別離【漆】《ベツリ【シチ】》
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遠くから聞こえる声で、栄州は重い瞼をゆっくりと上げた。まだぼんやりと霞む視界に落ち切る前の陽の光が飛び込んでくる。声はまだ遠いが駆けてでもいるのか、どんどんと近付いて来てもいるようだ。長年待ち続けて、何よりも愛おしく思っている声の主たちの姿を思い浮かべると自然と顔が綻んでしまう。きっと心配しながら、それでもいつものように顔を見に来てくれたのだろう。
ひとつ、大きく息を吐いてみたものの横たわしたままの身体は、鉛のようで指先さえも動かすことが出来ない。もう少し留まれるかと思っていたけれど、それは栄州だけの淡い願いだったようだ。
声の聞こえる方に顔だけでも向けようとするが、それさえもままならない。仕方無く目覚めたままの姿で近付く皆を迎えようとして、栄州は、はた、と気付いた。そよそよと一定の間で風が身体を撫でている。視線を向けることすら出来ないが、それが誰であるかなどもう分かっていた。
「またずっとおいででございましたかの?」
ついふふっと笑ってしまいながら出した声には、昔のような張りはない。嗄れて掠れて、弱々しい。あまりに衰えた己に嘲笑したくなったが、さらりとした衣擦れの音と顔を覗き込む紫の眼が、それを制した。
「おや、目が覚めてしもうたかえ?すまぬな、…少しばかり賑やかしゅうなるようじゃ」
「なんの。はてさて、今日は誰方様が1番に爺の手をとってくださいますやら」
ははっと笑ってしまう栄州の額に、長くしなやかな指が触れて髪を梳き始めた。開いた視界はまだぼやけたままだが、その上に長く伸びてしまった白髪が流れ落ちて視界を狭めてしまっていた。梳いてもらえた分、幾らかはっきりとした視界に、栄州が何よりも尊んできた悧羅の姿が映る。
「妾が最初だの」
髪を寄せた指で栄州の眦を拭った悧羅が、布団にしまわれたままの老いた手を包んだ。労わるように、ぽんぽんと包まれた手を叩かれると冷たかった指先にも、また血が通い始めたようにも感じてしまう。
「ほんに爺を甘やかすのが上手うなられたものよ」
「栄州に貰うた恩に比ぶれば、まだまだ足りぬであろ?」
「なんの。もう身に余るほど頂きました。…このように老いさらばえてまで長に手を取って頂けるなど、里の者たちが知れば羨ましがりましょうや」
目を細めて微笑んだつもりが、口から出たのは大きな嘆息だった。動かなくなった自身の身を愚かしく思って息を吐いたのではないのだが、包まれた手に僅かに力が込められるのも分かる。
「お考え違いをなさいますな。爺はほんに倖でございますれば」
重ねられた手を包み返したいが、その力が今の栄州には無い。
それほどまでに、栄州は老いたのだ。
気に病むな、と覗き込んだままの悧羅の頭を撫でてやりたくても枯れ木のように痩せ細った腕には力が無く、上げることが出来ない。
横たわったまま悧羅と言葉を交わすなど礼を欠くにも程があるが、起き上がって座ることさえも1人では叶わない。
血の縛りを結んで、7年。
結んだ刻は、まだどうにか自分の脚で立てていたが、片脚は痺れ歩くのもやっとだった。よく7年も保ったものだ、とはこの処よく感じている。先代の悪政で荒廃した里にあって、明日の生命を願うことすら忘れていた頃が懐かしい。
悧羅が立ち、里を捨て、相談役の大役を任じられた。800年の間に潤っていく里と、日々増えていく民達の声がどれほど栄州の心を満足してくれただろう。
そこに悧羅の辛酸と苦渋があったことも分かってはいるし、それを強いたのが他でもない栄州であることも理解している。それでも悧羅の傍で共に過ごせたことは、栄州の誉だった。
こんなに長い間、見ていられるとは思わなかった。
1000年程で迎えると思っていた自分の定命が、まさかここまで保つだなどとあの頃の栄州では考えられなかったのに。
そして、何より。
ふうっと小さく息を吐くと、部屋の戸が、からりと開けられた。開けられた戸から傾むいた陽の光が伸びて、栄州の顔に掛かる。部屋の薄暗さに慣れていた眼には眩し過ぎる光に、目を細めてしまうと、悧羅が扇子で遮ってくれた。
「ただいま、悧羅ちゃん」
「ずっと居てくれたの?ありがとう、悧羅」
戸を開けた樂采とともに、部屋に顔を出したのは忋抖だった。扇子で遮ぎられて見ることは叶わなかったが、ふふっと悧羅が笑ったのは伝わってくる。
「少しばかり早い戻りではないかえ?何某かありもうしたかのう?」
「何言ってるの、わかってるくせに」
揶揄うような悧羅の声に、こちらもまた苦笑を含んだ忋抖が嘆息しながら栄州の枕元に座した。
「爺も、ただいま」
よいしょ、と栄州の半身を起こしてから忋抖が胸に身体を預かると、樂采が悧羅の扇子を降ろさせた。代わりに自分の手で入る光を遮ってくれる。
「爺ちゃん、ただいま」
「…、坊…。今日も良い子であったかの?」
覗き込んでくる漆黒の眼に、力の入らないはずの栄州の顔にも笑顔が浮かんでしまう。齢18に近くなった樂采は、日を追う毎に忋抖に似てきた。眼の色さえ違えど、立ち姿もその性根も、出す言葉の端々でさえ忋抖を彷彿とさせる。忋抖が初めて闘技に出たときのように育った姿に、感慨深くなってしまう。
「もちろん。爺ちゃんの言いつけ通りちゃんと学んでちゃんと鍛錬してるよ。紳くんも父様も、兄さまたちだって手加減してくれないんだよ?…爺ちゃんが止めてくれないからさ」
枯れ木のような手をとりながら頬を膨らませる樂采の姿に、栄州も小さく笑ってしまった。
「それだけ坊に期待されておるが故でしょうて。…爺もまた見えてみたいものですなあ…」
再び笑おうとしたものの、咳き込んでしまった栄州の背を忋抖が静かに摩り始めた。
「爺、無理しなくていいから」
「なんの。無理などしておりませぬよ。倖でしかありませぬ故」
咳き込んで少し離れた身体を支えてくれる忋抖に伝えてみたが、返されたのは小さな嘆息だった。支えてくれる腕を叩いて安心させてやりたいけれど、その力が栄州にはない。
どうやら還る刻が、すぐそこまで迫っているようだ。
自分の力で身を起こすことが出来なくなって1年。
宮に預けられてから、半年の間、孫ともいえる子たちがこうして栄州を支えるようになっていた。
初めはもちろん自分の邸に居たのだけれど、少しずつ不自由になっていく身体を慮ってか、悧羅の子どもたちが代わる代わる訪れてくれていた。身を案じてくれる子どもたちに申し訳ないと詫びてしまっていたが、子どもたちが来れない刻には悧羅が訪うようになってしまった。栄州の身の周りのことや食事の支度、果ては下の世話まで手ずから行おうとされて流石に固辞してしまうと、事情を知った重鎮達は大笑いしていた。
「笑いごとではございませぬぞ?長にそのようなことをさせてしまうなど、民達に恨まれましょうや」
「仕方ないでしょ?、栄州は悧羅の父みたいなもんだ。娘が親の助けになりたいだけなんもん」
務めの合間に顔を見に来た紳は腹を抱えて笑うと、宮に来てくれないか、と願ってくれた。流石に一臣でしかない栄州には身に余ると辞したのだが、話を聞いたのであろう悧羅や荊軻、枉駕にまでそれがいいと言われてしまった。
「栄州がひとりじゃないなら俺も連れ出そうとは思わないけどさ。こんな広い邸にひとりでなんて置いておけないよ。それにこのままだと悧羅がこっちに居を移すって言い出すだろうし、それなら栄州に宮で過ごしてもらえたほうが、俺としても助かるんだよ」
たしかに栄州には身内と呼べる者がいない。
先の荒廃で逑も、子どもたちもすべて手の上から溢れ落ちてしまった。里が平穏に向かっていく中にあって、縁を結び直すことも考えないではなかったけれど、溢れ落ちていった者たちを思えばどうしても為すことができなかった。
あの野花のように温かい微笑みを忘れることができなかったからかもしれない。
「いや、しかしですな。お役に立てるような身であればまだしも、我が身も起こせぬ老骨でございますれば」
「何言ってんの。栄州の顔が見れる。それだけで充分なんだよ」
頼む、と乞うた紳は断られる前にと、栄州を宮に移した。ほぼ無理矢理ではあったものの自分の背に背負い、本当の父にすることのように空を翔けて里を見せてくれながら宮に連れてきてくれた。
紳の背から見た里の景色は、動けなくなってからいつぶりに見れたものだったろうか。眼下で流れていく街並と、聞こえてくる民達の声。あの荒廃も、栄州の苦難もこれに繋がっているのなら幾らか報われたように思えた。
「…長の伴侶にこのようなことまでしていただけるとは…」
「そういうのの前に、栄州は俺たちの父だからね、当たり前のことだよ」
呟いた栄州に、紳は笑っているばかりだった。
「…ほんに爺は果報者でございますなあ…」
掠れた声は大きな嘆息を伴ってしまう。支えてもらっていても、身を起こすだけでも怠さが募る。両の胸一杯に息を吸い込みたくても、入っていかない。細切れに繰り返さなければならない呼吸だけで、残った力も奪われていく。
ふと、目の前に野花のような笑顔が見えた気がして、栄州は目を見開いてしまった。
「皆を呼ぶとしようか?」
一度見えた姿を探すように視線を泳がせてみたが、見えるのは悧羅の姿だけだ。
重って見えたのは悧羅だったのだったのかもしれない。
樂采と反対の手を取ったまま、悧羅が尋ねてくれるが栄州は小さく頭を振った。忋抖に支えられ、悧羅と樂采に手を包まれたまま、とは倖が過ぎる。これに他の孫子たちが来てしまえば、還ることを拒んでしまいそうだ。
少しばかり心に残ることが無いでもないのだが。
「父様、紳くんは?」
栄州の手を包む力を強くしながら樂采が、ちらりと忋抖を見た。
「大丈夫、もう来てくれるよ」
紳の居場所を逑である悧羅ではなく、忋抖に尋ねてきたことに忋抖は首を傾げた。悧羅に視線を返せば、こちらも少しばかり驚いたようで、おやまあ、と目を細めている。
忋抖が悧羅と契りを交わしたことは、公言されていない。公にしないでくれ、と忋抖が願ったからだ。
「…なんで?また遠慮とかじゃないだろうな?」
小首を傾げて怪訝な顔をした紳には、違うと伝えたが泣き腫らした目をした紳が何処まで本音だと信じてくれたかは分からない。ただ、本当に遠慮などではなかった。契りの相手は1人だと里の民達は知っている。もしも他の相手を望むなら、1度契りの縛りを解かなければならないことも、疵だけは消えずに残るということも、だ。1人の相手と2人が同時に契れるなどと知られれば、少なからず混乱を招くだろう。
ましてや、それを為したのが悧羅だと分かれば、よからぬことを考える者が出てくるのは止められない。悧羅に魅せられ、墜とされる者など数え切れないし、隙あらば、と邪な考えを持つ者たちは今なお多くいる。紳が唯一だと皆に知らしめられているから、これまではそんな混乱が起きなかっただけだ。
忋抖が無二として立っても。
紳だけが唯一なのだという事実。
紳が悧羅に向けられる劣情を、無いものとしてくれていたから、これまで何事も起きずに済んでいただけなのだ。
契りを結んだことで、本当にすべてを知ったからこそ、紳が悧羅の唯一であることの尊さが分かる。
だからこそ、秘め事にしておくことで、これからは忋抖もともに悧羅を護っていきたい。
そう説いても紳は不服そうだった。
「俺がそうしたいんだ。それにこっちもあるでしょ」
とん、と紳の胸を突いてみたが、紳は眉根を寄せるばかりだった。でも、となかなか納得しない紳を宥めた後に、右の手の首についた疵は悧羅に秘匿の呪をかけてもらった。代わりに右耳の印を上書きしてもらえば、周りの視線は印に集めることが出来た。ただ、紳や悧羅とだけ過ごす刻は隠したままを嫌がられてしまうから、顕すようにしていたがそれ以外では知られてしまうことはなかった筈だ。
だからこそ誰も知れようはずがないのだけれど、どういうわけか樂采は知っているようだ。
「いつから?」
「初めからだよ?父様も紳くんも、悧羅ちゃんも何も言わないから黙ってただけ。どうせ父様が言わないとか言ったんでしょうけど。しょうもないんだから」
言葉少なに尋ねた忋抖に、やれやれ、と樂采が肩を竦めてみせた。幼い頃は何でも口に出してしまって手を焼いたものなのに、と懐かしくなりながら忋抖が樂采の頭を撫でる。頭を撫でられながら、なんだよう、と頰を膨らませる樂采の後ろで、また戸が開けられた。
「栄州?」
静かに部屋に入ってきた紳が、樂采の隣に座って名を呼んだ。穏やかな声が朧になりかけていた、栄州の意識を引き上げる。ぼんやりとした視界に、白銀の髪が鮮やかに映った。端正な顔を少しばかり青褪めさせて、肩で息をしている様など、悧羅に何某かあった刻にしか見たことはなかったというのに。忋抖と悧羅に同時に呼ばれ、務めも何もかも放り出して来てくれたのだろうことは、その姿が物語っていた。
ほんに有難い。
あの刻、紳を選ばなければ悧羅の穏やかな今はなかった。
宮から戻る道すがら、いつもであれば通りすぎるだけの近衛の鍛錬を見ていなければ、栄州が紳を夜伽の任に就けることはなかっただろう。
既に任じていたはずと思いこんで、振り返ることすらなかったかもしれない。
あれもまた何かに導かれたのかもしれぬ。
少し目を細めてから手を動かそうとすると、僅かに指先だけがぴくりと動いた。樂采に取られたままの手ではあったけれど、聡い子はそれだけで分かってくれたらしい。
「紳くん、爺ちゃんがお願いしたいことがあるって」
樂采から紳へ渡された栄州の手を、紳が両手で包んだ。
「なに?なんでもしてやるよ」
忋抖の方へと身体を寄せた樂采の分、紳が栄州に近付く。
「…まずは感謝を。紳様を選べたことこそが爺の誉」
「…なに言ってんだ。…あの刻、栄州が決めてくれなかったら、俺はこう出来てないんだよ」
包まれた手が微かに小さく震えている。ほんのりと伝わる温かさは、怠くなる栄州の身体を引き止めるようだ。ぎゅうっと掴まれた手の温もりは、あの日見た悧羅の穏やかな表情を思い起こさせる。
「懐かしゅうございますなあ…。紳様が長を里へと誘われた日…。あれほどまでに満たされた長のお表情を見ることなど、叶わぬと思うておりましたのに…」
500年ぶりに里人の前に降り、紳と手を繋いで戻ってきた悧羅は、本当に倖せそうだった。繋いだ手の主が余程の安らぎを与えてくれているのだろうと、思わざるを得ない程に。
言葉の端々で紳と悧羅に、栄州が引き合わせる前に縁があったことは気付いていた。けれど、2人が話さないことならばそれで構いはしなかった。夜伽の任を解かないと悧羅が言い出した時には流石に焦りもしたが、紳が傍に居てくれることで悧羅が穏やかに過ごせるならば、それでもいいといつしか思えていた。結果として媟雅を始め7人の子に恵まれたものの、子が為されなくとも紳が居てくれたなら悧羅は十二分に満足されただろう。
「長を倖にしてくださったこと、ほんに有難いと思うておりますよ」
「…そんなの俺のほうが、だよ。栄州が認めてくれたから、俺は悧羅の傍に居られるようになったんだ」
包まれる手に、より一層の力が込められた。まるで旅立つことを拒むような仕草に、栄州の顔も綻んでしまう。医師としても名高い紳だ。栄州の今など容易くわかるだろうに、抗おうとしてくれる。何者も天の定めた事柄には逆らえないというのに、栄州を見据る灰色の眼は、どうにか引き留められないかと考えてくれているようだ。
「長は、ほんによき伴侶を得られた。紳様がおられれば長の心も、治世も盤石であるというもの。…決して手をお離しになられますな?」
「誰に何て言われたって離すもんか。悧羅が居るから俺は生きてられる。悧羅が還る刻には一緒に還る。今生が終わろうと、来世でどんな姿になろうと、俺が悧羅から離れることはないよ」
「それは何より。叶うならば爺も再び、お仕えさせていただきとうございますなあ」
戸の奥から風にそよぐ木々の葉が擦れる音がする。もう見ることはできないが、きっと今日も良い日なのだろう。
空はどこまでも、高く、碧く。
里は活気に溢れ、走る童の笑顔と声が里に木霊して。
この悧羅の治世は、きっとまだまだ長く続く。悧羅が居てくれている間にまた戻ってくることができれば、皆に抱えてもらえることだろう。
「待ってるよ。悧羅を叱る役割は、栄州たちに預けたんだから戻ってきてくれないと、俺が困る」
包まれた手から紳の精気が流れ始めて、息苦しさを軽くしてくれた。紳が精気を送り始めたのが分かったのか、悧羅が眷属たちの名を呼ぶ。姿は見えずとも了を示した3つの声は、此処に居ない者たちを迎えに行ったらしい。
「呼ばずともよい、と申しましたのに」
嘆息しながら訴えてみたが、紳がゆっくりと頭を振った。身体を支えてくれている忋抖からも、揺れが伝わる。どうやら皆がくるまでもう少しだけ頑張らねばならないようだ、と栄州は苦笑してしまう。
やれやれ、と息を吐いてから栄州が紳と忋抖の名を呼ぶと、樂采が立ち上がった。何を言わずとも聡い子は全て分かってくれているらしく、悧羅に声を掛けて部屋を出ていく。紳への願いは、ここにいる者たち以外には知られたくないという栄州の思いを汲んでくれたのだ。
ほんとうに底の知れない御子だ。
樂采のくれた刻を無駄にしてはならないと、栄州も紳に包まれた手に力を込めた。
「彼の方をお赦しになってはくださらんか?」
嗄れた声に手を包む力と、身体を支える忋抖の腕が強張った。誰のことなのかは、名を出さずとも3人とも分かっている筈だ。
「…な、んで…?」
「爺でございますからなあ。…孫子のことなら分かりましょうや?」
栄州からそのことが出されるとは思ってもいなかったのか、紳の手の力が強くなった。目を細めて応えてみたが、知っているのは玳絃が栄州のもとで泣いたからに外ならない。
5年ほど前に栄州の邸に飛び込んできた玳絃は、何があったのかと尋ねる暇も無く泣き崩れた。
責めてももらえない。
殴られるでも、詰られるでもない。
逆に詫びられて、責を取ることも赦されない。
顔など合わせられる筈もない、と幼子のように大声を上げて泣き叫んだ。
「…俺、はっ、獣だっ」
繰り返される懺悔と慟哭は、老いた栄州には到底救えるものではなかった。ただ、しがみついて泣き喚く背を撫で、ともに泣いてやることしかしてやれなかった。吐き出される声と、その姿から何があったのかは推察することができたけれど、仕方ないと、大事ないと伝えることすら憚られた。そんな言葉では救えないことが分かっていたから。
「…責めてないよ?…俺たちの考えが甘かっただけで、責めを負うべきなのは俺たちの方だ。あいつを憎んだりもしてない。赦しを求められるようなことでもない」
「なれど彼の方はそう思うてはおられませぬよ?…それが分からぬ紳様ではあらせられますまいに…」
小さく出した嘆息は、その場に居た3人の身体を強張らせた。
あの日部屋を飛び出した玳絃は、その日から宮で過ごす刻が格段に減っている。皆が揃う刻には努めて姿を見せてくれてはいるが、それ以外で決して姿を見せようとしない。紳や忋抖が居ればまだしも、悧羅だけが宮に残っている刻など寄りつくことさえしなくなった。
どんなに悧羅が隣にくるように言っても。
どんなに紳が顔を見せろと言っても。
どんなに忋抖が手を引いて連れ帰ってこようとも。
決して悧羅の傍に侍ることをしなくなってしまった。
皆が居れば変わらないように振舞ってくれてはいるが、これまで当たり前に許されていた子としての関わりも見せることがなかった。
それでも周りに気付かせないほどに、一片の隙もなく玳絃というものを演じてくれている。
「…分かってるんだよ…、でも俺たちが何を言っても玳絃の心を引き裂いてしまうんだ。救いあげたくても、手を伸ばしたくても、話をしてやりたくても、玳絃を今以上に壊してしまいそうで…。どうしてやったらいいのかも分からないんだ」
ぐっと唇を噛んだのは紳だけではない。栄州を支える忋抖も、手を包んだままの悧羅も息を呑んで俯いてしまう。
血の縁を呑み込んでまで、姚妃を救ってくれた玳絃を労ってやりたかった。
思い悩むことなどないのだと、教えてやりたかった。
為したことに押し潰されて、玳絃までも掌から溢れてしまうことを防ぎたかった。
瘧を払ってしまえば前に進んでくれるだろうという甘い考えだけで、その先にあるであろう新たな苦悩を軽く考えてしまった。
玳絃ならば、という過剰な期待こそが、玳絃を苦しめてしまったのだ。
日々暗く沈んで、薄まっていく気配は痛いほど伝わってくるのに、何もしてやれない。
「ならば王母様にお預けなさるか?…姚妃姫のように」
栄州が姚妃のことまで知っていたことに紳と忋抖が悧羅を見たが、こちらもまた静かに首を振っただけだ。3人しか知らないことを何故、という気持ちが残るがそれを問い正す刻はない。
「…っ、…嫌だ…っ、」
姚妃の名に強張ってしまいながら、紳も訴る。
学びに行くと皆に伝えた姚妃は、王母の場へ脚を向けた。物心がついた頃から、いつかは王母の下で見識を深めたいと望んでいたことは偽りではないし、王母に願い出ていたことも本当のことだ。あちらとこちらでは刻の進み方も違うから、姚妃の中の刻を緩やかにする算段をつけていたが、姚妃が伏せったあの日に、それは叶わなくなってしまった。
学びたいという思いは、僅かに残っていた。
けれど、生きたいという思いは何処にも無かった。
ただ、玳絃を楽にしなければ、という願いだけが姚妃を姚妃足らしめていた。
玳絃に最悪なことなど起こらないと伝えたのは、縛りで悧羅と紐付いていたからだ。
姚妃自身が、それを切ることを望んでしまったら無理矢理に留めることなど、例え悧羅であっても出来はしない。呪など、強い意志が同じようにあるからこそ結んでいられるのだから。
ならば、と紳と悧羅は姚妃を戻すことを決めた。
姚妃が培ってきたものはそのままに、身体だけを戻した。
無邪気にはしゃいで笑ってくれていた、幼子の頃まで。
王母の手を借りて。
いつかすべてを落とし込んで帰ってくることを約束して。
目覚めてからの4月、玳絃が頑なに子の刻に戻されていたのは、姚妃に姿を保つだけの能力がなかったからだ。玳絃の目の前で幼子に返ってしまえば、思惑も知れる。そうなってしまえば、玳絃も後を追うと言い出すことくらい分かっていた。
今、姚妃は王母の場で蓮に包まれて眠っている。悧羅の胎の中と同じように、悧羅の能力で満たされた花の中で、夢を見るようにしたいことをしているだろう。
そうするしかなかったから、身を裂く思いで預けた。
眠る瀬戸際に、玳絃が倖を掴めるよう手助けをしてやってくれと願う姚妃は、紳と悧羅に泣きながら詫びてくれた。
「親不孝者で、ごめんなさい」
勿論、姚妃に願われずともそうするつもりだった。この上、玳絃まで預けることになってしまったら、紳も悧羅も親でいる資格を失くしてしまうから。
「…宝なんだ…、あんな思いは2度としたくない…」
失いたくなどない。
失ってはならない。
手放すことなど考えてもいない。
あんな思いは1度で充分だ。
「ならば寄ってやりなされ。拒まれようと、悼まれようと、引き留めて、話をしてやってくだされ。紳様であればまだ間に合いましょう」
「…っ…、まだって…。そんなに思い詰めてるのか…」
「それはもう。幾度となく爺も叱らせていただき申したが、どうしても頷いては下さらなんだ。流石は紳様と長の御子であらせられる。こうと決めたら動かれぬのですからなあ。…なれど孫子が笑うておってくれませぬと、還り道で迷うてしまいますれば。ようやっと忋抖若君を救えたと思うたのですがなあ」
力を振り絞って微笑んでみたが、ぐらりと視界が揺れる。ずるずると倒れ込んだ栄州の身体を、支える忋抖の腕も強くなった。
「爺があの刻居てくれなかったら、俺はこうしてないよ。…爺に何も返せてないのに…」
震える声音を出す忋抖に、栄州も小さく首を振る。
「…なんの。爺に坊を抱かせてくだされた…。充分ではございませんか…」
ふふっと笑ってしまうと、ますます支えてくれる腕に力が込められていくのが分かる。
「なれど、爺に恩を返すなどとお考えになられるならば、最期の願いを叶えてくだされ」
閉じていく瞼を堪えながら言うと、うん、と応えた忋抖からぎゅうっと抱きしめられた。
「曾孫まですべからく抱かせてもらいとうございましたが、ほんに充分倖にしていただきましたなあ…」
「…栄州…っ」
ぼんやりと霞む目の前で悧羅が動く気配がする。手を伸ばしてその身に触れたくても為せない己に苦笑してしまう。
「…倖であられよ、我の尊き御方…」
出した言葉に呼応するように、痩せ細って乾き窪んだ頰に、ぽたりと水が落ちてきた。
「…一足先に御前を失礼致す無礼をお許しくだされよ…。ほんに倖でございました…」
ぽたぽたと落ちる水は、悧羅の涙らしい。嗚咽を堪える声の中で蓮の芳がすぐそこにある。咽び泣く合間に、何度も何度も栄州の名を呼んでくれている。
重くなる瞼の裏で、懐かしくも有難い日々が浮んでは消え、浮かんでは消えていった。
先代の暴挙と、零れ落ちた多くの同胞。
立式で見た悧羅の痛いほどの美しさ。
この方ならば、と誰しもが思い、願い、すべてを託した。
まさか重鎮の一役として侍ることが出来るだなどとは思いもしなかったが、800年は本当に一瞬だった。
悧羅が望めば華が咲き、悧羅が動けば里が潤った。
悧羅が誰よりも悼み、不満の1つも口に出さず、ひたすらに耐え忍んでくれたから、今がある。
歳若かった悧羅に身を押し潰すような苦渋を与えたのも栄州だったはずだ。
それなのに、還って行く自分に涙を溢してくれる悧羅が、本当に愛らしい。
「…長…、爺の最期の願いは聞き届けてくだされよ?」
「…父の願いじゃ…。かならずや…」
咽び泣く声と共に、栄州の身体がふわりと包まれた。
「…ほんに、誉な娘じゃて…」
仄かに芳る悧羅の温もりに身を委ねると、瞼のその奥で手を伸ばしてくる姿が映った。野花のような笑顔で手を伸ばしてくるそれに、栄州の顔が綻ぶ。
―――――待っていてくれたのか。
《おかえりなさいませ。永くお疲れさまでしたね》
ふふっと微笑む傍に、2人の幼子の姿がある。
《ててさま、いっぱい頑張ったの?》
《もう一緒でいい?ててさま、いっぱい抱っこしてくれる?》
笑う野花の女と共に、小さな手を大きく開いて手招きをしてくれている。3人が立つ後ろに小さな邸も見えた。
遠い昔に無くした、
帰ることを楽しみにしていた、
あの、邸。
――――――ああ、待たせてしまったな。
広がった緑の野に一歩を踏み出そうとすると、駆け寄った3人にふわりと包まれた。思わず包み返したけれど、そこには先刻まで蝕まれていた辛さも、枯れ木のような腕もない。
《少しばかりゆっくりと致しましょう。これまでのこと、沢山聞かせて下さいね、あなた》
頬を包みながら微笑む顔は、栄州が長い間忘れることができなかったものだ。
『…ああ…、少し…、長くなるけれど…』
差し出された手を取って立ち上がれば、両側から幼子達が身体にしがみついてくる。背や腕にきゃはは、と乗しかかる幼子たちを支えると、ふふっと手を引かれた。
《お茶の用意ができておりますよ》
『…それは、愉しみだ…』
さあ、と引かれた手を強く繋いで、栄州は歩を進めた。
******************
灯の消えた近衛隊舎の戸の前で、玳絃は身体に纏わりついた雫を払った。いつもであれば高く昇っている筈の月も、このところ姿を隠してしまっている。里にあって雨が降るなど、本当に珍しいことなのに、今度の雨は長く続いている。栄州が旅立った翌日から、降り続く雨は7日にもなろうというのに未だ止む気配がない。
何時になったら止むんだか。
暗く落ち込む空から落ちる冷たさは、まるで悧羅の涙のようだ。
雨は嫌いなんだよなあ…。
玳絃が心咎めるようなことがある日には、決まって雨が傍にあったように思う。
唯一喜ばしかったのは、瑞雨が生まれてくれた刻だけだ。
ふうっと大きく嘆息して隊舎の中に入ると、まっすぐに自分の席に進む。冷めた上衣を脱ぎ捨てて投げながら、引いたままであった椅子に身体を投げ出す。ぎしりと軋む音とともに、大きく息を吐いてから、玳絃は卓に突っ伏した。
栄州が旅立つまでは、幾許りか癒せていた疲労が、今は溜まりすぎている。
いっそのこと栄州が連れて行ってくれたら良かったのに。
そうすれば、3人をこれ以上悩ませることも、自分の心がこれ以上軋むこともなくなっただろうから。
本当なら、あの日そのまま姿を消したかった。
宮を出て。
里から離れて。
玳絃の愚かさから逃げ出したかった。
ヒトの子の国で野に下ろうともしたのだが、暫くすると妲己に咥えて戻されてしまうのだ。
「なんで?」
“異なことを申される”
何も言わずに出てきても、唐突に現れる妲己に初めの内は驚いたものだが、幾度も繰り返されれば慣れてしまった。戻らないと何度伝えても、妲己の尾が下がるのを見ては折れるしかなかった。
里を出ることを諦めた訳ではない。
出来ることならすぐにでも、この場から離れたいのだが、栄州の葬儀もまだ終わっていない。今、里を出たとしてもまた妲己に連れ戻されるだろう。とはいえ栄州の傍に居れば、そこには悧羅が居る。合わせる顔もなくて自室に下がれば、紳か忋抖が手を引きに来る。姉兄たちに気取られるわけにもいかず、かといって泣き処であった栄州も居なくなってしまっては、心も擦り減るというものだ。
栄州が何か言い残したのかもしれないが、3人がまた動き出そうとしてくれているのは分かる。それは痛いほどに分かるのだが、出来ればこのままにしておいて欲しい。5年経ってようやく、自分がどうするべきかが見え始めたのだ。
あのことに関わっている者たちが手を伸ばしてくれていても、その手を取る覚悟は玳絃にはない。
あるのは自分の中の、悍ましさを消したいという思いだけ。
はあ、と嘆息しながら、駄目だなあ、とひとりごちる。
捨ておいてくれたら、楽なのに。
赦してもらおうとも、赦されるとも思ってなどいないのだから。
あーあ、と身体を起こして上を仰ごうとした玳絃の頭に、ひやりとした小さな身体が乗った。どうやら今夜の目付役は睚眦のようだ。どうしても玳絃はひとりにはなれないらしい。
「…なに?」
【何だはないだろう】
目付役にされたことが不服なのか、呆れたような嘆息とともに頭から降りた睚眦で、卓から軽い音がした。
【宮に居れば良かろうに。焔に包むは明日なのだぞ?】
「心配しなくても、その刻にはちゃんと居るって」
【どうだかな】
上げかけていた頭を再び卓に預けると、やれやれとでも言うような嘆息が聞こえてくる。
【これ倖と、出ていきかねん】
「…流石に爺を見送るまでは考えないって。そこまで恩知らずじゃないし、そんなことしたってどうせ妲己が来るだろ?」
【分かっておるなら宮におってやれ】
「…十分、居たじゃないか」
小さな尾でぱしりと額を叩かれて、玳絃は顔を隠したまま苦笑してしまった。
玳絃とて、許されるのなら妲己に甘えていたい。幼い頃から、ましてや生まれ落ちたときからずっと護り続けて来てくれていた妲己は、あの日の後も玳絃の傍に在ろうとしてくれた。焚き付けたのは自分だと、目を覚まして嘆く玳絃に詫び続けていた。逃げる玳絃の迎えに、妲己しか迎来ないことを考えても、今でも詫び続けていているのだろう。睚眦はともかくとして、哀玥が妲己だけに任せるとは思えないから。
それを分かっているからこそ、静かに尾を降ろされれば戻っていた。
それを分かっているからこそ、戻されて数日は宮で過ごすことも善とした。
どんなに自分が苦しくても。
どんなに自分が悼んでも。
課せられた罰なのだと言い聞かせて。
玳絃の姿が見えることで妲己が心安らかになるのであれば、それで良いと思おうともしたのだけれど、やはり無理があった。
玳絃が宮に居れば、悧羅が来てしまう。
玳絃が部屋に居れば、紳と忋抖に訪われてしまう。
息を殺して過ごしていたくても、為されないことに心が壊れてしまうのは明らかだった。
だから少しずつ、距離を取ろうとしているのに。
だから少しずつ、生命を削ろうとしているのに。
何もかもが上手くいかない。
「…ほんとにもう辛いんだってば…」
額の下に付いた手で、ぎゅっと拳を握ってしまうと、また呆れたような嘆息が聞こえてくる。
【玳…、お前は馬鹿なのか?】
ぺちりと、額を叩く強さがほんの少しだけ増すと、突っ伏したままの身体が、ひやりとした感触に包まれた。顔を上げずとも、睚眦が体躯を戻して包んでくれているのが知れる。
【何をそのように悔やむことがある?お前は妖だろう】
「…だからだよ…」
やれやれと、ごちた睚眦に身体を包まれると、硬い鱗が肌に刺さった。冷たいながらも温かい睚眦の体温で、閉めたはずの想いの蓋が開けられてしまいそうになって、玳絃はぐっと唇を噛んだ。
睚眦に言われずとも、自身が妖であることなど知っている。
妖であるからこそ、欲しいと切望するならば、思いのままに動けば良いことも分かっている。
けれど。
玳絃がしでかしたことは、妖だからと目を瞑っても良いものでは決してない。
「何も考えなくていいなら楽なのに…」
あの日のことも。
欲しいと思った感情も。
あの刻の、怖れと慄きの叫びも。
決して、忘れてはならず、赦されてはならないものだ。
【…倖になれと言われたのではなかったか?】
「なれるわけないでしょ…?」
姚妃と約束したことを違えるつもりではなかった。どのような形であれ、倖になると誓った。だが、あの日掴もうとしたものは玳絃の倖では、決してない。
「倖なんて…、俺には勿体無いことなんだよ」
何よりも誰よりも大事な、妹を泣かせた。
何よりも誰よりも大切な、母も傷付けた。
尊んでいる父も、優しすぎる兄の心も悼め尽くしてしまった。
【…だから居なくなると?】
「…何のこと?」
素知らぬ振りをすると、睚眦が何も言わずに頭を撫でてくれた。ゆっくりと宥めるような尾の動きは、何も言わずともこれまでの玳絃の気持ちを分かってくれているようだ。
泣いて、泣き続けて。
悔やんで、悔やみ続けて。
そうするべきだと、ようやく落とし込めた刻にはあれから2年も経っていた。
あと少しなのだ。
「ちゃんと戻るから。頼むから、ひとりにしてくれよ…」
絞り出した哀願に応えはなかった。代わりに1度だけするりと身体に擦り寄られると、睚眦の温もりが離れていく。小さな嘆息を残して睚眦の気配が消えてから、玳絃も大きく嘆息した。
突っ伏していた身体を上げて、椅子に投げ出せばようやく息がつける。
「…倖になんて、なれるわけがないんだ…」
暗闇に向かってごちてしまうと、苦笑が漏れた。ふふっと笑いながら左耳の後ろに触れると、ざらりと引き攣れた小さな疵に、また苦笑してしまう。悧羅から貰った縛りの印は、もうそこに無い。正しく言えば見えなくなったという方が良いだろう。植えられていることが苦しくて掻き毟り続けた結果、肌が引き攣れて見えなくなったのだから。
疵に触れれば、まだほんのりと悧羅との繋がりを感じられるのは、玳絃が為そうとしていることを、止めようとしているようにも思える。
それとも、流れ込んでいるのは悧羅の苦しみなのだろうか。
「…大丈夫だよ。…もう苦しまなくて良いんだから…」
ぽつりと呟やいた言葉は、玳絃に向けたものか。
―――――それとも。
もう1度深く嘆息しながら、玳絃はゆっくりと目を閉じた。
****************
白く細い煙が、ゆらゆらと昇っていた。未だしとしとと降り続ける雨の間を縫うように、昇る煙を追いながら、玳絃は腰を落とした。煙が発する麓には焼け焦げた土が見える。
「…爺、会えた…?」
焦げた土の上に先程まで居た筈の栄州に語りかけても、返事などない。それでも旅立った日の栄州の表情は穏やかだった。身体の老いが進んで、栄州の邸に誰かしら行くようになったのも、元はと言えば玳絃が逃げ込んでいたからだ。宮に戻らず栄州の邸に入り浸っていれば、姉兄たちだけでなく磐里や加嬬からも案じる声が出るのは当たり前だった。それを、栄州が収めてくれた。
「爺の身を案じておられるだけですぞ?なにせ厠に行こうにも足が言うことをききませぬのでな」
起きている刻が短くなっていた栄州に言われた皆も、成程と納得した。それならばと手の空いた者が邸にくるようになってしまったけれど、それでも宮に戻るよりは幾許か楽だった。
邸に入り浸ってしまっていることを詫びると、なんの、と笑ってくれていた。
「助けてもろうておりますれば。何より若君とこのように長く居れますなど、爺への褒美でしかござらんなあ」
「何にもしてないよ?」
「孫と共に居れる、充分ではございませぬか」
皺の寄った顔でくしゃりと笑いながら、幼子の頃のように頭を撫でてくれた。
悧羅が訪う時だけは隠れてしまうことにも、何も言わずにいてくれた。玳絃がしてしまったことを知っているのに、憤りもせず、かといって諭そうとするでもなく、いつもと変わらない姿でそこに居てくれた。
栄州の邸だけが、息を吐ける場処だったのに。
「迎えに来てくれると良いのですがねえ」
2人で過ごす中で、時折語られる栄州の家族の話が好きだった。見えたこともないのに、懐かしむように話す表情も声音も穏やかで、栄州がどれほど逑と子らを大切にしていたのかが伝わって、玳絃の心も温かくなったものだ。
「なんでもう1回、契りを結ばなかったの?」
亡くしてからの長い刻をひとりで過ごすのは淋しくなかったのか、とふと尋ねた玳絃に栄州は笑っていた。
「考えたことはありましたぞ?なれど、あの日々を思えば踏みだすことが憚られましてなあ。新たに結ぶことで、忘れることが恐ろしゅうもありましたかの。それならば、ひとりでよろしいかと思うただけですな」
「そっか」
「とはいえ、この歳にならば少しばかりは淋しゅうもなる。愛い孫がここに居ってくださることが、どれほどの癒しか。あとは旅立つ時に迎えがあれば、何も言うことはございませんな」
「大丈夫だよ。きっと来てくれるさ」
宮に移ってからも玳絃が見舞えば、まだ迎えが来ない、と笑っていた。痩せ細った手で頭や背を撫でてくれながら、玳絃が息を吐けるようにしてくれていた。
「最期まで心配かけちゃったねえ…」
手を伸ばして煙る土を取れば、じりりと肌が灼けたけれど、もう触れられなくなってしまった栄州の温もりのようにも思えて、つい掌を置いてしまう。じりじりと肌を灼く音がしても、不思議と熱さは感じない。疲れ切った心では、もう熱さや痛みなど感じなくなってしまっているのかもしれなかった。
そうであるなら、どれだけ楽になれるだろうか。
細い雨だったものは、少しばかり勢いを増して玳絃の身体を濡らしていく。寒さも熱さも痛みさえも感じることができなくなれば、ようやく救われるだろうに。
「…本当は連れていって欲しかったんだよ…」
1度だけすべてを終わりにしたいと呟いた玳絃に、その時ばかりは栄州も首を振っていた。
「それだけはなりませぬぞ」
どんなに辛くとも自死だけはするな、と釘を刺された。何故だなどと、尋ねるまでもない。玳絃がそうしてしまえば、疵を負うのはあの日のことを知る者たちだ。だからこそ里を出て、見えない処で朽ち果てたいと願ってしまう。
今になって、姚妃の気持ちがよく分かる。
玳絃の姿が見えなくなること。
玳絃が、その場から居なくなること。
それが傷付けてしまった者たちへ出来る、唯一の贖罪なのだ。
あの時の姚妃も同じ思いだったのだろう。
「姚妃に怒られるだろうなあ」
玳絃に倖になれと言ってくれた。
玳絃が笑って過ごすことを願ってくれた。
こんな姿を見られたら何をしているのだと、呆れるかもしれない。もしかしたら書物で殴られるかもしれないが、それも悪くないと思えた。
「…約束、守れてないもんな」
いつのまにか付いていた両の掌からは、絶え間なく肌を灼く音が響いている。ふいにがくんと力が抜けて、じりじりと届く鈍い音に目を向ければ、両腕が黒く色を変えていた。ゆらりと傾むく身体を支えることも出来ずに倒れ込むと、目の前で煙が上がる。
起きあがろうとしてみるが、どうしたわけか身体が鉛のように重い。そういえば、ぐっすりと眠ることさえも、あの日から無かったように思える。
久しぶりに眠れるかな。
小さく笑ってしまいながら落ちる瞼に、身を任せると心地良い睡魔が全身を絡め取ってきた。
「…げんっ!…玳絃っ!」
ごぷりと沈みかけた意識の外で、誰かに呼ばれたような気がする。ばしゃばしゃと水を蹴る音もするけれど、眠くて眠くて仕方がない。
「…っ!おいっ!玳絃っつ!!玳絃っ!」
遠く聞こえる声は、幾度も自分を呼んでいる。倒れ込んでいたのだろう、自分の身体を抱き起こして頰を叩かれてもいるのだが、どうしても眠気に逆らえない。それでも幾度も呼ばれて揺さぶられて、仕方無く開けた目に真っ青な表情をした紳が飛び込んできた。
「玳絃っ!何して…っ、俺が分かるか!?」
「…あー…、父様かあ…」
ぼんやりと映る紳を見留めると、また閉じていく瞼を止めるように紳が名を呼んでくる。
「…大丈夫、眠いだけ…だよ…」
「お、まえ…、何言って…っ!」
迫る眠気に逆らいながら言ってみたが、身体を支える紳の腕の力は強くなるばかりだ。何かあるのかとも考えてしまうが、今は眠くて堪らない。
「話するの?…後ででいいかなあ…」
何か話があるとしてもあの日のことだろうが、今は話したくない。
「…ごめん…、父様…、とりあえず寝せて…」
「玳絃っ!?待、てっつ!!」
ぷつん、と糸が切れるように意識を手放した玳絃に、紳は息を呑んだ。
「お、い…っ?おいってばっ!玳絃っ!目え開けろっ!」
叫ぶように名を呼んでも、頰を叩いても玳絃の瞼が上がらない。抱き上げた身体からは、灼け焦げた肉の臭いだけが立ち昇ってくる。顔色を確かめたくても、半分が灼け落ちて炭化した皮膚では何も見えない。
「…やめ、てくれよ…っ?頼むからっ、ちゃんと話させてくれ…っ」
震える腕だけでは足りず、抱きしめているすべてで癒そうとするけれど、間に合わない。悧羅が腕を落とした時と同じように、術を拒む姿に身体の奥底から震えが走る。黒くなった額に手を当てて精気を探るが、触れられる筈もなくて、それがまた紳の心を抉っていく。
「…っ…!ごめんっ、ごめんなあ、玳絃…っ」
ぎゅうっと抱きしめると、肉の灼けた臭いとともに、じりじりと熱が伝わってくる。触れている場処すべてで精気を流し込むしか出来ず、己の無力さに唇を噛んでしまう。
栄州が残してくれた言葉で、分かっていた筈だった。
そうならない為に、もう1度手を引こうとしていた筈だった。
玳絃の想いをちゃんと聞いて。
玳絃を傷付けたことを深く詫びて。
救い上げる為に、紳に出来ることなら何でもしてやろうと思っていたのに。
どれだけ名を呼んでも、どれだけ身体を抱きしめても聞こえてくるのは、絶え絶えとしたか細い息の音だけだ。
「頼むよ、玳絃…っ。ちゃんと俺に聞かせてくれ…っ」
だらりと落ちたままの焦げた腕を掴むと、指の間から炭が溢れ落ちていく。まるで此処にいることを拒むかのような光景に、紳から嗚咽が漏れる。堪らずに崩れ落ちそうになる紳の耳に、ばしゃりと水を蹴る音が届いた。
「…は…!?」
「…っ、ひっ…、玳絃っつ!!!」
同時に響いたのは唖然とした忋抖の声と、悲痛な悧羅の叫びだ。
「な、らぬっ!ならぬ!ならぬえっ、玳絃っつ!?」
降り立つと同時に走り寄ってきた悧羅が声を張り上げても、玳絃の目が開かないことに傍に来た忋抖も拳を握った。
「…なに…、やってんだよ…、馬鹿…」
崩れるように膝をついた忋抖も、色の変わってしまった玳絃に手を伸ばす。焦げた頰をそろりと包むと、じりっと肌に熱が伝わる。ぴしりと小さな音を立てて亀裂の入った頰に苦虫を噛みながら、精気を流す。
からからと落ちていく炭の音だけが、嫌に鮮明だ。玳絃の身体に縋りついた悧羅も、どうにか癒そうとしているのだろうがじわじわと広がっていく熱に言葉を失っている。
「玳絃っ、玳絃っ!目を開けてたも…っ」
声を嗄らすほどに悧羅が呼びかけても、玳絃の目は開かれない。
息が切れるほどに癒し続けても、灼けた皮膚が崩れ落ちていく。
救える手立てがあるはずなのに、何も思いつけない。
こんなことで失ってはならないのに。
こんなことで壊してはならないのに。
なにか。
なにか、あるはずだ。
愕然としながら考えを巡らす3人の耳に、呆れたような声がした。
「あーあーもう…、」
弾かれたように顔を上げた先に居たのは、樂采だった。
「樂采…?…なんでお前…?」
精気を送ることも、癒すことも止めずに呟く忋抖に、はあ、と大きな嘆息が投げられる。
「なんでって、それ僕に聞くの?」
やれやれ、と肩を落としながら悧羅と忋抖の間に割って入りながら、樂采が蹲み込んで玳絃の身体に触れた。仄かに輝き出した掌で暫くなにかを探ると、小さく頷いてから樂采はぽんっと悧羅の肩を叩いた。
「まだどうにかなるよ」
にっこりと微笑む樂采の姿に崩れ落ちそうになったのは悧羅だけではない。紳も忋抖も大きく嘆息したが、力の抜け落ちそうな身体を、樂采の声が制した。
「駄目だよ、紳くんも父様も気を抜かないでね?そのままでいて。でないと崩れるから」
その言葉に抜けかけていた力を、紳も忋抖も留めて、より一層の精気を送る。何故、樂采が此処に居て、どうして何もかもを知っているのか問い正したいけれど、今は玳絃を留めなければならない。精気を送り続ける紳の手首と、忋抖の右眼に蓮が浮かぶ。それに頷いた樂采は、少し居住いを正して悧羅の手を取った。
「悧羅ちゃん、落ち着いてね?」
冷えて震える手を包みながら、真っ直ぐに見つめられて悧羅は目を見開いた。
落ち着け、と言っても大切な宝のひとつが掌から溢れかけている。自分のことならどれだけ悼もうが、眉ひとつ動かさない悧羅の唯一の弱みは、これだ。
紳を筆頭に、血族が悼むことを何より嫌い、その者以上に悼んで脆くなる。
普段であれば何が起こっても、息をするように導いてくれるのに、それが出来なくなってしまう。
時折、自分を見失うほどに。
それほどに大きな愛情を注ぎ続け、見返りなど求めることもせず、真綿に包むように護ってくれる。
何も知らない者たちが見れば、何故そこまでと思うだろうが、それが悧羅という女なのだ。
己よりも宝と定めた者たちが倖であるように。
紳から貰った倖が溢れないように。
願い、動く。
だからこそ、皆も悧羅の傍に居続けたいと望むし、護れる自分で在ろうとする。
紳も。
忋抖も。
樂采も。
玳絃だって、そうだった筈だ。
ただ、少しだけ皆が、何かを掛け違えてしまっただけで。
「考えて、悧羅ちゃんならできる。僕もお手伝いするからさ」
包んだままの手に、ぎゅうっと力を込めると、目を見開いたままの悧羅から大きな嘆息が落ちた。自身を落ち着かせるように、幾度か大きな息を繰り返した悧羅が、視線を動かし始めた。揺れる眼差しが、玳絃を捉え、精気を送り続ける紳と忋抖に動く。悧羅が見つめる間にも、玳絃の身体から軋む音が響いていく。一際大きく亀裂が走った腕に、紳が顔を上げたけれど、それには樂采が頭を振った。
今、悧羅の思考を止めてはならない。
ここで気付くか気付かないか。
それで、この先の道が分かたれるのだから。
分たれる道の先を知っているからこそ、口に出すことが出来ない。樂采が手伝えるのは、悧羅が決めたその先にしかない。
「…っつ…!」
「…ちょっ…と、待てって…っ!」
からからと剥がれ落ちていく炭に、紳と樂采が息を呑むのと、そうか、とごちた悧羅が自分の腕を切り裂いたのは同時だった。
「許してたも…、玳絃…っ」
ぽつりと呟いた悧羅の手が、包んでいた樂采から離れると、ふわりと動く。は?、と玳絃を支える2人が目を見開く前に、噴き出して流れ出した血を含んだ悧羅が玳絃に深く口付けた。
「…っ!…悧…っ!?」
顔の形などとうになく、崩れかけた唇を深く口付けて開くと、含んだ血を流し込む。ざらりとした炭を押し退けて流し込まれた血が、玳絃の喉を通る音がする。名を呼ぶことも許されないまま、唖然としたままの紳と忋抖の目の前で、今度は悧羅の襟元から光が漏れ出した。
その光を、紳も忋抖も見たことがある。
忋抖は幼い頃に。
紳は、悧羅が窮地に陥る毎に。
もう何百年も見ることの無かった光が溢れ出て、止めるために声を上げようとした2人は次には、また息を呑んでしまった。
悧羅から溢れ出た光は、白い肌を伝って触れた手から玳絃に流れていく。流れた光は波となって炭と化した玳絃の身体を縁取ると、1本の筋になり、当てられた手から吸い込まれるように悧羅の中へと戻り、炭であった玳絃の疵が、流れ込む光とともに悧羅に移り始めた。
「悧羅っ!?!
「…っ!待って!駄目だっ!!」
「動かないでっ!!そのままっつ!!!」
玳絃に口付けたまま、炭化する悧羅の姿に、紳と忋抖が手を伸ばそうとするのを、樂采が間に入って止めた。
ここで阻まれるわけにはいかない。
びくりと止まった2人に視線を返すこともせず、樂采が紳の手を掴んだ。
「全開で貰って!!」
右手で紳を、左手で悧羅の肩に触れた樂采から叫ばれて、紳も道に意識を集めた。これまで緩やかに流れてくる蓮の精気に、意識を傾けたことはない。悧羅に譲るためだけに貰い受けていたから、道を開いても流れてくるのは細い小川のようなものだったろう。初めて自ら欲しいと願って開いた道が、灼けるような熱を持つと、どっと身を潰すほどの精気が押し寄せた。
これまで開いてきたのは、ほんの僅かであったのか。
硬く閉じられたままの門扉を打ち破る勢いで巡る精気に、ぐらりと傾く紳の身体を樂采が掴む。掴まれた処が熱を持つと、受け取った精気はその1点を目指して駆け巡り、樂采の手を介して流れ出ていく。溺れるかと思えたモノを、今度は急激に奪われて、意識を手放しそうになるが、樂采が呼ぶ声と悧羅の姿がそうすることを許さずにいてくれる。
「お願い、紳くん。堪えて」
受け取った精気の重さに苦しくなるのは、紳だけではない。荒れる息の中から願った樂采も、気を抜けば崩れてしまいそうだ。馴染みのあるものではあるけれど、身体の中で暴れ廻る精気を、左手から放って悧羅へと送る。紳の中へと流れ出した精気が、紳と混じる前に、奪い送り出す為だけに、樂采も当てた手に意識を集める。
玳絃から悧羅へと移った疵は、ただの疵ではない。
妖の、それも鬼神の身体を葬送するための呪。栄州の安らかな眠りが害されることがないように、と願われ悧羅と荊軻が施した。2人の能力を超えるものでしか消せないし、消そうと思うならそれ以上の能力でそのものを変えるしかない。
肉体を燃やし尽くす呪を組み込んだ、焔の欠片で負った疵。それも悧羅と荊軻の手によるものなのだから、2人以上の能力となれば華だけだろう。
紳がどれほどに癒しても。
忋抖がどれほど精気を送っても。
それだけで、崩れていく玳絃を留めることなど、出来る筈もないのだ。
ゆっくりと、少しずつ悧羅へと渡る精気が、移った疵を癒していく。出来れば1度に譲ってしまいたいけれど、それでは駄目だ。亀裂の入った器に勢いをつけて水を注げば、割れてしまって元には戻らない。幾ら同じものとはいえ、これだけの質量を持った精気を1度に流せば、悧羅といえど耐えられるか分からないだろう。
壊れて崩れ果てさせることだけは避けなければならない。
里のためではなく、悧羅を慕うすべての者たちのために。
暴れ巡る精気で、樂采の身体が軋む。じっとりと浮かんでくる汗を冷たく感じても、此処で止めるわけにはいかない。薄れそうになる意識を精気が駆け巡る悼みで耐えて、2人を掴む樂采の手が冷え切るまで耐えた頃、ようやく先が見え始めた。玳絃から悧羅に移った疵が、襟元から漏れる光が細くなる毎にゆっくりと癒えていく。
「閉じて、紳くん」
光が細くゆらりと揺らめいたのを見やって、樂采は紳に道を閉じるように頼んだ。黒く炭化した悧羅の顔と右腕が、仄かに輝きながら元の姿を取り戻すと、するりと立ち昇って消えていく。散った光が悧羅の身体を照らしたが、樂采から見える処に疵は残されていないようだ
ゆっくりと玳絃から唇を離す悧羅の姿に、どっと疲労が押し寄せた。長い刻、暴れ廻る精気に犯されて、身体中が軋んでいる。大きく息を吐くと、樂采の身体から力が抜けた。
「樂采っ!?」
流石に立っていることも出来なくて、ぐらりと傾いた樂抖の腕が忋抖に掴まれた。引き寄せられて背に当たった温もりに、身体を預けると、額に当てられた手が樂采を癒し始めた。
「お前、後でいろいろと説明しろよ?」
「は―い…、って僕よりも紳くんは?玳兄さまはっ!?」
尋ねた樂采に、少し目を細めた忋抖に言葉に詰まってしまう。
「全部は、…無理だったんだね」
預けていた身体を起こして、紳に抱き締められたままの玳絃に近寄る。
息は穏やかだ。
黒く亀裂の入っていた、顔も。
灼け焦げていた半身も、炭化していた右腕も、元の形でそこに在る。
けれど。
土に投げ出された左腕だけが、そのままだ。
からからと剥がれ落ちていく音とともに、玳絃の左腕が消えていく。
「…っ…、樂采…、何か知らないか?」
ぽつりと呟いた紳は、玳絃を抱き締める腕に力を込める。よくよく見れば、紳も悧羅も忋抖も、玳絃に精気を送ることを止めてはいない。
だが、これ以上は―――。
「…ごめんね…」
「…っ…」
ふるっと頭を振った樂采に、紳が息を呑んだ。
「…そうか…」
ぐっと腕に力を入れた紳の姿に、樂采が拳を握ると、隣で身を支えてくれていた忋抖からも息を呑む音がした。
「とりあえず、宮に戻ろう。玳兄さまの身体は、まだぼろぼろだから」
嘆息しながら伝えると、紳と忋抖の視線が玳絃に落ちる。だが、悧羅だけが玳絃に縋りついたまま、動こうとしない。
「悧羅ちゃん、玳兄さまを休ませてあげて。悧羅ちゃんが動かなきゃ駄目なのは、わかってるでしょ?」
そっと悧羅の背に手を当てると、びくりとした震えが伝わってきた。ぽんぽんと宥めるように叩いてやると、ゆっくりと身体を起こした悧羅が樂釆を捉える。
「…そう…、…そうであったな…」
玳絃の身体に置いたままの手で、ぐっと衣を掴んだ悧羅が、するりと玳絃の頰を撫でた。微かにも動かない玳絃の姿に1度唇を噛んでから、悧羅が再び樂采を見た。眼差しだけで、何を願われているか慮ることなど、樂采には容易いと知っているのだ。
「…玳兄さまを休ませててくれるなら、僕が集めて帰るよ」
「…すまぬ…」
はあ、と肩を落とした樂采に深く頭を下げてから、悧羅が紳を見た。言葉もなく立ち上がった紳に抱えられた玳絃から左腕が、ぼとりと地に落ちた。ゆらゆらと揺れる左の袖を悧羅が結ぶと、ふわりと2人の姿が消える。
普通に翔けて戻ったのでは、大騒ぎになるだろう。宮に居る者たちにも、今は知られないほうがいい。
まだ、本当の意味で救えたわけではないのだから。
やれやれ、と嘆息すると、ぽんっと頭に手を置かれた。
「…なんで父様は残ってるの?一緒に行かなきゃ駄目でしょう?」
「だって、お前だってぼろぼろだろ?大事な子どもを置いていけるわけない。…何かするんなら手伝わせて欲しいしね」
「幼子じゃないんだから、平気だよ。手のかかることじゃないし」
「…それでも、だよ」
くしゃりと髪を掻き混ぜてくる忋抖を見上げると、小さく苦笑を浮かべている。
「父様って、不器用で甘いよねえ」
「はあ?」
落ち着いて見せている忋抖の眼は、絶えず揺れている。玳絃の姿に心を悼めて、ともに悼む紳と悧羅の傍に居たいのだろうに、子である樂采が見える処に居ることを選んでくれた。
これまでも。
これからも。
ずっと変わらずに、そうしてくれるのだろう。
「父様は、もう少し我儘になってもいいと思うよ?」
「なんだよ、いきなりさあ…」
「なんでもないよ」
撫で続ける手から逃れて足を進めると、樂采は先刻まで玳絃が居た場処に膝をついた。上衣を脱いで広げてから、地面に散らばった欠片を集めて乗せていく。最後に落ちた腕の他は小さな欠片だ。炭となって雨に溶けてしまったものは集めようもないが、残されたものを丁寧に拾い集める。忋抖も樂采が集めているのが何なのか分かったのだろう。落ちた腕を、自分の上衣でそっと包んでいる。
「…戻せるのか?」
「…ううん…」
ふるっと、頭を振りながら最後の1つの欠片を拾って上衣で包む。抱えて立ち上がると、苦虫を噛み潰した忋抖が見えた。
「持って帰ってきてほしがってたから、それだけ」
誰が、とは口に出さずとも分かってくれたようで、樂采から上衣を引き取った忋抖が小さく頷いた。炭となってしまった玳絃の腕には、重さも感じない。押し抱きたくても、僅かな力で砕けてしまう。
こんなふうに苦しめたかった訳ではないのに。
ひとつ大きく嘆息した忋抖の腕を、とんっと樂采が叩く。
「傍に居なきゃ」
促すように翔けだした樂采の背を追うように、忋抖も地を蹴る。
雨は、また、強くなっていた。
お楽しみいただけましたか?
読んでくださって、ありがとうございます。




