


 ヘンゼルは息を殺した。

 騙せた。


 老婆は身体を見ていない。

 彼女が見ているのは、名の重さだけだ。焼け枝に残った古い火の匂いが、ヘンゼルの名の焦げを誤魔化したのだ。


 けれど、それは救いではなかった。

 時間が延びただけだった。


 籠の外で、グレーテルは炉辺に立たされていた。


 火を絶やすな。

 菓子を並べろ。

 木札を磨け。

 焦げた名を削れ。


 老婆の命令は、すべて甘い声で告げられた。


「ほら、灰を掻きなさい」


「はい」


「焦げすぎた名は苦いからね。削っておやり」


「……はい」


「泣くんじゃないよ。涙が落ちると、砂糖衣が濁る」


 グレーテルは返事をした。

 返事をしなければ、老婆は籠の中のヘンゼルを見る。


 だから返事をする。

 だから働く。

 だから泣くときも、声を出さない。


 炉の前は熱かった。

 頬が焼けるようで、手の甲は赤くなり、指先には小さな火傷がいくつもできた。灰を掻くたびに、甘い匂いと焦げた匂いが混ざって立ち上る。


 普通の菓子の匂いではなかった。


 砂糖。

 蜂蜜。

 焼いた小麦。

 その奥に、泣き声のような苦みがある。


 グレーテルは、壁に吊るされた木札を磨かされた。


 木札は、家中にあった。

 壁に。梁に。炉の脇に。菓子の棚の裏に。窓枠に。


 最初は名札だと思った。

 昔ここに来た子どもたちの名を、老婆が記念に残しているのだと。


 けれど違った。


 木札の裏には、菓子の欠片が貼りついていた。

 焦げた砂糖の膜。蜂蜜のしみ。焼き固められた何か。

 名札ではなく、焼いた名を家につなぎ止める釘だった。


 セリ。

 ロム。

 ミナ。

 トト。


 グレーテルは一枚ずつ磨きながら、声には出さず、心の中で読んだ。


 セリ。

 ロム。

 ミナ。

 トト。


 そのたびに、壁がかすかに震えた。


 最初は風かと思った。

 けれど風ではない。家そのものが、呼ばれた名に反応している。


 グレーテルは手を止めた。


「何をしているんだい」


 老婆の声が背後から飛んだ。


 グレーテルはびくりと肩を跳ねさせる。


「磨いています」


「なら、余計なことを考えるんじゃないよ」


 老婆はにこりと笑った。


「子どもは考えすぎると、固くなる」


 彼女が奥へ戻ると、グレーテルはもう一度、木札に触れた。


 今度は読めない名だった。

 焦げて、ほとんど黒い塊になっている。最初の文字も、最後の文字も分からない。


 けれど、そこには確かに誰かがいた。


 誰かが空腹でここへ来た。

 誰かが甘い家に入った。

 誰かが籠に入れられた。

 誰かが炉で焼かれた。

 誰かの名が、菓子に混ぜられ、壁になり、屋根になり、窓の飴硝子になった。


 グレーテルは唇を噛んだ。


 名前が読めないなら、呼べない。

 呼べなければ、戻れない。


 でも。


 彼女は焦げた木札を両手で包んだ。


 声に出さず、心の中で言う。


 あなたは菓子じゃない。

 あなたは壁じゃない。

 あなたは、ここに来た子ども。


 その瞬間、炉の奥から小さな音がした。


 ぱち、と火がはぜるような音。

 いや、違う。

 誰かが、ずっと閉じ込めていた息を吐いた音だった。


『帰りたい』


 グレーテルは目を見開いた。


 炉の奥から、声がする。


『名前を呼んで』


『甘くしないで』


『ぼくは菓子じゃない』


『わたしは壁じゃない』


『まだ、帰りたい』


 声は一つではなかった。

 細く、弱く、焦げて、欠けて、砂糖に埋もれて、それでも消えていない声が、炉の奥、壁の中、屋根の焼き菓子、飴硝子の窓から、少しずつ滲み出してくる。


 グレーテルは震えた。


 怖かった。

 けれど、それ以上に悲しかった。


 この家は甘い。

 あまりにも甘い。


 でもその甘さは、子どもたちが忘れるための甘さではない。

 忘れさせるための甘さだった。


 グレーテルは壁に吊るされた木札を見上げた。

 読める名を心の中で呼ぶ。

 読めない名にも、指で触れる。

 焦げて失われた名には、ただ「あなた」と呼びかける。


 すると家が震えた。


 ほんのわずかに。

 けれど確かに。


 屋根の焼き菓子から、砂糖の粉が落ちた。

 飴硝子の窓に、細いひびが入った。

 炉の火が一瞬、青白く揺れた。


 籠の中で、ヘンゼルが顔を上げる。


「グレーテル……?」


 その声はまだ眠そうだった。

 甘さに沈みかけた声だった。


 グレーテルは兄を見た。


 籠の中の兄。

 重くなりかけた兄の名。

 それでも、まだ彼は兄だった。


 グレーテルは唇を引き結ぶ。


 魔女が恐れているのは、子どもが逃げることだけではない。


 焼いた名を、もう一度子どもの名として呼ばれること。

 甘さで覆った痛みを、痛みのまま思い出されること。

 壁や屋根や菓子に変えた者たちが、「自分は食べ物ではなかった」と知ること。


 老婆は、子どもたちの名を焼いた。

 けれど燃やし尽くせなかった。


 灰の中に火が残るように。

 パン屑に爪で刻んだ文字が、鳥に食べられても祈りだったように。


 名は、まだ残っている。


 グレーテルは、炉の奥を見つめた。


 赤い火の向こうで、何かが待っている。

 恐ろしいもの。

 けれど、終わりではないもの。


 彼女は小さく息を吸った。


 声に出せば、老婆に聞こえる。

 だからまず、心の中で兄の名を呼ぶ。


 ヘンゼル=ミルカ。


 籠の格子が、かすかに鳴った。

 甘さに沈みかけていた兄の目に、ほんの少しだけ光が戻った。

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