第3節 ― 老婆の林檎
白鏡城の朝は、雪よりも白かった。
白い石壁。白い回廊。白い絹の幕。白い息を吐く衛兵たち。王の喪が明けて久しいはずの城は、なおもどこか葬列の途中にあるように静まり返っていた。
けれど、王妃ヴェラディアの私室だけは違っていた。
そこには赤い火があった。
大理石の暖炉で燃える炎は、木を焼いているのではなかった。不要になった書付、古い招待状、母方の家名が記された封蝋つきの文書、白い布で包まれていた肖像画の裏書き――そうしたものが、細く、黒く、音もなく燃えていた。
炎の前に立つ王妃の横顔は美しかった。
雪の中に置かれた刃のように、冷たく整っていた。細い首、白い頬、黒真珠の耳飾り。喪服ではない黒絹のドレスは、彼女を悲しむ未亡人ではなく、城そのものを身にまとった支配者に見せていた。
その彼女の正面に、記録鏡《スペキュラ=レコード》があった。
銀の蔓飾りに囲まれた大きな鏡。鏡面はただの硝子ではなく、白く磨かれた鏡鉱の板でできている。表面には、見る角度によって王家の名簿、過去の戴冠式、臣下の署名、赤い血印、薄れていく肖像の輪郭が、波紋のように浮かんでは消えた。
ヴェラディアは、ゆっくりと鏡の前に立った。
「鏡よ、記録よ」
その声は静かだった。
怒りを含まないぶんだけ、なおさら恐ろしかった。
「この国でもっとも美しい者は誰」
鏡面が揺れた。
最初に映ったのは王妃自身だった。白い頬。黒い瞳。完璧に結い上げられた髪。王の死後、国の名簿を握り、城の鍵を握り、誰を宮廷に残し、誰を外へ追いやるかを決めてきた女の姿。
だが、次の瞬間、その像は薄く退いた。
鏡の奥に、雪が降った。
黒森の奥。七つの小さな灯。木々の隙間に隠れた家。暖炉の前で、白い肌の少女が、眠れぬまま膝を抱えている。
長い黒髪は梳かれておらず、頬には枝で切った赤い傷が残っている。王城の姫として飾られていたときよりも、ずっと弱々しい。けれど、その輪郭は消えていなかった。
鏡は答えた。
「雪肌の姫、ニヴェア=アルバ」
暖炉の中で、燃え残った紙がはぜた。
ヴェラディアの指が、扇の柄を折った。
「……まだ、その名で映るの」
声は低かった。
その問いに、鏡は答えなかった。ただ、雪の中にいる少女の姿だけを映し続けた。
王妃は、ゆっくりと鏡へ歩み寄った。
「母の肖像は外したわ。母方の光名も削った。王の死後に交わされた文書には、あの子の名を極力書かせなかった。戴冠の場にも、政務の場にも、遠ざけた。宮廷詩人には別の姫たちを歌わせた。使用人たちには、ただ“姫様”とだけ呼ぶよう命じた」
彼女は鏡面に触れた。
冷たかった。
「それでも、なぜ残るの」
鏡面の中で、雪が降る。
ニヴェアは、七坑の小人たちの家で、灰色の毛布を肩にかけていた。彼女の前には七つの器があり、そのどれもが少しずつ欠けていた。大きすぎる椅子はひとつもなく、小さすぎる寝台ばかりが並んでいる。その不釣り合いな空間の中で、ニヴェアは自分の居場所を探すように、そっと指を組んでいた。
王妃の瞳が細くなった。
「オルド」
扉の外で控えていた侍女が震えた。
「狩人オルドを呼びなさい」
だが、呼ばれたオルドはすぐには来なかった。
彼は城の外れ、馬小屋の陰で、森の獣から取った血印を洗い落としていた。手のひらに染み込んだ赤は、雪の水では薄くならなかった。
オルドは狩人だった。
嘘の扱いは得意ではない。獣の足跡を読むこと、傷の深さから逃げた方向を知ること、雪の重みで折れた枝がいつ折れたのかを見分けることならできた。だが、城の中の嘘は、森の罠よりもずっと深かった。
彼は王妃の前に膝をついた。
ヴェラディアは鏡の前に立ったまま、彼を見下ろした。
「よくも、わたしに獣の血を持ち帰ったわね」
オルドの肩が、わずかに揺れた。
「……王妃様」
「言い訳はいらないわ。鏡が映した。あの子は黒森の奥にいる。七坑の家にいる」
オルドは唇を噛んだ。
ニヴェアが森の中で振り返ったときの目を思い出した。
なぜ、と問う目ではなかった。
もう分かっている、と告げる目だった。
あの子は、狩人が剣を抜くよりも早く、自分が記録から消されようとしていることを悟っていた。
「……姫は、何も悪くありません」
「悪いかどうかなど、記録には関係ないわ」
ヴェラディアは微笑んだ。
「残るか、消えるかよ」
オルドは顔を上げた。
そこにある王妃の顔は、まだ美しかった。だが、その美しさは、磨かれすぎた鏡のようだった。映るものを選び、邪魔なものを歪め、都合の悪い光を消すためだけの冷たさがあった。
「わたしを罰しますか」
「いいえ」
王妃は静かに言った。
「あなたは、もう役に立たない」
そのひと言で、オルドの名が宮廷から一歩遠ざけられた。
彼自身にも、それが分かった。
王妃は背を向ける。
「下がりなさい。以後、あなたは王城の狩りには加えません」
オルドは何か言おうとした。だが、言葉は出なかった。
自分がニヴェアを救ったと思ったことさえ、あまりに浅かったのだと悟ったからだ。殺さなかっただけでは、救ったことにはならない。森の奥に置き去りにされた姫は、まだ鏡に追われている。
彼が退いたあと、王妃は部屋の鍵を下ろした。
そして、鏡に向かって言った。
「ならば、わたし自身が行くしかない」
鏡面が、わずかに暗くなった。
それは肯定にも、拒絶にも見えた。
王妃は暖炉の横の戸棚を開けた。
そこには香水瓶や宝石箱ではなく、小さな薬壺が並んでいた。白い粉。赤い雫。黒い蜜。名簿の隅を削った紙片を漬けた液。誰かの署名から掠め取った墨。王妃はそれらをひとつずつ取り出す。
最後に、銀の箱を開けた。
中には林檎があった。
冬の城にあるはずのない、艶やかな林檎。
半分は雪のように白い。半分は血のように赤い。
その境目は刃で切ったように真っ直ぐで、光を受けると、赤い側には脈のような筋が、白い側には薄い文字のような紋が浮かんだ。
記録毒林檎《マルム=メモリア》。
命を奪うためだけの毒ではない。
食べた者の現在を眠らせ、名の流れを止め、世界がその者を“生きている”と認識する力を曇らせる毒。
死なせれば、葬礼が行われる。誰かが嘆き、誰かが名を呼び、誰かが記録に残す。
けれど眠らせれば。
生きているとも、死んでいるとも、確かめられないまま、名は宙に吊られる。
やがて人は問わなくなる。
その者はどこへ行ったのか。
その者は本当にいたのか。
ヴェラディアは林檎を手に取った。
「美しいまま、記録の外へ落ちなさい」
それから王妃は、鏡の前に置かれた黒いヴェールを手に取った。
変装は、魔法ではなかった。
むしろ、記録をずらす技だった。
彼女は自分の署名から一画を抜き、老婆の古い通行札へ継ぎ足した。白い頬には薄灰の粉を塗り、目尻に皺を描いた。背を曲げるために銀の帯を緩め、声を濁らせるために苦い草を噛んだ。
鏡の中で、王妃の姿は少しずつ歪んでいく。
美しい王妃ではなく、籠を背負った老婆。
顔の輪郭は隠れ、手は節くれ、唇は乾き、瞳の奥だけが、まだ鋭い光を残していた。
ヴェラディアは、変わり果てた自分の姿を見て、かすかに笑った。
「鏡よ、記録よ。今のわたしは誰」
鏡は答えなかった。
それでよかった。
映らないなら、黒森へ入れる。
その頃、黒森の奥では、七坑の小人たちが朝の支度をしていた。
家の中には、湯気の立つ麦粥の匂いが満ちていた。低い天井からは乾いた薬草が吊るされ、暖炉のそばには濡れた手袋が七組並んでいる。壁には鏡鉱の欠片がいくつも埋め込まれていたが、王城の鏡のように姿を映すことはない。ただ、外から来る記録の揺れを鈍く弾くだけだった。
ニヴェアは、長老グランから借りた灰色の外套を羽織り、七つの器を洗っていた。
小人たちは彼女を姫とは呼ばなかった。
最初のうちは、ただ「白い子」と呼んだ。次に「雪の子」と呼んだ。そして、昨夜グランが彼女の話をすべて聞いたあと、初めてこう呼んだ。
「ニヴェア」
その響きは、城で呼ばれていたときよりも小さかった。
けれど、確かだった。
ニヴェアは、洗っていた木の器を落としそうになった。自分の名を聞くだけで、胸の奥が痛むとは思わなかった。城ではあんなにも当たり前だった名が、ここではまるで雪の中から掘り出された小さな灯のように感じられた。
「今日は坑へ入る」
グランが言った。
彼は七坑の小人たちの長老で、眉も髭も鉱石の粉で白くなっている。背は低いが、声は古い坑道の奥から響くように深かった。
「夕暮れ前には戻る。だが、それまで誰も入れるな」
隣にいた小人が、腰の工具袋を叩いた。
「王妃の鏡はここまでは届かん。だが、鏡の持ち主が歩いて来るなら別だ」
「歩いて?」
ニヴェアは顔を上げた。
グランは頷いた。
「鏡は遠くを見る。だが、扉を開ける手は持たん。毒を差し出す指も持たん。だから、記録を歪める者は、最後には自分で来る」
七つの椅子のそばで、若い小人が言った。
「名を問われても答えるな」
別の小人が続ける。
「鏡のように光るものを受け取るな」
「甘い声に返事をするな」
「白いものにも、赤いものにも気をつけろ」
ニヴェアは、彼らの言葉をひとつずつ胸に入れた。
怖くないと言えば嘘になる。
だが、ひとりで城にいたときよりは怖くなかった。ここでは彼女が消えかけていることを、誰かが知っている。ここでは彼女の名を、誰かが小さくとも呼んでくれる。
「分かりました」
ニヴェアは答えた。
「誰も入れません。名も答えません。光るものも受け取りません」
グランは彼女を見上げた。
「それでも、気をつけろ。いちばん危ないものは、怖い顔をして来るとは限らん」
そう言って、七坑の小人たちは家を出ていった。
雪の上に、小さな足跡が七つ並ぶ。
ニヴェアは扉に閂をかけ、窓の木戸を閉めた。火を細く保ち、器を棚へ戻し、七つの寝台の毛布を直す。
家の中は静かだった。
静けさの中で、彼女は自分の呼吸を聞いた。
吸う。
吐く。
私は生きている。
けれど、その言葉は声にはならなかった。
王城で誰かが自分の名を呼ぶことは、もうあるのだろうか。母の部屋はまだ閉ざされているのだろうか。あの白い布をかけられた記録棚の下に、母の筆跡は残っているのだろうか。
ここにいれば守られる。
だが、ここにいれば忘れられるのではないか。
その考えは、冷たい水のように彼女の胸に染みた。
暖炉の火が小さく鳴った。
そのとき、扉の外で、雪を踏む音がした。
ぎゅ、ぎゅ、と。
重く、遅い足音。
ニヴェアは息を止めた。
扉の向こうで、老婆の声がした。
「ごめんくださいな」
しわがれた、弱々しい声だった。
ニヴェアは答えなかった。
「おや、誰もいないのかねえ。こんな森の奥で、火の匂いがすると思ったのだけれど」
ニヴェアは、窓の隙間から外を見た。
そこには老婆がいた。
背を丸め、雪をかぶった外套をまとい、枝のように細い手で籠を抱えている。籠の中には赤い果実がいくつもあり、冬の森には似つかわしくない瑞々しい光を放っていた。
老婆は、扉を叩かなかった。
名を問わなかった。
ただ、扉の前に腰を下ろすようにして、深く息をついた。
「ああ、寒い。年寄りには、この森はこたえるねえ」
ニヴェアは唇を結んだ。
グランは言った。
誰も入れるな。
名を問われても答えるな。
光るものを受け取るな。
だが、老婆は何も求めてこなかった。
ただ、寒そうにしているだけだった。
「かわいそうに」
老婆が、ふいに言った。
ニヴェアの肩が揺れた。
それが自分に向けられた言葉だと分かったからだ。
「雪のような子。こんな森の奥で、ひとりぼっちかい」
ニヴェアは答えなかった。
けれど、胸の奥が痛んだ。
雪のような子。
姫ではなく。
名前でもなく。
けれど侮辱でもなかった。
「逃げ続けて、疲れただろう」
老婆の声は、扉の隙間から細く入り込んできた。
「追われるのは怖いねえ。忘れられるのは、もっと怖い。自分がまだ生きているのか、誰の記録に残っているのか、分からなくなる」
ニヴェアの指が、卓の縁を掴んだ。
なぜ、この老婆はそれを知っているのか。
疑う心があった。
だが、それ以上に、その言葉は彼女の疲れた場所へ届いてしまった。
城での夜。
名を呼ばれなくなった日々。
母の部屋の鍵。
白い布。
自分の席だけが、いつの間にか会議室から消えていたこと。
誰も大声で否定しなかった。誰も彼女を殺そうとはしなかった。ただ少しずつ、彼女がいないかのように物事が進んでいった。
消されるとは、剣で刺されることではない。
誰も呼ばなくなることだ。
「お食べ」
老婆は籠から林檎をひとつ取り出した。
半分は白く、半分は赤い。
雪の上で、その林檎だけが、異様なほど鮮やかだった。
「甘い林檎だよ。眠れば、怖い記録など見なくて済む。鏡も、城も、冷たい名前も、みんな遠くなる」
ニヴェアは、窓の小さな隙間からその林檎を見た。
白い側は、雪に似ていた。
赤い側は、血に似ていた。
白い雪。
赤い血。
黒い髪。
森の中に落ちた自分の三色を思い出す。
あのとき自分は、生きていた。枝で傷つき、血を流し、走った。痛みがあったから、生きていると分かった。
ならば、赤い側なら。
赤い、生の色なら。
ニヴェアは窓を開けなかった。
扉も開けなかった。
ただ、老婆が差し出した林檎を、細い窓格子の隙間から受け取ってしまった。
受け取った瞬間、林檎は冷たかった。
冬の果実とは思えないほど、冷たかった。
ニヴェアはそれに気づいた。
遅かった。
老婆は何も言わず、微笑んでいた。
「ひと口だけでいい」
ニヴェアは林檎を見つめた。
食べてはいけない。
それは分かっていた。
けれど、彼女の中には別の声があった。
もう疲れた。
呼ばれないことに耐えるのは疲れた。
生きていることを、自分だけで証明し続けるのは疲れた。
少しだけ眠りたい。
誰かが自分の名を呼んでくれるまで。
ニヴェアは、赤い側を噛んだ。
小さな音がした。
林檎の皮が裂ける音。
その瞬間、甘い香りが広がった。
甘すぎる香りだった。熟れた果実ではなく、古い手紙の封を切ったときのような、乾いた記憶の匂いがした。
ニヴェアの喉が震えた。
飲み込んではいけない。
そう思ったときには、毒は舌の上から名の奥へ入っていた。
世界の音が遠のく。
暖炉の火が白くなる。
七つの椅子がぼやける。
鏡鉱の欠片に映る自分の姿が、雪に消されるように薄れていく。
ニヴェアは卓に手をついた。
指先から力が抜ける。
膝が折れる。
床に倒れる直前、彼女は自分の名を呼ぼうとした。
ニヴェア。
だが、声にはならなかった。
扉の外で、老婆が立ち上がる音がした。
窓の向こうの顔が、わずかに変わる。
しわが薄れ、瞳が鋭く光り、唇だけが王妃ヴェラディアの形を取り戻す。
「美しいまま眠りなさい」
その声は、もう老婆のものではなかった。
ニヴェアは床に倒れたまま、薄れゆく視界で林檎を見た。
白い側にも。
赤い側にも。
同じ毒が入っていた。
「死んだ者は、もう鏡に映らない」
王妃は静かに笑った。
黒森の木々が、その声を飲み込んだ。
暖炉の火が、ひときわ小さく鳴った。




