別離《淕》【ベツリ《ロク》】
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場に飛び込んで見えてしまった惨状に、最初に感じたのは驚愕だった。一瞬、呆然としかけた意識を留められたのは、悧羅の叫びと、ひたすらに熱くなる契りの疵、そして一足遅れて辿りついた忋抖が舌打ちをしながら横を通り過ぎてくれたからだ。
「玳絃っ!」
先に入った忋抖が玳絃の肩を掴むと、僅かに浮いた身体に無意識のうちに紳が手刀を重ねる。ぐらりと傾いた玳絃は、忋抖が背中から乗し掛かって動きを封じてくれた。
「父様っつ!!」
加減することも出来ずに手刀を浴びせてしまった倅を気遣おうとした紳に、忋抖の声が降った。
「こっちは後で!悧羅のとこ行って!!」
玳絃を床に押し付けながら叫ばれて、紳も自分を取り戻すことが出来たけれど、目に入る現状にまた愕然としてしまった。
呆然と震えているのは、紳が何よりも誰よりも大切に想う女だ。離れていても、がたがたと震えているのは分かってしまう。いつもの凛とした姿など見る陰も無く、衣は乱され右の半身は血塗られてしまっている。
「父様っ!早くっつ!!」
目を見開くしか出来ない紳を忋抖の怒声が押す。ふらり、と脚を進めて悧羅の前に立った紳は、そのまま崩れるように膝を付くと力の限り悧羅を抱きしめた。
「…っ、悧羅…」
抱きしめた腕に生温い血が、とめどなく溢れて滲んでくる。腕に収めた細い身体は耐えず震え続けていて、どれだけの恐怖を与えられたかを紳に知らしめた。
まさか、ここまでとは思っていなかった。
甘く考えていた自分が情けなくて、紳はぎりっと唇を噛んだ。
悧羅に堕ちる。
悧羅に惑わされる。
それがどのようなことになるのかなど、誰よりも紳が1番良く分かっていた筈なのに。
これまで幾度となく惑わしに抗がえていた玳絃なら、きっと保てる。
自分自身を律して、悧羅の母としての思いを汲んでくれる。
悧羅を腕に収めてしまっても、玳絃であれば男として狂わされることなどないと考えてしまった。
そんなことなどあるはずもない、と少し考えれば容易く分かったことなのに、親として子を案じる心が紳の思考を鈍らせたのだ。
「悧羅、ごめん…。ごめんな」
「…契、りが…っ」
震え続けている身体を強く抱きしめると、か細い声がした。掠れ切った声音も、吐き出される熱い吐息からも悧羅の怯えが伝わってくる。
「紳と、わ、らわの…っ」
「大丈夫…、大丈夫だ…っ」
胸の中で震える悧羅が、紳の衣を掴む。
「…し…、し、んがっ、居な、くな…っ」
「俺はここに居る」
「契、りっも…っ、…縛りも…っ」
「何処にもいかない、俺も忋抖も悧羅だけのものだ」
縋るように衣をぎゅうっと掴んでくる悧羅を安心させたくて言葉を紡ぐが、紳の背にも冷たい汗が流れた。冷えていく自身の身体の中で、契りの疵だけが灼けるように熱い。
確かめなくとも分かる。
契りが解けかけているのだ。
「い、っやじゃ、っ、…いやっ、嫌じゃっ紳…っ」
「うん、居るよ。心配しなくていい。俺も悧羅も忋抖も、何にも変わったりしない」
否を訴える声に、嗚咽が混じる。泣き崩れる悧羅に『大丈夫』としか言ってやれない自分が情けない。普段の悧羅なら、あるべき姿に戻すことなど容易いだろう。けれど今の悧羅にそれを為せ、と求めるのは酷だ。
紳と契るまでの間、幾度となく襲われた恐怖を、子に為されたのだから。
何の関わりもない夜伽のためだけの者たちであったなら、悧羅とて身を護る為に相手を殺めることも善とした筈だ。だが、玳絃を傷付けることは悧羅には出来なかった。
子であるから。
母であるから。
自分が悼んでも、大切な宝だけは手にかけられなかった。
ただそれだけのことだ。
だから仕方がない。
そう思おうとするのに身体が怒りに震えるのを堪え切れない。ともすれば忋抖に抑えられている玳絃の首を、今すぐに掻き切ってしまいそうだ。
じろりと睨めつけた眼光が走ると、部屋が軋む。ぱらぱらと落ちてくる木屑に混じって、うわっと忋抖の声がした。
「父様っ!気持ちは分かるけど落ち着いてっ!今は悧羅が先っつ!」
部屋に満ちた殺気で押し潰されながら忋抖が叫んだ。凍てつく氷の刃のような殺気は、速さを増して部屋の中を走り続けている。玳絃の身体も、忋抖の身体も殺気が当たる度に切り裂かれてしまう。これほどまでに怒りを顕にした紳を、忋抖は見たことがない。
許せないのは、忋抖も同じだ。
玳絃に、だけではない。
こうなることを予測出来なかった、自分自身にも、だ。
悧羅がどう動くのかは聞かなくても分かっていたし、そうしてやるべきだとも思った。忋抖とは違う辛さだろうが、玳絃をあのままにしていれば、遠からず玳絃の心は壊れただろう。それを黙って見ていることなど忋抖には出来ないし、それは紳も同じ筈だった。
だからこそ悧羅に甘えておけ、と伝えたのに。
それがどのようなことになるのかも、十二分に分かった上で、そうなるだろうと無理矢理に落とし込んだのに。
こんなことになるなんて。
悧羅に刻まれた縛りの印が、熱い。
身体の奥で固く結ばれていたはずの結びが、解けていく。
繋がりを失うことへの恐怖が迫り上がってくるが、今すべきは他にある。
「父様っつ!!」
みしりと軋む身体が崩れ落ちそうになるのを、必死に堪えた忋抖の声が部屋に轟くと、ふっと乗しかかっていた圧が消えた。ほうっと大きな嘆息を吐いたのは、忋抖も紳も同時だったようだ。怒りを吐きだし尽くすかのように、深く息を吐いた紳は、腕に力を込め直した。
そうだ。
玳絃の目を覚まさせるのも、怒りに任せて殴るのも、後でいい。
今は、悧羅の恐怖を拭うことが最優先だ。
腕から見える悧羅の髪に擦り寄って名を呼ぶが、聞こえてくるのは咽び泣く声だけだ。
「大丈夫。話さなくていいからこれだけ教えて。上書きはできる?」
悧羅にだけ届くように囁くと、衣を掴む手に力が入ったのが伝わってくる。
「もっと強く、もっと固く。何があっても2度と絶対に解けないように。どこにすればいい?」
「…あ、…」
問う紳の腕の中で悧羅が、ごそりと動く。僅かに顔を離すと恐怖に怯えた眼が、涙を溢れさせながら紳を見上げていた。
「言ったよね?俺は何度だって悧羅と契るって。解けたなら何回だって結び直すし、離れたり居なくなったりしない。だから教えてくれる?」
涙が流れ落ちる瞼にそっと口付けると、紅い唇が動いて震える手が胸に当てられた。
「分かった。任せて」
「…なれど…っ」
「大丈夫。一緒なんだから」
出来るだけ悧羅が案じられるように、いつも通りに見えるように努める。微笑みながらぽんぽんと、頭を撫でてやるとほんの少しだけ悧羅から力が抜けた。このまま出来れば身体の傷も癒して休ませてやりたいが、契りの疵が消えかけている今、そうすべきでないことは分かっている。
「俺の大刀でいいの?」
胸に置かれた手で心の臓に刻むのだろうことは理解した。だが長さが足りず、小刀では心の臓まで届かない。血は混ぜられるだろうが、疵が重ならない。些末なことだが、跡が残らなければ悧羅の恐れを拭うことは難かしいようにも思える。であれば多少疵が大きくなっても、見えるものがある方がいいだろう。考えあぐねながら大刀を取り出そうとすると、名を呼ばれて視線を落とす。
「ん?どうしたの?」
きょとりとしてしまう紳の頭に手が伸ばされて、髪が引かれる。胸に戻った悧羅の掌には紳の髪が一筋乗っていた。
「悧羅のもいるのかな?」
尋ねると、こくりと頷いてくれた。頭を撫でるのを一旦止めて、艶やかな髪を梳く。手に残った髪を悧羅の掌に乗せてやると、消えかけた契りの疵が重なった。解けかけているとはいえ、どうにかまだ思いを読み取ることは出来るようで、流れてきた悧羅の想いに紳は、ふふっと笑ってしまった。
「…そうだね、置いていくわけにはいかないよね」
重ねた手を繋いで微笑むと、見上げてくる悧羅に軽く口付ける。
「あいつの答え次第だけど、俺に否はないよ。むしろ俺がお願いしなくちゃならないことだ」
「…紳…」
「出来ればこんな時くらい、自分だけのことを考えて欲しいけど、それが悧羅だもんね」
笑える場面でないことは、誰よりも分かっている。
だが、流れて来た悧羅の思いには素直に有難いと感じることが出来た。
それでこそ悧羅だと思えてしまう。
だからこそ、愛おしい。
紳が惹かれて。
堕とされ尽くして。
腕に包んで、慈しんで。
自分が自分で無くなる程に狂わされても。
それでも尚、悧羅に見つめられることが、愛おしく想ってもらえることが倖で堪らない。
悧羅の為なら命も惜しくはない。
悧羅が望むことならすべてを叶える、と誓った思いは色褪せてはいないのだから。
「ありがとう、悧羅」
消えかけた疵から紳の想いも伝わったのか、悧羅の眼からまた涙が溢れ出す。心からの感謝と少しばかりの哀しみを込めて深く口付けてから紳は妲己を呼んだ。
“…任されよ…”
するりと現れた妲己は、すでに体躯を大きくしていた。元より悧羅の最初の眷属なのが妲己だ。悧羅の身に何が起きたかなど言わずとも分かってくれているのだろう。紳の意図も読み取って、ゆっくりと忋抖の側に歩み寄ってくれる。
「忋抖」
側に侍った妲己に押されて、玳絃の上から動いた忋抖を呼ぶと、走り寄ってきた忋抖も、悧羅の姿を見て膝を折った。ぐっと唇を噛んで言葉を出すこともしないまま、悧羅の傷を癒そうとしてくれるが、制しておく。
「…なんで?」
「いいから」
動きを制されて訝しむ忋抖に、紳は一言だけ問いかけた。
「忋抖、お前、悧羅の為ならどこまで出来る?」
「…は…?」
唐突に尋ねられたことの意味が、理解し難かったのだろう。目を見開いた忋抖は、きょとりと小首を傾げた。
「…なんだよ、いきなり」
「いいから答えろ」
ゆっくりと考えさせてやりたいが、その刻がない。できれば契りの疵が完全に消え去る前に、結び直してやりたいのだ。
じっと見据えた先で、忋抖が大きく嘆息すると頭を掻いた。
「…死ねる…」
吐き出した嘆息の後に、強い覚悟が見える。紳に見据えられても、忋抖の眼は揺らぐことはなく、真っ直ぐに見つめ返してくる。
「よし」
頷いて紳は手を伸ばす。ぽんっ、と1度忋抖の頭を撫でてから己とそっくりの髪を引き抜いた。開かれたままの悧羅の掌に預けると、閉じられた掌に紫の鬼火が仄かに立ち昇る。燃え尽きるのを待つほんの僅かの間に、忋抖の右の手首の上で指を引く。湧き出る血と深く刻んだ傷を確かめてから、悧羅の両の手首と自分の契りの疵も上から切り裂いた。
「え?何してんの?」
「今に分かるよ」
ますます訝しげに首を傾げる忋抖をいなすと、悧羅が袖を掴んだ。額に口付けてから見やった先に、細く長い針がある。
受け取った針を構えながら、忋抖の腕を引いて、悧羅の身体を紳と忋抖で挟む。
「契るぞ、忋抖」
「はあ!?何言ってんの!?」
力一杯に引き寄せた忋抖が、驚いたように叫んだ。
「玳絃の跡は一緒に消す。何処でも良いから力の限りに嚙め」
「ちょっと待って!?どういうこと!?」
「話は後だ。とにかくやるぞ」
「いやいやいやいや、待って待って待って!?悧羅は?悧羅の気持ちは!?」
突然言い出されたことに、焦って動こうとする忋抖の背を、留めた腕で叩く。解いて聞かせてやらなければ、いきなり言われた事に納得などできないだろうが、忋抖の縛りも薄まってしまっている筈だ。ほんのりと光を放つ忋抖に与えられた印が、いつもよりも霞んでいる。
「お前の縛りだって解かれかかってんだ。覚悟があるなら受け入れろ。嫌だって言うなら、俺と悧羅だけで契るぞ?いいのか?」
悪戯に笑って見せながら、紳は悧羅と指を絡ませた。灼け落ちていく契りの疵を重ねてみたが、もうぼんやりとしか繋がれない。新しく作った傷だけでは、玳絃の流し込んだ想いを消し去ることが出来ないということだ。
「それはよくない…、よくないんだけど…。いや、でもさ…」
「俺も悧羅も、そうであってくれればいいと思ってる。でもそれを強いることは出来ないから、お前が決めてくれ。…あんまり長くは待ってやれないのが申し訳ないけどな」
構えた針を下ろして苦笑しながら伝えると、忋抖が三度嘆息して頭を抱えた。
「…あー…、もう、ほんっとに大馬鹿なんじゃないの?」
呆れた声で呟やいた忋抖は、悧羅の左手を取ると甲に口付けて微笑んだ。
「断る理由なんて、見つからないじゃないか」
ふふっと笑う忋抖の指に、悧羅の指が絡んで繋がれる。紳がつけた傷を悧羅から重ねられて、忋抖が、また息を呑んだ。
望まれて契りを結べるのだ、と知らしめるには充分だったのだろう。手を繋ぐだけのつもりだった忋抖の表情に、ますます笑みが浮かんで紳も針を構え直す。
「妲己、3つ数えて。忋抖、絶対離すなよ?」
「了解」
頷いた忋抖が左の首筋に、玳絃の付けた跡には紳が牙を添える。妲己の数えが3つを唱えた刹那、悧羅の身体に2人の牙が突き立てられた。同時に振り降ろした針が、忋抖の背から真っ直ぐに、悧羅を超えて紳までを穿った。
胸を貫く鈍い痛みで、紳と忋抖の牙がより悧羅に深く食い込んでいく。
「…あ、っ、あっ、あああっつ!!」
唐突に混じり合うすべてと、めりこんでいく牙の痛みで仰け反る悧羅を、繋いだ手で2人が強く引いて留める。衝撃で揺れた針が、ぱきりと乾いた音とともに砕けると、すべてが入り始めた。
悧羅のすべてが、紳と忋抖の中へ。
紳と忋抖のすべてが、悧羅の中へ。
濁流のように流れた刻を噛みしめる間も無く、砕けた針が穿たれた穴から身体に入っていくと、どくん、とひとつ鼓動が重なった。穿った心の臓がなにかに掴まれて、握り潰されるかのような圧に、息をすることさえも奪われる。白んでしまう意識を手放してしまいそうにもなるのを耐えると、次には心の臓だけが灼けるように熱を持った。
潰され、灼かれた心の臓が動きを止めて、闇が押し寄せる。ぐらりと揺れた3つの身体が重なったまま崩れて落ちていく。
やっば、…しくじった…。
途切れていく意識の中で、紳は悧羅を探すしかできない。
姿を見せていないと、怯えてしまう。
手を離してしまうと、泣いてしまう。
抱きしめていてやらなければ、凍え切ってしまう。
紳が居ないと。
紳が離れてしまうと。
また倖に背を向けてしまう。
倖にしてやれることはまだ残っているのに、終わらせることなどできはしない。
そう思うのに薄れゆく自分では、繋いだ手に力を込めるように願うことしか出来ない。苦虫を噛んだ紳の瞼が重く重く閉じていく―――その時。
ちりん、と小さな鈴の音がした。
1度目の音で、3人の身体が鼓動を取り戻す。
どくん、と跳ねた身体に2度目の音が降れば、止まっていた呼吸がぶり返された。急激に返された呼吸に咳込むしか出来ずにいると、3度目の鈴に、ぱんっ、と手を叩く音が混ざった。
瞬間、開かれた視界に鮮やかな紫の髪が飛び込んできた。胸に預けられた身体は、激しく咳込み続けてはいるが、確かにそこに在る。投げ出されているのは針を穿った右腕だけで、絡ませていた手は解けることなく繋がれたままのようだ。身の上で、自らも咳込みながら悧羅を案じようと動く忋抖の姿も見えた。繋がれたままの手を少しだけ動かして疵を重ねると、悧羅の想いが鮮やかに読み取れる。
紳と忋抖の身を案じる、不安。
2人との繋がりが解ける、恐れ。
2人に為させてしまったことへの後悔と、それらを凌駕する安堵。
今度は、離さなかった。
ふはっと漏れた笑いとともに投げ出された腕を上げて、忋抖ごと悧羅を抱きしめる。
「…上手く行った…、かな…?」
「…父様、苦しい…」
腕にも繋いだ手にも、ぎゅうっと力を入れると悧羅が強く握り返してくれた。すりっと胸に擦りよった悧羅から漏れる深い安堵の嘆息が、紳の強張った身体を緩めていく。
「…すま、ぬ…」
「なにが?倖でしかないじゃない」
疵をより深く重ねがら伝えた紳の胸に、悧羅が強く擦り寄る。顔を上げたのか胸に当たっていた肌が離れると、視界を塞いでいた髪が、はらはらと流れ落ちて悧羅の顔が見えた。
「…ぐしゃぐしゃじゃないか…」
泣き尽くして涙で濡れそぼった顔を包んでやると、また大粒の涙がとめどなく溢れだした。当てた手に伝う涙はそのままに、小さく笑う紳に悧羅が深く口付けた。まだ互いの息は荒れ果てたままだというのに、触れたいという悧羅の思いが伝わってくる。
「ね?何処にも行ってないでしょ?俺は悧羅のだよ」
離れた唇を軽く喰むと、悧羅が何度も何度も頷いた。
「忋、抖にも…、すまぬことをした…」
「はあ?なにがだよ?」
震え出した悧羅を、忋抖が引き上げて膝に乗せた。
「あーあー、もう…こんなになって…」
ようやく見えた悧羅の顔を苦笑しながら忋抖が拭う。血に塗れ流した涙に纏われて、小さく震え続けるそこに、いつもの悧羅の姿はない。両の手で悧羅の頬を包んで、忋抖は悧羅に深く口付けた。
「置いていかれなくて良かったよ」
ふわりと微笑んで忋抖が悧羅を包むと、堪え切れなかったのか嗚咽が聞こえ出した。
「忋、抖、にっ、この、ようなっ、業…」
「いやいや、何言ってんの。むしろ嬉しいことだよ。俺のこと、本当はいらないのかと思ってたから」
ぎゅうっと抱きしめる腕に忋抖が力を込めると、ふるふると悧羅が首を振る。
「だって俺は呼んでもらえなかった」
「…それ、は…っ」
苦笑しながら出した言葉に悧羅が息を呑んだ。
「…分かってる。…ちゃんと教えてもらった」
抱きしめた背を、ぽんぽんと軽く叩いてやると腕の中から悧羅が忋抖を見上げてきた。揺らぐ眼を見つめ返して、もう一度深く口付ける。正直何に言えば何が何かも分からなかった。けれど、心の臓が穿たれた瞬間に唐突にすべてを理解することができたのだ。
悧羅は呼ばかなった、のではない。
呼べなかったのだ、と。
元より契りを結んでいた紳は、既にすべてを悧羅と分け合っていた。
悧羅が背負う業も。
抱えている苦しみも。
2人で培ってきた倖も。
2人が形造られる前からの、魂による結びつきがあるから、あの時あの瞬間、悧羅は紳の名を呼んだ。
けれど、忋抖はその2人から造られたものでしかない。
どんなに悧羅が忋抖を想ってくれても。
どんなに忋抖が悧羅を愛おしいと想っても。
悧羅がすべてを与えてくれていても、奥底の感じ得ない場処では、忋抖への申し訳なさがあった。
ただ純粋に。
もっと自由に。
誰に憚られることもなく。
ひとりの男として、誰かひとりと想い想われる今日があったのではないか、と。
悧羅の傍に居続けることで、巻き込む業や苦しみから逃すことが出来るのではないか、と。
一度取った手を離すことが身を割くほどに辛くとも、その先に本当に忋抖の倖があるのなら。
今この時しか忋抖の手を離してやれない、と。
そう思っていたからこそ、悧羅は紳の名だけを呼んでいたのだ。
「俺を諦らめないでいてくれて、…離したくないって思ってくれて、ありがとう」
ふふっと笑って疵の残る手をひらつかせた忋抖の胸に、悧羅が崩れて落ちた。
「…っ、すま、ぬ…っ…」
詫びる悧羅の震える身体を摩る忋抖に、悧羅が強く縋り付いた。
「ほんっと悧羅は分かってないなあ。…俺が今、どれだけ倖にしてもらったと思ってるんだよ」
手に入れられないと諦めていた。
すべてを分け与えられていても。
縛りを結んでもらえていても。
慈しむ権利も、愛おしいと言える立場に立たせてもらえていても。
『契り』という唯一絶対のものだけは、自分のものにはならないのだと言い聞かせ続けていたのに、また与えられてしまった。
本当の意味で『無二』として、離れるなと言ってもらえた。
本当の意味で忋抖にすべてを委ねてくれた。
悧羅からの慈しみは、忋抖が感じていたものよりも、深く大きなものであったのだ。
縋りついて咽び泣きながら震えている身体を強く抱きしめてから、忋抖は悧羅を抱き起こした。
「ほら、まずは身体を休めなきゃ。もう癒しても良いんでしょ、父様?」
悧羅の顔を自分の袖でごしごしと拭いながら尋ねられて、紳も、よいしょ、と身体を起こした。尋ねられたものの、既に忋抖の右眼には蓮が浮かんで、翳した掌も仄かに光を放っている。
「聞く前からやってるじゃないか」
「当たり前でしょ?」
紳も苦笑しながら手を伸ばして悧羅の頬を包む。ゆっくりと精気を流していくと、大きな嘆息が包んだ掌にかかった。
「悧羅が傷だらけでいるだなんて、見てるだけで悼いんだよ。速く治してよ」
「いやいや、お前だってやれるだろ?」
「癒しの術は父様のほうが得意でしょ?ほら、速くして」
「…なんだか、お前俺に冷たくないか?」
急かされて苦笑してしまうが、紳も悧羅が絶えず血を流している姿を見続けているのは好ましくはない。とはいえ忋抖に囲われたままでは、触れられる場処も限られて傷を見定めることも出来ないのだが。
「じゃあ、悧羅を返してよ」
「それは駄目」
「駄目って…、俺のなんだけど」
「そうやってても癒せるのは知ってるんだから。それに、父様だけのじゃないでしょ?」
翳した手で忋抖が、とんっと悧羅の首筋に残された牙の跡を示して悪戯に笑う。言わんとしていることが知れて、紳も笑えてしまう。
確かに、もう紳だけのものとは言えなくなった。
忋抖を救うと決めた日から、同格だと認めた後も、ほんの少しの優越感を持っていたのは否めない。忋抖はよく、どうして余裕があるのか、と不思議そうにしていたが、契りを結べていたのは紳であったから、その部分での安心感が余裕として見えていたのだろう。
けれど、それも今、分け合った。
「そうだな、俺と忋抖の悧羅だ」
それも悪くない。
すとん、と胸に落ちた想いと、ちくりと疼く胸の痛みにくすくすと笑いが漏れてくる。
以前の紳なら、到底考えられなかった。
悧羅に想いを寄せる者。
悧羅に触れたいと願う者。
皆の伺い知らぬ処で、そのすべてを無かったことにしてきた。
悧羅の心に在れるのは自分だけで在りたかったから。
それを忋抖が変えた。
紳がすべてを差し出しても補え切れないことは、忋抖が補ってくれる。
紳が悧羅を傷付けたと悩んでも、忋抖がまた結び直してくれる。
互いが拭えない悧羅の憂いは、どちらかが拭えばいい。
この数十年、忋抖がいつもそうしてくれていたように。
いつの間にか紳も忋抖に寄りかかっていたようだ。
「お前は本当に俺の特別だったよ、忋抖」
「ええ?なにそれ?知ってましたけど?」
空いた手を伸ばして忋抖の頭を、くしゃりと撫でると照れたようにはにかんで見せてくれる。
「教えてやらねえよ」
ふふっと笑うと忋抖の腕の中からも、小さな笑い声がした。視線を返すと悧羅もようやく微笑みを取り戻してくれたようで、紳の手を包んで擦り寄っている。どうにか笑うまで気持ちを戻せたことに、紳も忋抖もほっと胸を撫で降ろした。
「やっぱり悧羅に感謝だな。俺に忋抖をくれたのは悧羅だもん」
額に口付けると目を細めて悧羅がふるっと首を振る。
「紳がおってくれたからこそであろ?紳がこれまでもも今もこれからも、妾の唯一であってくれらばこそ、妾は忋抖という無二を得られるのじゃ。…のう、忋抖?」
当てた掌に口付けながら微笑む悧羅が忋抖をちらりと見やると、忋抖もまた、小さく笑いながら悧羅の瞼に口付けた。
「まあ、そうだよねえ。父様と悧羅が居なきゃ俺は俺として在れなかった訳だし。父様が俺を赦してくれたから、俺は今、立ってられるんだから」
ねえ?、と悪戯な笑を浮かべると忋抖は紳の手を取って、自分の右眼に当てた。
それは王母によって忋抖に道が与えられた後に、紳がよく行っていたこと。道を重ねれば思いを伝えることが出来るから、忋抖が不安にならないように、特別なのだと教えるために与えられた後から、紳は事あるごとにすべてを視せていたのだが、流れ込んできた思いには少し気恥かしくなってしまった。
忋抖が視せてくれたのは紳が知られていないだろうと思っていた事。
忋抖を救うと決めて、荊軻に血の縛りを結びたいと助力を申し出た刻の画だったから。
「私が同じような境遇にあっても、紳様のようには出来かねましたでしょう。これまでも紳様が長の逑であられたことに感謝を致しておりましたけれど、あの時ほど、誉に思うたことはございませんでしたよ」
紳の知り得ていなかった処で、荊軻に事実を聞かされた忋抖が泣いている。忋抖の為に、と悧羅と荊軻に頭を下げた紳の覚悟に膝を折る忋抖が見える。紳の苦悩と葛藤を誰よりも分かった上で、だからこそ胸を張らなければならないと誓う想いが流れこんでくる。
「…知ってたのかよ…」
「けっこう前からね。秘め事にしとこうかとも思ったけどさ」
あまりに気恥ずかしくて退いてしまう手が掴まれて、強く握られた。
「俺の父様が父様で良かった」
「…お前なあ…、そういうところだぞ…」
苦笑してしまいながら迫り上がってくる感情を、必死に押し殺してみたけれど、震えてしまった声音は隠せなかったようで、忋抖がくすくすと笑っていた。
「父様がこんなに涙脆いってことも、赦してもらえなかったら知らなかったことだよねえ。ちゃんと近衛の隊長らしくあれるように俺たちで支えてあげなきゃだね、悧羅」
「そうさの、忋抖が共に支えてくりゃれば、容易かろうよ」
ぽん、と忋抖に押し出されるようにして動いた悧羅が、紳の胸に収まる。ふわりと抱きつかれた紳も、芳る悧羅の匂いに、ほうっと安堵しながら忋抖の手を握り返した。
「頼まれてくれるか?」
「父様みたいにはなかなかなれないけどね。近付けるようには精進するから気を長くして待っててよ。…ところで、さ…?」
繋いだ手を宥めるように叩いた忋抖が、小さく嘆息した。言葉を紡がなくても促す先にあるのが玳絃のことだと知れて、紳も大きく嘆息した。
「どうするかなあ…」
戻ってきた悧羅を抱き寄せながら、紳は視線を返した。妲己に乗し掛かれた玳絃の身体は、紳たちが踏み込んだ刻のまま、ぴくりとも動いていない。手加減できずに振るった手刀が、確実に玳絃の意識を奪ったのだろう。ちらりと妲己を見ると、静かに頭を振っている。暫くは目覚めない、ということだ。
紳の考えが甘かったとはいえ、悧羅に恐怖を思い出させた上、唯一の契りを奪われかけたのだ。正直に言えば引き裂いてやりたい。
それが例え、自分の宝であっても紳にとれば悧羅を悼め、傷付けられたとあれば許すことなど出来はしない。
何より玳絃をこのままにしておいては、また悧羅を傷付けるかとしれない。同じような思いを悧羅にさせるなど以ての外だ。
それは分かっているのだか。
“大事には至らぬ”
うーん、と頭を捻っていると妲己の低い声がした。ふるりとひとつ大きく尾を振った妲己は、玳絃の上から体躯を降ろして、隣に侍りなおしている。妲己が動いたことではっきりと見えた玳絃の姿に、ぶるりと震えてしまう悧羅を囲う腕を上げて隠す。同じくして隣から伸びた忋抖の手が、悧羅の目元を覆ってくれた。
やっと落ち着きを取り戻せた悧羅に恐怖を思い出させたくなかったのだが、忋抖も同じように思ってくれたようだった。
「どうしたらいいかねえ、忋抖」
「どうするもこうするも、妲己が大丈夫って言うんならどうにかなるんでしょ」
尋ねた紳に、忋抖が嘆息しながら答えた。
「まあ、それはそうなんだけど」
「本音を言えば叩き起こして殴り倒したいとこなんだけどね?」
「…出来ることなら俺もそうしたいんだけどなあ…」
あー、と上を仰ぎながら、紳も息を吐いてしまう。
そう出来たらどんなに心が晴れるか分かっているが、玳絃の背を押してしまったのは他でもない紳と忋抖なのだ。
誰よりも悧羅に堕とされることの悦楽を知ってしまっている2人が、道を示してしまった。
だからこそ、己の怒りだけで、拳を振えないことがもどかしい。
「だからさ、とりあえず湯に行かない?」
「ん?」
ぽんっと肩に手を置かれて、紳は仰いでいた視線を戻した。
「だって玳絃が起きなきゃ話はできないし、悧羅だって母に戻る刻もいるでしょ?」
「そりゃあまあ…、そうだろうけど…」
腕の中の悧羅が、また小さく震えているのは分かっている。忋抖の言う通り妲己が何かしらの確信を持っているのなら、紳にも否は言えない。紳が傍に居れなかった間も妲己だけは、悧羅の傍を離れなかった。
悧羅が倒れないように。
悧羅が壊れないように。
ひたすらに悧羅を護り、支え続けてくれたことを知っているから、紳も妲己にだけは頭が上がらない。
妲己が居てくれたからこそ、悧羅は壊れずに済んだ。妲己がいてくれたからこそ、紳はまた悧羅の傍に戻ることができたのだし、余るほどの倖も手に出来たのだ。
紳の罪を赦すと言ってくれていても、妲己への感謝と信頼だけは日々大きくなるばかりだ。
その妲己が言うのなら、とも思えはする。疑うことすら出来ないし、悧羅が母に戻るまでの刻が必要なのも分かる。
玳絃が目を覚ましてしまったら悧羅は無理をしてでも母としてあろうとするだろう。自らに与えられた恐怖も悼みも、すべからく呑み込んで。
いつものように。
何も変わらずに。
只々、玳絃の憂いを払うためだけに在ろうとするだろう。
それが悧羅という女であるのは、紳が1番よく知っている。
「だからって、何で湯なんだよ?」
「…父様ってたまに抜けるよね。やっぱり馬鹿なの?」
きょとりとしてしまう紳に、忋抖が呆れたような嘆息を投げる。
「…俺の時と同じだろ?…悧羅が父様や俺じゃない匂い付けてるの、耐えられんの?」
小首を傾げた忋抖は、当てたままの手で悧羅を自分に引き寄せた。紳の胸から忋抖の胸に移された悧羅をぎゅうっと抱きしめて、忋抖が肩を竦めて見せた。
「俺は嫌だね。今だって気が狂いそうだ。早いとこ自分の匂いにしたいんだけど、父様は違うの?」
「…いや、そりゃ、そうだけど…。ええ…?お前性格変わってないか?」
小首を傾げる忋抖に呆気に取られてしまうと、何かを紡ごうと動いた悧羅の唇を忋抖が深く口付けて塞いでいる。悪戯に笑って見せる忋抖が悧羅に何かを囁けば、悧羅が口を噤んだ。何を伝えたのか聞こえなかった紳はまたきょとりとするしかない。
「変わってないよ。あの時の父様の気持ちが嫌になるほどわかったってだけ。…味わえって言ったじゃないか」
ふふっと笑う忋抖に、紳も悧羅に呼ばれる前に話していたことを思い出した。
「視るのと味わうのは違うだろ?一緒に支えてくれるって言うんなら、丁度良い。お前にあの時の俺の気持ちを味合わせてやるよ」
確かに紳は、そう伝えた。
伝えた上で忋抖なら、と思った。
「分かってるつもりだけど」
あの時そう答えてくれた忋抖なら、忋抖のことを慮っていた紳が、笑顔の裏で泣いていたことも。
忋抖が悩み苦しんだそれ以上に、紳が深く考え抜いたことも。
それでも救うことを選んだことも。
きっといつか分かってくれると信じていた。
「ちゃんと全部分かったよ。だから一緒に湯に行こう?悧羅が纏っていいのは父様と俺の匂いだけなんでしょ?」
「…そうだよ…、俺が赦すのはお前だけだ…」
間違ってはいなかった。
あの時忋抖を救いたいと願った気持ちも。
忋抖ならと感じた思いも。
何も間違ってはいなかった。
「それに、そうしてやらないと悧羅も眠れないじゃない。夜から殆ど寝せてやれてないんだからね」
再びふふっと笑う忋抖の声に、紳はまた迫りあがる熱い思いをぐっと堪えた。
「…そうだな…。悧羅が眠れるのは俺たちの腕の中だけだ」
「でしょ?だから、さっさと行くよ。ここは妲己に任せて良いみたいだし。父様が残りたいなら俺はそれでも良いんだけどねえ」
「一緒は嫌じゃなかったのかよ?」
ひょい、と悧羅を抱き上げて立ち上がる忋抖に気取られないように滲んでしまった涙を隠してみたが、きっと隠せなかったのだろう。げしっと蹴られてよろける紳に、くすくすと忋抖と悧羅の笑い声が降ってきた。
「嫌だよ?でも悧羅がそうして欲しいって言ってるんだもん」
あはは、と笑いながら歩き出す忋抖に続こうとすると、背後から名を呼ばれた。振り向いた先では、妲己がじっと紳を見ている。有無を言わせない視線は、此処に残れと訴えかけていた。
「…分かった…」
「…紳…?」
上げかけていた腰を下ろした紳に悧羅の声が掛かる。動かなくなってしまった紳を案じたのだろうが、それには手を上げてひらつかせておいた。
「後で」
「なれど」
「大丈夫、何処にも行かないから。ちゃんと悧羅のとこに行くよ。…待ってて」
上げた手をひらつかせ続けて頭を掻くと、脚を止めていた忋抖がぽんぽんと悧羅の背を叩いた。
「妲己が話したいことがあるんだってさ」
「ならば、妾もともに、」
抱き上げられた腕の中から降りようとする悧羅に、駄目、と忋抖が首を振った。
「心配しなくても、少し話してくるだけだよ」
不安気な表情で揺れる眼で見やられた紳も、微笑んで悧羅を見る。
「であるならば、やはりともに」
「だーかーらーあ、駄目だってば」
もう一度忋抖の腕から降りるために身を捩った悧羅を、忋抖が苦笑しながら抱き直した。
「ここは父様を立ててあげなきゃ。それが分からない悧羅じゃないでしょ」
頬に口付けながら動きを制された悧羅が、何か言おうとして口を噤んでいる。それでも迷っているのか紳に手を伸ばしてくるが、紳が困ったように小さく笑うと、諦めたのか嘆息している。
「…せんなきこと…」
細めた眼と伏せられた睫毛が、憂いを帯びて揺れる。それらは未だ青褪めたままの悧羅の顔に翳りを落としたが、紳と忋抖は違う意味で堕とされた。
ただ憂えて眼を伏せた。
ただ憂えて息を吐いた。
哀愁の漂う表情を見てしまっただけなのに、2人の身体の奥底で、欲がどくんと跳ねてしまう。
乾き切ってもいない血に塗れ、衣も乱され、怯えさえも拭い去れてはいないのに。
悧羅の不安と怯えを払うために、慈しまなければならないのに。
己の欲だけで陵辱してしまいそうになる。
「…ほんっと参っちゃうなあ…」
引かれようとしていた悧羅の手を思わず取ってしまいながら、紳はますます苦笑してしまう。取った手の甲に口付けて指を噛むと、ぴくり、と悧羅が震えた。
どんな姿でも、どのような刻であっても悧羅に堕とされない日がない。
それはなんと倖なことなのだろう。
ついくすくすと笑いだしてしまいながら、悧羅の手に顔を寄せると、擽るように頬が撫でられた。
「ちょっとお、2人だけで通じ合わないでよね。ほら悧羅行くよ、もう俺が限界」
触れられる頬が心地良すぎて眼を細めた紳に呆れたのか、忋抖が悧羅を引き寄せた。離れていく指に後髪を引かれて、無意識のうちに手を伸ばしてしまう。
「待っててあげるから速く来てよ?支度も整えといてあげるから」
悪戯に、にっと笑った忋抖が踵を返して部屋を出ていく。閉められた戸の先で僅かに速まった足音に、紳は堪え切れずに噴き出した。
「ほんっと、忋抖って奴は」
声を上げて笑いたいが、玳絃を今起こしてしまってはまずいことになる。けれど紳を慮ろうとする忋抖の真意が可笑しくて、込み上げる笑いは抑えられそうにない。
「あいつは本当に誰に似たんだろうなあ、妲己」
くっくっと漏れ出る笑いを必死に隠しながら声を掛けると、妲己が動いた。鼻を鳴らしながら歩いて来た妲己は、大きな尾でぱしりと紳の頭を叩いてきた。
“ヌシに決まっておろうが。まことようと似られてしもうたものだ”
低く響く声は呆れ果てたようにも聞こえるが、そうでないことは僅かに細められて下がった眼が教えてくれる。
“…よもや忋抖若君をも契りを結ばせるとは、我でも考えの及ばぬことをする奴よ”
「だってしょうがないじゃない。置いていかないって約束したんだから」
“それはそうであろうが…。ヌシとて契りだけは分け与えとうはなかっただろうに”
肩を竦めて見せる紳の頭に妲己の尾が、ふわりと乗った。そのまま労わるようにぽんぽんと撫でられて、らしくない、と苦笑してしまう。
「まあ、そりゃあね。だけど妲己にも、まだ欲張れって言われてたしさ。悧羅にもきつい思いさせちゃったからね。出来るかどうかは賭けだったんだけど」
そう。
紳と忋抖が2人とも悧羅と契りを結べるかは、正直分からなかった。だが、あの瞬間にはそれを伝える術も刻も無かった。悧羅が戸惑ったのは、事を成し遂げられなかった時に、失うことを知っていたからだろう。
紳か。
忋抖か。
もしかしたら、悧羅を含めた全員が。
それでもやらなければならないと思ったのだ。
離れる気など元より無いが、やれと言われた気もした。
“さすがの我もひやりとさせられたぞ。ヌシが倒れた時には、がぶりと喰らわせられると立ち上がったものを。惜しいことをした”
「本当にね。だけど妲己なら叩き起こしてくれるのも分かってたからさ。…どうやらまた助けられたみたいだよ」
“そうだな。王母様もまだ主を刈り取るおつもりではあられぬようだ”
小さく嘆息して尾を降ろした妲己に、うん、と紳も頷いた。
意識が闇に囚われる刹那、引き戻してくれた音は王母のものだ。場に呼ばれたことは数えるほどしかないけれど、その時に聞いた音と同じだった。
「…また、大変なことが起こらなきゃいいんだけど」
手を貸してもらえたのは有難いが、悧羅に無理難題を押し付けられるのは是と出来ない。何の対価もなく手を差し出す王母ではないと知っているだけに、何を言い出されるのか一抹の不安が残る。悧羅に言えば、戯れだろうと一笑に伏されるかもしれない。自らの業に紳や忋抖を巻き込み過ぎることがないように、と何も言わずに粛々と受け止めてしまうだろう。
“ここで考えあぐねておっても分からぬことは分からぬだろう。王母様のお考えなど、我らには伺い知ることなど出来ぬのだから”
「…まあね…」
ふわりと揺らされた尾で、また叩かれて紳も苦笑する。妲己の言うとおり神である王母の考えなど紳に読めはしない。先んじて動けるとすれば、悧羅だけだ。とはいえ悧羅も王母の考えを分かるわけではなく、こうかもしれないと思いながら動くしかないとは、以前言っていた。そうして歩んできた道が大きく外れたことは無かったが、これからもそうであるとは限らない。
“ともあれ出来ることなど何もなかろうよ。であれば、今ヌシがせねばならぬことを為しておけ”
ふう、と小さく嘆息した紳の前で妲己がちらりと玳絃を見た。
「そうだね。起きたらまず話さなきゃ。…悧羅も玳絃も、また泣かせちゃうなあ…」
“…やむをえまい…、なれどヌシの抱えておる悼みほどではなかろうよ”
「俺?」
意外な言葉にきょとりと首を傾げてしまうと、妲己から呆れたような苦笑が漏れた。
“痴れ者が。我がどれだけの刻、ヌシを見てきたと思うておる?”
くっくっと笑う妲己が、紳の身体を緩めさせるように擦り寄ってくる。妲己から体躯を寄せるなど、悧羅の傍にまた在れるようになってから初めてのことだ。
“玳絃若君の眼と瘧を晴らし、真を見せる為とはいえど、我がヌシに願うてしまえば否とは言えぬ。それを知った上で尚、ヌシに乞うたのは我だ。…すまなかったな”
すりっと寄せられる柔らかな毛並みに驚いてしまう。
「いや、俺も納得したことだし…。妲己が謝ることなんてないんじゃないかな…?」
あのままにしていたら、いつか玳絃は壊れた。いや、いつかなどと遠い日ではなく、それは今日かもしれなかった。自分の為したことを悔み、悩み、這い上がることも望まなくなっていたかもしれない。他の子どもたちよりも繊細な心を持つ玳絃が、自分を曲げてまで為したことは誰よりも玳絃自身を悼めていたから。気付かない振りをして、見ないように目を逸らしていた玳絃が、押し潰される前に救いたかった。妲己に乞われたのは確かだが、決めたのは紳だ。悧羅寄りに似た下の双子が、同じように心を無くすなど許せなかったから。
“だからヌシは痴れ者だと言うておるのだ。主と御子方が泣かぬよう、苦しゅう思われることがないよう、己ばかりが堪えておってどうするのだ?”
「いや、でもさ…。あんなこと悧羅に強いたんだよ?悧羅が耐えてきたことに比べたら、俺のことなんてなんでもないし…。むしろまた泣かせちゃったんだから、噛まれるかと思ってたんだけど」
“それはもう赦した。主が耐えておられた間、ヌシが笑うておったわけでもあるまいに。…まあ、言うたところで是とするヌシではなかろうが、詫びは受け入れてくれ”
苦笑を含みながら身を寄せた妲己が、やれやれ、と尾で紳を包んだ。
“受け入れぬと申すのであれば、男の御子方の前で、口を滑らせてしまうかもしれぬぞ”
「何を話すのさ?」
“そうだな、主と情を交わせる手立てについて、でも語るとしようか”
「…お願いだから、それだけはやめて…」
揶揄う妲己の体躯に腕を廻すと、尾が背を撫でてくれる。
“舜啓あたりに教えてしまおうか?ヌシに主を譲ったは、舜啓であったろう?”
「あいつは洒落になんないってば」
もう!、と懇願する紳に、いつもの妲己の笑い声が間近で聞こえ出した。
“ならばヌシもこれ以上堪ゆるな。我に乞われようとも、許せぬことは許せぬと言え。ヌシとともに主を支ゆることが出来るは忋抖若君しかおられぬのだからな”
穏やかに諭す声音に、堪え切れずしがみついてしまう。妲己にはすべて見透かされているのは分かっていたけれど、こんなにも、案じてくれているとは思っていなかったのだから仕方ないだろう。
忋抖との間でちくりと疼いた痛みもぶり返してくる。
本当は嫌で嫌で堪らなかった。
ずっと自分だけのもので在って欲しかった。
悧羅の身体も。
声も。
心も。
髪の1本に至るまで、すべて。
紳だけのものにしておきたかった。
忋抖の時も、玳絃の時も、身を切られる思いで預けていた。ともすれば、場に飛び込んで引き剥がしてしまいそうな烈情も、ずっとひた隠しにしてここまで来た。
忋抖の言う余裕など、本当は何処にも無かったのに。
柔らかな毛並みに顔を埋めると、嗚咽が漏れてきてしまう。体軀にしがみついた紳の背を、ゆっくりと妲己が撫で始めた。
“なんだ、泣けるのではないか。ヌシはもう己のことでは泣けぬのではないかと思っておったのに”
「…うっさい…」
労わるような穏やかな声音に導かれて、大きな体躯にしがみつく。
“ヌシが泣こうが喚こうが、我の主との縁は切れぬ。ヌシが居らねば主を誰が倖にしてくれようか”
「…忋抖がいる…。あいつなら、悧羅を泣かせることなんてしない」
“…ほんに痴れ者になったのか?忋抖若君がヌシのように在れるはずもなし。ヌシが在ればこそ、忋抖若君も若君のままでおれるのだ”
ぽんぽんと優しく背を叩かれてしまえば、大きくなる嗚咽を堪えることなど出来はしなかった。声を上げて泣いてしまう紳を、変わらない苦笑が包む。
“ヌシのことは我が見ておいてやる。時にはこのように甘やかしてもやろう。だが忘れるなかれ、我が主の唯一はヌシ以外に居らぬ。我がヌシの他には認めてやらぬのだからな”
揶揄う声はあまりにも優しく心に積もる。
「俺で、本当に良いのかな…」
“他に誰が居るという?”
「…だから忋抖…」
“若君は無二であろう。これまで我がお支えしておったものが、若君の手に渡っただけのことだ。大事ない、何も変わってなどおらぬ”
くっくっと笑う度に揺れる体躯に、ますます顔を埋めてしがみつくと、尾で強く抱きしめられた。
“泣き終えたなら戻るがよかろうよ。主と忋抖若君が、心ここにあらずで待っておられることだろう”
「…妲己が泣かせたんじゃないか」
“やむをえまい。契りを分け合うなど、ヌシにとりては身を裂くにも等しかろう?甘やかしとうもなる”
「…ばれてた…?」
ぎゅうっと1度強くしがみつくと、妲己が声を上げて笑い始めた。もう!、と顔を上げた紳の顔に残った涙を尾でごしごしと拭ってくれる。
“分からいでか。忋抖若君も分かっておられるからこそ、主をお連れなされたのだろうよ。…ほんにようと似られたものだ”
いつの日か見たのが最期であった筈の妲己の顔に、また紳の眼に涙が滲む。
悧羅を疑い、信じることもせず、罵倒し、己の死さえ望ませたあの日から、2度と見ることは叶わないと諦めた妲己の穏やかな表情。
もう向けられることはないと思っていたのに。
“これが近衛の隊長とは、なんとも情けないことよ。これではいつまで経とうが、我が護うてやらねばなるまいな”
くっくっと笑う妲己の姿に堪らなくなって、紳もまた妲己にしがみついた。
「…頼むよ…」
“任されよう。御子方よりもヌシは手はかかるだろうが、やむをえんな”
柔らかな尾はゆっくりと背を撫でてくれる。まるで幼子をあやすように労られて、紳も堪えていた声を上げてしまった。
*****
紳が湯殿に入ったのは、それから暫く後。忋抖が悧羅を連れだしてから数えれば、半刻を過ぎていた。
「やっと来たの?」
湯殿の戸を開けると同時に響いた忋抖の声は、少しばかりの苛つきを含んでいた。そうは言われても泣き腫らした顔で忋抖の前に出ることは出来なかったから、あの後、これからについても少し話していたのだ。腫れが退いたのは哀玥が持って来てくれた手拭いと、睚眦が冷たい体躯で冷やしてくれたからだ。哀玥は何も言わずにいてくれたが、睚眦にはひたすらに馬鹿なのか、と呆れ続けられた。それでも目元を冷やしてくれたのは、睚眦なりの労りなのは分かっている。
流石に半刻を過ぎていることに気付いたときは、4人で顔を見合わせて笑ってしまったが、これでも急いだほうだ。とはいえ待つと言ってくれた忋抖にとれば、拷問に近い刻であったことも分かる。
「悪かったって。ちょっと話が長引いてさ」
手早く隊服を脱いで湯殿に入ると、腕に悧羅を収めたまま忋抖が湯に浸かっていた。もう!、と頬を膨らませながらも、何処かほっと安堵したように見えたのは、多分見間違いではない。
蓮の道だけではなく、契りの疵でも紳と忋抖は繋がってしまった。いつもの紳であれば忋抖が不安になるようなことは流さない。けれど、契りを結び直し忋抖が自分の思いを読ませた刻には、そうするだけの余裕は無かった。紳の不安と苦悩がそのまま流れてしまったのだと思われた。
余程、心を悩ませてしまったらしい。
親としては僅かばかり申し訳ないとも思えたが、同じ女を支える男としては、その心遣いは有難いと思える。
小さく笑ってしまいながら、洗い場で身体に湯を掛ける。悧羅から移った血は、紳にもしっかりと染み込んでいたようで、流す度に湯が赤く染まっていった。幾度か身体を流して清めて、流れていく湯から血の色が消えたのを確かめてから紳が湯に浸かると、待っていたように忋抖が悧羅を渡してきた。
そこで初めて紳も、あれ?、と首を傾げてしまう。
声が聞こえないのは、眠っているものだと思っていた。あれだけのことがあったのだから、泣き疲れて忋抖の腕で寝ているのだろうと思っていたのだが、受け取った悧羅の身体は摩る紳の手を分かっているかのように小さく震えている。
まるで幾度も果てさせた後のように。
「悧羅?」
不思議に思えて名を呼べば、預かった細い身体が強請るように胸に擦り寄ってくる。
「忋抖…、お前何したんだよ?」
悧羅を抱き直しながら忋抖を見れば、少し離れた場処で固くなった身を伸ばしている。
「搔きだしただけだよ?」
ぽきぽきと身体から鳴る音を纏いながら、忋抖は湯で顔を洗い始めた。
「…掻きだしたって、お前…」
「だって、悧羅の中に父様と俺のじゃない欲が残ってるのが嫌だったんだもん。匂いも耐えらんなかったし。あ、中には入ってないよ」
「…そういうことを言ってるんじゃないんだけどなあ…」
当たり前のように言い切る忋抖に、苦笑してしまう。
『掻きだした』と容易く忋抖は言ってのけているが、中にも入らず忋抖の欲で上書きしたわけでもないのであれば、どうやって出したのかは聞かずとも分かる。ここ数日、眠る刻も削って紳と忋抖の2人と情を交わし続け、更には玳絃に対して惑わしをまで使った悧羅がそれで癒される筈がない。
先に湯に行っていた忋抖が何をしたのかは、悧羅の姿が物語ってくれる。忋抖の声や匂いで安心はしたのだろうが、掻き出されるだけで繋がってはもらえていないのだろう。燻る熱を堪える悧羅から漏れる吐息が熱い。安心からか、とろりと微睡んではいるが遠くなる意識の中から、刻めと訴える声がする。
他の男の匂いも。
他の男の劣情も。
残された跡も、すべからく消してくれと、言葉はなくとも聞こえてきてしまう。
「先に癒してやってれば良かったのに」
小さく笑う紳に、忋抖も笑うと立ち上がって、湯から出た。
「何言ってんの。待つって言ったでしょ?悧羅の唯一は父様なんだよ?差し置いて先に入れるわけない」
「妙な処で遠慮する奴だよね、お前って」
擦り寄ってくる悧羅を宥めようと、身体を摩るとびくりと震えたのが抱えた腕から伝わってきた。目を閉じたまま、それでも紳の腕に居ることが分かったのか安堵の吐息を吐く悧羅の頭を撫でながら、忋抖が、あはは、と笑う。
「遠慮してるわけじゃないよ。ただ尊んでるだけ」
悧羅の頭から紳の肩に手を移して、忋抖が、ぽんっと叩いてくる。
「父様、ごめんね。…で、ありがとう」
「…何がだよ?」
「言わなくたって分かってるでしょ?」
変わらないように、何でもないことのように答えてみたが返されたのは忋抖の苦笑だった。
「ここから出たら、俺も対等になれるように頑張るからさ。今だけは父様だけのものにしていいよ」
「もう対等だろうがよ…」
「形はね?」
ふふっと笑いながら遠くなる忋抖の優しさに、呑み込んだはずの涙がまた溢れだす。溢れてしまわないように、悧羅の髪に顔を埋めてみたが、悧羅の芳はますます紳の心を緩めてしまう。
「父様は俺を特別だって言ってくれるけど、俺にとっても父様は特別なんだよ」
からりと閉められた戸の音に混ざって、忋抖の気配も遠ざかった。
「…ほんっと、あいつは…」
埋めていた顔を上げて見上げれば、ゆらゆらと昇っていく湯煙が見えた。視界が霞んでいるのは湯煙のせいだけではない。
今日はずっと泣かされっぱなしだ。
深く大きな嘆息を吐きながら自嘲してしまう。湯殿の縁に頭を預けて、抱いた悧羅の顔が湯に浸からないように整える。
「…し、ん…?」
汗の浮いた愛しい顔を拭うと、微睡む声で名を呼ばれた。
「起こしちゃった?まだ寝てていいよ。湯当たりする前には、連れていくから」
胸の上で身じろぎし始めた悧羅の背を叩いて、そのままでいるように示したが首を振られてしまった。動き始めようとする身体を留めて、紳は目を閉じる。
出来ることなら今の顔は見せたくない。
身を裂く程に恐れ、慄いていた悧羅をこれ以上哀しませたくなどない。
すべて流れ込んでしまっているのだとしても、悧羅が見てくれる紳は、どんな刻であれ寄りかかれる存在でありたい。
であればこそ、今だけは顔を見られたくないのだ。
動く悧羅を引き留めるように力を込めたけれど、細い身体はするりと腕を抜け出してしまった。気付かれないように小さく吐き出した嘆息が消える前に、唇が重ねられて吐きだそうとした吐息も吸い込まれてしまう。重ねられた唇にされるがままになっていると、首に手が廻されて悧羅が強く抱きついてきた。しっとりとした陶器のような肌の質感に、無意識のうちに紳も強く抱き返してしまう。
「し、ん、」
唇が離れる僅かの間に、甘い声が自分の名を呼ぶ。
「…紳…」
縋るように。
「…紳…、……紳…っ」
求めるように。
「…紳っ…」
確かめるように呼ぶ声に、ふつふつと熱が滾る。
「…なあに…?」
深く重ねられて貪るように繰り返される口付けに身を任せていると、縋りついたままの悧羅が身を捩った。
「…離れるな…」
「…うん…」
身じろぎされる毎に、互いの肌が擦れる。
「…いなくなるな…っ」
「…うん…」
合わさった肌から伝わる熱が、紳を滾らせる。
「…嫌いに…っ、ならないで…っ」
「…なれるわけないでしょうに…」
震えを孕んだ声に閉じていた眼を開けて、悧羅の頬にそっと触れる。重ねられていた唇が離れて、すぐそこに湯で火照り頰を紅く染めた悧羅が見えた。揺れる眼と吐き出される熱い吐息が、言葉以上のものを紳に知らしめてきた。そっと頬を撫でれば、擦り寄ってくる姿に、小さな微笑みが漏れてしまう。
紳にしてみれば悧羅を嫌悪するなど、ありえない。
悧羅がどんな決断をしても。
どんな行動をしたとしても。
例えそれが紳にとってどれだけ苦しい結果を引き寄せたとしても。
悧羅の手を離すことのほうが、紳にとっては気が狂うほどに辛いことなのだから。
「悧羅から俺の心が離れるなんてこと、絶対にありえない。そんなこと考えるんだったら、契りだって結び直したりしないでしょ」
当てたままの手で頬を擽ると、悧羅がぎゅうっと強く抱き付いてきた。
「…妾は紳を苦ししゅう思わせることしか出来ておらぬなあ…」
「…そんなことないよ…」
より一層強く抱きついてくる悧羅を、そっと抱きしめ返す。肩に預けられた顔が振られた意味は、紳にも分かっている。心の臓に新たに刻んだ疵が、重ねた肌からすべてを伝えてくれるから。
「…妾が唯一であればと望んだは、紳のみ…。手に触れてもらえなんだを悔いたは、紳しかおらぬ…」
「…うん…」
確たる言葉などなくとも伝わってくる。
「数多の男に身を開こうとも、この手が紳であれば、とひたすらに望んでおった…。…それは叶わぬものと諦めておったから…」
「…うん…」
悧羅が何を伝えようとしているのかも、何を分かって欲しくて言葉を紡いでいるのかも分かっている。
「…紳が子などいらぬと言うてくれた刻、どれだけ満たされたか…。媟雅を身籠れた刻、紳を妾だけのものにすることができると、どれほどに震えたか…」
「…うん…」
それでも聞きたい。
悧羅の口から。
悧羅の言葉で。
軽い口付けを交わしながら、浅はかにも願ってしまう。
「忋抖を救うと決めた刻も、忋抖を無二としてくれと言うたは紳であった。…妾が悔やまぬように、泣かぬようにとそればかりを案じて…」
「…うん、そうだったね…」
交わされる口付けは、段々と深くなる。
「…玳絃が壊れぬようにと願い、忋抖を置いてゆくことさえも善とせなんだ。あの刻、妾が迷うたことも知った上で…」
「…うん…」
唇が離される僅かの間に、かかる吐息が熱い。誘うように舌を出せば、縋るように吸いかれる。
強く抱きつかれるたびに願ってしまう。
何も変わらないのだ、と。
紳だけが唯一なのだ、と。
そう伝えてもらえたい。
「…妾の手に余るほどの倖をくれたは紳だ…。妾は其方が願うことならば、すべからく叶えると決めておる…」
「…っ…」
「…なれど、妾が如何に倖に堕としてもらえようとも、紳を苦しゅう思わせてしまうのなら、あの刻出逢わぬ方がよろしゅうあったのではないかとも思うてしまう…」
紡がれる言葉の重みに、心が締め付けられる。
思い返せば悧羅は紳の願ったことに否を唱えたことなどなかった。血族のことは元より、長として立たねばならない刻でも、紳が難色を示せばそうしなければならないことであっても紳が納得出来るまで待っていてくれた。媟雅を身籠ってくれた刻も、姚妃を授かった刻も、長の立場であれば『産む』と一言言い切ればいいのにそうしなかった。紳の願いが何なのか、紳がどうして欲しいのか、必ず聞いてくれていた。
悧羅を想えばこそ否を伝えたことで、泣かせた数は両手では足りない。
忋抖のことも、玳絃のことも、所詮は紳の救いたいという我儘でしかなかったのに、それでも紳が願ったから受け入れてくれたのだ。
「妾と出逢うことがなければ、妾が紳の手を望むことがなければ、紳はより倖であったのではないか、と」
背に廻された腕が微かに震えている。ふるっと首を振るしかできなくなる紳に、悧羅が強く抱きついた。
「…それでも、すまぬとしか言えぬ。紳がどれほどに苦しゅうなろうとも、紳がどれほどに悼もうとも、妾は紳を手放せぬ」
1度ぎゅうっと抱きしめられると身を起こした悧羅が、額に口付けてくる。
「悧羅、…俺、悧羅のこと辛くしてる…?」
「…あるはずもなし…」
わかり切っていることを尋ねてしまう紳に、口付けを落とした悧羅は微かに微笑んでみせた。
「…紳がくりゃるもので、妾が悼むことなどありはせぬ。…ただただ倖であるだけじゃ…」
「…嘘ばっかり…。俺が我儘言わなかったら泣くことなんてなかったでしょ…」
「紳がくりゃるものであらば妾は倖なのだと、言うておらなんだかえ?」
少しばかり苦虫を噛んでしまう紳に、悧羅はますます身体を寄せた。左の肩に玳絃の付けた跡を消すために深く刻んだ、紳の噛み跡が引き攣れ赤い色を纏っているのが見えた。
「疵だらけにしちゃってるのに…?」
付けた疵にそっと触れると、悧羅は小さく頭を振って微笑んだ。
「紳が刻んでくりゃるのなら、それも倖でしかない。癒えて見えぬようになるは、切のう思うてしまうほどに。消えぬ間にまたと願いとうもある」
「そんなこと言われたら、本当にしちゃうよ?」
触れた疵に唇を寄せて牙を立てると、吐息に悧羅がぶるりと震えた。
「おやまあ、喜ばしゅうあること。紳のものだと刻み続けてくりゃるのか?」
ふふっと笑った悧羅が膝を立てて、自ら肌を近付ければ当てていた牙がゆっくりと食い込んでいく。
「…っ、」
切り裂かれる肌の音に混じって呑みこんだ悧羅の声に、紳の箍が外されてしまう。
「紳は妾の唯一。何を捨て置いても其方だけは、妾から手を離してやることなど出来ぬ」
「…うん…」
食い込ませた牙に力を入れると、口の中に甘い血の味が広がった。どちらからともなく新しく付けた契りの疵を重ねれば、悧羅の本音も流れてくる。
出逢わなければ、などと思ったことなどない。
縁を結んだことを悔やんだこともない。
それでも、悧羅と出逢わなければ紳には、もっと穏やかな倖があったのではないか、と。
それでも離すことなどできはしない。
離れることを選ぶなら、生命を断てと言われる方を選ぶのだ。
そう案じる思いだけが流れてくる。
「…すまぬ…」
詫びる声とは裏腹に、流れてくる本音に紳も堪らなくなってしまう。
「…もしも、紳が妾を捨て置きとうなったならば、妾の心の臓を潰してからにしておくりゃ。紳に貰うた生じゃ。終わらせてくりゃるのも紳が良い」
「…っ…」
小さな笑い声とともに出された言葉に、紳も息を呑んだ。
そんなことなどある筈もない。
悧羅を手放すくらいなら、自分の命を断つ方が万倍も楽だというのに。
「妾を生かすも、終えよと命じられるも紳のみ。唯一である其方にしかできぬこと」
止めていた身を悧羅が動かせば、紳の牙がより深く肌に刺さる。切り裂いた肌から血が流れ出して、甘い味が口内を擽って堪えるのも限界になってしまう。ぐっと牙を立てて悧羅の細腰を掴んだ紳は、そのまま滾り切った己を悧羅の中に押し込んだ。
「ん、あっんっ!」
びくりと跳ねる悧羅を強く抱きしめて留めるが、奥まで一気に入り込んだだけで果てる悧羅に絞りあげられる。すぐ側で聞こえる声と、待っていたように絡みつく悧羅の中に溜まり切っていた欲を吐き出してから牙を抜く。腕の中を見下ろせば、紅く濡れた唇から、淡い吐息が漏れていた。
「…俺でいいの…?」
もう幾度となく確かめた言葉だ。
答えなど分かり切っているのに、それでも尋ねてしまう。
「紳でなければならぬ」
「…いつか嫉妬に狂って、本当に悧羅を殺めるかもしれないのに…?」
苦笑してしまうと、悧羅が手を伸ばして紳の頰に触れてきた。
「紳がそうしたいと望むならば、喜んで受け入れようて。今この刻でも構わぬえ?」
「…もっと辛くなることを、またお願いするかもしれなくても?」
「紳が願うてくりゃるものならば、妾のすべてで為してみせよう」
するりと動く指が、気付かぬウチに溢れていた涙を拭ってくれる。
「妾の唯一は紳のみじゃ」
柔らかく微笑んだ悧羅が、言い聞かせるように紳に告げてくれた。何も変わらないのだと伝えてくれる悧羅の顔を、しっかりと見ていたいのに滲む視界では上手くいかない。
身も心も悼んでいるのは悧羅のほうなのは分かっている。
紳が頼んだことで、悧羅を悼めてしまったことも嫌になるほど分かっている。
「…ごめん、なあ…」
それでも今だけは唯一の女に甘えさせて欲しい。
ぼろぼろと溢れ始めた大粒の涙が、抱きしめたままの悧羅の顔に落ちていく。ふるっと頭を振った悧羅に引き寄せられて抱き留められた、刹那。
紳の慟哭が響いた。
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