第3節 ― 甘い家の名焼き婆
家は、森の奥に立っていた。
それは、あまりにも優しい姿をしていた。
黒い木々が爪のような枝を伸ばす森の中で、その家だけが、ぽつんと灯りを持っていた。屋根は焼き色のついた菓子で葺かれ、縁には白い砂糖霜が雪のように積もっている。壁は薄く焼いた蜂蜜菓子でできていて、ところどころに飴細工の窓がはまっていた。赤、黄、橙、淡い緑。窓の向こうから漏れる炉の光を受けて、それらはまるで、寒い夜にだけ咲く花のように輝いていた。
扉には蜂蜜が塗られていた。
木ではなかった。
焼き固めた菓子を重ね、その隙間を糖蜜で埋めた扉だった。取っ手は大きな丸い飴玉で、月明かりを受けて、濡れた宝石のように光っている。
グレーテルは、息を呑んだ。
「……お兄ちゃん」
その声は、怖がっているというより、信じられないものを見つけてしまった声だった。
ヘンゼルは答えなかった。
妹の袖を握り返したまま、家をじっと見ていた。あまりに甘い匂いがする。焼きたてのパン。蜂蜜。砂糖。焦げた菓子。温めた牛乳に、古い香辛料を少し落としたような匂い。
それは、森の匂いではなかった。
飢えの匂いでもなかった。
母がまだ生きていたころ、冬の前に一度だけ焼いてくれた、特別な菓子の匂いに似ていた。灰麦の粉を少しずつ集め、蜂蜜をほんのわずか混ぜて、石窯の奥でゆっくり焼いた固い菓子。焦げた端をヘンゼルが食べ、甘い真ん中をグレーテルが食べた。
思い出した瞬間、腹が鳴った。
ヘンゼルは唇を噛んだ。
警戒しなければいけない。
こんな森の奥に、こんな家があるはずがない。菓子でできた家など、誰のためにあるというのか。飢えた村では、硬いパンひと切れにさえ人々が目を光らせていた。なのに、ここには壁ほどの菓子がある。屋根ほどの菓子がある。窓枠まで飴でできている。
おかしい。
そう思った。
けれど、空腹は思考よりも早く、身体の奥で答えを出していた。
「少しだけなら」
グレーテルが、ほとんど聞こえない声で言った。
「端っこだけ。誰のものか、分からないし……でも、少しだけなら」
「だめだ」
ヘンゼルは言った。
言ったのに、足は動かなかった。
妹の手は冷えきっていた。唇は青く、頬には涙の乾いた跡が残っている。森をさまよう間、彼女は何度も転んだ。膝は泥で汚れ、靴の片方は紐が切れかけている。父が戻ってこなかった夜から、二人はほとんど何も食べていなかった。
ヘンゼルは家の壁を見た。
白い砂糖の下、薄い焼き菓子の端が少し欠けていた。そこから甘い匂いが強く漏れている。
彼は、恐る恐る指を伸ばした。
壁の端を、ほんの小さく折る。
ぱき、と軽い音がした。
その音に森全体が耳を澄ませたような気がして、ヘンゼルは身を固くした。だが、何も起きなかった。家は静かだった。窓の飴が、炉の光に揺れているだけだった。
ヘンゼルは欠片を半分に割り、ひとつをグレーテルに渡した。
「少しだけだよ」
グレーテルはうなずいた。
二人は同時に、それを口に入れた。
甘かった。
ありえないほど、甘かった。
砂糖が舌の上で溶ける。蜂蜜が喉を落ちる。焼き菓子の香ばしさが、空っぽだった腹の奥へゆっくり広がっていく。胃の痛みが、ほんの少し和らいだ。指先の冷たさが遠のいた。父に置き去りにされた夜のことが、薄い砂糖の膜に包まれ、少しだけぼやけた。
グレーテルは目を閉じた。
「……おいしい」
それは、喜びではなかった。
泣きそうな声だった。
ヘンゼルは、もう一欠片だけ取った。今度は屋根の縁から、砂糖霜のついた小さな部分を割った。グレーテルに渡す。自分も食べる。
一口食べるごとに、怖さが薄れていく。
一口食べるごとに、帰り道を失った事実が遠くなる。
それがいちばん怖いことだと気づいたときには、家の扉が、内側からゆっくり開いていた。
「まあまあ」
しわがれた声がした。
「かわいそうに。森で迷ったのかい」
扉の向こうに、老婆が立っていた。
背は小さく、ひどく曲がっている。肩に古びた毛織りの掛け布をまとい、髪は砂糖の粉をかぶったように白かった。顔は皺に埋もれ、目は白く濁っていて、どこを見ているのか分からない。
だが、耳だけが異様に大きかった。
小さな耳ではない。まるで焼き菓子の膨らみを無理に耳の形へ固めたような、不自然な耳だった。老婆は目で二人を見るのではなく、その耳で二人の呼吸を聞いているようだった。
「まあ、まあ。こんなに冷えて。こんなに痩せて」
老婆は一歩、扉の外へ出た。
その足元で、砂糖の粉がさらさらと落ちる。
「お入り。温かい炉があるよ。甘いものも、やわらかい寝床もある。森の夜は、子どもには冷たすぎるからねえ」
グレーテルはヘンゼルを見上げた。
ヘンゼルは妹を後ろにかばった。
「……あなたは誰ですか」
老婆は笑った。
口の中に、妙に白い歯が並んでいた。
「わたしかい。そうさね、森では名など役に立たないよ。けれど、どうしても呼びたければ、グリムヒルダとお呼び」
「グリムヒルダ……」
「グリムヒルダ=オーフェン」
老婆は、自分の名だけはやけにはっきり発音した。
その名を聞いた瞬間、家の炉の奥で火がはぜた。ぱちり、と赤い火花が跳ね、飴硝子の窓に一瞬だけ、別の影が映った。小さな影だった。子どもの影に似ていた。
ヘンゼルは身を強張らせた。
老婆は気づかないふりをした。
「さあ、お入り。名乗らなくてもいい」
その言葉に、ヘンゼルは眉をひそめた。
「……名乗らなくても?」
「そうとも」
老婆はゆっくり手を伸ばした。皺だらけの手。けれど爪だけは、磨いた骨のように白く、長かった。
「子どもは、腹がいっぱいになってから名前を思い出せばいいんだよ」
グレーテルの肩が、かすかに揺れた。
それは、優しい言葉だった。
飢えた村では、名前を呼ばれなければ麦をもらえなかった。配給名簿の前で、人々は自分の名が呼ばれるのを待った。呼ばれなかった者は、いないものとして扱われた。父の家でも、継母はしばしば言った。
食べたいなら、役に立ちな。
呼ばれたいなら、静かにしな。
名のある子どもでいたいなら、食べる量を考えな。
だから、老婆の言葉は甘かった。
名乗らなくてもいい。
腹がいっぱいになってからでいい。
それは、今の二人がいちばん欲しかった許しに似ていた。
「お兄ちゃん……」
グレーテルが、小さく言った。
ヘンゼルは、扉の奥を見た。
暖かい光がある。炉がある。テーブルがある。湯気の立つ椀がある。菓子がある。やわらかそうな毛布も見えた。
森の夜が背後から迫っていた。
鳥たちの声が、まだ遠くで聞こえる。
ヘンゼル。
グレーテル。
味を確かめるような声。
ヘンゼルは奥歯を噛んだ。
「……少し休むだけです」
「もちろん、もちろん」
老婆は嬉しそうに身を引いた。
「少し休むだけ。少し温まるだけ。少し食べるだけ。子どもはいつだって、少しずつ大きくなるものだからねえ」
二人は家へ入った。
中は、外から見たよりも広かった。
天井には乾いた菓子が房のように吊るされている。壁は白い糖衣で塗られ、その下から焼けた生地の香りがした。床には粉砂糖が薄く積もっていて、歩くたびに足跡が残る。炉は大きかった。村の粉挽き小屋の石窯よりも大きい。口を開けた黒い獣のような炉だった。
けれど、そこから漏れる熱は本物だった。
グレーテルは思わず炉の前に近づいた。両手をかざす。冷えきった指が痛むほど温まっていく。
ヘンゼルは部屋を見回した。
テーブルには菓子が並んでいた。丸いパン。蜂蜜焼き。砂糖をまぶした揚げ菓子。果物を包んだ焼き菓子。白いクリームを挟んだ柔らかな菓子。飢えた村では、噂としてしか聞いたことのないようなものばかりだった。
その脇の壁に、小さな木札がたくさん吊るされていた。
ヘンゼルは、そこから目を離せなくなった。
木札には、文字が刻まれている。
セリ。
ロム。
ミナ。
トト。
ほかにも、たくさん。
読めるものもあれば、端が焦げて読めなくなっているものもあった。黒く炭化した札は、まるで名前そのものが焼け落ちた跡のようだった。
グレーテルもそれに気づいた。
「……これは?」
老婆は、炉のそばで鉄の棒を動かしていた。
振り返らずに言う。
「昔ここに来た子たちさ」
「来た……?」
「そうとも。森で迷って、泣いて、腹を空かせて、ここへ来た。みんな、かわいそうな子だったよ」
老婆はそこで振り返り、にっこり笑った。
「みんな、甘いものになったよ」
グレーテルの顔から、血の気が引いた。
ヘンゼルは一歩、妹の前に出た。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味さ」
老婆の白濁した目が、二人を見ているのか、聞いているのか分からないまま細められた。
「痛いことも、寂しいことも、寒い夜も、親に捨てられた記憶も、全部そのままでは苦くて食べられない。けれど焼けば甘くなる。砂糖をまぶせば、誰かが喜んで食べてくれる」
「……人を、食べるの」
グレーテルの声が震えた。
老婆は首を傾げた。
「人を? いいや、いいや。わたしはそんな乱暴なことはしないよ」
そして、炉の火を見た。
「名を焼くのさ」
部屋が、急に狭くなったように感じた。
甘い匂いが重くなる。
炉の奥で火が揺れた。その火の中に、ヘンゼルは一瞬、誰かの口元のような影を見た。笑っているのか、泣いているのか分からない、小さな影。
「名を焼くとねえ、よく膨らむ」
老婆は楽しそうに言った。
「ひもじい子の名は、よく甘くなる。帰る家を失った子の名は、よく香る。泣くのを我慢した子の名は、噛むと少し塩気がある。兄を呼ぶ妹の名は、やわらかい。妹を守る兄の名は、固くて焼きがいがある」
ヘンゼルはグレーテルの手を掴んだ。
「逃げるよ」
だが、遅かった。
背後から、床が鳴った。
いや、床ではない。
粉砂糖の下に隠れていた鉄の格子が跳ね上がった。
ヘンゼルが振り返る前に、何か硬いものが背中を押した。老婆の腕だった。さっきまで小さく曲がっていたはずの腕は、信じられないほど強かった。
「お兄ちゃん!」
グレーテルが叫ぶ。
ヘンゼルは妹の手を掴んだまま踏ん張ろうとした。だが床に砂糖が積もっていて、足が滑った。指が離れる。
次の瞬間、ヘンゼルの身体は鉄の籠の中へ押し込められていた。
扉が閉まる。
がしゃん、と鍵が鳴る。
「開けて!」
グレーテルが格子に飛びつく。
「お兄ちゃんを出して! 出して!」
「大きな声を出すんじゃない」
老婆は、いつの間にかグレーテルのすぐ後ろにいた。
砂糖をまぶした指が、グレーテルの口元にそっと触れる。
その甘さに、グレーテルはぞっとした。
老婆の指先から、焦げた菓子と古い木札の匂いがした。
「お兄ちゃんの名が割れてしまうだろう」
ヘンゼルは格子を掴んだ。
「グレーテルに触るな!」
その叫びに、炉の火が明るく跳ねた。
壁に吊るされた木札が、かたかたと鳴る。
セリ。
ロム。
ミナ。
トト。
読める名も、読めない名も、焦げた名も、すべてが小さな歯のように揺れていた。
老婆は、ゆっくりヘンゼルのほうを向いた。
「いい声だねえ」
そして、耳を澄ますように目を閉じた。
「ヘンゼル」
その名を呼ばれた瞬間、ヘンゼルの胸の奥で、何かが薄くひび割れる音がした。
老婆は微笑んだ。
「まずは兄の名から焼こうかね」




