第5節 ― 目覚めを選ぶ姫
塔へ向かう階段は、眠っていた。
石段そのものが眠るなどということは、ほんとうならありえない。けれど、リュシアン=ブライアは一段目に足をかけた瞬間、その表現以外にふさわしい言葉を見つけられなかった。
埃が舞わない。
靴底が石を踏んでも、百年分の塵は揺れず、ただ薄い灰色の幕として階段の縁に積もっている。壁に掛けられた古い燭台の火は、燃えていた。だが、炎は伸びることも縮むこともなく、ちょうど風に揺らぎかけた形のまま、硝子の中に閉じ込められた赤い花のように静止していた。
塔の外では、茨が王城を覆っている。
窓の細い隙間から見えるそれは、森ではなかった。壁だった。黒く、深く、絡まり合い、棘の先に古い名の欠片を光らせている。茨の一本一本が、かつて誰かの記録糸だったのだと、リュシアンにはわかった。祝宴の日に差し出しかけた手。言いかけた言葉。終わりきらなかった祈り。誰かに届けるはずだった返事。
それらが外へ流れ出し、棘を得て、百年ものあいだ王国を守り、同時に王国を閉ざしてきた。
守った。
たしかに守ったのだ。
侵略者から。略奪者から。眠る姫を物語の飾りとして見ようとする者たちから。
けれど、守るという言葉だけでは足りなかった。
この茨は、王国から百年分の朝を奪った。
リュシアンは、階段の途中で立ち止まった。
壁には、薄く刻まれた名があった。かつてこの塔に出入りした織記師たちの名だろう。エルディオ王の命によって消されたはずの、記録の職人たち。その名は、石の表面ではなく、もっと奥――石の内側に縫い込まれるように残っていた。
指先で触れると、冷たい感触の奥から、かすかな震えが返ってくる。
消されても、残った名。
焼かれても、灰になって残った名。
忘れられても、まだ続きを待つ名。
リュシアンは小さく息を吐いた。
「……あなたたちも、ここにいたのですね」
返事はない。
それでも、階段の上から微かな音が降ってきた。
糸が張られたまま、止まっている音。
時が切れかけたまま、結ばれていない音。
リュシアンは胸元に下げていた小さな記録筒に触れた。中には、彼が幼いころから集めてきた断片が入っている。古文書から写した欠落した王国名。百年前で途切れた交易路の記録。隣国の古い暦に残る、不自然な空白。そして、幾つもの伝承の底に残っていた、ひとつの名。
アウロラ=ロゼリア。
夜明けの薔薇。
その名だけは、百年の茨にも、伝承の変形にも、完全には奪われなかった。
リュシアンは、再び階段を上った。
塔の上の扉は、開いていた。
開いていた、というより、閉じられたまま止まることを忘れたように、半ばだけ口を開けていた。扉の縁には赤い糸が絡み、黒い茨の細い根が蝶番を覆っている。その棘はリュシアンが近づくと、かすかに動いた。
問いかけるように。
おまえは、何をしに来た。
誰の名を、どう記すつもりだ。
リュシアンは扉の前に立ち、深く頭を下げた。
「止まったものを、勝手に終わりとは書きません」
茨は動かない。
「眠る者を、わたしの物語の飾りにはしません」
棘の先が、ゆっくりと退いた。
「ただ、問いに来ました」
扉の内側から、冷たい朝の気配が流れ出した。
「続きを、望むかどうかを」
茨は、道を開いた。
リュシアンは塔の部屋へ足を踏み入れた。
そこは、百年前のままだった。
白い寝台が部屋の中央に置かれている。天蓋から垂れる薄絹は、雪を織り込んだように白く、そこへ絡む薔薇の蔓は、花を咲かせかけたまま止まっている。赤い蕾の先に、一滴の露が浮いていた。落ちる前の雫。百年、落ちなかった水。
窓は半ば開いていた。
その向こうには、茨の壁の黒と、外の世界の青白い朝が重なって見えた。王国の内側だけが、百年前の祝宴の夕刻に留まり、外の世界だけが、百年後の夜明けへ進んでいる。
部屋の奥には、記録紡錘《スピナ=クロニカ》があった。
古びた木台に据えられた紡錘。細い針。そこから伸びる赤い糸。
糸は、空中で凍ったように止まっていた。
赤い。
あまりに赤い糸だった。
血から生まれた糸。名から生まれた糸。未来へ進もうとして、そこで止められた糸。
そして寝台の上に、姫が眠っていた。
アウロラ=ロゼリア。
リュシアンは、その姿を見た瞬間、言葉を失った。
美しかった。
伝承に語られるとおりに、いや、伝承がどれほど飾り立てても届かないほどに。
長い睫毛は閉じられ、頬には薄い薔薇色が残っている。髪は淡い金に朝焼けの色を含み、白い枕の上に静かに広がっていた。指先には、赤い糸の始まりとなった小さな傷がある。百年前に落ちた血の一滴は、乾くこともなく、消えることもなく、ただ記録として残されていた。
けれど、リュシアンが息を呑んだのは、その美しさのためだけではなかった。
あまりにも静かだったからだ。
生きている。
死んではいない。
だが、生きているという言葉だけでは、彼女の状態を言い表せない。
そこには、呼ばれなかった未来が眠っていた。
祝宴の続き。父に問うはずだった言葉。母に聞くはずだった真実。王国の記録を取り戻すはずだった日々。笑うはずだった朝。泣くはずだった夜。愛するかもしれなかった誰か。別れるかもしれなかった誰か。間違えるはずだった選択。やり直すはずだった後悔。
百年分の、まだ起きていない生。
リュシアンはゆっくりと近づいた。
寝台のそばに膝をつく。
伝承の中の王子たちなら、ここで身をかがめ、眠る姫の唇へ口づけをするのだろう。
救うために。
目覚めさせるために。
物語を終わらせるために。
けれどリュシアンは、そうしなかった。
眠る者の沈黙を、同意と呼んではならない。
閉じられた記録を、勝手に自分の名で開いてはならない。
彼は両手を膝の上に置き、頭を垂れた。
そして、姫の名を呼んだ。
「アウロラ=ロゼリア」
部屋の空気が、かすかに震えた。
赤い糸が、ほんのわずかに光る。
「織録王国《アルカ=レムリア》の姫」
止まっていた露が、光を受けてきらめいた。
「十六歳の祝宴の日に止められた名」
紡錘の針先で、百年前の血が淡く赤を深めた。
「百年、続きを待っていた記録」
リュシアンは顔を上げた。
眠る姫の瞼は動かない。
けれど、部屋のどこかで、遠い機織りの音がした。
かたり。
たった一度。
大織記《グラン=テクス》が、眠りの奥で身じろぎした音だった。
「あなたは死んでいない」
リュシアンは言った。
声は静かだった。けれど、塔の部屋の隅々に届くよう、ひとつずつ言葉を置いていった。
「けれど、眠り続けることもできる」
赤い糸は、まだ止まっている。
「目覚めれば、百年前には戻れない」
その言葉を口にした瞬間、リュシアン自身の胸も痛んだ。
この王国の者たちは、まだ何も知らない。外の世界が百年進んだことも、隣国が三度王朝を替えたことも、かつての同盟が地図から消えたことも、彼らを覚えていた者たちがもうこの世にいないことも。
目覚めは祝福だ。
だが、祝福だけではない。
目を開けた瞬間、百年分の喪失が彼らに押し寄せる。
「あなたの王国は、百年後の朝へ進むことになる」
リュシアンは続けた。
「それは、救いかもしれない。痛みかもしれない。知らなければよかったと思うことも、あるかもしれない」
彼は目を伏せた。
「それでも、あなたに問います」
茨が、窓の外で静かに揺れた。
「アウロラ=ロゼリア。あなたの記録は、ここで終わっていない」
赤い糸が震えた。
「百年後の朝へ、続きを進めますか」
その声は、眠りの奥へ沈んでいった。
アウロラは、夢を見ていた。
夢の中で、彼女は十六歳の祝宴の広間に立っている。
金の燭台。銀の皿。薔薇の花。大きな窓の向こうに広がる、暮れかけた空。楽師たちの弓が弦へ触れる直前で止まっている。父王エルディオは、彼女へ向かって手を伸ばしていた。顔には恐怖が浮かんでいる。娘を失う恐怖。未来を失う恐怖。自分が避けようとしたものに、ついに追いつかれた者の顔。
母セリアーヌは、階段の下で振り返っていた。
その目には涙があった。
けれど、それだけではない。
謝罪があった。
言えなかった真実があった。
古塔に紡錘を残した理由があった。
アウロラは、夢の中で母へ歩み寄ろうとした。
だが、足は動かなかった。
時間が止まっているからではない。
彼女自身が、まだ選んでいないからだ。
次に、夢は古塔へ移った。
老婆が糸を紡いでいる。
皺だらけの手。黒い衣。薄い笑み。だが、その目は悪意だけではなかった。深い夜の底のように暗く、そこに終わりというものの静けさが宿っていた。
「続きを紡いでいるのですよ、姫君」
老婆の声が、百年前と同じように響いた。
「知らされなかった名は、いつも針の先で待っている」
アウロラは、自分の指先を見た。
小さな傷。
そこから伸びた赤い糸。
糸は途中で止まっている。
その先には何もない。
何もないのではなく、まだ織られていない。
アウロラは、夢の中で理解した。
自分は、守られていた。
父に。母に。王国に。祝名女の最後の祝福に。百年の茨に。
だが同時に、奪われていた。
知る権利を。
恐れる権利を。
選ぶ権利を。
失う権利を。
そして、未来へ進む権利を。
眠り続ければ、誰も傷つかないのかもしれない。
父の恐怖は、恐怖のまま凍りつく。母の涙は、落ちる前の雫のまま輝く。祝宴は失敗しない。王国は滅びない。誰も老いず、誰も死なず、誰も別れず、誰も次の朝へ進まない。
なんて優しい牢獄だろう。
なんて残酷な安息だろう。
アウロラは、夢の中で窓の外を見た。
茨の向こうに、朝があった。
百年後の朝。
彼女の知らない空。
彼女が愛した王国のものではない光。
怖い、と思った。
百年後へ進むことが。
目覚めたあと、父がどんな顔をするのか。母が何を言うのか。王国の民が何を失ったと知るのか。自分が、百年前の姫としてではなく、百年を止めた王国の鍵として見られるのではないか。
怖かった。
けれど、アウロラは思い出した。
塔へ上った夜、自分はなぜ針に触れたのか。
危険だとわかっていた。
それでも、自分の未来があるなら触れたかった。
知らないまま守られるより、知って痛むほうを選びたかった。
あの日の自分は、愚かだったのだろうか。
いいえ、と彼女は思った。
愚かだったのではない。
生きようとしていたのだ。
アウロラは、止まった赤い糸へ手を伸ばした。
夢の中の糸は温かかった。
血の温度。
名の温度。
続きの温度。
遠くから、誰かが自分の名を呼んでいる。
アウロラ=ロゼリア。
その声は、彼女を所有しようとしていなかった。
救った者として名を残そうとしていなかった。
ただ、問うていた。
進みますか、と。
だからアウロラは、心の奥で答えた。
「進みます」
その声は、最初、誰にも聞こえなかった。
けれど赤い糸が動いた。
凍りついていた血の糸が、音もなくほどける。針先から伸びた糸が空中で震え、止まっていた先へ、一目、また一目と織り進みはじめる。
塔の部屋で、記録紡錘《スピナ=クロニカ》が回った。
小さな音だった。
けれど、その音は王国中に響いた。
かたり。
大織記が応える。
かたり、かたり。
祝宴の広間で、楽師の弓が弦を擦った。百年遅れの音が、空気へ解き放たれる。蝋燭の炎が揺れた。落ちかけていた雫が、薔薇の花弁を滑り落ちた。杯が床へ落ち、硝子の割れる音がした。笑いかけたまま眠っていた貴族の唇が震え、眠っていた侍女の手から花籠がこぼれた。
王妃セリアーヌの涙が、ついに頬を伝った。
王エルディオの叫びが、百年越しに声となった。
「アウロラ!」
その声と同時に、百年鐘が鳴った。
一つ。
ただ一つの鐘。
だがそれは、王国のどの鐘よりも重かった。
百年分の沈黙を含んだ音。百年分の朝を呼ぶ音。止まっていたものが、もう一度動き出す音。
塔の外で、茨がほどけはじめた。
黒い棘は一斉に砕けるのではなかった。まるで役目を終えた糸が織物へ戻るように、一本ずつ柔らかく解けていく。棘の先に絡まっていた名の欠片が空へ舞い、朝の光を受けて金と赤に輝いた。
リュシアンは、寝台のそばで息を止めていた。
アウロラの睫毛が震える。
閉じられていた瞼が、ゆっくりと開く。
その瞳に、最初に映ったのは、リュシアンの顔ではなかった。
窓だった。
茨のほどけた向こうから差し込む、百年後の朝の光だった。
アウロラは、その光を見つめた。
眩しさに、瞳が潤む。
それが悲しみなのか、恐れなのか、喜びなのか、リュシアンにはわからなかった。
ただ、彼女が息を吸った。
百年ぶりの、最初の息。
その胸が、かすかに上下する。
アウロラ=ロゼリアは、ゆっくりと目覚めた。
そして、まだ震える唇で、小さく言った。
「……朝なのね」
リュシアンは頭を垂れたまま、静かに答えた。
「はい」
塔の外で、王国が目を覚ましていく。
戻れない朝が、始まっていた。




