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第2節 ― 声を閉じる貝殻

 嵐の翌日、白泡の浜は、何もなかったように朝を迎えた。


 砕けた貝殻の砂は、薄い陽を受けて淡く光り、昨夜の荒波が運んできた木片や海藻や割れた樽を、波が少しずつ沖へ戻していく。浜辺には、人の足跡がいくつも残っていた。イオルを運んだ者たちの足跡。灯籠を持って駆けたリーネの足跡。膝をついて、倒れた青年を抱き起こした跡。


 そのすべてを、ミレアは海の中から見ていた。


 彼女は岩礁の影に身を沈め、顔だけを波の上に出していた。朝の光は眩しかった。水面の向こうにある世界は、海底よりも輪郭が強く、色も音も、ひどく乾いていた。


 浜の上では、港町の人々が行き来している。


「イオルは助かったって」


「リーネが見つけなければ危なかったな」


「灯台守の家に運ばれたそうだ」


「海に取られずに済んだ」


 声が、空気の中をまっすぐ飛んでいく。


 水の中では、声は揺れる。

 潮に混ざり、泡にほどけ、遠回りをして届く。


 けれど陸の声は、弓から放たれた矢のようだった。


 名を呼べば、その名を持つ者へ向かう。

 心配すれば、その震えまで届く。

 笑えば、笑われた者が振り向く。


 ミレアは、それを見ていた。


 リーネが浜へ戻ってきたのは、昼近くのことだった。


 彼女は昨夜と同じ灰色の外套を肩にかけていたが、髪は乾き、頬には疲れが残っていた。手には、小さな籠を持っている。浜に散らばった船の破片や、イオルの持ち物がないか探しに来たのだろう。


「イオル」


 リーネは、誰もいない浜で小さく名を呼んだ。


 それは、本人を呼ぶための声ではなかった。

 無事でいてほしいと、名を確かめるための声だった。


 ミレアは、胸の奥がきゅっと痛むのを感じた。


 リーネの声には、陸の匂いがあった。暖炉、麻布、焼きたてのパン、灯台の油、雨の日の窓。ミレアが知らないはずのものが、その名の響きに結びついている。


 イオル、と彼女が呼ぶだけで、青年の輪郭が陸へ戻っていく。


 ミレアも、彼の名を歌った。

 昨夜、何度も。波に呑まれながら。胸が裂けそうになりながら。


 けれど、その歌は朝の浜に残っていない。


 残っているのは、リーネの足跡と、彼女の呼び声だった。


 ミレアは、そっと喉に触れた。


 声はまだある。潮名もまだ胸の奥にある。海へ戻れば、姉たちが彼女を叱るだろう。潮名宮の歌い手たちも、嵐の夜に一人で上へ向かった愚かな娘を、厳しく見つめるだろう。


 それでも、戻れば終わる。


 あれは陸の出来事だった。

 海の娘が、陸の名を岸へ返した。

 それだけのこととして、潮はまた巡っていく。


 けれど、ミレアの中で何かが終わらなかった。


 彼女はイオルに伝えたかった。


 あなたの名は、沈みきっていなかった。

 私はそれを聴いた。

 あなたを岸まで運んだ。

 あなたが聞いた海の歌は、波の音だけではなかった。


 そして、それ以上に。


 彼女は、一度でいいから、自分の名を陸の声で呼ばれてみたかった。


 潮名宮で歌われる名ではなく。

 海の民の響きではなく。

 空気の中をまっすぐ渡り、誰かの口から自分へ向かって届く呼び声として。


 ミレア。


 もしイオルが、そう呼んでくれたなら。


 そう思った瞬間、彼女は自分の胸に生まれた願いの深さに、少し怯えた。


 これは恋なのだろうか。


 イオルの顔を思い出す。雨に濡れたまつげ。苦しそうに動いた唇。海の歌、と呟いた声。彼が目を開けた一瞬、嵐の暗さの中で、たしかに彼女の歌を聴いたのだと思った。


 でも、それだけではない。


 ミレアが焦がれたのは、イオルひとりではなかった。


 浜の上で人々が互いを呼び合う世界。

 市場で名を呼んでパンを渡す声。

 灯台から港へ叫ぶ声。

 家の戸口で子を呼ぶ声。

 誰かが誰かを見つけ、その名を声にするだけで、その人がそこにいると世界が認める仕組み。


 その中を、自分の足で歩いてみたかった。


 海底へ戻ると、姉たちは案の定、ミレアを叱った。


 潮名宮の柱の下、真珠貝の灯りが青白く揺れている。嵐で乱れた潮はまだ完全には戻っておらず、宮のあちこちで歌い手たちが弱った名を編み直していた。ミレアが戻ると、姉たちの歌が一瞬だけ途切れた。


「どこまで行っていたの」


「上へ」


「見ればわかるわ」


 一番年長の姉が、ミレアの腕の傷に触れた。珊瑚で切った跡がいくつも残っている。鱗も剥がれ、尾の先には白泡の浜の細かな貝殻がまだ挟まっていた。


「陸の者を助けたのね」


 ミレアは頷いた。


「名が沈みきっていなかったの」


「それは、潮に任せるものよ」


「でも、帰りたがっていた」


「帰るか沈むかは、その名の潮路が決める」


「私には聞こえたの」


「聞こえたものすべてを拾おうとすれば、あなた自身の潮名がほどける」


 姉の声は厳しかったが、怒りだけではなかった。怖がっているのだと、ミレアにもわかった。


 海の民にとって、潮名を失うことは死よりも曖昧で、死よりも恐ろしい。


 死者の名は、潮へ還る。

 けれど潮名を失った者は、還る潮を失う。


 どこへも沈めず、どこへも戻れず、泡のようにほどけてしまう。


「ミレア」


 姉は静かに言った。


「陸の声に近づきすぎてはいけない。あの者たちは、私たちを呼ぶ名を知らない。知らない名は、呼べない。呼べない者のために潮を外れれば、あなたはどちらの世界にも残れなくなる」


 ミレアは答えなかった。


 答えれば、また歌になってしまう。

 歌えば、潮名宮は彼女の迷いを聞くだろう。


 その夜から、ミレアは何度も白泡の浜へ行った。


 昼は岩礁の影に隠れ、夜は波打ち際まで近づいた。港町の灯を見た。灯台の光が、海の上をゆっくり撫でるのを見た。イオルが姿を見せるまで、何日も待った。


 やがて、彼は浜に来た。


 まだ少し足元がふらついていた。肩には厚い外套をかけ、リーネに支えられている。海に落ちた影が体から抜けきっていないのか、顔色は白かった。けれど生きていた。


 彼は海を見つめた。


「ここだったんだな」


 リーネが頷く。


「ええ。あなたはここに倒れていたの」


「誰かが、歌っていた気がする」


 ミレアは波の中で息を止めた。


 リーネは困ったように微笑んだ。


「嵐の夜だったから。波の音よ」


「そう言われれば、そうなんだろうけど」


 イオルは、首元の名札に触れた。


「でも、名を呼ばれた気がしたんだ。沈むなって。戻れって」


 ミレアの胸が震えた。


 届いていた。


 全部ではない。

 彼女の姿も、名も、覚えられていない。

 でも、歌は少しだけ届いていた。


 ミレアは、波の下で手を伸ばしかけた。


 ここにいる、と。

 私が呼んだの、と。

 あなたの名を、私は海の中で聴いたの、と。


 けれど、波が砕ける音しか出せなかった。


 リーネがイオルの腕をそっと支える。


「戻りましょう。まだ冷えるわ」


「ありがとう、リーネ」


「何度も言わなくていいのに」


「何度言っても足りない」


 イオルは、彼女を見た。


「君が呼んでくれたから、僕は戻れた」


 ミレアは、その言葉を聞いた。


 責められる者は、誰もいなかった。


 リーネは本当に彼を呼んだ。

 イオルは本当に彼女に助けられた。

 ミレアは本当に彼を海から運んだ。


 すべてが本当だからこそ、彼女の声だけが、どこにも置かれなかった。


 その夜、ミレアは潮名宮へ戻らなかった。


 潮の下へ、さらに下へ潜っていった。


 海底には、宮よりも深い場所がある。名を歌う者たちが近づかない場所。潮の流れが細くなり、光の届かない裂け目へと沈んでいく場所。沈没船の骨も、白い珊瑚もなく、ただ黒い海藻が髪のように揺れている場所。


 そこに、サルマ=ネイは住んでいると言われていた。


 潮名抜きの魔女。

 泡売りの魔女。

 貝殻契約の老婆。

 声を瓶に詰める者。

 潮名を買う女。


 海の民は、彼女の名をあまり歌わない。歌えば、向こうから聴き返されるからだと言われていた。だからミレアも、胸の中でその名を強く呼ばないようにした。ただ、深い潮に身を任せ、海藻の森を抜け、黒い岩の裂け目へ入った。


 裂け目の奥には、貝殻でできた小さな家があった。


 いいえ、家というより、巨大な貝の残骸だった。口を開けた白い貝殻の内側に、青白い灯がいくつも吊るされている。その灯の中には、小さな泡が閉じ込められていた。泡の一つ一つから、かすかな声がする。


 笑い声。

 泣き声。

 眠る前の歌。

 誰かの名を呼ぶ声。

 まだ使われていない赤子の声。


 ミレアは思わず耳を塞ぎかけた。


 だが、その前に声がした。


「耳を塞いでも、欲しいものは聞こえるよ」


 白い貝殻の奥から、女が現れた。


 年老いているようにも、若いようにも見えた。髪は白い海藻のように長く、肌は真珠の裏側のように青白い。目は深い緑で、瞳の奥に小さな潮が渦巻いている。下半身は魚の尾ではなく、何本もの薄い鰭が衣の裾のように広がっていた。


 サルマ=ネイは、笑っていなかった。


 だからこそ、ミレアは怖くなった。


 笑われると思っていた。

 陸へ行きたいなどと願う愚かな娘だと、嘲られると思っていた。


 けれど魔女は、ただ静かに彼女を見ていた。


「白泡の浜の子だね」


 サルマ=ネイは言った。


「潮名宮の娘。陸の名を聴きすぎた耳をしている」


 ミレアは身をこわばらせた。


「何を望む?」


 魔女の声はやさしかった。


 深海で聞く母の歌のように、低く、包むような声。けれど、そのやさしさは温かくなかった。温度のない絹のように、肌に触れる。


 ミレアは答えようとした。


 けれど言葉が喉で絡まった。


 何を望むのか。


 イオルに会いたい。

 自分が助けたと伝えたい。

 リーネのように陸の上で彼の名を呼びたい。

 彼に、自分の名を呼んでほしい。

 港町を歩きたい。

 灯台を見たい。

 陸の声の中で、自分がどう響くのか知りたい。


 それらは一つではなかった。


 サルマ=ネイは、ミレアの沈黙を急かさなかった。


「陸へ行きたいのだろう」


 魔女が言った。


 ミレアは息を呑む。


「足が欲しい。声を空気の中で聞きたい。誰かの隣に立ち、自分の手で戸を叩き、自分の目で灯を見たい。そうだね」


 ミレアは、小さく頷いた。


「そして、あの青年に名を呼ばれたい」


 胸を突かれたようだった。


 ミレアは目を伏せた。


 サルマ=ネイは笑わなかった。


「悪い望みではないよ」


 その言葉が、ミレアをいっそう不安にさせた。


「陸へ行きたいのなら、足をあげよう」


 魔女は白い指を伸ばした。


 周囲に吊るされた泡灯が、いっせいに淡く光る。


「けれど、陸の足に海の声は重すぎる。潮名を抱いたまま陸へ立てば、おまえの足は一歩目で砕ける。海の名は、水の中でこそ道になる。乾いた地では、重石になる」


 ミレアは自分の胸に手を当てた。


 潮名が、そこにある。

 歌えば、宮へ戻る道が開く。

 呼ばれれば、自分がどこにいても、海は応える。


「だから」


 サルマ=ネイは、貝殻の棚から白い貝を一つ取り出した。


 内側が真珠色に光る、小さな貝だった。耳に当てると波音が聞こえるような形をしている。けれどその貝の内側には、まだ何も入っていなかった。空っぽの白。


「おまえの潮名を、しばらく預けておいで」


 ミレアは後ずさった。


 潮名を預ける。


 それが何を意味するのか、彼女は知っていた。


 潮名は、名であり、声であり、帰るための潮路だ。預ければ、歌えなくなる。海の民の声を聴き取れなくなる。宮から呼ばれても、自分の輪郭が薄れる。長く離れれば、泡のようにほどけてしまう。


 サルマ=ネイは、貝殻をゆっくり開いた。


「奪うのではないよ」


 その声は、あまりにも穏やかだった。


「おまえが望むなら、預かるだけだ。陸へ立つあいだ、重い潮名をこの貝が持っていてあげる。おまえは軽くなる。足を得る。水の外を歩ける」


 ミレアは唇を震わせた。


「……戻れるの?」


「呼ばれれば」


「誰に?」


「おまえが救った者に」


 サルマ=ネイの目が、深い緑に光った。


「あの青年が、おまえを本当の名で呼べば、貝は開く。潮名は戻る。声も戻る。おまえは海へも陸へも、自分の意志で立てるだろう」


 胸の奥に、希望のようなものが灯った。


 イオルが、自分を本当の名で呼ぶ。


 ミレア。


 空気の中で。

 陸の声で。

 自分へ向かって。


「呼ばれなければ?」


 ミレアは聞いた。


 魔女は、貝殻を撫でた。


「潮名は泡になる」


 貝の内側で、淡い光が揺れた。


「泡になった名は、しばらくは波の上で光る。けれど呼ばれなければほどける。陸にも海にも残らない」


 ミレアは、何も言えなかった。


「怖いかい」


 サルマ=ネイが問う。


 ミレアは頷いた。


「なら、帰るといい。潮名宮へ戻り、姉たちに叱られ、いつかこの夜を歌にする。海の娘が陸の青年を助けたが、彼はそれを知らなかった。よい歌になるだろう」


 魔女は、そこで少しだけ首を傾げた。


「けれど、おまえはその歌を聴くたびに思う。もし陸へ上がっていたら、と」


 ミレアは目を閉じた。


 それは、きっと本当だった。


 戻れば安全だ。

 戻れば声は残る。

 戻れば潮名は守られる。


 でも、自分の声が彼に届かなかった痛みも、そのまま残る。


 波の音だと言われた歌。

 リーネの腕の中で呼び戻された名。

 空気の中をまっすぐ飛ぶ陸の声。


 ミレアは、それを忘れられない。


 彼女は、白い貝殻に手を伸ばした。


 サルマ=ネイは、今度こそ、薄く笑った。


「契約を結ぶなら、条件を聴きなさい」


 貝殻の内側から、冷たい光が漏れる。


「一つ。おまえは声と潮名を、この貝に預ける」


 ミレアは頷く。


「二つ。陸の足を得るが、歩くたびに潮名は削れる。長く歩けば、それだけ泡へ近づく」


 頷く。


「三つ。おまえが救った者に、本当の名で呼ばれれば、声と潮名は戻る」


 ミレアの胸が痛む。


「四つ。呼ばれぬまま、あの者が別の名のもとへ帰れば、おまえの潮名はほどけはじめる」


 別の名。


 リーネ。


 ミレアは、その名を思い浮かべた。


「五つ」


 サルマ=ネイの声が、少し低くなった。


「夜明けまでに、陸の者の名を潮へ沈めれば、おまえは海へ戻れる。声も潮名も戻る」


 ミレアは顔を上げた。


 魔女の指先に、小さな影が浮かぶ。人の名札の形をした影。そこから細い潮が垂れている。


「ただし、その者は帰る名を失う。家も、約束も、呼び声も、少しずつほどける。生きてはいても、誰かのもとへ帰る道をなくす」


 ミレアは震えた。


 それは殺すことよりも静かで、もしかしたら残酷だった。


「望みは、代償を持つ」


 サルマ=ネイは言った。


「声を預けるのは、おまえ。足を欲しがるのも、おまえ。陸へ行くことを選ぶのも、おまえ。わたしはただ、貝を開くだけ」


 その言葉に、ミレアは第一夜の森を知らないにもかかわらず、同じ種類の危うさを感じた。


 奪われるのではない。

 差し出すのだ。


 だから、誰も責められない。


 それでも、彼女は貝殻へ手を置いた。


 イオルに会いたい。

 自分がここにいたと伝えたい。

 リーネのように、陸の上で誰かの隣に立ってみたい。

 そして一度でいい。


 本当の名で呼ばれたい。


 ミレアは歌った。


 自分の潮名を。


 その歌は、潮名宮で生まれたときに歌われたものだった。母の声、姉たちの声、宮の珊瑚に染み込んだ古い響き。ミレアという名が、海の中でどんな潮路を持ち、どの月の波に乗り、どの貝の内側へ帰るのかを示す歌。


 サルマ=ネイが白い貝殻を開く。


 歌は、貝へ吸い込まれた。


 最初は、髪の先が引かれるような感覚だった。次に、胸の奥から細い糸を抜かれるような痛みが来た。ミレアは息を詰め、歌い続けようとした。けれど声が、声ではなく泡になって喉からあふれた。


 泡は白く、ひとつひとつに彼女の声が入っていた。


 ミレア。

 ミレア。

 ミレア。


 自分の名が、自分から離れていく。


 彼女は手を伸ばした。


 だが、泡は貝殻の中へ入り、真珠色の内側に閉じ込められた。貝が閉じる音が、海底に小さく響く。


 その瞬間、世界が遠くなった。


 潮名宮の歌が聞こえない。


 姉たちの声も、遠い潮の響きも、沈んだ名札のささやきも、急に厚い貝殻の向こうへ行ってしまったようだった。海はまだ周りにある。水は肌に触れている。けれど、ミレアをミレアとして包んでいた潮路だけが、すうっと消えている。


 彼女は声を出そうとした。


 出なかった。


 喉が動く。

 口が開く。

 けれど、泡すら出ない。


 サルマ=ネイは、閉じた貝殻を胸の前で大切そうに持った。


「預かったよ」


 ミレアは、叫ぼうとした。


 返して、と。

 やっぱり怖い、と。

 まだ待って、と。


 だが声はない。


 魔女は彼女へ近づき、冷たい指でミレアの尾に触れた。


「陸の足を」


 そう言った瞬間、痛みが走った。


 尾の先から、銀色の鱗がほどけていく。尾鰭が裂け、水をつかむためのしなやかな形が、二つに分かれていく。骨が知らない形へ組み変わり、筋が引き伸ばされ、皮膚が薄く張る。


 ミレアは声のない悲鳴を上げた。


 泡も出ない。

 歌も出ない。

 ただ、身体だけが痛みを覚えていた。


 長い時間が過ぎたように思えた。


 やがて痛みが引いたとき、ミレアの下半身には尾がなかった。


 代わりに、二本の脚があった。


 白く、細く、海底の砂に頼りなく沈む足。足指が水を知らずに震えている。鱗はほとんど消え、ところどころに青銀の光が痕のように残っていた。


 サルマ=ネイは、どこからか薄い布を取り出し、ミレアの身体にかけた。


「上へお行き」


 ミレアは、動けなかった。


「陸へ行きたいと望んだのは、おまえだろう」


 魔女の声はやさしい。


 やさしいまま、逃げ場を塞ぐ。


「足は、陸で使うもの。海底にいては溺れてしまうよ」


 海の民なのに、溺れる。


 その言葉の意味を、ミレアはすぐに理解した。


 潮名がない。


 海が、自分を支えてくれない。


 彼女は慌てて泳ごうとした。けれど尾はなく、脚は水をうまく掴めない。身体が沈みかける。サルマ=ネイが彼女の背を軽く押した。


 その押し方は、親切にも見えた。


 ミレアは、必死に水を蹴った。


 上へ。


 上へ。


 声のないまま、潮名のないまま、彼女は暗い海を上っていく。


 海はさっきまでと違っていた。

 どこまでも広いのに、どこにも帰る道がない。


 ようやく水面を破ったとき、夜は明けかけていた。


 白泡の浜が、薄い青の中に浮かんでいる。波は穏やかだった。昨夜の嵐が嘘のように、静かな潮が砕けた貝殻を撫でている。


 ミレアは波に押され、浜へ打ち上げられた。


 砂の上に倒れる。


 空気が、肺のない胸を焼くように入ってくる。海の民だったころには知らなかった呼吸。喉が乾く。身体が重い。布が肌に貼りつき、髪から水が落ちる。


 それでも、彼女は起き上がろうとした。


 脚に力を入れる。


 立つ。


 その瞬間、足裏に鋭い痛みが走った。


 刃の上に乗ったようだった。


 ミレアは声もなく崩れ落ちた。叫びたくても、喉は空っぽだった。涙だけが目からこぼれる。波が足元まで寄せ、すぐに引いていく。


 砂の上に、赤い血は落ちていなかった。


 代わりに、小さな塩の粒が残っていた。


 白く、透明で、朝の光にかすかに光る粒。


 それは、削れた潮名の欠片だった。


 ミレアは震える手で、その粒に触れた。


 指先で触れた瞬間、ほんのかすかに、自分の名の一部が聞こえた気がした。


 けれどすぐに消えた。


 潮に溶け、砂に沈み、世界のどこにも届かなくなる。


 ミレアは顔を上げた。


 遠く、港町の灯台が見える。


 そこへ行かなければならない。


 イオルがいる。

 リーネがいる。

 陸の声がある。

 自分を呼んでくれるかもしれない誰かがいる。


 彼女はもう一度、立ち上がった。


 一歩。


 痛み。


 白い塩が、足跡に残る。


 もう一歩。


 また、痛み。


 けれどミレアは歩いた。


 声を閉じた貝殻は、深い海の底で、サルマ=ネイの手の中にある。


 その貝の内側では、ミレアの歌が小さく鳴り続けていた。


 けれど浜の上を歩く娘には、もうその歌は聞こえなかった。

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