別離【捌】《ベツリ【ハチ】》
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ゆらゆらと揺れる寝所の灯が、横たわった玳絃の顔を照らしていた。穏やかな寝息を立てている額に手を置いて、紳はゆっくりと精気を送る。さらりと流れる髪を空いた手で梳いてもやるが、ぴくりとも動かない姿に小さく嘆息してしまう。
「…俺は駄目な父親だねえ、玳絃…?」
送り込んだ精気で薄らと紅く色づく頬を包むと、伝わってくる温もりにまたやるせなくなる。
「樂采に叱られちゃったよ。…お前にも、呆れられるかなあ?」
樂采に叱り飛ばされて、玳絃の身体を温める為に湯を使ったのは、二刻前だ。
雨に濡れたからか、それとも黄泉の扉を叩いたからか、連れ戻った玳絃の身体は酷く冷えていた。
ずっと抱きしめていたのだから、冷えているのは分かっていたのに、戻った紳は玳絃を手放すことができなかった。
温めてならなければ。
休ませてやらなければ。
そうしなければならないと分かっているのに、どうしても動けずに蹲ってしまったのだが、それは悧羅も同じだったようだ。
起こったことを、強いてしまったことを詫び続けていた2人を、戻って来た樂采は叱り飛ばした。
「何してんのっ?!」
腕に包んでいた紳と、縋りついていた悧羅を突き飛ばすなど、いつもの樂采からは考えられないことだ。共に戻った忋抖が、よろけた悧羅に手を伸ばすことさえも、この刻の樂采は許さなかった。
「父さまっ!こんな馬鹿たちに手なんて貸さなくていいよっ!こんなのどうでもいいから、玳兄さまを温めてきて!」
奪い取った玳絃を忋抖に押し付けながら、じろりと睨めつける樂采の眼には怒りと侮蔑の光が揺らいでいた。それでも手を伸ばそうとした、紳と悧羅の手を力一杯に叩き落とした樂采は、そのまま2人の胸倉を掴んだ。
「…おいっ!樂采っ!」
「父さまは黙っててっ!2人とも何なんだよ!?何してんのさっ!?玳兄さまはぼろぼろなんだって、僕言ったよね?!誰よりも悼んで、自分を責めまくってたのに、妲己ちゃんに迎えに行かせてたのは、何処の誰だった!?」
流石に止めようとした忋抖の言葉も遮って叫んだ樂采の剣幕は、きっと一生忘れられない。
「助ける道はあったでしょう!?玳兄さまが、どうしたいかなんてとっくに分かってた筈でしょうっ!!詫びることも、逃げることも許さなかったくせに!本当に望んでることを聞こうともしなかったくせに!なんで自分たちが1番苦しいみたいな顔してるんだよ!!馬鹿じゃないのっ!?」
「樂采、言い過ぎ」
「五月蝿いよ、父さま!言わなきゃ分かんないんだよ、この馬鹿たちはっ!!紳くんも悧羅ちゃんも、自分たちだけが辛いって思ってるじゃないか!父様だって、僕だってこんな玳兄さまなんて見たくなかったんだ!自分たちのしでかしたことを悔やんでばっかりで、玳兄さまが無くしたものなんて、どうでも良いって思ってんだよっ!!でなきゃ、こんな玳兄さまのままで、休ませてやることもしないなんて出来るはずがないじゃないっ!」
掴んだ胸倉を強く突き離されて、紳と悧羅が床に投げ出される。あまりにも激しい怒りをぶつけられて動けなくなる2人に、樂采は言い放った。
「自分たちを憐れむ暇があるんなら、玳兄さまのことを考えてよっ!自分たちが無くしたものを数えるくらいなら、玳兄さまが無くしたものを数えてよっ!!1番辛いのは、玳兄さまでしょうっ!?」
部屋を切り裂くような怒声の終わりは、嗚咽に塗れていた。
「…ほんっ、とにっ、ふざけないでっ!!」
「樂采、…もういいから」
肩を震わせて、息を荒げて、ぼろぼろと大粒の涙を溢し始めた樂采を忋抖が引き寄せて背を叩く。
「ごめん、お前は見えてたんだもんな。誰にも言わずにいてくれたんだよな」
忋抖の腕に収められた樂采から漏れる、押し殺した泣き声に呆然としたままだった紳と悧羅は、床に爪を立てるしかなかった。
齢17になったばかりの孫に叱咤され、諭されたのが長と近衛隊隊長だなどと、笑い話にもならない。
「あんなに怒る樂采なんて、きっと玳絃も見たことないぞ?見とかないと、後悔しちゃうかもしれないんだけどな…」
思い出して苦笑しながら、眠ったままの玳絃の頬を擽っていると、部屋の戸が静かに開けられた。振り向かなくとも、訪った者くらい紳には分かってしまう。
「樂采は?」
「謝ってから来るってさ」
隣を通り抜ける忋抖に尋ねると、やれやれと肩を落としている。
「悧羅に言いすぎたからって」
「俺は良いのかよ」
「父様には、まだ言い足りないらしいよ?」
「…ええ?…って、そうか…、そうだよなあ」
自嘲するように小さく笑う紳に、忋抖も嘆息しながら腰を降ろした。樂采は聡い子だ。幼子の頃から、周りよりもひとつ先を読んだ動きをしていたし、心を動かされることがあっても声を荒げることなどなかった。先見の才で見えたことを、憚ることなく口に出すことには少し手を妬いたが、それに助けられてもいた。
幼子らしからぬ処も多かったけれど、それが樂采の気性なのだと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
「あいつは父様のことが大好きだからね。憧れでもあるから、落ち込んだままで動けないなんて、そんな姿を見たくなかったんだよ」
「幻滅させちゃったかな?」
「そんなわけないでしょ?」
「なら、良いけど」
くすくすと小さく笑いながら玳絃の頰を撫でる紳に、忋抖も倣って精気を送り始めた。
樂采にとって紳は、憧憬を抱き、尊んでもいる存在だ。生まれ落ちたときから自分を護り、慈しみ、深い愛情を惜しみなく注いでくれていた者だ。
突如現れた樂采が忋抖の子であると知らしめられても、里の民たちが疑いもせずに受け入れてくれたのも紳が当たり前のように愛でていたからだ。
母の居ない樂采に、好奇の目が向かないように。
樂采が、心無い言葉で傷付くことがないように。
ひたすらに抱きしめて何が起こっても、いつも前に立って護り導いてくれる背を見ていたからこそ、今の紳の姿に憤ったのだろう。
「…情けない処ばっかり見せちゃったかなあ」
「だから、たまには良いんだって。いっつも父様ばっかり格好良いって褒められてて、俺の立場なんて無かったんだから。なあ、玳絃。お前だって、そう思うよな?」
精気を送りながら、ぽんぽんと床の上から玳絃の身体を叩く忋抖に紳はまた小さく苦笑した。確かに幼い頃から樂采に、鍛錬の指南を頼まれていた。紳が大刀を振るう姿や、近衛隊を率いているのを見かければ、顔を輝かせて学舎の窓から身を乗り出して名を呼び、手を振っていたものだ。学舎に入りたての頃などは乗り出しすぎて落ちるのを、慌てて止めたことも1度や2度ではない。
「落ちたら怪我しちゃうってば!」
「うわあ!紳さまだあ!」
「あー!がっくん、良いなあ」
落ちる樂采を受け止めて学舎の中に返せば、他の子らからの羨まし気な声が上がって指南が止まってしまっていた。
「ぼくの、おじいちゃんは格好良いでしょ」
他の子らに胸を張って自慢し、にこにこと抱きついてくる樂采には笑えたものだ。けれど、流石に学舎に迷惑をかけないように近くには行かないようにしたのだが、そうすると宮に戻った紳から離れようとしなかった。周りに迷惑をかけられないから、近くには行けないと伝えた時は珍しく泣き叫んでもいた。
「何で、紳だけにそうなのさ?俺たちが行っても、手を振るくらいなんだけど?」
「俺なんて、『あ、居たんだ』で済ませられてるよ」
あまりにも大泣きするものだから、舜啓や灶絃が首を傾げていたが、子どもたち、特に男たちは学舎に入り立ての樂采を心配して様子を見に行っていたらしい。
「兄さまたちは、お顔見に来てくれるもん。お友達とたくさん遊んで、おむかえにもきてくれるもん」
「…お前ら、なにしてんの?」
「いや、だって樂采が心配だし」
「そうそう、樂采が可愛すぎるのがいけないんだよ」
「あのなあ…」
行動を顕にされた子どもたちに、忋抖は呆れていたが、姚妃の刻は忋抖もそうだった、と責められて弟たちを止めるのはやめたようだった。
「確かに俺が様子を見に行ったり、迎えにいくことも難しいもんねえ」
「しんくんは、ぼくのだもん。ぼくの、おじいちゃんだもん」
しゃくり上げながらしがみつかれていたことが、懐かしい。
「あんなに小さかったのに、大きくなったもんだよな」
「父様たちのお陰でね。悧羅まで叱るようになるなんて、荊軻さんが聞いたら喜ぶよ」
思い出してついくすくすと笑ってしまうと、その樂采が戸を開けて入って来た。振り向いた紳と忋抖が、自分を見て笑いを深めたことに、なに?と訝しげにしながらも迷いなく紳の隣に座る姿に、ほらね?、と忋抖が視線を送って来た。
まだ見放されてはいないことに安堵した紳も、樂采の頭を撫でる。
「悧羅は?」
「もう少し頭冷やしてから来るって。なにか考えてたみたいだけど、とりあえず湯は使わせておいたよ」
「そっか、ありがとうな樂采」
「本当にね。馬鹿すぎるんだから、みんなして」
くしゃりと髪を掻き混ぜてやると、嘆息して見せてくる。隠そうとした、はにかんだ顔が見えて紳も忋抖もますます苦笑してしまった。
樂采に叱り飛ばされた後、玳絃を紳と忋抖に預けた悧羅は、頭を冷やしてくると部屋を出ていった。けれど、預けられた玳絃を湯で温めても、床に移しても顔を出さない。ただ何を見ても心を動かすな、とだけ契りの疵から伝わってきていた。
紳も忋抖も、初めは何のことなのか分からなかった。
黄泉の扉を叩かせて、黒く灼け焦げ、左腕も失わせてしまった玳絃の姿以上に戸惑うことなど何も無いと思っていたから。
だが、すぐにそれは間違いだったと気付かされてしまった。
氷のように冷え切った玳絃の身体に、それはあったのだ。
灼け焦げていた筈の玳絃の左の半身。
その腰に、それはあった。
色もなく、ただ縁取られたそれは赤子の掌程度の大きさの華の蕾。
固く閉じられたままの蕾は、紳と忋抖によって流される精気が巡ると、仄かに光り、開き、動く。川を揺蕩う蓮は、巡る精気に呼応して開き切ると散り、送ることを止めるとまた何事もなかったように色を失い、元に戻ったのだ。今も床の中で、同じことが繰り返されているのは見ずとも知れる。
何故、華が刻み込まれたのか。
この華が、どのようなことを玳絃に強いるのか。
分からないことばかりで言葉を失ったのは言うまでも無いが、少なくとも玳絃の温もりが取り戻せたのだから良しとすべきなのだろう。
「玳絃、お前まだ起きたくないのか?」
樂采を撫でる手を休めて玳絃の髪を、くしゃりと掻き混ぜながら紳はぽつりと呟いた。
目を覚ましたくないのか。
目を覚ませないのか。
後者であれば、どんなことをしてでも何を投げ打ってでも取り戻す。だが、前者であれば、起きた刻に何と言葉を掛ければいいのか正直に言えば、まだ分からない。
「お前はそんなに寝坊助じゃないと思ってたんだけどなあ」
「いやいや、父様。啝咖や灶絃よりましってだけだって。俺の膝の上で寝落ちされて、立てなくなったことがどれだけあったと思ってるの?」
「そういえば、そうだったなあ…。降ろして目え覚ましたら可哀想だって、忋抖もそのままにしてくれてたもんな」
ふふっと笑いながら玳絃の額を小突いてから、忋抖もそのまま手を当てたが、紳の隣からはきょとりとした声がかかった。
「でもさ、玳兄さまが起きちゃったら、紳くんも父さまもなんて言うか決めてるの?」
小さく首を傾げて問われて、紳も忋抖も苦笑してしまう。本当に樂采は逃げさせてくれない。こと今回のことに関しては、余程腹に据えかねているらしい。
「…それなんだよなあ…。謝りたいのは間違いないんだけど」
「なんに対して?」
「どれってことはないな、強いて言えば全部」
「何をもって、ぜんぶなの?」
「それは…」
淡々と問い返してくる樂采の眼差しが、鋭く光って紳と忋抖は言葉に詰まってしまった。じっと見つめてくる樂采の眼に、何もかもを見透かされているようだ。
いや。
もしかしたら、本当に見透かしているのかもしれないが。
詫びるのが先だとは思っている。
詫びなければならないとも思う。
自分を押し殺してまで姚妃を救うことを選んでくれた玳絃が、そのまま瘧に沈むことだけは避けたかった。
玳絃ならばと勝手に期待して、悧羅と情を通じることで囚われた血の縁からも解いてやれると思っていた。
望んでいた褒美として悧羅を腕に収めても、堕とされる筈が無いと思い込んで。
預けると決めて、そうなることは分かって残したのに、あの日の玳絃に腹を立てて一瞬、本気で命を奪おうとした。
悧羅を傷付けたことに、ではない。
契りを消されたことに、でもない。
縛りを解かれたことに、でもない。
悧羅の心の奥底に、玳絃が男であると刻みつけられること。
子ではなく、男として悧羅の前に立ち始めたこと。
それは、紳にとっても、忋抖にとっても 赦し難く、恐ろしいことなのだ。
本当は、ずっと前から気付いていたのに。
姉兄たちが唯一を繋いでいく中で、どうして玳絃はそれを望まないのか。
繋がりそうな縁を何かの理を付けて、どうしていつも断ち切ることを選んできたのか。
答えは明白だ。
玳絃さえも気付かない眼差しの奥に見えていたものは、紳が忋抖の中に見出したものと同じだったのだから。
だからこそ、聞こうとしなかった。
だからこそ、見ようともしなかった。
詫びられることも。
話を聞くことも。
責めることも。
詰り、殴り、怒りをぶつけることもしなかったのは、玳絃が紡ぐであろう、その先を見るのが怖かったからだ。
聞いてしまえば救うために、悧羅が動き始めることも分かっていたから。
見ない振りでいてくれたなら。
気付かないままでいてくれたなら。
もう2度と、紳の心を引き裂くことは起きない。
変わることのない日々を送るために、玳絃が気付かずにいてくれることを望んでしまった。
芽生えてしまえば抑えることが難かしいことは、誰よりも分かっている。800年を超えて尚、悧羅に堕とされ続けている紳だからこそ、見えたものが偽りではないことも痛いほどに分かっていた。それでも、どうしても紳に忋抖以外を受け入れることは出来ない。
もしもあの日、玳絃が己の心に気付き、それを言葉にしたならば、紳は迷いなく拒んだだろう。
「…ああ、そうか…、……そういうことか…」
考えに耽り止めていた手を動かすと、指の間から玳絃の髪が溢れ落ちる。
「ほんっと、俺って情けない父親だ」
「父様?」
ふふっと自嘲してしまうと、忋抖が肩を叩いてくるが、あまりにも単純で、あまりにも手前勝手な答えにますます苦笑するしかない。
自分の手で傷付けたくないから、気付いて欲しくなかった。
これ以上、紳と悧羅の間に入り込む者が増えることなど赦せない。
ただ、それだけだった。
「なあ、忋抖。お前、悧羅が俺たちのほかに手を伸ばすのって赦せるか?」
「…はあ?…冗談でしょ?」
「だよなあ。俺もそうだもん」
読み解いた自分の思いを押してもらうために口に出した紳に、目の前の忋抖が眉を寄せた。
「やめてよね?」
「うん、玳絃には悪いけど、こればっかりは俺が無理」
置いたままの手で玳絃の額を撫でながら、紳は深く嘆息する。
詫びなければならなかったのは、しなければならなかったことは、ただひとつだった。
「詫びるとか、責めるってことじゃなくて、俺はちゃんと玳絃と向き合わなきゃ駄目だったんだなあ」
「それは俺も同じだよ。玳絃は悧羅と2人になることをあんなに怖がってたのにさ。聞かないまんまで、残したんだから」
「うん。俺たちは初めから間違ってたんだ。俺たちが決めてやるんじゃなくて、玳絃の気持ちを聞いてから決めるべきだった。…ごめんな、玳絃…」
今更、気付いた処で深く抉れた玳絃の心を取り戻すことは出来ない。心だけでなく左腕まで失わせては、この先、近衛として勤めるのも難しくなるだろう。
近衛に入ることは、玳絃の幼い頃からの願いだった。末子として来てくれた玳絃は、どちらかと言えば甘えたな子で紳と悧羅の傍によく居てくれた。2人とともに居たいと何処に行くにも連れて行ってくれ、とよくせがまれた。
朝議も、里に降りるのも1番多くともに行き民達に囲まれる悧羅を見ては、顔を輝かせていたものだ。
『1日でも早く近衛に入って、母様を護る』
そう言い続けて、ひたすらに鍛錬して身につけた能力だったのに。
浅はかな考えで進ませた結果、玳絃のこれからも紳は奪ってしまったのだ。
「赦してくれなくてもいいから、話だけはさせてくれな?」
ぽんぽんと床の上から玳絃の身体を叩くとあのさあ、と嘆息混じりに呟いた樂采から、ぱしりと頭を叩れた。
「まだそんなこと言ってるの?赦すとか赦されないとか、そんなの関係ないでしょう?紳くんは、思った通りに玳兄さまのお話聞くの。これからのことも、今までのことも、ぜんぶ聞いて。あとのことは、それからなんだから」
まったく、と呆れたような嘆息を吐く姿に、紳は肩を落とした。
先見の才を持っている樂采は、今の状況も、これまでの行程もすべて見えているのだろう。口には出さないことがあるとしても玳絃を思い、紳たちの助けになろうとあの場に来てくれたのだ。後で話せと言った忋抖の言葉には頷いていたから、話せることもあるのかもしれないが何処まで踏み込んで良いものかも分からない。
樂采の持つ先見の才は、鬼として持つものではない。長足る悧羅でさえその能力は持っていないし、呪に長け悧羅の右腕として支えてくれている荊軻でさえ、恵まれてはいない。傍から見れば、2人は先を見通して動いているように見えるかもしれないが、悧羅も荊軻も自らが得た知識から予測して動いているに過ぎず、樂采のように何が起きるのかを鮮明に見ている訳ではないのだ。
組み立てた予測とはいえ、これまで誤った道に進むことがなかったのは流石と言うべきだが、今回に関しては悧羅も読めなかった。樂采だけが、これまでも、これからのことも見えているのだろう。
それは、王母の精気を譲り受けて育った樂采だからこそのものかもしれない。
「樂采、玳絃が寝てる間に俺たちに話せることはあるか?」
「俺もそれが気になってた。ちゃんと説明しろって言ったよね?」
玳絃から手を離して、樂采の頭を撫でる紳に忋抖も深く頷いた。
「悧羅と俺が契ったことも知ってたみたいだし?いつから、何を見てたのか、これからどうなるのかも全部知ってるんじゃないのか?」
そっと手を伸ばした忋抖が樂采の肩を掴むと、やれやれとでもいうような嘆息が響いた。
「…んー…、まあねぇ…。悧羅ちゃんには先に話しちゃってるし、もう言えないことでもないから良いんだけどさ」
肩に置かれた忋抖の手に、自分の手を重ねながら樂采は小さく笑ってみせてくる。
「僕が見たのは、玳兄さまの行末だよ。あの刻、悧羅ちゃんがどうするか、それでどうなるかだけ」
「行末?」
僅かに眉を寄せた紳と忋抖に、樂采は静かに頷いた。
「僕たちは大きな世の流れの中で生かされてる。それは2人とも知ってるでしょ?悧羅ちゃんも事あるごとに言ってるもんね」
「まあ、そうだな。東王父様に神になることを勧められても、悧羅はそれを理にして拒んだし」
100年ほど前に東王父によって試された呪に抗った刻、戻った悧羅は長としての自分を『里を預かっているにすぎない』と言った。逆らえない世の流れの中のひとつでしかなく、ただ預かっているだけだ、と。役目が終わる迄、ただ護るだけだ、と。
「そう、悧羅ちゃんは良くわかってる。大きな流れの中で生かされている以上、逆らえないことがあることも。選ぶその先で道が分たれることも分かってる。だからこそ、より気を配って進む道を選んできてたでしょ?」
「まあ、確かにな」
里を預かる悧羅の肩には、20万の民の生命が乗っている。里で暮らす者たちが安寧を享受できているのは、悧羅が選び取ってきた道が正しかったということだろうが、悧羅とて迷わない筈はない。そうあるために悧羅がどれだけ悩み、悼み、苦しんできたのかを知っている者は限られている。
より近くで悧羅を支えて来た者。
悧羅の悼みも苦しみも、ともに請け負って癒してやれる者。
それらを手にする前には、すべてを1人で抱えてきた悧羅だからこそ己の決断に迷うこともあるのだ。
「僕だって、ぜんぶが見えるわけじゃないんだけどね。言った通り見えたのは行末だけなんだけど、悧羅ちゃんって自分の大切なものが目に見えて傷付くと、いつもの悧羅ちゃんじゃ無くなるでしょ?悧羅ちゃんが出来ないことなんて、世の流れに逆らうくらいのことなのに」
「だから、その行末とか世の流れってのは何なのさ?」
肩を竦めて見せる樂采に、忋抖が首を傾げた。
「言ったでしょ?玳兄さまの行末だって。あの刻そのまま黄泉の門を潜らせるか、留めるか。悧羅ちゃんがどっちを選ぶかでこの先の行末も決まったんだよ」
「決まったってことは覆せない何かの流れに乗ったってことか」
息を吐きながら呟いた紳に、うん、と樂采が頷く。ということは、あの刻悧羅はとてつもなく大きな決断をしたということだ。それが何かはまだ分からないが、樂采の顔はこれで良かったのだと言っているようにも見える。
「道のひとつで見えたのは、玳兄さまが黄泉の門を潜るのを止めなかったら、悧羅ちゃんが壊れる姿だったんだ。僕としては、そっちを選ばれなくて良かったと思ってる。そんなの見たくないし、悧羅ちゃんが壊れるってことは里も鬼も、もしかしたら妖の世も崩れて消えることにもなりかねないことだから。そんな業まで背負わせたくないもん。紳くんと父さまだって、そうじゃない?」
求められた同意に、紳も忋抖も、そうだな、と頷いた。
ただでさえ長という重い業を背負わせている。これ以上は看過出来ないし、何より悧羅が壊れたという先で起こる事柄は、紳や忋抖が留め切れず救うことも出来なかったということだから。
「じゃあ、その最悪の行末は避けられたとして選んだ道で起こることは?玳絃は、これ以上傷付かずにいられるのか?」
最悪の結末ではないにしろ、選びとった道の先でまた玳絃が心咎めるならば、今度こそ手を離すことは赦されない。
「んー…、それは玳兄さま次第ってしか言えないんだけど…。ただ、自分で自分を捨てることはできなくなっちゃったんだよね」
少し考えるように言葉を切った樂采が、手を伸ばして玳絃の身体をぽんっと叩いた。
「2人ともさ、玳兄さまを留めるために悧羅ちゃんが血を呑ませたの覚えてる?」
尋ねる樂采に2人が頷くと、それなんだけどねえ、と樂采が肩を落とした。
「あのね、まず分かってて欲しいんだけど、蓮の精気って王母様の能力そのものだから、普通の鬼じゃ受け入れられなくて身体が壊れるんだ。悧羅ちゃんは元々蓮の娘だからどうってことはないし、紳くんと父さまは道を授けられたときに、耐えられるように造りを変えられてる。生まれがちょっとな僕でも、紳くんから蓮の精気だけもらったら、身体の中がぼろぼろになっちゃったくらいにね」
「なんで、いきなり蓮の精気の話になるんだよ?」
突如として語りだされた話に、忋抖がますます首を傾げるが、樂采は玳絃の身体を叩きながら、ちらりと紳を見やった。視線を受け止めた紳が、まさか、と呟いて息を呑むとその肩にも手を乗せてぽんっと叩く。
「玳兄さまの半分は悧羅ちゃんから出来てる。だけどそれでも蓮の精気を受け入れるだけの器は無かった。…でも、あそこまで悼んだ玳兄さまを癒すには、蓮の精気に頼るしかない。だったら残された道は何だったか、なんて、もうわかるでしょう?」
問いかけるような声音に、紳が目を見開くと忋抖も、あ、と呟いた。
「玳絃に咲いた華は、そういうことか…」
思わず床に入ったままの玳絃の手を握りながら、紳はがっくりと項垂れた。事の大きさに気付いたのか、忋抖もぶるりと震えている。ああ、と大きくごちた2人に樂采の嘆息が乗し掛かる。
『蓮の精気は、普通の鬼では受け入れられない』
ならば。
何故、玳絃の朽ちた身体はそれで癒された?
何故、悧羅は己の血を玳絃に呑ませた?
何故、玳絃の身体に悧羅の華は刻まれた?
その答えは、ひとつしかない。
玳絃は、造りごと変えられたのだ。
紳と忋抖が、そうであるように。
蓮の精気で己を癒せるように。
例え、玳絃が望んでいなくともその身が朽ち果てることのないように。
悧羅の手で。
悧羅の意思で。
握った手に強く力を込めながら、紳は深く息を吐いてしまった。
玳絃の身体が崩れ始め、黄泉の扉の奥へと足を進めたあの刹那、悧羅は確かに詫びの言葉を口にしていた。紳が何も為せずにいた、あの刻、相談する刻も迷う思いも赦されてはいなかったのだ。
だから、詫びたのだろう。
玳絃の思いも聞けず、その先を縛ることを決めてしまうなど、悧羅はどれほどに悼んだのか。
たったひとりでそんな決断をさせてしまったことが、あまりにも悔しくて堪らない。
くそ、と唇を噛んでしまう紳に、あのね、と樂采が声を上げた。
「玳兄さまを失わずにいるためには、この道しかなかったよ」
「そうなんだろうな…、…でも…」
ぐっと掴んだ手に力を入れる紳の肩を、樂采は優しく叩くと、呆然とする忋抖の肩にも手を置いた。
「華は刻まれたけど、紳くんや父さまのとは違う。形としては哀玥くんや睚眦くんの咲き方に似てるけど、それともまた違う。これは契約なんだ」
「…契約?」
「うん。玳兄さまが自分で自分を悼めないようにするためだけの、ね」
は?、と声を上げかけた紳と忋抖の横で、ごそりと床が動いた。はた、と見やれば横たわっていた玳絃が薄らと目を開け始めている。
「玳絃っ!」
握っていた手に力を入れながら覗き込む紳を、朧気に見つめ返した玳絃の眼が捉えた。
「…父様…?あれ…?俺どうしたんだっけ…?」
きょとりとしながら大きな息を吐く玳絃の眼に、自分の姿が映っているのが見えて、紳はその場に崩れ落ちた。
「お、っ前…っ、もう…っ」
込みあげる安堵とともに涙が溢れて、思わず顔を隠すと、この馬鹿!、と忋抖も玳絃を抱きしめて嗚咽を漏らし始めた。
「え?え?忋の兄様…?なに?どうしたの?」
紳と忋抖に泣きながら抱きしめられて、起こっていることが理解できない玳絃からは困惑する声だけが聞こえてくる。
「なんなんだよう…」
理解できないまま、とりあえず落ち着かせようと握られた手を握り返して、反対の手で忋抖を包もうとした玳絃が、あれ?、と呟いた。
「…?」
右腕の感覚はある。握り返された力強さが紳のものか、忋抖のものかは分からないが、温かさだけは感じることができる。
けれど。
上げようとした左腕が何処にあるのか分からない。幾度か腕を動かそうとしてみるが、当たり前にそこにあった筈の重みも感覚も感じえない。自らの上を覆う父と兄から視線を動かすと、平坦な布地が見えた。
「……?…は…?」
見やった先の光景に玳絃から、血の気が退く。先刻まで確かに在った筈の左腕が、そこに無い。目を見開いてみても肩から先は、潰れた衣があるだけで動かそうと意識を集めても景色が変わることがない。
「え?えっ!?」
慌てて身を起こすと、しがみついていた紳と忋抖が勢いで弾かれた。起こしたもののぐらりと傾く玳絃を、一瞬離れた2人が支えたけれど、玳絃の視線はあるはずの左腕の場処から動かない。起き上がった反動で、ゆらゆらと揺れる袖に手を伸ばしてみたが空虚な布地が潰れただけだ。
「…俺、どうしたんだっけ…?」
宮で栄州を懐かしむ皆の中にいるのが苦しくて、葬送した場に戻ったことは、覚えている。懐かしみながら酒を酌み交わすその場には、紳も悧羅も忋抖も居たから。酔ってしまえば少しばかりは居心地もましになったかもしれないが、あの日以降、心に突き刺さったままの棘は酒に溺れることさえも赦してくれなくなっていた。それでも、出来る限り留まろうとはしたのだ。
玳絃の傍に居ようとする悧羅に、手を包まれる迄は。
これまでも幾度も悧羅は、そうしようとしてくれていた。
怯えることも、悔やむこともしなくて良いのだと教えるように玳絃の姿が見えれば傍にこようとしてくれていたけれど、どうしても玳絃には受け入れられなかった。
触れてしまえば、思い出してしまうから。
重ねた肌の熱さも。
貪るように繰り返した口付けも。
とめどなく沸き立ってくる劣情と、堕ちたいと願ってしまった悦楽も。
触れられた瞬間、背を走った欲に居た堪れなくなって、部屋を出た筈だった。
その場に居なくとも、栄州を送った場で語りかければ落ち着けると思ったし、栄州の面影に癒して欲しかった。
いつもの笑顔で。
いつもの口調で。
「些末なことですなあ」
そう言って頭を撫でてくれるような気がしたから。温もりを求めて灼け焦げた土に触れたことも覚えているが、その後はどうしたのだったか?
思い出そうと無い腕を押さえる右手を見やれば、そこにはいつもの手があって、黒くない、と玳絃は呟いた。
最期に見た刻、土に当てた両の腕は黒く灼けているようだった。熱さも痛みも不思議な程に感じなかったけれど、鼻を擽った肉の灼ける臭いが確かにあった。
「…ああ、そうかあ…」
黒く見えた腕と、崩れ落ちた身体。
慌てて駆け寄ってきた、紳の声。
急速に襲ってきた眠気は、雨で冷えたからだとばかり思っていたがそうではなかったのだ。
ゆらりと揺れる左の布地を強く掴んで、玳絃は小さく笑ってしまう。
「…罰を受けたんだね…」
「「違うっ!」」
ぽつりとごちた玳絃に、紳と忋抖は同時に叫んだ。
「お前が何の罰を受けるって言うんだよ!?そんなことある筈ないだろう!」
「いや、だって…。これは、そういうことでしょ?」
「だから違うって!」
ぺたりと身体に張り付く布地を持ち上げて見せる玳絃の肩を、紳が掴んだ。
「いいか、玳絃。お前に罰が下るなら、俺の方がよっぽど罰せられなきゃなんないんだぞ?」
「どうして、父様が罰を受けるの?それこそ可笑しいよ?」
きょとりとして首を傾げた玳絃は、また自嘲するように微笑んでいる。腕を無くしたことは当たり前なのだと受け入れようとする様に、紳の胸がつきりと痛んだ。
「可笑しなもんか…。俺はお前の話を何にも聞かなかったんだ…。これで良いんだって思いこんで、お前の想いも言葉も見ない振りしてたんだから」
「そんなの、どうでもいいでしょ?」
「どうでも良い筈ないだろうが…」
捉えていた視線を、そっと外して苦笑する玳絃の姿に、紳は苦虫を噛んだ。
話だけでも聞かせて欲しいのに、玳絃がすべてを諦めてしまっているのが痛い程に伝わってくる。
罰を被ったなどと思って欲しくないのに、どんな言葉を紡げば玳絃の心を救えるのだろうか。
どうすれば、玳絃は素の心を見せてくれるだろうか。
「俺が話そうか?」
悩む紳の心内が伝わったのだろう。案じる忋抖には頭を振っておいた。これは紳がやらなければならないことだ。
栄州が淀む玳絃の心を留めてくれた。
悧羅が壊れる玳絃の身体を引き止めてくれた。
なればこそ、紳がそれを手繰って玳絃を救わなければならないのだから。
すべてを諦めさせるには、まだ早い。
肩に置いた手にぐっと力を込め直してから、紳はひとつ大きく息を吐く。
「玳絃」
静かに呼ぶと逸らされていた視線が、ゆっくりと戻った。けれど、まっすぐには見つめ返せないようで俯く玳絃の名を、もう1度呼ぶ。
「玳絃」
「…なに?」
嘆息混じりに返された声は、玳絃の苦悩を紳に突き付けてくる。
「ごめんな」
何を言いようもなくて出した詫びの言葉に、玳絃の身体がぴくりと震えた。
「お前はずっと言ってくれてたのにな。俺と忋抖に顔向け出来ない、悧羅と2人になるのは怖いってさ。俺がお前の気持ちを軽んじたから、…苦しかっただろ?」
「…そんなの、…別に…、俺の責だし…」
「違うよ、お前の責なんかじゃない。見誤った俺たちが負うものだ」
「…それこそ違うと思うけど…」
噛み締めるように声を出す玳絃の肩を、紳はぽんっと叩いた。
「違わない。手を取れって背を押したのは俺たちなのに、俺はあの一瞬、本気でお前を殺そうともした。全部の責をお前に擦りつけようとした。赦されることじゃない」
「それも当たり前のことでしょう?俺がしたことは殺されて然るべきことだもん」
「そんなわけあるか」
俯いたままの玳絃の膝の上で、拳が作られている。強く握られた右手が白く色を変えていくのが、仄暗い寝所の中でも見えて、紳はその手をそっと包んだ。
「…むしろ、そうして欲しかったよ…」
「…馬鹿なこと言うな」
「…放っておいてよ…。その方が父様にとっても母様にとっても、忋の兄様にだって良いことでしょう?」
「できるわけない。見放したらお前、どっかに行っちゃうだろ?」
「…だって、それが1番良いことなんだ」
包んだ手は小さく震え出して、ますます拳を強く作っていく。両手で包んで開かせると、食いこんだ爪で掌から血が滲み出した。
「良くないし、誰もそんなこと願ってもないよ。なのに、どうしてそれが1番だって言える?」
滲んだ血を自分の袖で抑えて止めながら癒し始めると、だって、と小さな声がした。
「…だって、母様に酷いことした」
「悧羅がそうしたいって望んだことだよ?」
「…父様との契りを汚した」
「そんなのいくらでも結び直せる」
「…兄様の縛りも解いちゃった…」
「忋抖はもっと良いもの貰えたから気にすんな」
紡がれる言葉が、すべて紳たちを慮るものばかりで紳は小さく嘆息してしまった。
本当に優しい子に育ってくれたことが嬉しくもあるが、その分どれだけ玳絃が悼んだのかと思えば胸が疼く。
「なあ、玳絃。お前は優しいから、気にするなって言っても無理かもしれないね。だけど、お前本当はどうしたかった?」
癒し終わった手を包み直して尋ねると、びくりと身体を震わせたのが伝わってくる。
「今更って思うかもしれないけど、教えてくれないか?玳絃がどうしたかったのか、玳絃はどうありたかったのか。これから、どうしたいのか」
「…っ…」
紳の問いかけに息を呑んだ玳絃の手が、また拳を作っていく。
「どんな願いでも、もう押しつけたりしないからさ。言える分だけで良いから、俺に教えてくれ」
「…聞いたって…、どうすることもできないよ…」
「うん、そうかもしれない」
硬く握られた拳を開かせながら、紳も深く頷いた。
玳絃の望むことが、忋抖と同じ場処に立つことならば受け入れてやることは出来ない。
玳絃が願うことが、黄泉の扉を潜ることだとしたら叶えてはやれない。
「それでも聞かせてくれないか?その上で、もしも玳絃が赦してくれるなら、どうしたらいいのか一緒に考えさせてくれると嬉しい」
開かせた手を両手で包んで、頼む、と頭を下げた紳に玳絃がますます息を呑む音が届く。かたかたと震え続ける玳絃に気持ちを吐き出せと願うことが、どれほど恐しいことを強いているかも分かっている。本来なら、玳絃の苦悩も、悲痛も、慟哭も見ない振りをしてきた紳が願えることでもないことも。だが、ここで受け止めなければまた玳絃は己を責め続けてしまうだろう。違うと、どれほどに声を枯らして伝えようとも降りかかったものを罰だと耐えてしまう。
たとえ何が出来なくても、それだけは拭いさってやらねば、紳は親としても男としても玳絃と向き合えなくなってしまうだろう。
「…頼む、玳絃。俺にもう1度お前の声を聞かせてくれ…」
深く頭を下げたまま繋いだままの手を強く握ると、玳絃の震えも伝わってくる。小さな震えだったものは大きく強くなり、包んだままの手も酷く冷たくなっていく。声の代わりに荒れた息の音が聞こえ始めると、下げ続けていた頭の奥に玳絃が崩れ落ちた。
「…玳絃っ!」
慌てて抱き起こした玳絃は、青褪めた表情で、声も無く大粒の涙を溢していた。強く噛み締められた唇にも血を滲ませてまで嗚咽を堪える姿に、紳の胸がまた疼いた。堪らずに引き寄せて腕に包むと、限界だったのだろう。忋抖も玳絃の背に手を伸ばして摩り始めた。
「…ごめんなあ、玳絃…。怖いよな?苦しいよな?」
閉じた腕の中で震え続ける玳絃に擦り寄ると、押し殺した嗚咽が聞こえてくる。
「分かった、言いたくないならこのままでもいい。…だけど、俺が手を伸ばし続けることだけは赦してくれ」
幼子をあやすように、ぽんぽんと身体を叩きながら抱きしめると、少しずつ大きくなる嗚咽に混じって詫びる声がし始めた。
「…め、なさっ…、」
「うん」
「…ごめん、なさっ…い、っ」
「もういい。もう十分受け取った。俺の方こそ、悪かった」
出来るだけ穏やかに、玳絃が感じている恐れが少しでも軽くなるように背を叩いていく。
「…き、えたかったんだ…っ」
「…うん…」
「顔、見るのもっ、傍にいるのも辛いからっ」
「…そうか…」
背を叩くたびに吐き出される想いに、胸が引き裂かれそうだ。玳絃の身体を摩る忋抖も、同じ想いなのだろう。ぎゅっと唇を噛んで、叫びたいのを堪えてくれている。
「…俺さえ居なくなれば…っ、父様も母様もっ、兄様も倖なままでいられるからっ」
「…それは嫌だなあ…」
震える身体を、ぎゅうっと抱きしめてやると、紳の衣が掴まれた。
「…あんなことしたのに、誰も責めてくれなくてっ、…詫びることも咎められることもなくてっ」
「…うん…」
「…だったら、俺が自分で自分を罰しなきゃって…。俺が悼むことでしかっ、償えないって思って…っ」
ようやく吐き出してくれた玳絃の本音が止まらないように、紳はゆっくりとその背を摩る。懺悔の如く紡がれる言葉の重みを受け止めていると、契りの疵が疼き出した。ちらりと忋抖を見やると、がっくりと項垂れている。紳が感じているように忋抖もまた、これほどまでに玳絃を追い詰めてしまっていたことをやるせなく思っているのだ。これ以上は、と止めるような声も届くが駄目だ、と伝えておく。
ここで止めれば、玳絃は2度と心を開かない。
紳の思いに小さく嘆息した忋抖は、やれやれ、と玳絃の頭をくしゃりとかき混ぜた。何を言うでもなく置かれた掌の温かさに、玳絃の慟哭が強くなる。
「…ちゃんと、償うからっ…。もう、消えさせて…っ」
掴んだ衣を握りしめて願う玳絃に、紳は頭を振った。見えなくとも動きで否を示したことが伝わったのか、また崩れ落ちそうになる玳絃を支えると、なんで、と小さく問われた。
「…な、んでっ、」
ぎゅっと掴まれた衣とともに、大きくなる哀絶にも紳は頭を振る。
「…なんでえっ」
「玳絃、それだけはだめだ」
「なんでだよお…っ」
腕の中で叫んだ玳絃が、どんっと紳の胸を叩いた。繰り返される悲痛な叫びに、紳も抱き締める力を強くしていく。預かった顔から溢れだす涙が、衣に染みて肌を刺してくる。震え続ける腕で幾度叩かれても痛みなどない。ただ、玳絃の苦悩だけが突き刺さって、心を抉られてしまう。
もっと早く、声を聞けていれば。
もっと早く、向かい合っていれば。
もっと早く、抱き締めてさえいればこんなにも心を咎めさせることもなかったのに。
あまりの自分の不甲斐無さに、苦虫を噛みながら囲う腕を強くする。
「お前が消えることを良しって言えるほど、俺は出来たやつじゃない。玳絃が、消えたいって願うくらい自分を責めるなら、俺も一緒に償わせてくれ」
「…父様、が、なにをっ…」
「沢山あるよ?」
大切な玳絃を、救うことを諦めていた。
大切な玳絃を、1度とはいえ本当に害そうとした。
大切な玳絃の、本当の気持ちも見ずに手前勝手な考えを押し付けた。
壊れるほどに心咎めさせて。
腕も失わせて。
近衛としての未来まで見えなくして。
紳が動くことを恐れたから、玳絃は大事にしていたものすべてを失うことになったのだ。
あれほどに『玳絃は宝』だと伝えていたくせに、何もしてやれていなかった。腕の中で震えて、泣きじゃくる宝の姿に紳は小さくごちてしまう。
「俺が迎えに行かなくちゃいけなかったのになあ…」
これは、紳の罪だ。
宮を出て、里も後にしようとする玳絃を追うのは、紳でなければならなかった。同じように悩む妲己に如何に頼まれようとも、紳が行かなければならないことだった。
どんなに拒まれようとも。
どんなに泣かれようとも。
手を引いて、話をして、ぶつかり合ってでも取り戻さなければならなかった。
そんな当たり前のことでさえしなかった紳への、罪。
玳絃が己に降りかかったことを罰だと受け止めてしまうなら、紳も同じだけの罰を貰い受けなければ本当の想いを聞くことすら赦されなかったのだ。
「なあ、玳絃、お前は俺の宝だよ」
腕の力を少しだけ抜いて頭を撫でると、叩く手がびくりと止まった。
「それでも、お前がどうしても消えたいって言うなら俺も一緒に消えてやる。ひとりでなんて逝かせてやらない」
「…は…?」
「父様っ!?」
出した言葉に玳絃が息を止めたのと、忋抖が腰を浮かせたのは同時だった。
「…なに…、言ってるの?なんで…っ、」
「だってお前は宝だから」
「…母、様はっ?」
「忋抖がいるから大丈夫だろ?玳絃をひとりにする方を選んだら、それこそ悧羅に怒られるさ」
当てたままの手でくしゃりと玳絃の髪を混ぜる紳の前では、ひたすらに忋抖が首を振っている。驚きすぎたのか胸を叩き続けていた玳絃も、紳の衣を掴んで動きを止めてしまった。
「…な、んで…、そこまで…」
「だから言ってるだろ?お前は俺の宝だって。お前が罰を受けるなら、俺も受けなきゃ。玳絃が前を向けないなら、俺が代わりに見ててやる。玳絃が自分を赦せないなら、俺も一緒に背負ってやる。玳絃が取り戻したいものが出来たなら、何をおいても取り返してやるさ。さしずめ一緒になるために、俺の利腕を落とそうか?」
ふふっと小さく笑いながらしがみつく玳絃の頭を、ぽんっと叩いてから紳は大刀を取り出した。
「…父様、何しようとしてんの?」
「大したことじゃないよ」
目を見開く忋抖に笑ってみせながら、紳は取り出した大刀をくるりと持ち直す。よいしょと柄を返して、右肩に狙いを定めてから手を離すと、鈍い刃の光がゆらりと揺れて勢いよく落ち始めた。は?、と呟く忋抖の声に顔を上げた玳絃が顔を上げると、玳絃の横を通り過ぎた刃が紳の右肩にめりこんだ。鮮やかな血飛沫を上げながら減りこむ刃が腕を切り落とす寸前、弾かれたように身を起こした玳絃と忋抖が落ちていく大刀を掴んだ。
「父様っ!」
叫ぶ玳絃が残された右腕で大刀の刃を掴んだものの、刃の半分以上は紳の右肩に食い込んで千切れかけた腕がだらりと下がる。
「な…っ、なんてことしようとしてんだよっ!!」
「何って、お前と一緒になるだけだよ?」
だらだらと流れ出す血に青褪めながら刃を掴む玳絃に、紳は小さく微笑んだ。だらりと落ちかけた腕が床に触れれば、広がっていく血と響く渇いた音に玳絃がまた息を呑んでいる。
「…は…!?」
「だって、お前とおんなじになんなきゃお前の本当の願いを聞く資格もないだろ?玳絃の気持ちが聞けて、これから先も一緒にいさせてくれるなら腕の1本くらい安いもんだ。…これくらいで、お前のこれまでに詫びれる筈もないんだけどな」
「なに、馬鹿なこと…」
「馬鹿でいい。俺が、玳絃の親でいたいだけなんだから」
きょろきょろと視線を動かす玳絃の顔を残った手で包みながら、紳はにっこりと微笑んだ。
「言葉にすることが辛いなら、そのままでもいい。だけどもしも吐き出すことで、お前が楽になれるなら教えてくれないか?お前が本当は何を望んでるのか」
ゆっくりと包んだ頬を擽ると、玳絃の眼から再び大粒の涙が溢れだした。
「消えることでも、黄泉の扉を潜ることでもない、その奥になにかあるんだろ?…大丈夫、どんな答えでも受け止めるし、ちゃんと答える。絶対に手は離さないって誓うから」
こつり、と額を付けて願うと、玳絃の身体からも力が抜ける。支えてくれていた刃から離れた右腕が縋りつくように紳に触れれば、落ちそうになる大刀は忋抖が支えてくれた。
「…軽蔑しない…?」
「するわけないだろ?」
「…怒らない?」
「怒られなきゃならないのは、俺の方だよ?」
ぎゅうっとしがみついてくる身体を受け止めて擦り寄った紳は、促すように玳絃の身体を引き寄せた。
「…想、い続けたい…」
掠れるように呟かれた願いは、あまりに小さかった。
「…ただ、見てるだけでいいんだ」
「…うん…?」
「…触れることなんて望んでない。傍にいることも願ってない。…ただ、遠くからでも見れればいい、ただ、静かに想い続けられるだけでいい…」
「玳絃…、それは…」
出される願いは、遥か昔に紳が願っていたことと同じもの。
「…それさえ叶えてもらえるなら、ほかに何もいらない…」
あまりにもささやかで、あまりにも儚い。
泡沫のような、淡い、願い。
「…たった、それだけかよ…」
か細く紡いだ身体がまた震え出して、紳は大きく嘆息しながら玳絃の頰を包んだ。
もっと欲深い願いであったなら、紳はきっぱりと否と言っただろう。この先も悧羅を腕に包むことを願われたなら、紳は拒むことしかできかっただろう。
けれど。
玳絃はそうしなかった。
1度でも悧羅に魅せられたなら、その甘美な罠から抜け出ることなど難かしい。
あの手で。
あの声で。
あの表情で。
見つめられ、絡めとられ、堕ちていく先が底の見えない沼だとしても捉えられていることが倖でしかなくなってしまうから。
それがどんなに倖なことか、誰よりも紳は知っている。悧羅に堕とされる悦びを知っている紳だからこそ、それ以外を願う玳絃の心がどれほどに苦しいかも、痛いほどに分かる。だからこそ、そう願われるものだと思っていたのに、それを玳絃が口にしない理など、ひとつしかない。
「お前は本当に優しい奴だなあ」
つい、くすくすと笑ってしまう紳に、玳絃からも大きな嘆息が漏れた。ぐっと掴まれた衣から伝わる震えは、言葉にしない玳絃の苦悩、そのものだろう。
否を伝えなければならない紳が、これ以上傷付かないように。
触れてしまった先で、また悧羅を泣かせることがないように。
望むことでこれ以上、忋抖の心を抉らないように。
優しすぎる玳絃であるが故の答えに、胸の奥が熱くなる。
「…本当に、お前って奴は…」
当てた手で頰を擽りながら上向かせて、紳はもう1度玳絃と額を付けた。
「そんなの駄目だなんて、言うはずないだろう?」
ふふっと笑ってしまう紳の前で、玳絃の目が見開かれていく。
「…いいの…?」
「いいも何も、お前の心はお前だけのものだ。止めさせることなんて出来ないよ?」
「…でも、父様も兄様も俺がそんな想いを母様に持ち続けるの嫌でしょ?」
「そんなことない」
見開かれた眼に浮かび上がる涙を拭ってやりながら、紳もまた微笑みながら頭を振る。何処までも自分の気持ちを置き去りにしてしまう玳絃の眼差しは、まるでいつかの自分と忋抖を見ているようだ。
「…でも…」
「良いんだって」
言葉に詰まる玳絃の髪をくしゃりと混ぜて言い切ると、紳は小さく嘆息した。
確かに以前の紳なら悧羅に懸想する者は、誰であれ赦せなかった。悧羅のすべては紳だけのものであって欲しかったし、悧羅にとっての紳もそうで在りたかったから。今でも唯一であるという自負はあるし、その自信は揺らいではいない。けれど紳が唯一であるが故に、悧羅を泣かせてしまうこともまた事実なのだ。
泣かせたくなどないのに、紳が決めたことには否を言わない悧羅に、この玳絃の淡い願いまで拒んだなどと知られては、きっとまた泣かせてしまうだろう。であれば、この願いを拒むことなど出来よう筈もない。
例え、その先で玳絃が苦しく思う日が来ることが分かっていても。
例え、その先で玳絃が劣情に焦がされる日が来ることが見えていても。
叶わない想いであろうと、慕い続ける、ただそれだけのことが生きる意味になることを知っているから。
拒むことも、否を伝えることも出来るはずがない。
「…でも、本当にいいのか?」
包んだままの頰を擽りながら、確かめるように尋ねる紳に玳絃は小さく首を傾げた。
「辛いことの方が、多いかもしれないぞ?」
想い続けること。
慕い続けること。
それらは、生半可な覚悟で出来ることではない。
紳は500年想い続けたけれど、そこにいつかもしかしたら、という淡い願いがあったからこそ耐えられた。
いつか、もしかしたら悧羅を腕に抱けるかもしれない。
いつか、もしかしたら悧羅に声が届くかもしれない。
いつか。
いつか。
そう願えていたのは焦がれていたこともあるけれど、紳が悧羅にとって最も遠い者であったからだ。
手が届く訳もなく、声も聞こえる筈もない場処から慕うことと、すぐ傍で慕い続けることとでは訳が違う。何より玳絃は悧羅の子として生を受けている。誰に憚られることも、誰に咎められることもなく悧羅の傍に在り続け、触れられる権利も、言葉を交わす術ももう持っている。けれど、玳絃が目指す先では、それを捨てることにもなりかねない。
子として悧羅に触れることも。
子として悧羅に甘えることも。
子として傍に居ることも、言葉を交わし微笑みかけられることでさえも、すべて苦しく思ってしまう日が来るかもしれないのだ。
あの日の忋抖のように。
ちらりと忋抖に視線を流すと、掴んだままの大刀の柄を握りしめたまま大きく肩を落としている。今の玳絃は、救われなかった先の忋抖の姿、そのものだ。苦虫を噛んで、言葉を必死に呑み込んでくれてはいるけれど、子としての姿で子としての立ち位置から悧羅に恋慕する辛さを思い出しているのが痛いほどに伝わってくる。
「…父様…」
吐き出すように呟く忋抖の掴む大刀が、ぎりっと軋む。
「うん、わかってる」
玳絃の淡い願いを拒むことはしないが、その刻にまた玳絃が苦しむ姿は見たくない。けれどその刻がやってきたとしても、救いあげるという選択肢をとることも、きっと紳には出来ない。
で、あれば見ていてやることしか出来ない紳よりも、玳絃に響く言葉をかけてやれるのは、同じ想いを経てきた忋抖だけだ。
俺の役割だと思ってたけど、また手を貸りなきゃ、だな。
はあ、と大きく嘆息してから紳が忋抖を呼ぶ。大刀をゆっくりと床に降ろした忋抖も頷くと、一歩、玳絃の横に動く。ゆっくりと玳絃を腕に収めた忋抖は、大きく嘆息した。
「…ばかだなあ、お前…」
力の限り玳絃を抱き締めて、出された声音は震えていた。
「それが、どれだけキツいか分かってる?…そんな…、お前が、ずっと苦しむような願いなんて出して…」
「…兄様、…ごめん…っ」
穏やかな忋抖の声に、閉じた腕の中でかたかたと震える玳絃の、小さな詫びの声が重なる。ともすれば震えの音のほうが、より強く耳に届く。悼みを孕んだ声音に、包んでいる忋抖も、見守る紳も胸の奥が疼いてしまう。
「…なんでお前が謝るんだよ…、俺が、俺たちがお前に詫びなきゃなんないのに…」
「…でも、ごめん…」
「いいから、もう謝んな…」
ぐっと唇を噛みながら、より一層玳絃を包む腕に力を入れて、忋抖は上を仰いだ。玳絃が選んだのなら致し方ないと思う。見守ると決めた紳と共に、進む先を見ているしか出来ないことも分かっている。けれど、子として自分の想いをひた隠して過ごさなければならないことは、言葉では言い表わせないほどに辛いのだ。
子として在れることに感謝もするが、飛び越えられない壁に愕然ともしてしまう。
子でなければ触れられなかったことを有難く思うと同時に、男として触れたい欲に押し潰されそうにもなる。
1度も男として触れたことのなかった忋抖でさえ、狂いそうだったのに、もうすでに知ってしまった玳絃がそれに耐えられるとは思えない。
忋抖は運良く救いあげてもらえたけれど、玳絃には救い上げられる道もないのに。
はあ、と大きく嘆息して忋抖は視線を紳に向けた。
救いたい。
差し伸べたい。
想うだけでなく、せめて玳絃が倖だと笑えるように。
贖罪のような日々を送らせるのではなく、咎められることなど何もしていないのだと示してやりたい。
心を壊して。
利腕も失わせて。
近衛としての未来も、男としての倖も、玳絃から奪ってしまったのは紳と悧羅、そして忋抖なのだから。
「…父様…」
深く息を吐いて呼ぶ忋抖の前で、紳もまた大きく嘆息した。
「…だから…、分かってるって…」
あーくそっ、とごちた紳が残った手でくしゃりと忋抖の髪をかきまぜた。
「ほんっとお前は俺そっくりだよ」
「…ごめん…。だけど、父様だって無茶してさあ…」
落ちかけている紳の右腕を、ちらりと見やりながら忋抖が肩を竦めると、紳もまた肩を竦めている。
「俺は良いんだよ」
置かれた手がぐしゃぐしゃと髪を混ぜると、互いの契りの疵が熱くなる。熱くなった疵から、親でいたいのだという紳の思いが流れて来て、忋抖が目を細めてしまうと目の前の紳が小さく苦笑した。
玳絃に手を差し伸べたいのは、紳も同じだ。出来ることなら忋抖と同じ位置に立たせてやれれば、とも思わないではない。
だが、どうしても今は無理だ。
忋抖を救うと決めるまで、長く悩んだ。
300年の長い間、忋抖が与えられた子としての立場から、決して踏み入ることをせず己を律して耐える姿を見続けたからこそ、紳の心は動かされた。
そんな紳の葛藤と苦渋を知ってくれているからこそ、同じ場処に立った今でも忋抖は紳を慮ってくれる。
偽らずに想い続けろと、告げた刻も。
血の縛りで無二だと、知らしめた日も。
契りという形で、業に巻き込んだ後も。
「悧羅の唯一は父様だけだ。俺は無二で充分」
そう言って笑ってくれる忋抖だから、特別だと思える。
そう言って笑ってくれる忋抖と、悧羅を支えていけることを倖に思う。
だからこそ、忋抖以外を認められない。
だからこそ、忋抖以外を赦すことは難しい。
それがたとえ血を分けた子で、大切な宝であっても今の紳には頷けないのだ。
自分の狭量さに呆れてしまうが、仕方ない。
はあ、と大きく嘆息して止めていた手を動かすと、忋抖が小さく苦笑した。
「分かってるだろうけど、同じようには多分無理だぞ?最後に決めるのはお前でも俺でもないけどさ」
「それは分かってる。どうしても耐えられそうにないってのが見えたら、ちゃんとする」
「だったら、まあ…。あー…、もう…。そっちの方が泣かせるかもしんないってのに…」
髪をかき混ぜていた手で、ぴんっと忋抖の額を弾いた紳が頬杖を付いたのを見やって、忋抖は玳絃を呼んだ。呼ばれた玳絃が、びくりと震えるのを背を叩いて落ち着かせる。
「玳絃、本当に良いのか?本当に辛いんだぞ?」
ぽんぽんと叩く音に、玳絃が息を呑む音が混じる。
「手の届く処に悧羅が居るのに、想いを隠さなきゃいけない。お前は男として触れられないのに、そうできる父様や俺と居る悧羅を見続けなきゃいけない」
宥めるように、諭すように話す忋抖の衣が掴まれる。
「見てるだけを自分に課すなら、絶対に周りに気付かれないように振る舞わなきゃいけない。宮でも里でも、自分の心が漏れないようにしなきゃなんないんだぞ?」
伝える忋抖の脳裏にも、あの日々が蘇ってくる。
「俺みたいな奇跡も起きない」
自覚もしていなかった忋抖でさえ、仲睦まじい紳と悧羅を見れば羨ましかった。
自分の想いを自覚してからは、悧羅の傍で誰に憚られることもなく慈しめる紳を妬ましくも思った。
それでもどうにか立っていられたのは、悧羅の子であったからだ。
子としてなら、悧羅に触れられる。
子としてなら、悧羅に触れてもらえる。
届かなくても。
伝えられなくても。
姿も声も忋抖が望めば、いつもそこにあったから耐えられた。
悧羅がいる。
ただそれだけが、忋抖の倖だったから。
「ずっと想い続ける先に、玳絃の倖はあるのかよ?」
背を叩く手を休めて腕の中の髪を、くしゃりと混ぜると、ある、と掠れた声がした。
「母様が、笑ってくれてさえいれば。その姿を見れるなら倖でしかないよ…」
「悧羅が、この先また子を授かっても?それでも、そうありたいか?」
「…この想いを消す方が嫌だ…。母様が倖なら、それでいい…」
衣を掴む弱さとは裏腹に、紡がれる言葉はか細くも強い決意を孕んで部屋に響いた。出された言葉に忋抖も、うん、と頷く。
「うん、そうか…、そうだよなあ…」
止めていた手で、ぽんぽんっと玳絃の背を叩くと忋抖は腕に収めた身体に擦り寄った。
「じゃあ、逃げちゃだめだよ?」
「…っ…」
「遠くからなんて見なくても、悧羅は玳絃のすぐ近くにいてくれるんだ。声も聞けるし手も伸ばせるのに、それを捨てるなんて勿体無いことだろ?」
「…でも…」
「でも、も、なんで、もないんだよ?」
強張ったままの玳絃の身体を緩ませるように、ゆっくりと忋抖は背を叩く。
「500年、声もかけられなかったし、手も伸ばせなかった男がここにいるんだよ?民達の中にだって、未だに悧羅に懸想してる奴らがいる。悧羅の傍にくることがないから、悧羅が知らないだけでね。玳絃も俺も、そんな奴らや父様からすれば、すごく恵まれてるんだぞ?」
ねえ?、と忋抖に見られて、引き合いに出された紳も苦笑するしかない。
「羨ましい限りだよ」
「…それは…、だって俺が母様の子だからだし…」
「そう、玳絃も俺も悧羅が産んでくれた、悧羅の子だ。だから会えた。だから当たり前に傍にいることを赦されてる」
ぽんっと背を叩いてから玳絃の顔を上げさせて、まだ涙で濡れた眼と忋抖は視線を合わせた。
「悧羅の傍に来れるのは、限られた者だけなんだよ。その中でも恋慕を持っていられる者は、本当に少ない。そんなの持った時点で、父様に消されちゃうんだから。…俺だって殴られる覚悟したんだぞ?」
「…うん…」
「でもね、玳絃。悧羅の唯一である父様が、玳絃はそのままでいいって言ってくれてる。認めるだけでも、自分は悼んでるのにさ。お前が居なくなることよりも、お前の想いを大事にするほうを選んでくれた。お前が父様の大切な宝で子だから赦してくれるんだ」
浮かんだままの涙を拭ってやるが、玳絃の眼は忋抖が言葉を紡ぐ毎に、新しい涙を溢れさせる。
「罪とか、罰とかの話じゃない。玳絃の想いは恥じることでもない。でも、どうしても贖罪だって思うなら、お前は強くなれ。玳絃の心を強くして、悧羅の傍で想い続けていく強さを持て。もしかしたらなんて淡い期待は捨てて、玳絃の倖はそこにあるって、赦してくれた父様に示して見せろ。玳絃が倖になることが、1番の罪滅ぼしになるんだから」
声も出せずに大粒の涙を零し続ける玳絃に、忋抖が、な?、と微笑んだ。手を伸ばして、自分の袖で濡れそぼった玳絃の顔を拭う。
「ほら、もう泣かなくていいから。お前がずっと泣いてると、悧羅が落ち着かなくて大変になるんだぞ?」
ふふっと小さく笑いながら出した名に、玳絃の肩が僅かに震えて、拭い続ける忋抖の手を掴んだ。
「大事だもんな?」
袖に顔を隠した玳絃に問いかけると、静かに、だがしっかりと頷いている。
「じゃあ、傍にいてやんなきゃ。玳絃がいてくれないと、悧羅は倖になれないんだからね」
それにもまた頷く姿に微笑んで、玳絃の頭を撫でる忋抖の手に紳の手が重なった。2人からくしゃりと頭を撫でられた玳絃から、大きな嘆息が漏れる。
顔を隠したまま何度も頷く玳絃を撫でながら、忋抖と目を合わせた紳は、ほっと安堵した。
紳がうまく伝えられなかったことを、伝えてくれたことに感謝する。出来れば自分の言葉で救いたかったが、同じ立場で話せない紳では玳絃の心に響かなかったろう。寄りかかりすぎた気もするが、ちらりと視線を送った先で忋抖がゆっくりと頭を振ってくれた。
助かった、と唇の形だけで伝えると、ほんの少しだけ肩を竦めた忋抖が、ひらひらと手を振って千切れかけた紳の腕を掴んだ。肩に腕が押し付けられると、忋抖の右眼に蓮が浮かびあがる。
ゆっくりと傷を癒し始めた精気とともに、とりあえず治せ、と伝わる呆れた声に、紳も、やっぱり、忋抖は特別だ、と苦笑してしまうしかなかった。
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