表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/58

第4節 ― 百年眠りの茨王国

 百年が過ぎた。


 けれど、アルカ=レムリアでは、百年は過ぎなかった。


 王城の中央塔では、百年鐘が鳴りかけたまま沈黙していた。振り下ろされるはずだった槌は鐘の縁に触れる寸前で止まり、金属の喉は、音になる前の震えを抱いたまま凍っていた。


 大広間では、祝宴の灯が消えずに揺れていた。


 蝋燭は短くならない。杯は傾いたまま、葡萄酒を一滴もこぼさない。楽師の弓は弦の上にあり、弾かれるはずだった音だけが世界のどこにも届かない。踊りかけた貴婦人の袖は空中で花びらのように広がり、笑いかけた少年の頬には、まだ笑みになる前の幼い緊張が残っていた。


 王は、娘の名を呼ぼうとしていた。


 その口は開きかけていた。


 けれど、声は出なかった。


 王妃セリアーヌは、古塔の方へ振り返ろうとしていた。その指先は椅子の背に触れ、目には、まだ恐怖ではなく予感があった。


 アウロラ=ロゼリア。


 その名は、王国の中心で止まっていた。


 そして王国の外では、その名だけが、百年を越えて歩いていた。


 はじめの十年、人々はアルカ=レムリアへ使者を送った。


 隣国の王たちは、突然交易路から消えた織録王国を怪しみ、商人たちは、返ってこない荷馬車と、止まった関税記録を訴えた。学者たちは地図を広げ、古い街道の先にあるはずの王都を指さした。


 だが、そこには茨があった。


 黒く、深く、絡み合う茨。


 根は地中ではなく、空中の見えない糸へ伸びていた。蔓は互いに巻きつき、門を塞ぎ、道を飲み、塔を隠し、かつて王都へ続いていた白い石畳を、棘の海の奥へ沈めていた。


 ある騎士団が、斧と炎を持って茨へ挑んだ。


 彼らは財宝のためではないと言った。行方知れずの王国を救うためだと言った。


 けれど茨は、騎士たちの腕に巻きつき、鎧の隙間から入り込み、ひとりひとりに問いかけた。


 ――誰の名を呼びに来た。


 騎士たちは答えられなかった。


 彼らが知っていたのは、王国名だけだった。城の名だけだった。眠る姫の名など、伝承の尾ひれだと思っていた。


 やがて彼らは、森の外へ戻ってきた。


 だが、戻ってきた彼らの目には、帰るべき城の方角が映っていなかった。ひとりは自分の主君の名を忘れ、ひとりは自分の姓を思い出せず、ひとりは剣の握り方だけを覚えて、なぜ剣を持っていたのかを忘れていた。


 その後、アルカ=レムリアは「眠りの王国」と呼ばれるようになった。


 さらに十年が過ぎると、「呪われた王国」と呼ばれるようになった。


 さらに時が過ぎると、王国そのものを見た者はいなくなり、茨の奥には美しい姫が眠っている、という話だけが残った。


 ある者は言った。


「姫を目覚めさせれば、王国の財宝が手に入る」


 その者は茨に飲まれた。


 ある者は言った。


「百年眠る姫とは、どれほど美しいのだろう」


 その者は棘で顔を裂かれ、自分が何を見たかったのかも忘れて帰った。


 ある者は言った。


「止まった王国なら、王のいない玉座も手に入る」


 その者は、茨の中で自分の名を支配者の名に書き換えようとした。そして二度と戻らなかった。


 茨の壁《ブライア=アーカ》は、ただ侵入者を拒む壁ではなかった。


 それは、停止した記録糸の群れだった。


 王国のなかで行き場を失った百年分の続きが、外へあふれ、棘となったものだった。


 だから茨は、刃より鋭く、鎖より重く、鏡より正確に、人の目的を絡め取る。


 なぜ来た。


 誰を呼ぶ。


 眠る者を、何として記録するつもりか。


 答えを持たない者は、茨の内側へ進めない。


 答えを偽る者は、茨に名を裂かれる。


 百年目の春、ひとりの若者が茨の前に立った。


 名を、リュシアン=ブライアといった。


 彼は王冠をかぶっていなかった。


 王子と呼ぶには、旅装は簡素だった。濃い藍色の外套は雨と泥で傷み、革手袋には古文書の粉と、長旅の土が染みこんでいた。腰には剣もあったが、それより目立つのは、胸元に下げた小さな記録筒だった。中には、百年かけて散り散りになったアルカ=レムリアの断片が納められている。


 途切れた交易記録。


 途中で終わった婚姻名簿。


 最後の納税印が押されたまま更新されなかった帳面。


 織記師の亡命記録。


 そして、どの伝承にも、どれほど歪んだ歌にも、必ず一度だけ残る名。


 アウロラ=ロゼリア。


 リュシアンがその名を初めて知ったのは、まだ幼いころだった。


 祖父の書斎で、古い布片を見つけたのだ。色褪せた織糸の端に、細い金糸でひとつの名が縫い込まれていた。


 アウロラ=ロゼリア。


 意味を尋ねると、祖父は長く黙った。


 やがて言った。


「眠っている名だ」


 幼かったリュシアンは首を傾げた。


「人は眠るけど、名も眠るの?」


「眠る。呼ばれなくなればな。だが、完全に死んだ名なら、布にも歌にも残らん」


「じゃあ、その人は死んでいないの?」


 祖父は窓の外を見た。


「わからない。だから、わからないままにしてはいけない」


 その言葉が、リュシアンの中に残った。


 彼は成長し、記録を学び、継名者となった。


 王位を継ぐためではない。


 途切れた名を、次の時間へ渡すために。


 彼は数えきれない記録断片を集めた。アルカ=レムリアを呪われた国として嘲る酒場の歌も聞いた。眠り姫を手に入れれば永遠の若さを得るという俗説も書き留めた。茨に挑んで戻らなかった者たちの名も、一つずつ拾った。


 それらのどれもが、彼にひとつのことを教えた。


 この王国は、滅んだのではない。


 終わったのではない。


 続きを書けないまま、世界の縁に置かれている。


 リュシアンは茨の前に立ち、手袋を外した。


 風はなかった。


 それなのに、茨の先端が、彼へ向かってわずかに動いた。黒い棘が、光を吸いながら、まるで眠る獣の睫毛のように震える。


 足元の草が、急に低くささやいた。


 ――なぜ来た。


 リュシアンは目を伏せなかった。


「アルカ=レムリアの停止記録を読むために」


 茨がざわめく。


 ――何を求める。


「財宝ではない。玉座でもない。眠る姫の美しさでもない」


 棘が、外套の裾に触れた。


 布が裂ける。


 だが、リュシアンは退かなかった。


 ――眠る姫を、何として記録するつもりか。


 そこで彼は、胸元の記録筒を開いた。


 布片を取り出す。


 色褪せた布に、かすかな金糸で縫われた名。


 アウロラ=ロゼリア。


 リュシアンはそれを両手で掲げた。


「所有するためではない」


 茨が止まる。


「救った者として、わたしの名を残すためでもない」


 彼の声は、森の奥へ吸われていった。


「止まった記録に、続きを問うために来た」


 長い沈黙があった。


 その沈黙は、風のない森に落ちた夜のようだった。


 やがて、茨の奥で、細い糸がほどける音がした。


 一本。


 また一本。


 黒い蔓が左右へ退きはじめた。


 切られたのではない。


 焼かれたのでもない。


 茨自身が、道を開いていた。


 リュシアンは息を吸った。


 開いた道の奥に、白い石畳が見えた。


 百年前、祝宴の客たちが歩いた道だろう。石の隙間には苔も草も生えていなかった。ただ、時間が流れなかったことを示すように、落ち葉が空中で止まっていた。


 彼は一歩を踏み出した。


 茨は、背後で静かに閉じた。


 アルカ=レムリアの王都は、眠っていた。


 門番は、槍を持ったまま立っていた。兜の下の目は閉じられ、口元には祝宴の夜の緊張が残っている。門の上には旗が掲げられていたが、風を受けた形のまま止まり、布の波が凍った炎のようだった。


 城下町の通りでは、市場が開かれていた。


 果物籠を抱えた娘が、林檎をひとつ落としかけていた。林檎は彼女の指先から離れたところで宙に止まり、赤い皮に朝の光を閉じ込めていた。


 パン屋の窯では、火が燃えたまま止まっていた。


 炎は橙色の花びらのように立ち、熱だけがなかった。焼きかけのパンは膨らむ途中で固まり、粉をかぶった少年の鼻先には、くしゃみになる前の皺が寄っていた。


 橋の上では、馬車の車輪が石畳の水たまりを跳ね上げていた。


 水滴は落ちない。


 水面には、百年前の空が映っていた。


 リュシアンは、そのひとつひとつを見ながら歩いた。


 奇跡だ、と言うことはできた。


 誰も死んでいない。


 何も腐っていない。


 花は枯れず、灯は消えず、幼子は老いず、老人は息絶えていない。


 けれど、歩くほどに、胸の奥が重くなった。


 これは救いなのか。


 それとも、奪われた時間の墓なのか。


 眠る母親の腕の中で、赤子が泣きかけていた。


 その泣き声は、百年ものあいだ声にならなかった。


 店先の老人は、椅子にもたれたまま瞼を閉じていた。


 その口元には、最後に言おうとした言葉があった。百年前、もしかしたら孫の名を呼ぼうとしていたのかもしれない。その名も、百年のあいだ誰にも届かなかった。


 窓辺の少女は、封をしたばかりの手紙を胸に抱いていた。


 宛名は途中まで書かれていた。


 リュシアンはそこに目を落とし、胸を締めつけられた。


 誰かに届くはずだった言葉。


 誰かを送り出すはずだった朝。


 誰かが死に、誰かが生まれ、誰かが別れ、誰かが許し、誰かが嘘をつき、誰かがそれを悔いたかもしれない百年。


 それらが、すべて眠りの名で閉じ込められている。


 守られていた。


 たしかに、守られていた。


 だが同時に、奪われていた。


 百年分の朝を。


 百年分の別れを。


 百年分の変化を。


 リュシアンは王城へ向かった。


 白い城壁は茨の影を受けて、灰色に沈んでいた。門は開いている。祝宴のために客を迎え入れたその瞬間のまま、誰も閉じる者がいなかったのだ。


 大階段には花びらが舞っていた。


 舞い落ちる途中で止まった花びらの間を、リュシアンは上っていく。踏みしめるたび、靴音だけがこの王国で唯一動くもののように響いた。


 広間に入った瞬間、彼は足を止めた。


 百年前の祝宴が、そこにあった。


 王国の貴族たち。


 織記師たち。


 楽師たち。


 子どもたち。


 そして、玉座の前で立ち上がりかけている王と、振り返りかけている王妃。


 誰もが眠っていた。


 けれど、その眠りは安らかではなかった。


 それぞれの顔には、止まった瞬間の感情がある。


 驚き。


 恐れ。


 喜び。


 困惑。


 怒り。


 愛。


 それらが、未完成の刺繍のように空間へ縫い止められていた。


 リュシアンは玉座の前を過ぎ、大広間の奥にある扉を見つけた。


 扉には、薔薇と糸車の紋章。


 そして、鍵穴の上に、細い赤糸が一本絡んでいた。


 その糸だけが、かすかに震えている。


 生きている。


 彼はそう思った。


 王国のすべてが眠る中で、その糸だけは完全には止まっていなかった。


 アウロラ=ロゼリア。


 彼女の名は、まだ続きを待っている。


 リュシアンは扉へ手をかけた。


 奥から、聞こえるはずのない音がした。


 糸を紡ぐような、細く、かすかな音。


 百年の沈黙の底で、まだ誰かが続きを待っている音だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ