第3節 ― 陸で呼ばれない娘
ミレアが白泡の浜で倒れたのは、灯台の鐘が朝を告げる少し前だった。
空はまだ薄青く、海と陸の境目は、夢の縁のようにぼやけていた。砕けた貝殻でできた浜は冷たく、そこに残された小さな足跡は、波が寄せるたびに少しずつ消えていく。
足跡には、血ではなく塩が残っていた。
一歩ごとにこぼれた、白い粒。
ミレアはその粒を振り返る力もなかった。足の裏は焼けるように痛み、膝は震え、喉は乾いているのに声はない。水の中ならば、尾をひと振りするだけで抜けられる距離が、陸では果てしない道になった。
灯台は見えていた。
白い塔。
嵐の夜、イオルの名の奥で光っていた場所。
けれど、そこまで辿り着く前に、身体が言うことを聞かなくなった。波打ち際から少し上がったところで、ミレアは膝をつき、そのまま貝殻の砂の上に倒れた。
冷たい。
でも、海の冷たさとは違う。
海は包む。
陸は受け止めるだけだ。
ミレアは喉を震わせた。
助けて、と言いたかった。
私はここにいる、と言いたかった。
イオル、と呼びたかった。
けれど、唇からは息だけが漏れた。
音にならない息。
波が、彼女の足元まで来て、また引いていく。まるで海が「戻りなさい」と手を伸ばし、けれどもう彼女を掴めずにいるようだった。
そのとき、砂を踏む音がした。
最初は風かと思った。けれど違う。足音だった。ゆっくりと、まだ力の戻らない身体を庇うような歩き方。杖か、細い棒が貝殻の砂を突く音も混じっている。
「……誰かいるのか?」
その声を聞いた瞬間、ミレアは目を開けた。
イオルだった。
厚手の外套を肩にかけ、片手に灯台守の杖を持っている。顔色はまだ悪く、唇には血の気が薄い。嵐の夜に海へ落ちた影が、まだ身体のどこかに残っているようだった。
それでも彼は、生きていた。
砂浜の上を歩き、海を見に来られるほどには、生きていた。
ミレアは起き上がろうとした。けれど腕に力が入らず、指先が貝殻の砂を掻いただけだった。
イオルが駆け寄る。
「大丈夫か!」
彼は膝をついた。
ミレアの肩に手が触れる。
陸の手だった。
温かい。
水を通さない、火の近くで生きる者の手。
ミレアは、彼の顔を見た。
昨夜、嵐の水の中で抱えた顔。泡に沈みかけていた名。海の歌、と呟いた唇。
伝えなければ。
私です。
あなたを海から運んだのは、私です。
あなたの名を聴いたのは、私です。
そう言おうとして、喉が空っぽだと思い出した。
ミレアは口を開いた。
声は出ない。
イオルの眉が寄った。
「話せないのか?」
ミレアは、かすかに頷いた。
それだけで喉の奥が痛んだ。声がないのに、言葉を探そうとする身体だけがまだ残っている。
イオルは自分の外套を脱ぎ、ミレアの肩にかけた。濡れた髪に気づき、裸足の足に気づき、彼女が波打ち際から歩いてきたらしいことに気づいて、表情を強張らせた。
「海から……?」
ミレアは答えられなかった。
嘘をつく声も、本当を語る声もない。
イオルは、しばらく迷ったように彼女を見ていた。目には疑問があった。けれど、それ以上に心配があった。
「待っていろ。いや、待たなくていい。僕が連れていく」
彼はそう言って、ミレアを抱き起こそうとした。
ミレアは慌てて首を横に振った。イオルもまだ傷んでいる。彼の手は震えていたし、息も浅かった。だが彼は苦笑した。
「僕も人を助けられるくらいには戻ったつもりだよ」
ミレアは、胸が詰まった。
助けたのは、私。
そう言いたい。
でも言えない。
イオルは、彼女を完全に抱え上げることはできなかった。自分の身体もまだ弱っていたからだ。だから肩を貸し、杖を片手に持ち替え、二人で少しずつ浜を上がった。
ミレアは一歩踏み出すたびに、全身が裂かれるような痛みに耐えた。
声があれば、叫んでいたかもしれない。
声がないから、彼女は息を飲むだけだった。
砂に、白い塩が落ちる。
イオルはそれに気づかなかった。
浜を上がると、港町の匂いがした。
乾いた木。
朝の煙。
焼いたパン。
魚の塩漬け。
灯台の油。
人が火を使って生きる匂い。
ミレアは、めまいがした。
海底には火がない。灯りは真珠や鱗や月の潮に宿る。けれど陸の光は燃える。赤く、熱く、ものを変えてしまう。港町の家々から立ちのぼる煙は、空へ向かってまっすぐ伸びていた。
人の声も、そこには満ちていた。
「イオル!」
誰かが叫んだ。
「まだ寝ていろって言われてただろう!」
「その子は?」
「浜で倒れていた!」
「医者を呼べ!」
次々と名が飛ぶ。
マルク。
エダ。
トーヴァ。
リーネを呼べ。
灯台守に知らせろ。
水を持ってこい。
名が、空気の中を走る。
ミレアはそれを聞きながら、胸の奥で震えていた。
陸では、名がこんなにも働く。
呼ばれれば、人が来る。
頼まれれば、手が伸びる。
名を持つ者は、すぐに誰かの行為と結びつく。
けれど、ミレアの名はどこにもない。
彼女はそこにいるのに、誰も彼女を呼べなかった。
港町の小さな療養部屋に運ばれたミレアは、炉のそばの寝椅子に座らされた。乾いた布で髪を拭かれ、温かな飲み物を渡される。器の中から、湯気が立っている。
火で温めた水。
ミレアはそれを両手で包んだ。熱い。けれど、その熱さに驚いたあと、不思議と身体の芯がほどけていくようだった。
イオルは向かいに座り、まだ息を整えていた。
「本当に、どこから来たんだ?」
彼は優しく尋ねた。
ミレアは、答えられない。
「名前は?」
その問いに、喉の奥が震えた。
名前。
ミレア。
それが自分の名。
けれど、潮名は白い貝殻の中にある。サルマ=ネイの手の中にある。今の彼女には、その名を声に乗せることができない。
ミレアは指先で、自分の胸に触れた。
それから、口元に触れ、首を横に振った。
「言えない?」
頷く。
「書ける?」
彼は小さな木板と炭を持ってきた。
ミレアは炭を握った。陸の文字を知らない。潮名宮に沈んでいた木札の文字は、読めなかった。名は歌で覚えるものだったから。
彼女は板の上に、波の形を描いた。
次に、貝殻。
それから、白い泡。
イオルは困った顔をした。
「海……貝……泡?」
ミレアは首を振った。
違う。
違わない。
でも、それでは足りない。
イオルはしばらく考えたあと、少しだけ笑った。
「じゃあ、僕が呼ぶための名を決めてもいいかな」
ミレアの手が止まった。
呼ぶための名。
イオルは、彼女の反応を見て慌てたように言った。
「嫌ならいい。勝手につけるのはよくないな。ただ、町の人たちが君を呼べないと困るだろうし……」
呼ばれたい。
その思いが、ミレアの胸の奥で小さく光った。
本当の名ではなくても。
潮名でなくても。
声のない自分へ向けて、誰かが呼ぶ名。
イオルは窓の向こうの海を見た。
「海から来たみたいだったから」
彼は少し照れたように言う。
「ミア、なんてどうだろう」
ミア。
その音は、ミレアの潮名の端に少しだけ似ていた。
ミレアではない。
けれど、まったく遠いわけでもない。
まるで貝殻の表面だけを撫でたような名。
ミレアは、頷いた。
イオルの顔がほっと緩む。
「じゃあ、ミア」
彼は初めて、その名で彼女を呼んだ。
ミレアの胸に、温かなものが満ちた。
呼ばれた。
陸の声で。
空気の中で。
イオルの口から、自分へ向かって。
けれど次の瞬間、その温かさの奥に鋭い痛みが走った。
違う。
それは、私の本当の名ではない。
ミアと呼ばれた彼女は嬉しかった。
けれど、ミレアと呼ばれない彼女は、同時に深く沈んだ。
その日から、ミレアは港町で「ミア」と呼ばれるようになった。
港町は、彼女にとって驚きに満ちていた。
朝になると、灯台の鐘が鳴る。
鐘の音は、海底に届く沈んだ鐘とは違っていた。空気を震わせ、屋根を渡り、窓を揺らし、人々の背中を押す。鐘が鳴れば、店が開く。船乗りが港へ向かう。パン屋の娘が炉から黒麦パンを出す。子どもたちが母に呼ばれながら路地を走る。
「カイ、こっちへ来なさい!」
「マルク、網を忘れてる!」
「リーネ、油壺を持っていって!」
「イオル、まだ無理をするんじゃないよ!」
名が、街を動かしていた。
ミレアは窓辺に座り、それを聞いた。
聞くことはできる。
けれど、その名の奥の潮路はもう聴こえない。
声を閉じる貝殻に潮名を預けてから、世界は表面だけになった。音は聞こえる。意味も少しずつ覚える。けれど、かつてのように名の奥へ沈むことはできない。
それが、ひどく寂しかった。
リーネは、何度もミレアを訪ねてきた。
初めて部屋へ入ってきたとき、ミレアは思わず身を硬くした。リーネは、イオルを陸の上で呼び戻した娘だ。ミレアがなりたかった場所に、自然に立っていた人。
けれどリーネは、敵ではなかった。
「あなたがミア?」
リーネは籠を置き、やわらかく微笑んだ。
「イオルから聞いたわ。浜で倒れていたんですって。大変だったでしょう」
ミレアは、少しだけ頭を下げた。
「話せないのよね」
頷く。
「無理に答えなくていいわ。これ、よかったら使って」
リーネは籠から布を取り出した。
青灰色のワンピース。厚手の肩掛け。柔らかな肌着。それから、小さな靴。
「裸足では痛いでしょう? サイズが合うかわからないけど、私の古いものなの。少し直してあるから」
ミレアは靴を見た。
陸の足を包むもの。
これを履けば、痛みが少しは和らぐかもしれない。
彼女は両手で受け取り、胸に当てた。
ありがとう、と言いたかった。
声は出ない。
代わりに、何度も頭を下げた。
リーネは少し驚いたあと、笑った。
「いいのよ。そんなにお礼を言われるほどのものじゃないわ」
お礼を言われていると、わかってくれた。
そのことに、ミレアは救われるような気持ちになった。
靴を履いても、痛みは消えなかった。
一歩ごとに、足裏には刃のような痛みが走る。けれど裸足よりは歩ける。足跡に落ちる塩の粒も、靴底に隠れて目立たなくなった。ミレアはそれを少し安堵し、同時に怖く思った。
見えなくなっても、削れていることは変わらない。
町の日々は、静かに過ぎた。
イオルは体調が戻るにつれ、灯台の仕事へ戻っていった。だが時間を見つけては、ミレアに陸のことを教えた。
彼は木板に文字を書いた。
「これは、灯」
灯台を指す。
「これは、海」
窓の外を指す。
「これは、名」
そう言って、自分の胸を指す。
「イオル」
ミレアは口の形だけで、その名を真似た。
声はない。
けれどイオルは嬉しそうに笑った。
「そう。僕はイオル」
そして、彼女を指して言う。
「ミア」
ミレアは頷いた。
嬉しい。
苦しい。
その二つは、いつも一緒に来た。
イオルは優しかった。
歩くときは必ず速度を合わせた。ミレアが足を痛そうにしていると、さりげなく椅子を引いた。言葉が通じにくいときは、怒らずに待った。港の市場では、人混みから庇うように立ってくれた。
ある日、彼は焼きたてのパンを二つ買い、一つをミレアに渡した。
ミレアは熱さに驚き、指を引っ込めた。
イオルは笑った。
「熱いものは初めて?」
ミレアは小さく頷く。
「海の底から来たみたいだな、君は」
冗談のような声だった。
ミレアは、彼を見た。
言って。
もっと聞いて。
本当にそうなの、と伝えたい。
でも、伝える声はない。
イオルは、自分の言葉が彼女の胸をどれほど揺らしたか知らないまま、パンを少し裂いて冷ましてくれた。
パンの匂いは、不思議だった。
黒麦と火と、誰かの朝の匂いがする。海に落ちた木片から聞こえた約束の声に似ていた。白い灯台を見せてやる、と言っていたあの声。陸の暮らしは、こんな匂いの中で続いているのだと、ミレアは思った。
リーネもまた、よくそばにいた。
彼女は港町の油問屋の娘で、灯台へ灯油を届ける役目を家で担っていた。そのため、イオルとは幼いころから顔見知りだった。二人が並んで歩く姿は、町の人々にとって自然なものらしかった。
「イオル、今日は無理しないで」
「リーネこそ、重い壺を二つも持って」
「あなたが倒れたら、私がまた浜から拾わなきゃいけないじゃない」
「それは困るな。二度目は叱られそうだ」
「一度目で十分叱ったわ」
二人の会話には、古い時間があった。
ミレアの知らない季節。
同じ町で育った年月。
互いの家の匂いまで知っているような距離。
リーネはミレアにも親切だった。
靴擦れを見つけると、布を巻いてくれた。市場で香辛料の匂いに驚いたミレアに、水をくれた。港の子どもたちが「ミアはどうして話さないの」と無遠慮に聞いたときも、少し厳しい声で言った。
「話せないことと、聞こえていないことは違うのよ。目の前でそんな聞き方をしないの」
ミレアは、リーネを憎めなかった。
憎みたかったのかどうかさえ、わからない。
彼女はイオルを奪った人ではない。
彼を助けた人だった。
彼を呼んだ人だった。
陸の上で、彼の名を繋ぎとめた人だった。
ミレアが海から引き上げた命を、リーネは陸で抱きとめた。
だから、ミレアの胸にある痛みは、行き場を持たなかった。
日が過ぎるにつれ、町の人々はミレアに慣れていった。
「ミア、これを持っていって」
「ミア、危ない、そこは濡れているよ」
「ミア、パンの耳をやろうか」
呼ばれるたび、ミレアは振り向いた。
その名は優しかった。
町の人々の声に馴染んでいった。
けれど、呼ばれるたびに、本当の潮名が遠ざかる気がした。
ミア。
それは陸で生きるための仮の名。
でも、いつかそれしか残らなくなったら?
ミレアは夜になると、足裏に残った白い塩を拭った。靴を脱ぐと、そこには小さな白い粒がいくつもついている。彼女はそれを指先で集め、窓辺に置いた小さな皿へ入れた。
皿の中の塩は、月の光を受けてかすかに光った。
潮名の欠片。
彼女はそれを見つめながら、自分の名を心の中で呼ぼうとした。
ミレア。
でも、声のない心の中でさえ、その名は以前より薄かった。
ある夕暮れ、灯台の鐘がいつもより長く鳴った。
町の広場に人々が集まり、港の旗が掛け替えられた。海風に、白い布と青い紐が揺れている。ミレアは市場の端に立ち、その様子を見ていた。
リーネが、晴れ着に近い淡い青の服を着ていた。
イオルは灯台守の家紋が入った外套を羽織り、彼女の隣に立っている。まだ完全ではない身体をまっすぐに伸ばし、少し緊張した顔をしていた。
町の長が何かを読み上げる。
ミレアには、すべての言葉はわからなかった。
けれど、名はわかった。
イオル。
リーネ。
灯台守の家。
油問屋の家。
婚礼。
約束。
周囲から拍手が起こる。
リーネが頬を赤くして俯き、イオルがその手を取る。
ミレアは、音が遠のくのを感じた。
足裏の痛みが、一瞬消えた。代わりに、胸の奥で何かが細く裂ける。貝殻の中に閉じられた自分の潮名が、どこか遠くで小さく鳴った気がした。
リーネがミレアを見つけた。
気まずそうに、けれど逃げずに近づいてくる。
「ミア」
その声にも、優しさがあった。
ミレアは顔を上げた。
「黙っていてごめんなさい。昨日、決まったの。イオルの体が戻ったら、正式に式をすることになって」
ミレアは、頷いた。
おめでとう、と言いたかった。
言えなかった。
代わりに、リーネの手を取って、両手で包んだ。
リーネは少し驚き、それから目を潤ませた。
「ありがとう、ミア」
ありがとう。
感謝される。
祝福してくれたと思われる。
それは間違いではなかった。
ミレアは、リーネが不幸になればいいとは思っていない。イオルが悲しめばいいとも思っていない。
だからこそ、苦しかった。
夜、ミレアは灯台の下へ行った。
海を見たかった。
白泡の浜は、月明かりで淡く光っている。波は静かで、遠く沖に銀の線が見えた。そこから潮名宮へ帰る道があるはずだった。けれど今のミレアには、その道がわからない。
背後で、足音がした。
イオルだった。
「ミア」
彼は彼女の横に立った。
「ここにいたのか」
ミレアは頷く。
「海が好きなんだな」
彼女はもう一度、頷いた。
イオルはしばらく黙って海を見た。
「僕も、海が怖くなったと思っていた」
彼の声は静かだった。
「でも、不思議なんだ。あの夜、沈んでいくとき、たしかに怖かった。息ができなくて、暗くて、何も見えなくて。でも最後に、歌が聞こえた気がした」
ミレアの手が震えた。
「誰かが僕の名を呼んでいた。戻れって」
彼は首元の名札を握る。
「リーネが浜で呼んでくれたから、僕は戻れた」
ミレアは、動けなかった。
イオルは続ける。
「君が浜で僕を呼んでくれたから、僕は戻れた」
広場でリーネに言っていた言葉と同じだった。
けれど今は、夜の海へ向かって言っている。
リーネへ。
そして、もしかしたら、誰とも知れない海の歌へ。
イオル自身にも、わかっていないのだろう。
彼を海から引き上げた声と、陸で呼び戻した声。
その二つが違うものだったことを。
ミレアは、彼を見た。
言いたい。
それは私。
あなたを水の中で呼んだのは、私。
その歌は波ではない。
ここにいる。
私は、ここにいる。
喉は震えた。
声は出なかった。
イオルは、彼女の沈黙を別の意味に受け取ったのだろう。優しく微笑んだ。
「君にも、帰るところがあるのかもしれないな」
ミレアは目を見開いた。
「話せなくても、わかるよ。ときどき、海の方ばかり見ている」
彼は少し迷ってから、言った。
「帰りたいなら、言ってくれ。いや、言えないか。何か合図をしてくれれば、僕にできることはする」
優しい。
あまりにも優しい。
でも、彼は彼女の本当の名を知らない。
知らない名は、呼べない。
呼べない者は、帰すこともできない。
ミレアは、首を横に振ることも、頷くこともできなかった。
海から風が吹いた。
白泡の浜の方で、波が砕ける。月光を含んだ泡が、暗い浜に淡く散った。
イオルはその音を聞いて、ふと呟いた。
「いつか、あの歌に礼を言えたらいいんだけど」
ミレアは、胸の前で両手を握った。
ここにいる。
そう叫べないまま、彼女はただ夜の海を見つめた。
海から引き上げたのは、自分。
陸の上で彼の名を呼び戻したのは、リーネ。
どちらも嘘ではない。
だからこそ、ミレアは何も言えなかった。




