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第2節 ― 紡錘を焼く王国

 アウロラ=ロゼリアは、祝福の名をいくつも織り込まれて育った姫だった。


 揺り籠の上には、金の糸で縫われた天蓋が垂れ、窓辺には季節ごとに新しい花が飾られた。春には薄紅の薔薇。夏には白百合。秋には黄金の小麦穂。冬には、雪の結晶に似た銀糸の飾り。


 城の者たちは、誰もが彼女を愛した。


 乳母は彼女の髪を梳きながら、やさしい歌を歌った。侍女たちは、アウロラが少し笑うだけで顔をほころばせた。庭師は彼女のために、毎年いちばん早く咲いた薔薇を摘んだ。料理番は、姫が気に入った菓子の香りを覚え、次の祝いの日には必ず同じものを焼いた。


 王エルディオは、娘の寝顔を見に、夜更けに何度も部屋を訪れた。


 王妃セリアーヌは、そのたびに寝台のそばに置かれた燭台の火を少しだけ弱めた。王の足音が、眠る娘を起こさないように。


 愛されていた。


 それは疑いようがなかった。


 けれど、その愛は、糸で織られた柔らかな檻でもあった。


 アウロラの暮らす白薔薇宮には、尖ったものがほとんどなかった。裁縫針は侍女たちの腰から消え、刺繍枠は彼女の前に置かれず、衣装の縫い直しはすべて別棟で行われた。


 窓辺に飾られる花の棘は、すべて取り払われていた。


 小鳥の羽根を飾る銀細工も、角を丸く削られていた。


 彼女が幼いころ、飾り棚にあった小さな糸巻きを手に取ろうとしただけで、侍女のひとりが真っ青になって駆け寄ったことがある。


「姫様、それはなりません」


「どうして?」


「危のうございます」


「これが?」


 アウロラは不思議そうに、木でできた小さな糸巻きを見下ろした。


 それは、古い飾り道具だった。青い糸が少しだけ巻かれ、端には小さな鈴が結ばれている。危ないものには見えなかった。むしろ、触れればころころと可愛らしい音が鳴りそうだった。


 けれど侍女は震える手でそれを取り上げ、すぐに布で包んだ。


 その日の夕方には、飾り棚ごと部屋から消えていた。


 アウロラは、子どもらしい不満で頬を膨らませたが、そのときはまだ深く考えなかった。


 城とは、そういうものなのだと思った。


 王女とは、大切にされる分、触れてはいけないものが多いのだと。


 けれど年を重ねるにつれ、彼女は気づいていった。


 自分の国には、欠けている音がある。


 朝、庭に出れば、鳥は歌う。噴水は涼やかに水音を立てる。兵士たちの訓練場からは、剣と盾のぶつかる音がする。厨房では包丁がまな板を叩き、広間では楽師たちが弦を鳴らす。


 音はたくさんある。


 けれど、ない音があった。


 糸を紡ぐ音がない。


 機を織る音がない。


 車輪がゆっくり回り、指先から細い糸が生まれ、まだ形を持たないものが少しずつ布へ変わっていく、あの静かな音が、王国のどこにもない。


 それに気づいたのは、アウロラが十二歳の春だった。


 城の南廊下からは、王都がよく見えた。高い窓の下に、赤い屋根と白い壁が連なり、川沿いには市が立つ。子どもたちは走り、商人たちは声を張り、馬車は石畳を鳴らして過ぎていく。


 けれど、そのにぎわいの奥に、本来あるはずのものが欠けていた。


 織物屋の看板は残っている。染物屋もある。絹商人もいる。


 だが、糸を紡ぐ職人たちはいない。


 名を糸にする織記師たちの工房は、扉を閉ざしている。


 王国の者が生まれたとき、婚姻を誓うとき、旅立つとき、死者を送るとき、かつては必ず織記師がいたという。名は糸として紡がれ、《大織記》へと織り込まれた。誰かがこの国に生まれ、生き、別れ、終わったことを、布の中へ刻んでいった。


 それが、アルカ=レムリアの誇りだった。


 だが、アウロラが物心ついたころには、その誇りは禁じられたものになっていた。


「織記師たちは、どこへ行ったの?」


 ある日、彼女は侍女に尋ねた。


 侍女は答えなかった。


「昔は、城にもいたのでしょう?」


「姫様。そのようなお話は……」


「どうして?」


「王がお聞きになれば、お心を痛めます」


「お父様が?」


 侍女は唇を噛み、目を伏せた。


 その沈黙が、答えだった。


 アウロラの生まれた祝名式のあと、王は王国中に命じたのだという。


 すべての糸車を集めよ。


 すべての紡錘を砕け。


 すべての記録針を焼け。


 紡ぐもの、刺すもの、糸を引くもの、名を結ぶものを、姫の目に触れさせるな。


 それは、呪いから娘を守るための命令だった。


 そして、命令は実行された。


 王城の広場には、王国中から集められた糸車が山のように積まれた。職人たちは泣きながら、自分の道具を差し出した。古い家に代々伝わっていた紡錘も、母から娘へ受け継がれてきた糸巻きも、祝名式に使われていた金針も、すべて兵士たちの手で運ばれていった。


 火がつけられた。


 乾いた木はよく燃えた。


 糸車は、まるで獣の骨のように軋みながら崩れた。紡錘の先に結ばれていた糸は、火の中で一瞬だけ光り、すぐに黒く縮れた。古い記録糸は、燃えるときにかすかな声のような音を立てたという。


 誰かの誕生の名。


 誰かの婚礼の誓い。


 誰かの最期の言葉。


 それらが、煙になって空へ上った。


 王は広場の上段に立ち、最後まで火を見ていた。


 王妃セリアーヌは、その隣にいた。


 けれど彼女は、火ではなく、火を見ている職人たちの顔を見ていた。


 その日から、アルカ=レムリアでは、記録の音が消えた。


 生まれた子には紙の名札が与えられるようになった。だが、それは洗えばにじみ、燃やせば灰になった。婚姻の誓いは口頭で済まされるようになり、死者の糸は結ばれず、墓碑だけが残された。


 民は王に逆らわなかった。


 王女を守るためだと言われれば、誰も声高に責められなかった。


 それでも、国は少しずつ静かになっていった。


 アウロラは、その静けさの中心に自分がいることを知ってしまった。


 それからというもの、彼女は城の中を歩くたびに、見えない糸を踏んでいるような気がした。


 自分のために焼かれたもの。


 自分のために追われた人々。


 自分のために口を閉ざした職人たち。


 誰も彼女を責めなかった。


 だからこそ、彼女は余計に苦しかった。


 十五歳の冬、アウロラは王に直接尋ねた。


「お父様。なぜ、この国には糸車がないのですか」


 王エルディオは、その問いを聞いた瞬間、手にしていた銀杯を置いた。


 静かな音だった。


 けれど、食卓の空気は一変した。


 広間の端に控えていた侍従が、身じろぎをやめる。侍女たちは視線を伏せる。王妃セリアーヌは、娘を見たあと、王を見た。


 王はしばらく黙っていた。


 それから、努めて穏やかな声で言った。


「おまえは何も心配しなくていい」


「心配ではありません。知りたいのです」


「知る必要はない」


 アウロラは、父の顔を見つめた。


 王は優しい人だった。彼女の髪に触れる手はいつも温かく、誕生日には必ず自分で選んだ贈り物をくれた。彼は娘を愛していた。国よりも、王冠よりも、時には己の名誉よりも。


 けれど今、彼の瞳にあるのは、愛だけではなかった。


 恐れだった。


「危ないものは、すべて遠ざけてある」


 王は言った。


「この城に、おまえを傷つけるものはない。針も、紡錘も、呪いを呼ぶ道具もない。おまえは守られている。だから、安心していればよい」


「危ないものを遠ざけることと、何も知らないままにすることは同じなのですか」


 王の眉がわずかに動いた。


「アウロラ」


「私は、何から守られているのですか」


「おまえのためだ」


「私のためなら、私に教えてください」


「言えない」


 短い言葉だった。


 王はそのあと、すぐに後悔したような顔をした。だが、言葉は戻らない。広間には、冷めた肉料理の香りと、揺れる燭台の光だけが残った。


 王妃セリアーヌが、そっと口を開いた。


「陛下」


「ならぬ」


 王は、王妃の言葉を遮った。


「呪いの名を口にするな。あれは招かれなかった。ならば、この城にも、この国にも、あれの席はない」


 アウロラは、そのとき初めて知った。


 自分の知らないところに、席を奪われた誰かがいるのだと。


 招かれなかったもの。


 呼ばれなかった名。


 それが今も、この城のどこかで、息をひそめているのだと。


 その夜、王妃セリアーヌはアウロラの部屋を訪れた。


 侍女たちを下がらせ、寝台のそばに座る。彼女の手は、昼間よりも冷えていた。


「怒っている?」


 王妃が尋ねた。


 アウロラは首を振った。


「分からないのです。怒っているのか、悲しいのか」


「そう」


「お母様は、知っているのですね」


 王妃は答えなかった。


 けれど、沈黙はまた、答えだった。


「私の誕生の祝名式で、何かあったのですね」


「……あなたは、祝福されて生まれました」


「でも、祝福だけではなかった」


 王妃の睫毛が震えた。


 アウロラは、母の横顔を見つめた。白く細い顔。王妃としての落ち着きと、母としての痛みが同じ場所に宿っている。


「お母様。私は、いつか終わるのですか」


 王妃は息を呑んだ。


 その問いは、あまりにもまっすぐだった。


「人は、みな、いつか終わります」


 長い沈黙のあと、王妃は言った。


「だからこそ、名を残すのです。生まれたことも、生きたことも、愛したことも、別れたことも。終わるから、記す。終わるから、織る。そうして、次の者が続きを受け取れるようにする」


「では、どうしてお父様は、それを禁じたのですか」


「あなたを失うのが怖かったから」


「でも、そのせいで、国の人たちは自分の記録を失っている」


 王妃は目を閉じた。


「ええ」


 それは、王妃が初めて認めた言葉だった。


 アウロラの胸の奥で、何かが細く震えた。


 責めたいわけではなかった。父も母も、自分を愛している。そのことは分かっている。だが、愛が誰かの名を奪うこともあるのだと、彼女はその夜、知ってしまった。


「お母様は、止めなかったのですか」


「止めようとしました」


 王妃の声は、かすれていた。


「何度も。けれど、最後には、わたしも恐れました。あなたの寝顔を見るたびに、もしあの呪いが本当ならと思った。もし、記録紡錘があなたを奪うのなら、と」


「記録紡錘」


 アウロラは、その言葉を繰り返した。


 王妃は、はっとしたように口を閉ざした。


 けれどもう遅かった。


 禁じられていた名は、娘の中へ入ってしまった。


 スピナ=クロニカ。


 記録紡錘。


 その響きは、針のように鋭いのに、どこか懐かしかった。


 まるで、生まれる前に一度だけ聞いた歌の残り香のように。


 十六歳の誕生日が近づくにつれ、王城は奇妙な華やぎに包まれた。


 表向きには、祝宴の準備だった。


 白薔薇宮の回廊には、淡い金の布が掛けられた。大広間には新しい燭台が並び、百人の楽師が招かれた。厨房では砂糖菓子が積み上げられ、庭では冬にも咲く薔薇を咲かせるため、温室の火が絶やされなかった。


 王都の民にも、祝宴の知らせが出された。


 姫が十六歳になる。


 王国の夜明けの薔薇が、いよいよ成人の名を受ける。


 誰もが喜ぶべき日だった。


 けれどアウロラには、自分の未来が祝われているようには思えなかった。


 むしろ、隠されているように感じた。


 扉の奥へ。


 布の下へ。


 言葉にならない恐れの底へ。


 城の人々は、ますます過保護になった。彼女が階段を降りるときには必ず二人の侍女がつき、庭へ出るときには兵士が先に道を確かめた。贈り物の箱はすべて検められ、花束は茎まで切られ、髪飾りの金具さえ丸く削られた。


 アウロラは笑って礼を言った。


 だが、胸の中では、ひとつの問いが膨らみ続けていた。


 自分は、生きているのか。


 それとも、傷つかないように保管されているのか。


 十六歳の誕生日前夜。


 城は祝宴を明日に控え、いつもより早く静まった。


 廊下には香油の匂いが漂い、磨かれた銀器が月明かりを反射していた。遠くの厨房ではまだ火が入り、楽師たちの宿泊棟からは小さな調弦の音が聞こえた。


 アウロラは眠れなかった。


 寝台の天蓋を見上げていると、金糸の刺繍が、どこか途切れた文字のように見えた。祝福の模様。薔薇。夜明け。光。記憶。


 けれど、その中に、終わりの模様だけがない。


 終わりがないものは、本当に続いていると言えるのだろうか。


 彼女は寝台を降りた。


 裸足のまま、厚い絨毯の上に立つ。侍女たちは隣室にいる。呼べばすぐに来るだろう。だが、呼ばなかった。


 肩に薄いショールを掛け、そっと扉を開ける。


 廊下は青白い月の光で満ちていた。


 アウロラは、幼いころから歩き慣れた城の中を、初めて知らない場所のように進んだ。


 夜の城は昼とは違う。


 昼には人の声に満ちていた壁が、夜には石そのものの呼吸を取り戻す。飾り窓の硝子には、月が細く映り、遠い塔の影が床に落ちている。


 そのとき、彼女は見た。


 西の古塔に、小さな灯りがともっていた。


 そこは、閉ざされていたはずの塔だった。


 子どものころ、何度か近づこうとして止められた場所。扉には古い錠が掛けられ、蔦の絡んだ階段には誰も近づかない。王城の中でありながら、地図から少し外されたような場所。


 その塔の高い窓に、灯りがあった。


 揺れている。


 誰かがいる。


 アウロラの心臓が、静かに速くなった。


 戻るべきだった。


 侍女を呼ぶべきだった。


 王妃に尋ねるべきだった。


 けれど、そのどれもできなかった。


 彼女はもう、何も知らないまま明日を迎えることに耐えられなかった。


 古塔へ続く扉は、思ったよりも簡単に開いた。


 錠は外れていた。


 蝶番が軋み、冷たい空気が流れ出す。そこには、古い紙と乾いた木、そして長く触れられていない糸の匂いがあった。


 アウロラは息を止めた。


 この匂いを知っている気がした。


 知らないはずなのに。


 階段は細く、螺旋を描いて上へ続いていた。壁にはかつて燭台が並んでいたらしいが、今はほとんどが空だった。ただ、ところどころに小さな灯火がともっている。誰かが、今夜ここを開けたのだ。


 石段を上るたび、足裏に冷たさが移る。


 やがて、塔の上の部屋に着いた。


 扉は半分開いていた。


 中には、古い記録部屋があった。


 壁一面に棚があり、そこには布に包まれた記録巻きが眠っていた。天井からは色あせた糸束が垂れ、中央には大きな覆い布を掛けられたものが置かれている。


 部屋の奥には、王妃セリアーヌの手のものと思われる小さな燭台があった。


 そして、机の上に一枚の布が広げられていた。


 古い祝名布。


 そこには、かすれた金糸で、ひとつの名が織りかけられていた。


 アウロラ=ロゼリア。


 その先は、空白だった。


 未来の糸が、まだ織られていない。


 アウロラは、そっと覆い布に手をかけた。


 指先が震えていた。


 布を引く。


 白い埃が舞った。


 その下にあったのは、王国最後の記録紡錘だった。


 スピナ=クロニカ。


 それは、彼女が想像していたような恐ろしい道具ではなかった。


 古い木の台座。銀の軸。細く美しい針。周囲には薔薇と暁の紋様が彫られている。紡錘の先には、一本だけ赤い糸が絡んでいた。


 まるで、待っていたように。


 アウロラは、目を離せなかった。


 これが、王国から消された音の中心。


 これが、自分の名の先にあるもの。


 これが、父が恐れ、母が隠し、王国が百の職人を失ってまで遠ざけたもの。


 針は月光を受け、静かに光っていた。


 鋭く。


 美しく。


 そして、ひどく寂しげに。


 アウロラは一歩、近づいた。


 その瞬間、どこか遠くで、鐘が鳴る準備をするような低い震えが起こった。


 まだ、十六歳の誕生日にはなっていない。


 けれど、夜はもう、境目に立っていた。


 アウロラは息を吸った。


 そして、記録紡錘の前に立った。

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