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第1節 ― 鏡よ、記録よ、誰が残る

 白鏡城の朝は、いつも雪より白かった。


 城壁は冬の光を受けて淡く輝き、塔の窓には、夜明け前の空が薄い青となって映っている。中庭の噴水はまだ凍っており、白薔薇の枝には霜がついていた。風が吹くたび、枝先から小さな氷の粒が落ち、石畳の上でかすかに鳴った。


 その音は、誰かが小さな硝子片を落としたようにも聞こえた。


 白鏡城は、王国でもっとも美しい城と呼ばれていた。


 けれど、その美しさは、誰かを迎えるためのものではなかった。


 磨き上げられた廊下。

 銀の縁取りが施された扉。

 絹の天幕に覆われた広間。

 名家の紋章が並ぶ壁。


 すべてが正しく、乱れなく、古い王家の品格にふさわしく整えられている。


 ただ、そこには少しずつ、あるものが欠けていった。


 王の肖像の隣にあったはずの、先王妃の絵。

 王女の幼いころの祝名式を記した銀板。

 母方の光名を示す白金の紋章。

 そして、城の者たちが朝の挨拶とともに口にしていた、ひとりの姫の名。


 それらはある日突然消えたのではない。


 昨日は、白布がかけられた。

 その前の日には、別室へ移された。

 さらに前の日には、修復のためと告げられた。

 それより前には、古くなった記録を整理する必要があると説明された。


 ひとつずつ。

 静かに。

 誰も悲鳴を上げるほどではない速さで。


 白鏡城の中から、ニヴェア=アルバにまつわる記録は、白い霧に包まれるように薄くなっていった。


 その日も、王妃ヴェラディアは夜明け前に目を覚ました。


 寝室の奥、重い銀扉の向こうに、記録鏡《スペキュラ=レコード》がある。


 ただの鏡ではない。


 王家が代々受け継いできた、名を映す鏡だった。人の顔を美しく映すのではなく、その者がどれほど歪まずに世界へ記録されているかを映す。嘘の称号、偽の家名、上書きされた身分、塗り替えられた肖像。そうしたものの下に残る、本来の輪郭を読み取る鏡である。


 王たちはこの鏡を、戴冠の前に覗いたという。


 自分が王であるに足る名を持つか。

 自分の名が、国の記録に耐えられるか。

 自分は、誰かから奪った冠をかぶってはいないか。


 それを確かめるために。


 だが、いま鏡の前に立つヴェラディアの問いは、かつての王たちのそれとは少し違っていた。


 彼女は黒い夜衣の上に、白銀の外套を羽織っていた。髪は夜のように濃く、額には細い冠が載っている。美しい女だった。誰もがそう言った。貴族たちは彼女の姿勢を褒め、侍女たちは彼女の肌を褒め、画家たちは彼女の横顔を描きたがった。


 けれど、ヴェラディアは、それを信じていなかった。


 美しさとは、褒め言葉ではない。


 美しさとは、残ることだ。


 正史に残ること。

 王家の中心に記されること。

 誰かの記憶ではなく、国の記録そのものに刻まれること。


 彼女は、そう信じていた。


 ヴェラディアは鏡の前に立ち、指先で銀の縁をなぞった。


 鏡面はまだ暗い。深い水のように黒く、そこに映るはずの彼女の姿さえ、すぐには浮かび上がらない。


 王妃は囁いた。


「鏡よ、記録よ」


 その声は柔らかく、祈りにも似ていた。


「この国でもっとも美しい者は誰」


 鏡面に白い波紋が広がった。


 硝子の奥で、誰かが頁をめくるような音がした。古い羊皮紙が擦れ、銀筆が走り、見えない名簿の中からひとつの名が引き出される。


 やがて、鏡は答えた。


「雪肌の姫、ニヴェア=アルバ」


 ヴェラディアの指が止まった。


 鏡の中に、少女の姿が浮かび上がる。


 雪のように白い肌。

 黒檀のような髪。

 血を一滴落としたような唇。


 だが、鏡が映していたのは、その顔立ちではなかった。


 少女の周囲には、淡い光の糸が幾重にも揺れていた。母から受け継いだ光名。王から与えられた祝名。幼いころ、国中の鐘が鳴った日に記された王女の名。侍女が微笑みながら呼んだ愛称。庭師が花を渡すときに添えた敬称。母が寝物語の終わりに囁いた、誰にも記録されなかった小さな呼び名。


 それらが、まだ彼女の周囲に残っている。


 薄めても、覆っても、剥がしても、消えきってはいない。


 ヴェラディアの唇が、ゆっくりと歪んだ。


「……まだ?」


 鏡は答えない。


「まだ、あの子なの?」


 王妃の声は低くなった。


「あの子の母の名は、もう王家の祈祷簿から外したわ。肖像も、祝名式の記録も、母方の紋章も。あの子の席は、正式な王女席から一段下げた。名簿官にも命じた。宮廷の記録では、あの子を次代の継承候補から外すようにと」


 鏡面の中で、ニヴェアの姿は揺れなかった。


 ただ、静かにそこにいる。


 ヴェラディアは笑った。


 美しい笑みだった。見た者がいれば、王妃の気品に息を呑んだだろう。だが、その目の奥には、冷たい刃のようなものがあった。


「顔の話をしているのではないのよ」


 彼女は鏡に近づいた。


「この国に残るべき名の話をしているの」


 そのころ、ニヴェア=アルバは東の回廊を歩いていた。


 朝の祈りへ向かう途中だった。


 白い石柱の間を進むと、窓の外に雪の庭が見える。幼いころ、母と歩いた庭だった。春には白薔薇が咲き、夏には薄青い小鳥が水盤へ降りた。母はそこで、ニヴェアに花の名を教えた。


 白薔薇。

 銀木犀。

 雪鈴草。

 名を知らない花は、世界からすぐに迷子になるのよ。


 母はそう言って笑った。


 だからニヴェアは、花の名をよく覚えていた。人の名も、できるだけ覚えるようにした。廊下ですれ違う侍女、庭師、書庫番、門番、厨房の少年。たとえ相手が驚いても、ニヴェアはなるべく名を呼んだ。


 名を呼ぶことは、そこにいると認めることだったから。


 けれど最近、彼女自身の名は、あまり呼ばれなくなっていた。


「姫様、おはようございます」


 侍女が頭を下げる。


 以前なら、そこに「ニヴェア様」と続いた。


 ニヴェアは足を止めた。


「おはよう、リシア」


 侍女は一瞬だけ顔を上げ、怯えたように目を伏せた。


「……恐れ入ります、姫様」


 名を呼び返すことさえ、何かに触れるように怖がっている。


 ニヴェアは微笑もうとした。けれど、頬がうまく動かなかった。


 次の角を曲がると、母の部屋へ続く扉が見えた。


 白布で覆われている。


 その前には、いつのまにか新しい燭台が置かれていた。白い蝋燭が三本。祈りのためではなく、封じるための灯に見えた。


「修復中だと聞きました」


 ニヴェアは背後の侍従に言った。


「はい、姫様」


「いつ終わるのですか」


「王妃陛下のご判断を待っております」


「母の部屋です」


 侍従は答えなかった。


 ニヴェアは白布のかかった扉を見つめた。


 母の香りは、もうしなかった。


 いつからだろう。


 母の名を口にする者が減った。

 母の肖像の前で花を替える者がいなくなった。

 母の生まれた家の紋章を、誰も磨かなくなった。


 そして、自分の名も。


 ニヴェア=アルバ。


 母が、雪の日にくれた名。

 王が、祝福の鐘とともに国へ告げた名。


 それが、白鏡城の中で少しずつ遠くなっている。


 まるで雪の上に残した足跡が、朝の光で溶けていくように。


 祈りの間に着くと、そこにはすでに王妃ヴェラディアがいた。


 彼女は白い喪のような衣を着て、祭壇の前に立っていた。振り返った顔は穏やかで、誰が見ても慈母のようだった。


「ニヴェア」


 久しぶりに名を呼ばれた。


 その瞬間、ニヴェアの胸が小さく震えた。


 嬉しかったわけではない。


 その名が、王妃の口から出たとき、まるで薄い刃で触れられたような寒さを覚えた。


「はい、王妃陛下」


「今日は黒森へ行きなさい」


 ニヴェアは瞬きをした。


「黒森へ?」


「ええ。祈りの枝を取りに行くのです。冬至祭に使う白榛の枝が必要でしょう。あなたの母も、昔は自分で取りに行ったと聞いています」


 母の話を出され、ニヴェアは息を呑んだ。


 ヴェラディアは優しく微笑む。


「狩人のオルドをつけます。道に迷うことはありません」


 祈りの枝。


 確かに、母は冬至祭の前に黒森へ出たことがあると言っていた。けれど、それは王女がひとりで行う務めではなかったはずだ。まして、王妃から直接命じられるようなものではない。


 何かが違う。


 そう思った。


 けれど、その違和感を言葉にする前に、ヴェラディアは侍従へ目を向けた。


「支度を」


 命令は、すでに決まっていた。


 黒森へ向かう馬車は、昼前に城門を出た。


 空は灰色で、雪は降っていない。けれど、風は冷たく、遠くの山並みは白く霞んでいた。


 狩人オルドは、無口な男だった。


 年は四十を越えているだろうか。黒い外套をまとい、腰に狩猟刀を下げている。顔には深い皺があり、目の色は森の影に似ていた。彼は王家に仕える狩人であり、黒森の道をもっともよく知る者だと聞いていた。


 幼いころ、ニヴェアは一度だけ彼に会ったことがある。


 城の庭へ迷い込んだ傷ついた鹿を、彼が助けた日だった。鹿を殺すのではなく、森へ戻すために傷を縫っていた。母はそのとき、ニヴェアに言った。


 あの人は、殺すためだけに森を知っているのではないのよ。


 だから、最初は怖くなかった。


 けれど馬車が城下を離れ、白い道が黒い木々の間へ細く伸びはじめたころ、ニヴェアはオルドの手が何度も腰の刀へ触れるのを見た。


 黒森は、昼でも暗かった。


 木々の幹は黒く、枝は空を裂く指のように絡み合っている。雪は地面に積もっているのに、森の奥だけは白く見えない。雪の上には獣の足跡があり、その上をさらに古い影が覆っていた。


 馬車は森の入口で止まった。


「ここからは歩きます」


 オルドが言った。


 ニヴェアは頷き、外套の前を握った。


「祈りの枝は、どのあたりに?」


「奥です」


 短い答えだった。


 森に入ると、音が変わった。


 城では、靴音も、衣擦れも、遠くの鐘も、すべて石と硝子に反響していた。けれど黒森では、音はすぐに枝と雪に吸われる。自分の呼吸だけが妙に近く聞こえた。


 しばらく歩いたところで、ニヴェアは足を止めた。


 白榛の木など、どこにもなかった。


 冬至祭に使う祈りの枝は、銀白色の幹を持ち、葉を落としても枝先が淡く光る。母に教わったから、見れば分かる。


 けれど周囲にあるのは、黒い幹の木ばかりだった。


「オルド」


 ニヴェアは狩人の名を呼んだ。


 彼の肩がわずかに揺れた。


「ここではないのでしょう」


 オルドは答えなかった。


「王妃陛下は、何を命じたのですか」


 森の奥で、烏が一羽鳴いた。


 オルドはゆっくり振り返った。顔色が悪かった。寒さのせいではない。


「姫様」


 その呼び方に、ニヴェアは胸の奥が冷えるのを感じた。


 彼は、名を呼ばなかった。


「お戻りください」


「戻れるのですか」


 オルドは唇を噛んだ。


 答えはなかった。


 ニヴェアは一歩、後ろへ下がった。雪が靴の下で沈む。


「王妃陛下は、私を森へ連れていくよう命じたのですね」


「……はい」


「そして?」


 オルドの手が、腰の刀に触れた。


 ニヴェアはその動きを見た。怖いはずなのに、不思議と叫び声は出なかった。城の中で少しずつ名を呼ばれなくなっていくほうが、もっと長く、もっと静かに怖かったからかもしれない。


 オルドは苦しそうに言った。


「血印を」


「血印?」


「あなたが、生きていた証を持ち帰れと」


 心臓ではない。


 それでも、同じことだった。


 命を奪うか、記録を奪うか。王妃にとっては、きっと大きな違いではない。血印が戻れば、白鏡城の記録にはこう書ける。


 雪肌の姫は黒森で失われた。

 その血は確認された。

 その名は、以後、追悼の記録へ移される。


 生きていても、王国の中では死んだことにされる。


 ニヴェアは、ようやく理解した。


 王妃は自分の命だけを狙っているのではない。


 自分が生きていたという記録そのものを、王城から消そうとしている。


 母の肖像を外したのも。

 名簿を薄めたのも。

 使用人たちに名を呼ばせなくしたのも。

 すべて、この日のためだった。


 人は、名を呼ばれなくなると、消えやすくなる。


 ニヴェアは、外套の胸元を握った。


 そこには、母から受け継いだ小さな白金の留め具がある。表には何の紋章もない。ただ裏側に、肉眼では読めないほど細く、母方の光名が刻まれていた。


 城の記録棚からは外された名。


 けれど、まだここに残っている名。


「オルド」


 ニヴェアはもう一度、狩人の名を呼んだ。


 彼は顔を歪めた。


「お願いです、姫様。私の名を、そんなふうに呼ばないでください」


「なぜ」


「殺せなくなる」


 雪の上に、重い沈黙が落ちた。


 ニヴェアは息を吸った。冷たい空気が喉を刺す。


 怖い。

 逃げたい。

 けれど、逃げる道など知らない。


 それでも、彼女は思った。


 ここで黙れば、本当に消される。


 王妃が望んだとおりに。

 白鏡城の誰にも、名を呼ばれないまま。


「私は」


 声が震えた。


 それでも、ニヴェアは言った。


「私は、ニヴェア=アルバです」


 黒森の枝が、わずかに揺れた。


「王の娘で、白鏡城に生まれ、母から光名を受け継いだ者です」


 オルドは目を閉じた。


「姫様……」


「あなたが私の血印を持ち帰れば、私は記録の上では死ぬのでしょう。でも、私はここにいます。まだ、生きています」


 その言葉を口にした瞬間、ニヴェアは自分の内側に小さな熱が灯るのを感じた。


 それは勇気というほど強いものではなかった。


 けれど、雪の下で消えずに残る種火のようだった。


 オルドは刀を抜いた。


 鈍い光が、黒森の中で揺れた。


 ニヴェアは身を強張らせた。


 けれど刃は、彼女へ向けられなかった。


 オルドは自分の掌を浅く切った。赤い血が雪の上に落ちる。白い雪に、鮮やかな点がひとつ、ふたつと滲んだ。


「これでは足りない」


 彼は低く言った。


「王妃は、すぐに見抜くでしょう」


「では、なぜ」


「時間を稼ぐためです」


 オルドは血のついた布を取り出し、小さな銀の印章箱に押し込んだ。


「私は、あなたを殺したと報告します。血印は獣に荒らされたため、不完全だったと」


「あなたは罰せられます」


「森の者は、もともと長く城には残れません」


 彼は初めて、ニヴェアをまっすぐ見た。


「黒森の奥へ行きなさい。白鏡城へ戻ってはいけません。王妃は、あなたが生きていると知れば、次は血だけでは済ませない」


「でも、私は……」


 帰る場所を失う。


 その言葉は、声にならなかった。


 城には母の部屋がある。庭がある。幼いころの記録がある。自分の名を呼んでくれた人々がいるはずだった。


 けれど、そこはもう、王妃の鏡の前で少しずつ書き換えられている場所だった。


 オルドは森の奥を指した。


「奥に、七つの灯を持つ小屋があります」


「七つの灯?」


「黒森で消された記録を拾う者たちが住んでいる。城では語られない者たちです。そこまで行ければ、あなたの名はすぐには消えない」


 ニヴェアは振り返った。


 来た道は、もう雪に覆われはじめていた。


 白鏡城へ続く足跡が、風に消されていく。


 その光景を見たとき、ニヴェアははっきりと知った。


 これは散策ではなかった。

 これは追放でさえなかった。


 自分は、記録から消されようとしている。


 そして、もしここで立ち止まれば、王妃の望みは叶う。


 ニヴェアは母の留め具を握りしめた。


「オルド」


 彼の名を呼ぶ。


 今度は、狩人は拒まなかった。


「ありがとうございます」


 オルドは苦しげに笑った。


「どうか、生きてください。姫様ではなく??」


 彼は一度、言葉を切った。


 そして、今度こそ彼女の名を呼んだ。


「ニヴェア様」


 その名は、黒森の中で白く息になった。


 ニヴェアは頷き、外套の裾を翻して森の奥へ走り出した。


 枝が頬をかすめる。雪が靴に入り、息が上がる。背後で、烏がまた鳴いた。遠く、白鏡城の方角で、見えない硝子がひび割れるような音がした気がした。


 それは鏡の音だったのか。


 それとも、王妃の記録に、初めて小さな亀裂が入った音だったのか。


 ニヴェアには分からなかった。


 ただ、黒森の奥に、かすかな灯が見えた。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 雪と影の向こうで、七つの小さな灯が、消されかけた名を待つように揺れていた。

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