第2節 ― 森が帰り道を食べる
森の奥で、父は焚き火を作った。
枯れ枝を集め、火打石を打ち、細い煙が空へ昇るまで、父は何度も火の前にかがみ込んだ。湿った枝はなかなか燃えなかったが、やがて赤い舌のような火が薪を舐め、灰麦色の煙を吐きながら、頼りないぬくもりを広げはじめた。
グレーテルは、両手を火にかざした。
指先が赤くなっている。家を出てからずっと、彼女は兄の袖を握りしめていた。森は村から見るよりも深く、空は木々の枝に細く切り取られ、どこへ進んでも同じ幹、同じ苔、同じ湿った土の匂いがした。
「お父さん、もう帰るの?」
グレーテルが小さく尋ねた。
父の肩が、ぴくりと動いた。
トーマは娘の方を見なかった。ただ斧を拾い上げ、何度も手の中で握り直した。使い慣れた柄には、古い手の脂が染み込み、刃には冬の湿気で薄い曇りが浮かんでいた。
「ああ。薪を集めてくる」
声が、いつもより少し低かった。
「ここで待っていなさい。火のそばにいれば寒くない。すぐ戻る」
マルタは、火の向こう側から二人を見下ろしていた。
彼女の顔には笑みがあった。けれど、それは子どもを安心させるための笑みではなかった。何かを早く終わらせたい者が作る、薄く、硬い笑みだった。
「よい子にしているのよ。動き回ると迷うから」
ヘンゼルは返事をしなかった。
ただ、父の足元を見ていた。
父の靴は、村を出るときよりも重そうだった。泥がついているからではない。そこに、戻りたくない者の重さがあった。けれど父は、それでも足を前へ出した。
「父さん」
ヘンゼルは呼んだ。
トーマは止まった。
その背中は大きく見えた。昔は、その背中の後ろにいれば、どんな夜でも怖くなかった。母が死んだ夜、グレーテルが熱を出した夜、村の畑が凍りついた夜も、父の背中は家の壁のようにそこにあった。
けれど今、その背中は薄かった。
森の影に、溶けてしまいそうなほど薄かった。
「……すぐ、戻るんだよね」
ヘンゼルの声は、自分でも驚くほど幼く聞こえた。
トーマは振り返らなかった。
「ああ」
それだけ言って、父は木々の間へ歩いていった。
マルタも続いた。彼女の足音は軽かった。振り返りもしなかった。黒い外套の裾が枝に引っかかり、ぱさりと音を立て、それからすぐに見えなくなった。
しばらくは、斧の音が聞こえていた。
こん、こん、と乾いた音。
木を打つ音。
だから、グレーテルは泣かなかった。膝を抱えて火のそばに座り、何度も森の奥を見た。父は薪を集めている。マルタは文句を言いながら枝を束ねている。そう思えば、火が小さくなっていくことも、空が暗くなっていくことも、まだ耐えられた。
ヘンゼルも、そう信じようとした。
彼は胸の内側で、落としてきたパン屑の道を数えていた。
一つ目は、村外れの石仏のそば。
二つ目は、曲がった楢の根元。
三つ目は、苔のついた倒木の横。
四つ目は、鳥の巣の落ちていた道。
五つ目は――。
そこで、記憶が少し揺らいだ。
同じような木が多すぎた。
けれど、大丈夫だと彼は思った。パン屑には印を刻んだ。HとG。兄妹の名のはじめの文字。母が生きていたころ、木の食器に刻んでくれたのと同じ印だ。
名を刻んだものは、ただの屑ではない。
それは帰るための目印だ。
母なら、そう言ったはずだった。
「兄さん」
グレーテルが、火の向こうでつぶやいた。
「斧の音、遠くなったね」
「奥で切ってるんだよ」
「でも……さっきから、同じ音」
ヘンゼルは耳を澄ませた。
こん、こん。
こん、こん。
同じ間隔だった。
人が斧を振るなら、こんなふうにはならない。枝を払う音、息を吐く音、足場を変える音、木が裂ける音。そういうものが混じるはずだった。
けれど聞こえてくるのは、乾いた二つの音だけだった。
こん、こん。
こん、こん。
ヘンゼルは立ち上がった。
グレーテルも、兄の顔を見て、何かに気づいたように唇を震わせた。
「待ってて」
「いや」
彼女はすぐに首を振った。
「一緒に行く」
二人は焚き火から少し離れ、音の方へ歩いた。
足元の落ち葉が湿っている。靴の底に泥が張りつき、歩くたびに小さく音を立てた。暗くなりはじめた森の中で、斧の音だけが妙にはっきりしていた。
やがて、二人はそれを見つけた。
斧ではなかった。
細い枝が二本、木の幹に荒縄で結びつけられていた。風が吹くたびに、その枝が幹を叩く。
こん、こん。
こん、こん。
父は最初から、戻ってくるつもりがなかった。
グレーテルは息を呑んだ。
声も出なかった。
ヘンゼルは、しばらくその枝を見ていた。頭の中が真っ白になった。怒りよりも先に、何かが冷えていった。腹の奥にあった小さな火が、湿った灰をかぶせられたように消えていった。
それでも、彼は妹の前で泣かなかった。
「帰ろう」
ヘンゼルは言った。
「パン屑がある」
グレーテルは泣きそうな目で兄を見上げた。
「ほんとう?」
「ほんとうだ」
言葉だけは、強くしなければならなかった。
声が震えれば、森がそれを聞きつける気がした。
二人は来た道を戻ろうとした。
けれど、火のあった場所へ戻るだけでも時間がかかった。焚き火はもう細くなっていて、赤い炭が土の上で目のように光っていた。煙は低く流れ、周囲の木々を白くぼかしていた。
夜が落ちた。
森の夜は、村の夜とは違った。
村では、窓の隙間から誰かの灯りが漏れていた。犬の遠吠えが聞こえ、粉挽き小屋の影が月の下にあり、たとえ腹が減っていても、どこかに人の気配があった。
けれど森には、それがなかった。
音はある。
葉擦れ。
枝の軋み。
小さな獣の走る音。
どこかで水が滴る音。
けれど、そのどれもが人のための音ではなかった。
グレーテルが泣き出した。
「帰れないの?」
「帰れる」
ヘンゼルはすぐに答えた。
答えなければ、グレーテルだけでなく、自分まで崩れてしまいそうだった。
「月が出てる。白いパン屑なら見える」
彼は妹の手を握り、森の道へ戻った。
月は、細かった。
雲の裂け目から覗くその光は、まるで粉を薄く撒いたように道を白くしていた。ヘンゼルはしゃがみ込み、落ち葉の間を探した。湿った土、折れた枝、小石、霜の名残。
そして、最初のパン屑を見つけた。
いや、見つけたと思った。
そこには、小さな白い腹の鳥が群がっていた。
鳥たちは、月明かりの下でひどく白く見えた。腹だけが雪のように白く、背中は灰色で、目は黒い。十羽、二十羽、もっといる。音もなく道に降り立ち、小さな嘴でパンをついばんでいる。
ヘンゼルは駆け出した。
「やめろ!」
鳥たちは逃げなかった。
人を恐れていないのではない。飢えの方が、恐れより強いのだ。
「それは、ぼくらの道だ!」
ヘンゼルは手を振り回した。何羽かは羽ばたいたが、すぐ近くの枝に止まり、また降りてきた。地面に残っていたパン屑は、もうほとんど形を失っていた。
その一つに、ヘンゼルは自分で刻んだHを見た。
小さな爪の跡。
母の食器に刻まれていたものより、ずっと頼りない印。
鳥の嘴が、それを砕いた。
Hの横棒が欠けた。
縦棒が割れた。
ただの粉になった。
「やめろって言ってるだろ!」
ヘンゼルの声が裏返った。
グレーテルも駆け寄った。
「兄さん、あっちにも!」
少し先の道で、別の鳥たちがパン屑をついばんでいた。グレーテルの名のはじめの文字、Gが刻まれた欠片だった。
彼女はそれを拾おうとした。
けれど、指が届く前に、鳥がその欠片をくわえた。
Gの丸い形が嘴の中で割れた。
グレーテルは、手を伸ばしたまま固まった。
「あ……」
それはただのパンだった。
家から盗んだ硬いパン。大人なら、腹の足しにもならないほど小さな欠片。
けれど、そこに刻まれていた名が消えた瞬間、森の景色が変わった。
さっきまで確かに続いていたはずの細い道が、落ち葉に埋もれた。曲がった楢の木がどれだったのか分からなくなった。倒木は三つも四つもあり、どれも同じ苔をまとっていた。村へ戻る方角を示していたはずの月が、枝に隠れ、また別の枝の向こうに出た。
森が、道を飲み込んでいく。
いや、食べているのだ。
パンを食べる鳥たちの嘴を通して、兄妹の帰り道を、少しずつ。
「ヘンゼル」
鳥が鳴いた。
ヘンゼルは振り向いた。
枝に止まった一羽が、首を傾げていた。黒い目が月を映している。
「ヘンゼル」
今度は別の鳥が鳴いた。
「グレーテル」
その声は、人間の声に似ていた。
けれど、人間が名前を呼ぶときの温度がなかった。
母が呼ぶときのような、夕食の湯気も、笑いも、叱る前の息遣いもなかった。父が呼ぶときのような不器用な優しさもなかった。
それは、味を確かめる声だった。
「ヘンゼル」
「グレーテル」
「ヘンゼル」
「グレーテル」
鳥たちは枝から枝へ移りながら、兄妹の名を鳴いた。
パン屑に刻まれた名の味を覚えたように。
グレーテルが耳を塞いだ。
「やめて……」
ヘンゼルは妹の手を引いた。
「走るよ」
「どこへ?」
「どこでもいい。ここにいたらだめだ」
二人は走った。
月明かりの森を、落ち葉を蹴って、枝を払い、根につまずきながら走った。後ろから鳥の羽音がついてくる。名前を呼ぶ声が遠ざかったり、近づいたりする。
ヘンゼルは何度も振り返った。
焚き火の赤はもう見えない。
父の足跡も見えない。
パン屑もない。
ただ、森だけが続いていた。
グレーテルは何度も転んだ。膝を打ち、掌を擦りむき、それでも泣きながら立ち上がった。ヘンゼルはそのたびに彼女を引き起こしたが、自分の足も震えていた。腹が空きすぎて、身体の中が空洞になったようだった。
空腹は、恐怖を鋭くする。
木の影が人に見えた。
枝が腕に見えた。
根が、こちらへ伸びる指に見えた。
やがてグレーテルが、ほとんど倒れるように膝をついた。
「もう、歩けない」
彼女の声はかすれていた。
「兄さん、お腹が痛い」
ヘンゼルは周囲を見回した。
何もなかった。
木。
影。
落ち葉。
黒い枝。
遠くの鳥の声。
持っていたパンは、道にしてしまった。道は食べられてしまった。母の木の器も、家の石窯も、父の背中も、もうどこにもなかった。
ヘンゼルは妹の前にしゃがみ込んだ。
「少し休もう」
「寝たら、起きられる?」
「起きられる」
「帰れる?」
ヘンゼルは答えられなかった。
そのときだった。
風が変わった。
森の湿った土の匂いの中に、別の匂いが混じった。
甘い匂い。
はじめは、気のせいかと思うほど薄かった。けれど次の瞬間、それははっきりと兄妹の鼻先へ流れてきた。
焼きたてのパン。
蜂蜜。
溶けた砂糖。
焦げた菓子。
牛乳を煮たときの白い膜。
栗の粉。
母が生きていたころ、冬の祭りの日にだけ台所へ満ちた匂い。
グレーテルが顔を上げた。
「……パン?」
ヘンゼルも息を止めた。
腹の奥が痛いほど鳴った。恐怖で固まっていた身体のどこかが、その匂いに引っ張られる。頭では危ないと分かっていた。森の奥で、こんな匂いがするはずがない。こんな夜に、こんな場所で、焼きたてのパンなどあるはずがない。
けれど、飢えた子どもの身体は、理屈より先に匂いを信じてしまう。
「行ってみよう」
グレーテルが言った。
ヘンゼルは迷った。
鳥たちの声が、遠くでまた鳴いた。
「ヘンゼル」
「グレーテル」
その声に押されるように、ヘンゼルは立ち上がった。
「少しだけだ」
彼はそう言った。
「見るだけ。変だったら逃げる」
けれど、逃げる道などもうなかった。
二人は匂いのする方へ歩いた。
森は少しずつ変わっていった。
木々の幹に、白い粉のようなものがついている。雪かと思ったが、指で触れると甘かった。枝から垂れているものは樹液ではなく、琥珀色の蜜のようだった。足元の苔は、ところどころ焼き菓子の表面のようにひび割れ、踏むと乾いた音を立てた。
グレーテルは震えながら、兄の腕にしがみついた。
「兄さん、これ……」
「食べちゃだめ」
ヘンゼルは言った。
そう言いながら、自分の唾を飲み込む音が聞こえた。
匂いは強くなる。
蜂蜜。
砂糖。
焼きたての生地。
香ばしい皮。
焦げた甘さ。
それはもう、匂いというより、名前を呼ぶ声に近かった。
おいで。
お腹が空いたでしょう。
寒かったでしょう。
帰る場所がないなら、ここへおいで。
木々が途切れた。
小さな空き地があった。
月明かりの中に、一軒の家が建っていた。
屋根は焼き菓子で葺かれ、壁は白い砂糖衣で塗られ、窓枠は飴細工のように透き通っていた。煙突からは甘い煙が立ち上り、扉のまわりには菓子の花が咲いている。軒先には丸いパンが吊るされ、壁の角には蜂蜜が金色に固まっていた。
それは、子どもが夢に見るような家だった。
そして、夢にしては、あまりにも甘すぎた。
グレーテルは呆然としたまま、一歩近づいた。
「食べても……いいのかな」
ヘンゼルは答えなかった。
家の壁の砂糖衣の奥で、何かが小さく燃えているように見えた。
炉の火だろうか。
それとも。
兄妹の腹が、同時に鳴った。
森は静かだった。
鳥たちはもう鳴いていなかった。
まるで、ここから先は自分たちの仕事ではないとでもいうように。
ヘンゼルは妹の前へ出た。
それでも、目は屋根の菓子から離れなかった。
飢えは、道を食べる。
そして、道を失った子どもは、甘い家の前で立ち止まる。
その扉が、内側から、ゆっくりと軋んだ。




