第3節 ― 塔の上の記録紡錘
古塔の扉は、鍵が掛かっていなかった。
それが、アウロラにはかえって不思議だった。
王城の北端に立つその塔は、幼いころから「近づいてはならない場所」と言い聞かされてきた。乳母は、古い石段が崩れるからと言った。侍女は、埃で喉を痛めるからと言った。父王エルディオは、そこにはもう使われない道具しかない、とだけ言った。
けれど、今夜だけは違った。
十六歳の祝宴を翌日に控えた夜。王城は眠っていなかった。大広間では花冠を編む者たちが行き交い、厨房では銀の皿が磨かれ、楽師たちは明日の曲順を確かめていた。廊下には甘い果実酒と蜜蝋の匂いが満ち、窓という窓に淡い金の灯がともされている。
それなのに、北の塔だけは、別の夜に沈んでいた。
扉の隙間から、細い灯が漏れている。
誰かがいる。
アウロラは胸に手を当てた。祝宴のために誂えられた薄薔薇色の夜着の胸元で、十二の祝名糸がかすかに揺れた。幼いころから彼女を守るように縫い込まれてきた糸。美しさ、健やかさ、知恵、慈しみ、歌、光、記憶、導き。名を祝福する糸たち。
けれど、その中に、ひとつ足りないものがあることを、アウロラはいつからか知っていた。
終わり。
別れ。
断絶。
人はその言葉を恐れて口にしない。けれど、言葉にしないものほど、城の石壁の奥で重く息をしている。
アウロラは、扉に手をかけた。
古い鉄の蝶番が、低く鳴った。
塔の内側は、王城のどこよりも静かだった。
階段には長い年月の埃が積もり、踏みしめるたびに白い粉が舞った。窓は細く、月明かりは刃のように差し込むだけだった。壁には、古い名が刻まれていた。
織記師ルナリア。
糸番テオル。
誓約織りメルゼ。
祝名補佐アリア=ノール。
ひとつひとつの名は薄く削られている。誰かが鑿で削り取ろうとした跡があった。だが、石は名を完全には手放していなかった。削られた溝の奥に、灰色の影が残り、月の角度が変わるたびに、消えたはずの文字が浮かんでは沈む。
アウロラは指先で、そのひとつに触れた。
冷たい石の奥から、かすかな振動が伝わってきた。
まるで、誰かが遠い場所で糸を引いているようだった。
「あなたたちは、ここにいたのね」
声は小さく、塔の中に吸い込まれた。
答えはない。
けれど、沈黙は空ではなかった。
王が焼いたはずの記録。王国から追われたはずの織記師たち。禁じられた糸車。語ることを許されなかった呪い。そうしたものが、階段の埃の下、石壁の傷の奥、閉ざされた塔の夜気の中に、まだ残っている。
守られるとは、何なのだろう。
アウロラは、ゆっくりと階段を上った。
幼いころから、危ないものはすべて遠ざけてあると言われた。
針も、紡錘も、糸車も。
終わりの話も、死の話も、呪いの話も。
けれど、危ないものを知らないまま育つことは、危なくないということではなかった。ただ、自分が何から守られているのかを知らないだけだった。
そして知らされないまま守られる日々は、少しずつ、自分の足元を消していく。
あと何段だろう。
塔の上から、音が聞こえた。
ちり、ちり。
細い糸が張られる音。
ころ、ころ。
軸がゆっくり回る音。
それは、アウロラが生まれて初めて聞く音だった。
楽師の竪琴とも違う。侍女が針で布を縫う音とも違う。風が窓を鳴らす音とも違う。
もっと小さい。
もっと深い。
人の耳に届くより先に、名の奥へ触れるような音。
階段の終わりに、古い木戸があった。戸板には、茨のような模様と、糸巻きの紋が彫られている。その中央に、薔薇の形をした鍵穴があった。
鍵はない。
だが扉は、アウロラが近づくと、内側から息をするように開いた。
塔の上の部屋には、月が満ちていた。
円形の部屋だった。壁には古い糸束が吊るされ、床には織りかけの布が幾重にも重なっている。布はどれも途中で切れていた。名が始まり、誓いが結ばれ、誰かが生まれ、誰かが旅立ち、誰かが死にかけたところで、糸がぷつりと途絶えている。
部屋の中央に、ひとつの紡錘があった。
記録紡錘《スピナ=クロニカ》。
アウロラは、その名を知らないはずだった。
けれど、見た瞬間にわかった。
それは、ただの道具ではなかった。細い軸は黒銀に光り、針先には小さな星のような光が宿っている。糸車の輪は動いていないのに、紡錘だけがゆっくりと回っていた。そこから伸びる糸は、白でも金でもなく、夜明け前の空のような青をしていた。
そして、その紡錘のそばに、老婆がいた。
背は丸く、髪は白く、指は枯れ枝のように細い。古びた黒衣をまとい、顔の半分は月影に沈んでいる。けれど、その手つきだけは驚くほどなめらかだった。糸を取り、撚り、紡ぎ、絡まった名をほどいていく。
アウロラは息を呑んだ。
老婆は振り返らなかった。
「来ましたね、姫君」
その声は、老いていた。
だが、同時にひどく若かった。
遠い昔から待っていた声にも、今この瞬間に生まれた声にも聞こえた。
「あなたは……誰?」
アウロラは問いかけた。
老婆の指が、糸を撫でる。
「名を呼ばれなかった者」
糸車が、ちり、と鳴った。
「席を用意されなかった者」
月明かりが、紡錘の針先で細く砕ける。
「終わりを遠ざけられ、だからこそ、終わりそのものとして来るしかなかった者」
アウロラの喉が、乾いた。
「ノクタ=スピナ……?」
老婆は、笑ったのかもしれない。
あるいは、影が少しだけ揺れただけかもしれない。
「そう呼ぶ者もいました。そう呼ばなかった者もいました。けれど名とは、呼ばれなかったからといって、消えるものではありません」
アウロラは、一歩近づいた。
恐ろしいはずだった。
この者が、自分に呪いをかけたのだと、わかっていた。父が隠し、母が言えず、城中が口を閉ざしてきたもの。その中心にいる存在が、今、自分の前で糸を紡いでいる。
けれど、不思議と足は止まらなかった。
彼女の指が紡ぐ音は、恐怖よりも先に、懐かしさを呼んだ。
「それは、何をしているの?」
老婆は、今度ははっきりと微笑んだ。
「続きを紡いでいるのですよ、姫君」
「続き……」
「焼かれた糸の続き。閉じられた記録の続き。語ってはならないと命じられた呪いの続き。そして」
老婆は、細い糸をつまみ上げた。
その糸の中に、淡い薔薇色の光が走った。
「あなたの続き」
アウロラは胸を押さえた。
心臓が、静かに、しかし確かに打っている。
「わたしの続きも、そこにあるの?」
老婆は紡錘を見た。
「ありますとも。誰の未来にも続きはあります。王が恐れて燃やしたものの中にも。王妃が涙で隠したものの中にも。あなた自身がまだ知らない、あなたの名の先にも」
「でも、父は危ないと言ったわ」
「危ないでしょうね」
老婆はあっさりと言った。
「未来は危ないものです。終わりも、別れも、喪失も、変化もある。何かを選べば、選ばなかったものは断たれる。誰かを愛せば、いつか失うかもしれない。国を継げば、間違えるかもしれない。生きるとは、針の先に指を差し出すことに似ています」
アウロラは、紡錘の針を見つめた。
小さな針だった。
けれど、その先に王国中の沈黙が集まっている気がした。
「知らなければ、安全でいられる?」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
老婆の指が止まった。
「いいえ」
その答えは、優しくなかった。
「知らなければ、知らないまま傷つきます。知らないまま失います。知らないまま、誰かの恐れによって、あなたの未来は閉ざされます」
アウロラは目を伏せた。
父の顔が浮かんだ。
優しい手。
自分を抱きしめる腕。
祝宴のたびに、誰よりも嬉しそうに笑う声。
父は自分を愛している。
それは疑えなかった。
けれど、その愛は塔の扉を閉ざし、糸車を焼き、織記師たちを追い、国から音を奪った。
愛が、いつも未来を開くとは限らない。
守りたいという願いが、時にもっとも深く閉じ込める。
「わたしは……」
アウロラは唇を噛んだ。
「わたしは、自分の未来を知りたい」
老婆は何も言わなかった。
紡錘だけが、ゆっくりと回っている。
「危なくても。怖くても。終わりがあるとしても。何も知らないまま祝われて、何も知らないまま守られて、何も知らないまま明日を迎えるのは、もう嫌」
塔の外で、遠く祝宴の準備の音がした。
笑い声。
銀器の触れ合う音。
花を運ぶ足音。
十六歳になる姫を祝う国の音。
けれど、その音の奥に、欠けた音がある。
糸を紡ぐ音がない。
記録が進む音がない。
生きている国ならば持っているはずの、始まりと終わりの音がない。
アウロラは、記録紡錘へ手を伸ばした。
老婆は止めなかった。
「知らされなかった名は、いつも針の先で待っている」
その言葉が、部屋の空気に沈んだ。
アウロラの指先が、針に触れた。
痛みは、一瞬だった。
小さな赤い血が、指先にふくらんだ。
その一滴が落ちる。
紡錘に巻かれていた糸の上へ。
赤は、すぐに糸となった。
細く、鮮やかで、あまりに生々しい赤い糸。それはアウロラの指先から紡錘を伝い、床に広がる織りかけの布へ走った。布から壁へ、壁から塔の石へ、塔の石から王城の奥深くに眠る《大織記》へ。
その瞬間、王城の最奥で、巨大な織機が目を覚ました。
眠っていた糸束が震え、名の縦糸と時間の横糸が交差し、十六年間止められていた何かが、一斉に動き出そうとした。
だが。
赤い糸は、途中で凍った。
ぱきり、と音がした。
糸が切れたのではない。
結ばれたのでもない。
進もうとしたまま、止まった。
王城の中央塔で、百年鐘が鳴りかけた。
ごうん、と低い響きが生まれかけ、そのまま石の中へ押し戻される。
大広間では、楽師の弓が弦に触れていた。音は、出なかった。弓毛が銀の弦をかすめたその瞬間、腕も、指も、息も止まった。
厨房では、焼き菓子を取り出そうとした料理人の手が炉の前で止まった。炎は揺れた形のまま固まり、蜜は落ちる途中で琥珀色の糸となって空中に留まった。
王妃セリアーヌは、北の塔の方を振り返ろうとしていた。娘の名を呼ぶ前に、その瞳だけがわずかに見開かれ、涙が頬を伝う直前で止まった。
王エルディオは玉座の間から駆け出していた。
アウロラ、と叫ぼうとした。
けれど、その声は喉の奥で凍り、名になる前に止まった。
城だけではなかった。
王都の市場で、果物売りが林檎を手渡す途中だった。買い手の少年の掌に届く寸前、林檎は宙に留まった。
橋の上では、馬車の車輪が水たまりを跳ね上げた。泥水は飛沫の形のまま、空中に散ったまま、落ちなかった。
白いパンを焼く炉の火は、赤い舌を伸ばしたまま眠った。
縫いかけの産着には、生まれるはずだった子の名の一文字目だけが刺されていた。
寝台では、長く病んでいた老人が最後の言葉を言いかけていた。口元は動いたまま、その言葉は誰にも届かなかった。
泣きかけた赤子の涙は、まぶたの縁で光った。
降り始めていた雪は、空と地のあいだに止まった。
王国中の記録が、その一拍で止まった。
滅びではない。
死でもない。
けれど、続きがない。
それは、静かすぎる災いだった。
アウロラは床に膝をついた。
指先の血はもう流れていなかった。赤い糸は紡錘の上で凍り、針先には小さな薔薇のような血珠が残っている。
老婆の姿は、薄くなっていた。
ノクタ=スピナなのか、呪いそのものだったのか、それとも王国が招かなかった終わりの影だったのか、アウロラにはもうわからなかった。
ただ、その声だけが、遠くから聞こえた。
「終わりを拒んだ王国よ」
部屋の糸束が、ざわりと震えた。
「終わりも始まりもない一日を、ここに」
アウロラは倒れた。
けれど、完全に意識を手放す前に、彼女は塔の窓の外を見た。




