表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/58

前口上 ― 鏡は美を映さない

 さて、今宵の灯を、もう少しだけ暗くいたしましょう。


 明るすぎる火のそばでは、見えないものがございます。

 磨き上げられた銀の表。硝子の奥に沈む影。誰かの顔を映しているようでいて、ほんとうは、その背後にあるものを測っているもの。


 そう――鏡でございます。


 後の世では、鏡はこう語られるでしょう。


 鏡よ、鏡。

 この世でいちばん美しいのは誰。


 そう問えば、鏡は答える。

 王妃か。姫か。

 若さか。白い肌か。赤い唇か。黒檀の髪か。


 人々はその問いを、美しさ比べの言葉として覚えました。

 嫉妬深い王妃が、若く美しい姫を憎んだのだと。

 美しさのために毒を盛り、森へ追いやり、硝子の棺へ閉じ込めたのだと。


 けれど、物語はいつも、時を渡るうちに軽くなります。

 重かった名は、飾りのように削られる。

 痛みは、教訓へ変えられる。

 記録は、子どもにも語れるよう、丸く、やさしく、時に残酷なほど単純に整えられていく。


 けれど、本当は。


 あの鏡が映していたものは、顔ではありませんでした。


 まぶたの形でも、頬の白さでも、髪の艶でもございません。

 鏡が問うていたのは、誰がもっとも美しく見えるか、ではなく――誰がもっとも歪められずに、世界の中へ記されているか、ということでした。


 美しさとは、見た目のことだけではありません。


 奪われても、なお残る輪郭。

 塗りつぶされても、下から浮かび上がる名。

 誰かの手で書き換えられても、それでも消えきらない生の跡。

 雪の下に残る足跡。

 硝子の奥で曇らずにいる、ひとつの呼吸。


 それを、鏡は美しいと呼んだのです。


 けれど、正しく映すものは、ときに憎まれます。


 嘘で飾った者にとって、鏡ほど冷たいものはありません。

 王冠をかぶった者にとって、そこに自分ではない誰かが映ることほど、耐えがたいことはありません。

 ましてやその誰かが、自分の手で消したはずの名を持っていたなら。

 白く塗りつぶしたはずの記録の奥から、まだ赤い血の色を滲ませていたなら。

 黒い墨のように、消し跡の下へ沈んでなお、名前の形を保っていたなら。


 そのとき、鏡はただの道具ではなくなります。


 それは裁きです。

 それは証人です。

 それは、王妃の問いに従いながら、王妃の望む答えだけは決して返さなかった、沈黙しない記録でございました。


 今夜語るのは、雪肌の姫の話。


 雪のように白い肌を持ち、血のように赤い唇を持ち、黒檀のように黒い髪を持っていた姫。

 けれど、その美しさの本当の意味を、彼女自身でさえ、はじめは知りませんでした。


 彼女が失いかけたものは、命だけではありません。


 城の人々が、少しずつ彼女の名を呼ばなくなったこと。

 母の肖像が、壁から外されたこと。

 古い記録棚に、白い布がかけられたこと。

 誰かが、彼女を殺すより先に、彼女が生きていたという証を消そうとしたこと。


 毒林檎は、心臓を止めるためだけの果実ではありませんでした。

 それは、生きている者を死者として記すための、甘く冷たい毒でございました。


 さあ、耳を澄ませてください。


 鏡は、まだ沈黙しておりません。

 雪は、すべてを覆い隠したわけではありません。

 硝子の棺の内側には、まだひとつ、曇らない息が残っております。


 これは、美しい姫が眠った話ではありません。


 死者として記されかけた少女が、もう一度、生きていた者として呼び戻されるまでの話でございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ