第1節 ― 飢えた村とパン屑の名
灰麦村《グラナ=ミル》では、朝が来ても、パンの匂いがしなかった。
かつては夜明け前になると、村のあちこちの煙突から白い煙が上がった。粉挽き小屋の水車が低く唸り、挽きたての麦粉を運ぶ荷車が、霜の降りた道に轍を残していった。家々の炉には火が入り、母親たちはまだ眠そうな子どもたちの名を呼びながら、硬いパンを切り分けた。
けれど、その年の冬は違った。
水車は止まっていた。
粉挽き小屋の扉には、板が打ちつけられている。軒先には、誰かが最後に干した麦束が吊るされたままだったが、粒は痩せ、鳥についばまれ、風に吹かれてほとんど空になっていた。畑は灰をまいたように白く、土は凍り、いくら掘っても黒く湿った匂いを返すばかりだった。
村の広場には、毎朝、人が並んだ。
並ぶための力さえ惜しいのに、人々はそれでも並んだ。配給名簿があるからだった。
広場の中央には、古びた机が置かれている。その上に、役人が持ち込んだ厚い帳面が開かれていた。帳面の角はすり切れ、革表紙には灰麦村の紋が薄く押されている。昔は収穫量や婚姻、出生、祭りの日の寄進などを記すための名簿だった。今は、誰にどれだけ麦を渡すかを決めるためだけに使われていた。
名を呼ばれた者だけが、麦を受け取れる。
呼ばれなかった者は、列に並んでいたことさえ記録されない。
「トーマ=ミルナー」
役人の声が、乾いた風に削られるように響いた。
列の中ほどで、痩せた男が顔を上げた。頬はこけ、髭には白いものが混じり、肩の上にうっすらと粉の名残がついている。かつて粉挽き小屋で働いていたころの癖で、彼は時折、自分の袖や胸についた粉を払うような仕草をした。だが今、その指先に触れるのは粉ではなく、ただの埃だった。
トーマは前に出て、小さな袋を差し出した。
役人は帳面を見下ろし、しばらく何かを確認してから、袋の底へ麦を落とした。ぱら、ぱら、と乾いた音がした。
袋は膨らまなかった。
その音を聞くだけで、列の後ろにいた者たちの喉が動いた。
「次。マルタ=ミルナー」
トーマの隣にいた女が進み出る。
マルタは背筋だけはまっすぐだった。身なりも、まだ崩しきってはいない。布地の古びた外套を丁寧に直し、髪もきつく結い上げている。だが目の下には濃い影があり、唇は寒さと空腹で青ざめていた。
彼女は配給袋を受け取りながら、帳面へ目を走らせた。
「子どもたちの分は?」
役人は顔を上げなかった。
「家単位で渡している」
「ヘンゼルとグレーテルの名も、そこにあるでしょう」
「ある。だが配給は家単位だ」
「四人家族よ」
「村全体が飢えている」
役人の声には、憐れみも苛立ちもなかった。毎朝同じような問いを浴び、同じような答えを返し続けた人間の、擦り切れた声だった。
マルタは袋を握りしめた。
その中身の軽さが、彼女の指を怒りに似た形に曲げた。
その少し後ろで、ヘンゼルは妹の手を握っていた。
グレーテルの手は冷たかった。小さな指は、兄の指を頼りなく握り返している。彼女はまだ幼く、配給の意味も、名簿に名があるのに麦が増えない理由も、きちんとはわかっていなかった。ただ、広場に並ぶ大人たちの目が、日に日に尖っていくことだけは感じ取っていた。
「お兄ちゃん」
グレーテルが小さく言った。
「今日は、パン、焼ける?」
ヘンゼルは答える前に、父の袋を見た。
袋の底に沈む麦は、四人が一日食べるには少なすぎた。水で伸ばし、殻粉を混ぜ、木の皮を削って入れても、薄い粥が少しできるだけだろう。
それでも彼は、妹に笑ってみせた。
「焼けるよ」
「ほんとう?」
「うん。父さんは、硬いパンを焼くのが上手いから」
グレーテルは少しだけ安心したように頷いた。
ヘンゼルはその横顔を見ながら、自分の腹の奥がきゅっと縮むのを感じた。空腹は、もう痛みではなくなっていた。痛みの時期を越えると、腹はただ冷たくなる。体の中に小さな穴が開いて、そこから自分の名前までこぼれていくような気がする。
家に帰ると、古い石窯は沈黙していた。
灰色の壁に寄りかかるように据えられたその窯は、母が生きていたころ、家の中心だった。冬の朝には赤く温まり、夏の夕方には余熱で豆を煮た。母はその前でパンを焼き、焼き上がるまでのあいだに、木の皿を二つ膝に置いて、子どもたちの名をなぞった。
ヘンゼル。
グレーテル。
母が小刀で刻んだ文字は、いまも皿の縁に残っている。何度洗っても、何度使っても、薄くなりながら消えなかった。小さな傷のようで、祈りのようでもあった。
グレーテルはその皿が好きだった。
どんなに薄い粥でも、名の刻まれた皿に入れられると、自分の分だとわかるからだった。
その夜、食卓には粥が四つ置かれた。
器の底が透けるほど薄い粥だった。麦の粒は数えるほどしかなく、湯気も弱い。トーマは自分の器を見つめたまま、なかなか匙を取らなかった。
マルタだけが、黙って食べた。
食べるというより、なくならないうちに胃へ流し込んでいるようだった。彼女の目は粥ではなく、子どもたちの器を見ていた。
ヘンゼルは、その視線に気づいていた。
だから自分の器を少しだけグレーテルの方へ寄せた。妹は気づかずに匙を口へ運んでいた。食べるたびに、彼女の頬がほんの少し赤くなる。それだけで、ヘンゼルは自分の空腹を忘れられる気がした。
けれど、マルタはそれを見逃さなかった。
「ヘンゼル」
鋭い声だった。
ヘンゼルは手を止めた。
「自分の分を食べなさい」
「でも、グレーテルは――」
「その子にも分はある」
マルタの声は正しかった。
正しい声ほど、飢えた家では冷たく響く。
トーマが何か言いかけた。
「マルタ……」
「あなたは黙っていて」
マルタは父を見た。
「明日も配給があると思う? 粉挽き小屋が動くと思う? 春まで畑が待ってくれると思う?」
トーマは黙った。
その沈黙を、ヘンゼルは聞いた。
言葉よりもはっきりと。
夜が深くなってから、兄妹は寝床に入った。
藁を詰めた薄い寝床は、二人で寄り添っても寒かった。壁の隙間から風が入り、窓板が時折かたかたと鳴る。グレーテルは母の木皿を胸に抱いたまま眠っていた。眠る前に、彼女は必ずその皿の文字を指でなぞる。
ヘンゼル。
グレーテル。
兄と妹の名。
家に残っている、母が二人を呼んだ証。
ヘンゼルは眠れなかった。
台所の方から、低い声が聞こえていたからだ。
最初は、風の音だと思った。だが違った。マルタの声だった。押し殺しているのに、家の薄い壁を抜けてくる。飢えた家では、囁き声さえよく響く。
「このままでは全員死ぬわ」
ヘンゼルは、息を止めた。
「麦はもう残っていない。配給も減っている。あなたは父親だから見ないふりをしているだけよ」
「やめてくれ」
父の声は掠れていた。
「子どもたちを、そんなふうに言うな」
「では、どうするの」
マルタの声は震えていた。怒りだけではない。恐怖もあった。
「あなたがどこかから麦を出してくれるの? 畑を実らせるの? 粉挽き小屋を動かすの? ヘンゼルとグレーテルに食べさせ、私たちも生きる方法を、あなたは持っているの?」
トーマは答えなかった。
答えない父を、ヘンゼルは初めて憎みそうになった。
父は優しい。
だが優しさは、飢えの前でいつも負ける。
「森に置いてくるだけよ」
マルタが言った。
その言葉は、刃物よりも静かに落ちた。
「奥まで行かなくていい。薪拾いのふりをして、少し離れたところに置いてくる。運がよければ、炭焼きや狩人に拾われるわ。村にいても、いずれ死ぬだけよ」
「森に捨てるというのか」
「捨てるんじゃない。生きる道を、少しでも分けるの」
「そんな言い方をするな」
「では何と言えばいいの!」
マルタの声が、初めて崩れた。
グレーテルが寝床で身じろぎした。
ヘンゼルは慌てて妹の肩に手を置いた。起きないように。聞かないように。今聞いたら、妹の中の何かが壊れてしまう気がした。
台所では、長い沈黙が続いた。
やがて、トーマが絞り出すように言った。
「……明日だけだ」
ヘンゼルの指が、藁を握りつぶした。
「明日、森へ行く。だが、置いてくるだけだ。置いてくるだけで、私は……私は……」
その先の言葉は聞こえなかった。
ヘンゼルは、もう聞きたくなかった。
彼は静かに起き上がった。グレーテルの手から木皿をそっと外し、毛布をかけ直す。妹は眠りながら、何かを探すように指を動かした。ヘンゼルは自分の手をその指に触れさせた。グレーテルは安心したように、また眠りへ沈んだ。
台所の隅には、古い布に包まれた硬いパンが一つ残っていた。
母が生きていたころのような、香ばしいパンではない。麦殻と木の皮を混ぜて焼いた、歯が欠けそうな黒い塊だった。それでもパンだった。食べられるものだった。明日の朝には、きっと四人で分けるはずだった。
ヘンゼルはそれを手に取った。
盗んでいるのだと思った。
けれど、手は震えなかった。
彼は石窯の横に座り、パンを小さく砕きはじめた。指先に力を入れるたび、乾いた欠片がぽろぽろと落ちる。大きすぎれば目立つ。小さすぎれば見失う。ヘンゼルは慎重に、ひとつひとつを爪ほどの大きさに割った。
それから、母が皿に名を刻んだ小刀を探した。
小刀は炉棚の奥にあった。柄の部分がすり減り、刃は少し欠けている。母はこれで、皿に名を刻み、パンの表面に十字を入れ、時々、グレーテルのために木片を削って小さな人形を作った。
ヘンゼルは、その刃先をパン屑に当てた。
H。
線はうまく刻めなかった。硬いパンの表面はぼろぼろで、少し力を入れると割れてしまう。それでも彼は刻んだ。
G。
自分の名のはじめ。
妹の名のはじめ。
名をすべて刻むには、パン屑は小さすぎた。けれど、はじめの文字だけでもよかった。そこに自分たちが通ったとわかればいい。森に置いていかれても、帰るための呼び声になればいい。
ヘンゼルは袋の中へ、刻んだパン屑を入れた。
その夜、彼はほとんど眠らなかった。
夜が明けると、マルタはいつもより優しい声で子どもたちを起こした。
「今日は森へ行くわ」
グレーテルは、寝ぼけた目をこすった。
「森?」
「薪を拾いに行くの。家の火が消えてしまうでしょう」
マルタはそう言って、グレーテルの髪を整えた。
その手つきが優しかったから、グレーテルは少し嬉しそうにした。継母がそうしてくれることは、最近ほとんどなかったからだ。
ヘンゼルは、それを黙って見ていた。
父は目を合わせなかった。
彼の肩には斧があり、腰には縄があった。薪を拾いに行くには自然な姿だった。けれど、その顔は森へ向かう男の顔ではなかった。罪を背負って、まだ罪の名を言えない男の顔だった。
家を出る前、グレーテルは木皿を持っていこうとした。
「置いていきなさい」
マルタが言った。
「森へ皿を持っていってどうするの」
「でも……」
グレーテルは皿の縁を握った。
「名前が、あるから」
マルタの顔が一瞬、歪んだ。
それが怒りなのか、痛みなのか、ヘンゼルにはわからなかった。
「帰ってくれば、また使えるわ」
マルタはそう言った。
帰ってくれば。
その言葉は、誰の口から出たものよりも嘘に聞こえた。
森への道は、村の北から続いていた。
冬の黒森は、遠くから見るとひとつの大きな影だった。枝には葉がなく、幹は黒く濡れている。雪はまだ浅かったが、地面のところどころに残り、霜柱が踏むたびに小さく砕けた。空は低く、雲は羊毛を汚したような色をしていた。
歩きはじめてすぐ、グレーテルが兄の袖を掴んだ。
「お兄ちゃん」
「なに?」
「森って、こんなに暗かった?」
「冬だからだよ」
ヘンゼルはそう答えた。
本当は、彼も暗いと思っていた。
木々の間から、何かが見ているようだった。鳥の声は少なく、代わりに枝の折れる音が遠くから聞こえる。人の足音なのか、獣なのか、風なのか、わからなかった。
父とマルタは前を歩いている。
二人の背中が、少しずつ遠くなる。
ヘンゼルは袋の中へ手を入れた。指先に触れたパン屑は硬く、小さかった。彼はそれを一つ取り出し、道の端へ落とした。
白い霜の上に、黒い欠片が一つ。
Hと刻んだはずの線は、もうほとんど見えなかった。けれど、ヘンゼルにはわかった。
そこに、自分の名の欠片が落ちている。
少し歩いて、また一つ落とす。
今度はG。
妹の名。
グレーテルが不安そうに兄を見上げた。
「何してるの?」
ヘンゼルは小さく笑った。
「道を作ってる」
「道?」
「うん。帰る道」
グレーテルの目が少しだけ明るくなった。
「帰れる?」
「帰れるよ」
ヘンゼルは、妹の手を強く握った。
「大丈夫。帰る道は、ぼくが作る」
グレーテルは頷いた。
その頷きがあまりにも素直で、ヘンゼルは胸が痛くなった。自分の言葉を、彼女は信じている。父の沈黙より、継母の嘘より、兄の小さな声を信じている。
だから、もう失敗できなかった。
彼は歩きながら、パン屑を落とし続けた。
H。
G。
H。
G。
木の根元に。石の横に。霜の残る道端に。曲がり角の枝の下に。
名を刻んだ欠片を、少しずつ森へ置いていく。
それは道しるべであり、祈りであり、母の皿に刻まれた名を、森の中へ写していくような行為だった。
だが、彼はまだ知らなかった。
飢えているのは、村だけではない。
森もまた、飢えていた。
木々の高いところで、一羽の鳥が首を傾げた。
黒い嘴が、霜の上に落ちたパン屑を見つける。
小さな羽音がした。
ヘンゼルたちの背後で、最初の名の欠片が、音もなく食べられた。




