第2節 ― 黒森と七つの寝台
黒森は、雪を降らせていた。
けれどそれは、空から落ちてくる雪ではなかった。枝に積もった白い霜が、風に削られて、細かな粉となって舞っているのだった。黒い幹。黒い枝。黒い土。そのすべての上を、薄い白が覆っている。
白鏡城から見下ろす森は、いつも静かに見えた。
けれど、足を踏み入れてみれば違った。
森は沈黙しているのではない。声を隠しているのだ。
枝が軋む音。雪の下で小動物が動く気配。遠くで鳥が翼を打つ音。凍った葉が擦れ合うかすかな響き。そのすべてが、誰かの囁きのようにニヴェアの耳へ触れた。
オルドは前を歩いていた。
狩人の外套は雪を弾く黒革で、肩には白い霜が薄く積もっている。腰には短剣。背には弓。手には、城を出るときには持っていなかった長い狩猟剣が握られていた。
ニヴェアは、その剣を見ていた。
城の廊下で見た剣とは違う。
儀礼用の銀ではない。磨き上げられた飾りでもない。獣の皮を剥ぎ、骨を断ち、血の匂いを知っている刃だった。
「オルド」
ニヴェアが名を呼ぶと、狩人の背がわずかに揺れた。
彼は振り返らなかった。
「どこまで行くの」
「……もう少しです、姫様」
「姫様、なのね」
その言葉に、今度こそオルドは足を止めた。
ニヴェアもまた止まった。
雪の上に、彼女の足跡が細く続いている。城の靴は森を歩くためのものではなく、薄い革はすでに濡れはじめていた。足先が冷たい。指の感覚が遠くなっていく。
けれど、その冷たさよりも、オルドの沈黙の方がずっと重かった。
「城では、もう誰も、わたしを名で呼ばない」
ニヴェアは言った。
森がその声を吸い込む。
「あなたは、まだ姫様と呼ぶのね。けれど、それも……役目の名でしょう」
オルドの肩に積もった雪が、ひとつ、滑り落ちた。
「ニヴェア様」
ようやく、彼は振り返った。
その顔は苦しげだった。狩人の目は獣を見据えるために鋭い。遠い枝の揺れも、雪に隠れた足跡も、風向きさえ読む。その目がいま、目の前にいる少女をまっすぐ見られずにいる。
ニヴェアは悟った。
王妃は彼に命じたのだ。
森へ連れていけ、と。
戻るときには証を持ち帰れ、と。
心臓ではなくていい。
生きていた証だけを。
血印を。
「そう」
ニヴェアは、思ったより静かな声で言った。
不思議だった。
怖くないわけではない。怖い。喉の奥が凍ったように固く、手袋の中の指は震えている。けれど、恐怖はどこか遠くで燃えている火のようだった。
それよりも先に胸に浮かんだのは、城の白い布だった。
母の部屋を覆っていた布。
記録棚を覆っていた布。
自分の名が少しずつ呼ばれなくなっていく日々。
鏡が、それでも自分を映したこと。
王妃が、その鏡を憎んだこと。
「わたしは、殺されるのではないのね」
ニヴェアは言った。
「消されるのね」
オルドは剣を握る手に力を込めた。
刃が、雪明かりを受けて鈍く光る。
「お逃げください」
掠れた声だった。
「姫様。いえ、ニヴェア様。どうか、お逃げください」
「オルド」
「私は、あなたを斬れません」
彼は膝をつき、剣を雪の上へ置いた。
その動作は、王家に剣を返す臣下のようでもあり、罪を認める者のようでもあった。
「ですが、城へは戻れません。王妃は、あなたが戻れば、今度はもっと確実な者を送るでしょう。私は……私は、獣の血印を持って戻ります。しばらくは欺ける。けれど長くはもちません」
「あなたは、罰せられるわ」
「かもしれません」
「それでも?」
オルドは顔を上げた。
雪に濡れたまつげの下で、狩人の目はようやくニヴェアを見た。
「私の子が、先の冬に熱を出したとき、王妃の侍医は見捨てました。身分の低い者に薬を使う必要はない、と。ですが、あなたの母君の残した薬室を開けてくださったのは、ニヴェア様、あなたでした」
ニヴェアは息を呑んだ。
覚えていた。
幼い子の額に濡れ布を置いたこと。母が昔教えてくれた薬草の名を思い出しながら、侍女に薬棚を開けさせたこと。あのとき、王妃はひどく不快そうな顔をした。
けれど、ニヴェアにとっては、それは特別な善行ではなかった。
母の部屋に残されていたものを、必要な人へ渡しただけだった。
「私は、その名を覚えています」
オルドは言った。
「あなたが、ただ白い肌の姫ではなかったことを。誰かを記録から外すことを、よしとしなかった人であることを」
雪が降っている。
降っているように見える。
黒森の枝先から落ちる白い粉が、二人の間を隔てる帳のように揺れた。
「森の奥へ行ってください。七坑の者たちの古い小屋があります。彼らは王城の記録を嫌います。王妃の鏡も、あそこまでは届きにくい」
「七坑の者たち?」
「鏡鉱を掘る小人たちです。気難しいが、恩を忘れぬ者たちでもあります。あなたの母君は、昔、彼らの採掘権を王家の搾取から守った」
母。
その名のかわりに、胸の奥で小さな灯が揺れた。
ニヴェアは、母の顔をはっきりと思い出そうとした。けれど、記憶の輪郭は白い布の向こうにあるように滲んでいる。
王妃が外した肖像。
閉ざされた部屋。
薄められていく母方の光名。
忘れたのではない。
忘れさせられようとしているのだ。
「行きなさい」
オルドは立ち上がり、剣を拾わなかった。
代わりに、自分の短剣を抜き、近くの茨を切り払った。
黒い枝の奥に、細い獣道が現れる。
「この道をまっすぐ。途中で、声が聞こえても答えてはいけません。森は人の名を覚えます。覚えた名を、必ずしも優しく扱うとは限らない」
ニヴェアは頷いた。
けれど、足はすぐには動かなかった。
「オルド」
「はい」
「あなたは、わたしを逃がしたことを、記録には残せないわね」
オルドは苦く笑った。
「狩人の記録など、もともと王城では重んじられません」
「それでも」
ニヴェアは一歩、彼へ近づいた。
雪の上に、彼女の靴跡がつく。
「わたしは覚えます」
オルドの顔が歪んだ。
それは泣き顔に近かったが、狩人は泣かなかった。
「ならば、十分です」
彼はそう言い、深く頭を下げた。
ニヴェアは走った。
最初は、歩くような速さだった。濡れた靴が重く、雪に足を取られる。枝が頬をかすめた。外套の裾が茨に絡まる。息が白く弾ける。
それでも、背後から追ってくる足音はなかった。
代わりに、森が彼女を見ていた。
黒い幹の隙間に、鳥の目が光る。雪の上に、小さな獣の足跡が交差する。遠くで狼が鳴いた気がしたが、それは風だったかもしれない。
ニヴェアは、母から聞いた古い言い伝えを思い出す。
黒森では、自分の名をむやみに口にしてはいけない。
森は名を記録する。
そして記録された名は、ときに迷い、ときに帰れなくなる。
だからニヴェアは、息の中でさえ自分の名を呼ばなかった。
けれど、森は別のものを残した。
枝が彼女の髪を引いた。
黒い髪がひと房、茨に絡まる。振りほどこうとして、細い枝が頬を掠めた。白い肌に浅い傷が走り、そこから赤い血が滲む。
ぽたり、と。
雪の上に、赤が落ちた。
ニヴェアは立ち止まった。
白い雪。
赤い血。
黒い髪。
三つの色が、森の中に小さな印のように残っている。
それは、誰かに見つけてほしい目印ではなかった。むしろ、追手にとっては危うい痕跡だった。
けれどニヴェアは、それを消せなかった。
消してしまえば、自分がここを通ったことまで消えてしまうような気がした。
記録から消されるために逃げているのに。
逃げながら、自分のいた証を残したいと思ってしまう。
その矛盾が、胸をひどく痛ませた。
ニヴェアは手袋で頬を押さえた。白い手袋に赤が滲んだ。
「……わたしは」
声が漏れた。
自分の名を言いかけて、飲み込む。
代わりに、母の言葉を思い出した。
名を奪われそうなときは、名そのものではなく、その名で何を選んだかを覚えていなさい。
ニヴェアは再び走った。
森の奥へ。
黒い枝が重なり、空が狭くなる。雪は深くなり、城の靴はついに片方の留め紐が切れた。転びそうになりながら、彼女は木の幹に手をつく。樹皮は冷たく、黒い煤のようなものが指についた。
どれほど走ったのか、わからなかった。
時間の感覚が消えたころ、森の匂いが変わった。
冷たい土と雪の匂いの中に、かすかな煙の匂いが混じった。薪が燃える匂い。煮込まれた根菜の匂い。鉄と石の、乾いた熱の匂い。
ニヴェアは顔を上げた。
木々の隙間に、小さな灯が見えた。
その灯は城の燭台のように高くも、金色にも輝いていない。低く、温かく、地面に近い場所で揺れている。
近づくと、小さな家があった。
屋根には雪が厚く積もり、煙突から細い煙が上がっている。壁は黒い石と木材で組まれ、窓枠には鏡鉱の欠片が埋め込まれていた。月も出ていないのに、その欠片は内側からわずかに光っている。
扉は、普通の屋敷の扉よりずっと低かった。
ニヴェアが身を屈めて取っ手に触れると、扉は軋んで開いた。
「ごめんください」
声をかけたが、返事はなかった。
中は、驚くほど整っていた。
まず目に入ったのは、七つの椅子だった。
大きさは少しずつ違う。背もたれの形も違う。ひとつは丸く、ひとつは尖り、ひとつには古い鉱山印が彫られている。
その前には七つの器。
木の皿、鉄の杯、石をくり抜いた椀。残っていた煮込みは冷めかけていたが、まだ食べられる匂いがした。
部屋の奥には、七つの寝台が並んでいた。
粗末ではない。
小さいけれど、丁寧に整えられている。毛布には鉱山で使う符号が刺繍され、それぞれの枕元には小さな道具が置かれていた。槌。鑿。灯り石。古い眼鏡。短い笛。曲がった銀匙。そして、鏡鉱の欠片。
暖炉の火は、弱く残っていた。
ニヴェアは、その火の前まで歩いた。
指先の感覚はほとんどなかった。頬の傷はもう痛みより冷たさの方が強い。足も震えている。息をすると胸が痛む。
炉のそばにしゃがみ込むと、目の前がふっと暗くなった。
眠ってはいけない。
そう思った。
けれど、眠らずにはいられなかった。
七つの寝台のうち、いちばん端の寝台に、彼女は横になった。毛布に触れた瞬間、地下の石のような匂いがした。鉱山の匂い。土の中に長く眠っていたものの匂い。
安心してはいけない場所のはずなのに、不思議と胸が少しだけ緩んだ。
ここには、城の香油の匂いがない。
白い布の匂いもない。
記録を消すための冷たい香の匂いもない。
ニヴェアは、眠りに落ちる直前、暖炉の奥で何かが光るのを見た。
鏡鉱の欠片だった。
それは王妃の記録鏡のように滑らかではなく、割れて、歪んで、黒い筋が入っている。
けれど、その欠片は確かに、眠るニヴェアの姿を映していた。
小さく。
欠けたまま。
それでも、消さずに。
*
七坑の小人たちが戻ってきたのは、夜が深くなってからだった。
最初に扉を開けたのは、鼻の赤い小人だった。背には鉱石袋を担ぎ、手には灯り石を掲げている。彼は一歩入るなり、ぴたりと止まった。
「誰かおる」
低い声だった。
続いて、後ろから六つの影が押し合うように入ってくる。
「また狐か」
「狐が扉を閉めるか」
「では盗人か」
「盗人が寝台で寝るか」
「寝る盗人もおる」
「おまえは何でも盗人にするな」
小さな声が重なった。
彼らは小さいが、弱々しくはなかった。背は低く、肩は広く、手は岩のように節くれ立っている。髭の長い者、髭のない若い者、片目に鏡鉱の単眼鏡をつけた者、帽子に鉱山符号を縫いつけた者。全員の衣服に、煤と石粉が染みていた。
そして、いちばん後ろから入ってきた老人が、灯り石を高く掲げた。
「静かにせい」
その一言で、他の六人は黙った。
老人は長い白髭を三つ編みにし、その先に小さな鉱石片を結んでいた。目は深い灰色で、鏡鉱のように光を反射する。彼は寝台に近づき、眠るニヴェアを見下ろした。
「人間の娘か」
「城の匂いがする」
「血の匂いもするぞ」
「この髪、黒森の茨が持っていったやつと同じだ」
「白い肌に赤い血、黒い髪……」
「絵本みたいなことを言うな」
「絵本など読むか」
小人たちの囁きがまた揺れた。
老人はニヴェアの頬の傷を見た。
それから、彼女の手袋に滲んだ血を見た。
そして、彼女の胸元に残っていた王家の小さな銀刺繍を見つけた。王妃に薄められ、ほとんど目立たぬようにされていたが、雪の結晶を抱く白い花の紋だった。
「……アルバの子か」
老人の声が低くなった。
若い小人のひとりが息を呑む。
「アルバ? 王城の?」
「王妃が消したがっている名ではないか」
「では、ここに置くのは危ない」
「追手が来る」
「鏡が来る」
「鏡が来るなら、石を伏せればいい」
「王妃の鏡は、伏せた石の裏まで覗くぞ」
「覗けん場所もある」
老人は、杖で床を一度叩いた。
こつん、という音がした。
その下から、さらに深い石の響きが返る。
「ここは七坑の家じゃ」
老人は言った。
「王城の鏡は、地上の顔なら映す。磨いた名なら読む。だが、地の下で割れた記録までは、そう簡単には拾えん」
彼は暖炉のそばに置かれた鏡鉱の欠片へ歩いた。
その欠片には、眠るニヴェアの姿が映っている。老人が手をかざすと、映像は揺れ、やがて白い霧に包まれて消えた。
「グラン爺」
鼻の赤い小人が言った。
「匿うのか」
老人――グランは、しばらく答えなかった。
代わりに、炉へ薪を足した。火が小さく鳴り、赤い舌を伸ばす。
「この娘の母は、わしらの坑道を守った」
グランは言った。
「王城の者が鏡鉱をすべて徴発しようとしたとき、アルバ妃は七坑の名を王の帳に残した。小人は王の道具ではない、坑には坑の名がある、と言ってな」
「昔話だ」
「昔話は、古い記録の別名じゃ」
グランは振り返った。
「その娘が今度は記録から消されかけておる。ならば、七坑は借りを返す」
六人は顔を見合わせた。
誰も明るく頷きはしなかった。
だが、誰も反対もしなかった。
*
ニヴェアが目を覚ましたとき、最初に見えたのは、七つの顔だった。
思わず息を呑んで起き上がろうとしたが、額に冷たい布が乗っていることに気づいた。頬の傷には薬草が当てられ、足元には乾いた毛布がかけられている。
「起きた」
「人間はすぐ起きるな」
「寝たら三日は寝るものだろう」
「それはおまえだ」
「腹が減っておるはずだ」
「先に名を聞け」
「名を聞くのは危ない」
小人たちは、一斉に喋った。
ニヴェアは目を瞬かせた。
城の人々とは、何もかも違う。
彼らは礼儀正しくない。声は低く、言葉はぶつかり、視線は遠慮なくこちらを見る。けれど、その視線には、王城で浴びせられた冷たい計算がなかった。
グランが椅子に座り、彼女を見た。
「娘。おまえの名は、ここでは無理に言わんでいい」
ニヴェアは喉に手を当てた。
名を言わなくていい。
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。
城では名を呼ばれなくなった。
ここでは名を言わなくていいと言われた。
同じ沈黙なのに、意味が違う。
「……わたしは」
言いかけて、ニヴェアは迷った。
森は名を覚える。
王妃の鏡は名を探す。
自分の名を口にすることが、自分を危うくするのかもしれない。
けれど、名を言えないことは、またひとつ自分が薄くなるようで怖かった。
グランは、その迷いを見抜いたように頷いた。
「王城で何があったかは、おおよそわかる。白鏡の王妃は、鏡鉱を好むくせに、鏡鉱の性質をわかっておらん」
「性質?」
「鏡は顔を映すものではない」
グランは、暖炉の上に置かれた欠けた鏡鉱を指した。
「映ったものが、そこにあったと記録するものじゃ。だから、真に強い鏡は美醜を測らん。存在の輪郭を測る。歪められた名、削られた身分、隠された血筋。そういうものを、光の薄さで見る」
ニヴェアは、白鏡城の記録鏡を思い出した。
鏡よ、記録よ。
この国でもっとも美しい者は誰。
あの問いは、顔のことではなかったのだ。
王妃は、自分がもっとも正しく、もっとも強く、もっとも中心に記録されている存在でありたいのだ。
だから、記録鏡がニヴェアを映すことを許せない。
「わたしは……消されかけているのですね」
ニヴェアが言うと、小人たちは静かになった。
グランは深く頷いた。
「王城の名簿から外す。肖像を外す。母方の名を薄める。使用人に名を呼ばせぬ。そうすれば、人は死なずとも消える」
「生きていても?」
「生きていてもじゃ」
その言葉は、暖炉の火よりも熱く、胸の内側を焼いた。
ニヴェアは毛布を握りしめた。
「では、ここにいれば安全なのですか」
グランはすぐには答えなかった。
小人たちも視線を落とす。
火がぱちりと鳴った。
「ここは王妃の鏡が届かん」
グランはゆっくり言った。
「だが、届かんということは、守られるということでもあり、忘れられるということでもある」
ニヴェアは、意味を理解するまでに少し時間がかかった。
王妃の鏡に映らない。
追手に見つかりにくい。
それは確かに安全だ。
けれど、映らないということは、世界の表に記録されないということでもある。
白鏡城に戻れない。
城の名簿にも載らない。
母の部屋にも辿り着けない。
ここで匿われることは、命を守ることだ。
同時に、自分が端へ追いやられたままになることでもある。
「わたしは、逃げたのではないのですね」
ニヴェアは呟いた。
七つの寝台。
七つの器。
暖炉。
鏡鉱の欠片。
この小さな家は、温かい。けれど、王城から切り離された場所だった。世界の記録の余白。中央に記される者ではなく、削られ、はみ出し、しかし完全には消えなかったものたちの場所。
「わたしは……記録の端に立っている」
グランは何も言わなかった。
その沈黙が、答えだった。
ニヴェアは、窓の外を見た。
黒森には、まだ雪が舞っている。
遠く、城の方角は見えない。白鏡城の塔も、王妃の鏡も、そこからは届かない。
けれど、森の雪の中には、自分の血が落ちている。
白い雪。
赤い血。
黒い髪。
彼女がそこを通った証は、まだ消えていない。
ニヴェアは、自分の頬の傷にそっと触れた。
痛みがある。
ならば、まだ生きている。
名を削られても、記録の端に追われても、自分の中に残る痛みまでは、王妃の鏡にも消せない。
「ここに、置いてください」
ニヴェアは言った。
声は震えていたが、消えてはいなかった。
「でも、忘れられるためではなく」
七人の小人が彼女を見る。
ニヴェアは顔を上げた。
「戻るために。いつか、わたしが生きていたことを、自分で取り戻すために」
グランの灰色の目が、暖炉の火を受けて光った。
「よかろう」
彼は言った。
「ならば、ここで眠れ。食え。傷を治せ。鏡の届かぬ場所で、おまえの輪郭を守れ」
それから、老人は少しだけ笑った。
「ただし、七坑の家には七坑の決まりがある。勝手に扉を開けるな。知らぬ声に返事をするな。窓から差し出されたものを口にするな」
その言葉に、若い小人のひとりが肩をすくめた。
「森では、それが長生きのこつだ」
ニヴェアは頷いた。
そのときはまだ、彼女は知らなかった。
王妃ヴェラディアが、獣の血印を受け取りながらも、記録鏡の前で再び問いかけることを。
鏡が、やはり雪肌の姫の名を答えることを。
そして、白鏡城の奥で、毒を含んだ林檎の記録が、赤く、静かに書き換えられはじめていることを。




