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第4節 ― 花嫁の鐘と潮返しの小刀

 婚礼の前夜、港町は、昼の名残をいつまでも手放そうとしなかった。


 日が沈んだあとも、広場には人の声が残っていた。白い布で飾られた柱。青い紐を結んだ灯籠。明日の朝、リーネが通る道に撒くための貝殻。灯台の足元には、油壺がいつもより多く並べられ、若い船乗りたちが笑いながら婚礼の歌を練習している。


 鐘は、何度も鳴った。


 朝を告げる鐘ではない。嵐を知らせる鐘でもない。

 明日、ひとつの名が、もうひとつの名と結ばれることを町へ知らせる鐘。


 イオル。

 リーネ。


 その二つの名が、人々の口から何度もこぼれた。


「イオルは運がいいな」


「リーネなら灯台守の家も安心だ」


「嵐に取られかけた名が、婚礼で戻ってくるとはね」


「海も粋なことをする」


 人々は笑った。


 その笑いの中で、ミレアは「ミア」と呼ばれていた。


「ミア、そこを持ってくれる?」


「ミア、この布をリーネの家へ届けて」


「ミア、疲れたなら休みなさい」


 優しい声ばかりだった。


 だからこそ、彼女は身を裂かれるようだった。


 ミア。


 その名で呼ばれるたびに、彼女は振り向く。振り向かずにはいられない。イオルがくれた、陸での呼び名。港町の人々が、彼女を誰かとして扱うための小さな灯。


 けれど、その音は、彼女の本当の潮路へは届かない。


 ミアと呼ばれても、海は応えない。

 ミアと呼ばれても、潮名宮へ戻る道は開かない。

 ミアと呼ばれても、サルマ=ネイの貝殻の中で眠る声は震えない。


 それは優しい仮の名だった。

 そして優しいものほど、深く刺さることがある。


 リーネは、花嫁の衣装を着せられていた。


 港町の娘たちが彼女を囲み、髪に小さな貝飾りを編み込み、薄青い布を肩にかけている。リーネは何度も照れたように笑い、そのたびに周りが囃した。


「似合うわ」


「灯台の奥方になるのね」


「明日は泣かないようにね」


「無理よ、リーネはすぐ泣くもの」


 リーネは顔を赤くして、ミレアの方を見た。


「ミア」


 ミレアは近づいた。


 足は痛んだ。けれどもう、痛みに顔を歪めることには慣れてしまっていた。靴の内側には、白い塩が少しずつ溜まっている。歩くたび、潮名が削れていく。そのことを知っているのは、彼女だけだった。


「これ、どうかしら」


 リーネは、花嫁衣装の裾を少し持ち上げた。


 ミレアは、じっと見た。


 白い布。青い刺繍。灯台の火を表す金の糸。裾には小さな貝殻が縫いつけられていて、動くと微かな音を立てる。まるで波打ち際の小石が鳴るような音だった。


 美しい。


 ミレアは頷いた。


 リーネはほっとしたように笑った。


「ありがとう」


 その笑顔に、悪意はなかった。


 だからミレアは、胸の奥で泣くことしかできなかった。


 夜が深くなると、町の喧騒は少しずつ静まっていった。


 明日の朝が早いからだ。人々は灯籠の火を一つずつ落とし、広場に残った布を畳み、笑いながら家へ帰っていく。鐘楼の影が長く伸び、灯台の光だけが、いつものように海を撫でていた。


 ミレアは、ひとりで白泡の浜へ向かった。


 町の灯が背中に遠ざかる。

 足元の貝殻が、靴底で小さく鳴る。

 月は細く、海は黒く、波の先だけが白くほどけている。


 ここで、イオルを岸へ運んだ。


 ここで、リーネが彼を見つけた。


 ここで、ミレアという名は誰にも呼ばれないまま、ミアという仮の名だけが陸に拾われた。


 彼女は波打ち際に立った。


 靴を脱ぐと、足裏の痛みが鋭く戻ってきた。砂の上に白い塩の粒が落ちる。それは夜でも微かに光った。


 ミレアは膝をつき、その塩に触れた。


 指先に、ほんの一瞬だけ自分の歌の残響が触れた気がした。


 けれどすぐに消える。


 潮は、彼女を呼ばない。

 呼べない。

 彼女の潮名は、深い海の底、サルマ=ネイの白い貝殻の中に閉じ込められている。


 そのとき、波の間から小さな音がした。


 こつ、こつ、こつ。


 貝殻が石を叩くような音。


 ミレアは顔を上げた。


 波打ち際に、黒い蟹がいた。


 普通の蟹ではなかった。甲羅は濡れた夜のように黒く、脚の先は銀色に光っている。背中には、小さな白い貝殻を背負っていた。その貝殻は、サルマ=ネイがミレアの声を閉じたものよりずっと小さい。けれど内側から、冷たい真珠色の光が漏れていた。


 黒い蟹は、ミレアの前で止まった。


 そして、口もないのに喋った。


「花嫁の鐘が鳴るね」


 声は、サルマ=ネイのものだった。


 ミレアは身を強張らせた。


 黒い蟹は、鋏で背の貝殻を叩いた。


「おまえの声は、よく鳴っているよ。白い貝の中で、まだ歌っている。ミレア。ミレア。帰りたい。呼ばれたい。忘れないで。そう歌っている」


 やめて。


 ミレアはそう言いたかった。


 声は出ない。


「けれど、明日になれば、その歌はほどける」


 蟹は波に洗われながら、動じずに立っていた。


「イオルはリーネの名のもとへ帰る。灯台守の家は油問屋の家と結ばれる。町の者たちは二人の名を祝う。鐘が鳴る。戸口に新しい名札が掛かる」


 ミレアの胸が痛んだ。


「そのとき、おまえの潮名は、行き場を失う。海へ戻る潮も、陸へ残る名もない。泡になる」


 黒い蟹は、ゆっくりと鋏を持ち上げた。


 白い貝殻が開く。


 中から、小さな刃が出てきた。


 小刀だった。


 刃は銀ではなく、濡れた月の光のような色をしていた。柄には黒い珊瑚が巻かれ、先端には小さな貝殻がひとつ結ばれている。刃そのものは薄く、まるで水面を切り取ったように透けていた。


 ミレアは、それがただの刃ではないとすぐにわかった。


 肉を切るものではない。

 血を流すためのものではない。

 もっと静かなものを切る刃。


「潮返しの小刀」


 蟹が言った。


「陸の名を切り、潮へ沈める刃だ」


 ミレアは後ずさった。


 波が足首に触れる。冷たい。だがその冷たさは、もう帰る場所の温かさではなかった。


「夜明けまでに、イオルの名を潮へ沈めれば、おまえは戻れる」


 サルマ=ネイの声は、やはり優しかった。


「声も戻る。潮名も戻る。尾も、歌も、宮へ帰る道も戻る。泡にならずに済む」


 黒い蟹は、小刀を砂の上へ置いた。


 月明かりが刃に触れ、細い光がミレアの足元まで伸びた。


「刺す必要はない。眠る者の胸を裂く必要もない。おまえは優しい子だからね」


 その言い方が、ひどく残酷だった。


「枕元の名札を切ればいい。灯台守の家に結ばれた名を、少しだけ潮へ返す。イオルという響きを、陸から海へ移す。それだけでいい」


 それだけ。


 ミレアは震えた。


「そうすれば、彼は死なない。息もする。歩きもする。だが町の者は、少しずつ彼を思い出せなくなる。リーネの夫ではなくなる。灯台守の息子ではなくなる。彼自身も、自分がどこへ帰るべきか忘れるだろう」


 黒い蟹は、鋏で砂を掻いた。


「けれど、おまえは戻れる」


 ミレアは、イオルの声を思い出した。


 君にも、帰るところがあるのかもしれないな。


 帰りたいなら、合図をしてくれ。


 彼はそう言った。

 何も知らずに。

 彼女の名も、彼女の代償も、何も知らずに。


「選ぶのは、おまえ」


 蟹は言った。


「声を預けたのも、おまえ。足を望んだのも、おまえ。陸へ来たのも、おまえ。戻りたいと思うのも、おまえ」


 サルマ=ネイの声が、波の底で微笑む。


「わたしはただ、刃を届けただけ」


 黒い蟹は、くるりと向きを変えた。


 波が寄せる。

 黒い甲羅が白泡に隠れる。

 次の瞬間には、もうそこにいなかった。


 砂の上には、小刀だけが残っていた。


 ミレアは長いあいだ、それを見つめていた。


 手を伸ばせば、戻れる。


 自分の声が戻る。

 潮名が戻る。

 海がまた彼女を呼ぶ。

 姉たちの歌が聞こえる。

 潮名宮の珊瑚の柱に、自分の名がもう一度響く。


 泡にならずに済む。


 ただし、そのためには。


 イオルから、帰る名を奪わなければならない。


 ミレアは、小刀を拾った。


 刃は冷たくなかった。


 むしろ、手のひらに吸い付くように馴染んだ。まるで、最初から彼女の選択を待っていたかのように。


 彼女は町へ戻った。


 婚礼前夜の港町は、もうほとんど眠っていた。広場の灯籠は消え、白い布だけが夜風に揺れている。遠くで、酔った船乗りの笑い声が一度だけ聞こえ、それもすぐに消えた。


 灯台の下、イオルの家には、小さな灯が残っていた。


 窓から薄い火明かりが漏れている。明日の支度で遅くまで起きていたのだろう。ミレアは裏手に回り、半開きの戸口から中へ入った。


 火の匂い。

 乾いた木の床。

 壁に吊るされた網。

 古い海図。

 灯台守の家に代々伝わる名札。


 陸の家は、名でできているのだと、ミレアは思った。


 戸口に名がある。

 食卓に呼び声がある。

 壁の傷にも、誰がつけたかという記憶がある。

 人は死んでも、椅子の位置や古い外套や、棚の上の小さな道具に名を残す。


 イオルの部屋は、奥にあった。


 扉は閉まりきっていなかった。


 ミレアは、そっと押した。


 きしむ音がした。


 イオルは眠っていた。


 窓辺の寝台に横たわり、片腕を布団の上に出している。嵐のあとよりは顔色が戻っていた。明日の婚礼のためだろう、椅子には白い上着がかけられ、机には磨かれた名札が置かれていた。


 灯台守の家系の名札。


 金属の板に、陸の文字が刻まれている。ミレアには読めない。けれど、そこにイオルの名が結ばれていることはわかった。文字は読めなくても、名の重みだけは、声を失っていても感じられた。


 小刀が、手の中でかすかに震えた。


 そこを切ればいい。


 彼の身体ではない。

 彼の血ではない。

 ただ、名札に薄く刃を入れればいい。


 そうすれば、イオルは海へ落ちる。

 今度は身体ではなく、名が。


 ミレアは机に近づいた。


 一歩。

 足裏に痛み。

 靴の中で塩がこぼれる。


 もう一歩。

 小刀の刃が、月光を受ける。


 机の前に立つ。


 イオルの寝息が聞こえた。


 彼は、何も知らない。


 自分の名が今、波打ち際に立たされていることも。

 明日の朝には花婿として鐘を聞くはずだったことも。

 そのすべてが、ひとつの小さな刃で海へ沈むかもしれないことも。


 ミレアは、小刀を名札へ向けた。


 刃先が、金属に触れる。


 その瞬間、イオルが寝返りを打った。


 ミレアは息を止めた。


 イオルの唇が、かすかに動いた。


「……海の歌……」


 ミレアの手が止まった。


「……あの夜……」


 夢の中の声だった。


 彼は目を覚ましていない。誰かに話しかけているわけでもない。けれど、その言葉は確かに、部屋の静けさの中に落ちた。


「……戻れって……」


 ミレアは、名札ではなく、イオルの顔を見た。


 忘れていなかった。


 彼は、何も知らない。

 ミレアの名も、姿も、海底の潮名宮も知らない。

 けれど、歌だけは残っていた。


 波の音だと言われても。

 嵐の夢だと思っていても。

 名も姿もないまま、どこかで覚えていた。


 それで十分なのかもしれない。


 十分なはずがなかった。


 彼に呼んでほしかった。

 ミレアと。

 本当の名で。

 海から自分を引き戻すように。


 けれど、彼は知らない。


 知らない名は、呼べない。


 それは彼の罪ではなかった。


 ミレアの手が震えた。


 小刀の刃先が名札から離れる。


 涙が落ちた。


 声のない涙だった。


 泣き声も、嗚咽も、名前を呼ぶ叫びもない。涙だけが頬を伝い、顎から落ち、木の机に小さな跡を作った。


 彼の名を奪えば、自分は戻れる。


 でもイオルは、どこへ帰ればいいのだろう。


 リーネが明日の朝、彼の名を呼ぶ。

 町の人々が祝う。

 灯台の鐘が鳴る。

 彼は灯を守り、海へ出る者たちの帰る目印になる。


 その名を切れば、彼は灯台守ではなくなる。

 リーネの夫でもなくなる。

 誰かに「おかえり」と言われる場所を失う。


 ミレアは、自分の胸に手を当てた。


 自分は今、帰る潮を失いかけている。


 だからこそ、わかる。


 帰る名を失うことが、どれほど恐ろしいか。


 彼女は、小刀を胸に抱いた。


 それから、静かに部屋を出た。


 廊下を歩く。

 戸口を抜ける。

 広場へ出る。

 白い婚礼布が夜風に揺れている。


 町は眠っている。


 ミレアは痛む足で、白泡の浜へ戻った。


 夜明けはまだ遠い。けれど東の空の底には、薄い灰色が混じりはじめていた。時間はもう、あまり残っていない。


 波打ち際に立つ。


 小刀を両手で持つ。


 海は静かだった。


 まるで答えを待っているように。


 ミレアは、最後に一度だけ振り返った。


 灯台の光が、ゆっくりと町を撫でている。そこにはイオルがいる。リーネがいる。彼らの名を呼ぶ人々がいる。明日の朝を待つ鐘がある。


 ミレアは声のない口を開いた。


 イオル。


 音にはならなかった。


 けれど、その呼びかけは、彼の名を奪うためではなかった。


 返すためだった。


 あなたの名は、あなたの岸に。


 ミレアは、小刀を海へ投げた。


 刃は月光をひとすじ引き、黒い海へ落ちた。


 水音は小さかった。


 けれど、潮の奥で何かが切れる音がした。


 彼の名ではない。


 ミレアが、自分の帰り道と引き換えにできたはずの最後の契約が、そこで切れた。


 波が寄せる。


 白い泡が、彼女の足元を包む。


 ミレアは膝をついた。


 もう戻れない。


 それでも、彼の名は奪わない。


 自分が泡になるとしても、誰かの帰る場所を奪わない。


 その選択だけが、声を失った彼女に残された、最後の歌だった。

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