第4章 最後の放送は、まだ終わっていない
市民会館の視聴覚室で見つかった台本の最後のページは、白いままだった。
白紙というものは、不思議だ。
何も書かれていないのに、時にはびっしり文字が詰まった紙よりも重い。
相沢遥は、その白いページを何度も見た。見れば見るほど、そこには高村湊が書かなかった言葉が浮かんでくるような気がした。謝罪。別れ。感謝。お願い。逃げ道。言い訳。あるいは、もっと単純な一文。
さようなら。
だが湊は、そのどれも書かなかった。
白紙のまま封筒に入れ、視聴覚室の机の裏に貼った。
誰かに見つけてもらうために。
いや、見つけられるかどうかも、彼女は賭けていたのかもしれない。
その日の夜、遥は眠れなかった。
机の上には、市民会館から持ち帰った台本のコピーが置いてある。原本は放送室に保管した。神谷律が「これは部のものだ」と言い、誰も反対しなかった。
コピーの最後のページは、やはり白かった。
遥はシャープペンシルを持ち、何度も紙に向かった。けれど、何も書けなかった。
湊へ。
そこまでは書ける。
でも、その先が続かない。
湊。どうして言ってくれなかったの。
湊。勝手だよ。
湊。私はあなたが羨ましかった。
湊。私は、あなたがいなくなって、少しだけほっとした。
どれを書いても、自分の中の一部分だけを切り取った嘘になる気がした。どれも本当なのに、それだけでは足りない。悲しみも怒りも嫉妬も後悔も、同じ胸の中に押し込まれている。ひとつの感情だけ選んで声にすることが、できなかった。
湊は、どうやってあの音声を録ったのだろう。
一人で市民会館の視聴覚室に座り、踏切と風鈴と換気扇の音の中で、中尾に、桃井に、北見に、自分に、声を残した。録音ボタンを押すたび、彼女は何を飲み込んだのだろう。どの言葉を破り、どの言葉を残したのだろう。
遥は白紙を見つめたまま、気づけば夜明け近くまで起きていた。
翌朝、校内放送はなかった。
湊の転校について、学校は事務的な説明をしたらしい。三年の教室では担任が短く告げ、放送部の部員たちには森崎から「文化祭の放送企画は無理に続けなくていい」と言われた。
「続けます」
遥は即答した。
自分でも驚くほど早かった。
森崎は少し目を見開いた。
「相沢、本当にいいのか」
「はい」
「高村がいない状態で、負担が大きいなら」
「湊先輩がいないから、やります」
言ってから、遥は自分の言葉に追いついた。
湊がいないから、やる。
それは、湊の代わりをするという意味ではない。湊の穴を埋めるという意味でもない。湊が残した空白に、自分たちの声を入れるということだ。
森崎はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「無理はするな。必要なことがあれば言いなさい」
「はい」
職員室を出ると、廊下で神谷が待っていた。
昨日よりも顔色が悪い。おそらく、彼も眠れなかったのだろう。
「森崎先生、何て?」
「続けていいって」
「そう」
「神谷先輩」
遥が呼び止めると、神谷は立ち止まった。
「湊先輩のこと、知っていることを全部話してください」
神谷は、逃げなかった。
目を逸らすこともなかった。
「昼休み、放送室で」
「今じゃ駄目ですか」
「今話したら、相沢さんは授業に行けなくなる」
「もう行っても入りません」
「それでも、授業には行った方がいい」
遥は苛立ちを覚えた。
「そういう正しいことを言うから、湊先輩は何も言えなかったんじゃないですか」
言った瞬間、神谷の顔がわずかに歪んだ。
遥は後悔した。けれど、取り消さなかった。
神谷は少しだけ笑った。
「そうかもしれない」
怒らないことが、余計に遥の胸をざらつかせた。
「昼休み、全部話す」
「全部じゃない、は無しです」
「わかった」
神谷は頷いた。
「僕が知っていることは、全部話す」
その日の午前は、何もかもが遠かった。
教師の声は黒板の前からこちらに届く前に薄まっていく。教科書の文字は目で追っても意味にならない。教室の窓から見える空は青く、文化祭用の看板を作る生徒たちの声がグラウンドの方から聞こえた。
世界は忙しく、明るい。
その中で、遥だけが一枚の薄い膜の内側にいるようだった。
昼休みになると、放送室には全員が集まった。
中尾は工具箱ではなく、コンビニの袋を持ってきた。中にはおにぎりとパンがいくつか入っている。
「食わないやつが出ると思って」
「誰のこと?」
三枝が訊く。
「全員」
中尾は机に袋を置いた。
桃井は少し笑い、梅おにぎりを手に取った。北見はしばらく迷った末、何も入っていない塩むすびを選んだ。三枝は「気が利くじゃん」と言い、中尾は「うるせえ」と返した。
その短いやり取りが、かろうじて日常の形をしていた。
神谷は最後に来た。
手には、昨日の封筒とは別の、古い茶封筒を持っている。机の上に置くと、中からコピー用紙が数枚出てきた。
「高村の家の事情について、僕が知っていることを話す」
神谷は前置きせずに言った。
全員が静かになった。
「高村の家は、去年の冬くらいから不安定だった。親の仕事が変わったとか、借金があるとか、そういう断片的な話は聞いていた。高村自身は、ほとんど話さなかった。でも、部費の立て替えを避けるようになったり、遠征費が必要な大会に出るかどうか迷ったり、そういうことはあった」
遥は拳を握った。
思い返せば、心当たりがあった。
湊は今年の春、県外で行われる朗読会への参加を辞退した。理由は「文化祭準備を優先したいから」だった。部員たちは湊らしいと思った。遥もそう思った。
でも、本当は違ったのかもしれない。
「一週間前、市民会館で高村と会った。正確には、偶然じゃない。高村から連絡が来た。少しだけ話したいって」
「そのとき、転校のことを?」
遥が訊くと、神谷は頷いた。
「聞いた。家族で県外へ移ることになったと。卒業までは残りたかったけれど、無理そうだと」
「いつ出るって?」
「昨日の夜」
中尾が机を叩いた。
「じゃあ、もう」
「たぶん、もうこの町にはいない」
その言葉は、予想していたよりも重かった。
いない。
放送室にいないだけではない。学校にいないだけでもない。この町からも、湊はもういないかもしれない。
桃井が唇を噛んだ。
「どうして、文化祭まで待てなかったんですか」
「高村が決められることじゃなかった」
「でも」
「うん」
神谷は桃井の言葉を受け止めた。
「でも、だよね」
三枝が腕を組んだ。
「湊先輩は、先生にも言わなかったんですか」
「直前までは、詳しく言っていなかったみたいだ。学校側に話が入ったのは、一昨日か昨日だと思う」
「そんなこと、ある?」
「あるんだと思う。大人の都合は、生徒に説明されるとは限らない」
三枝は悔しそうに黙った。
遥は、湊の音声を思い出した。
言ったら、最後の放送をみんながやめると言う気がしたから。
私のせいで、文化祭の最後が空っぽになるのが怖かったから。
あれは本音だったのだろう。
だが、全部ではない。
「湊先輩は、怖かったんですか」
北見が静かに訊いた。
神谷は、少し目を伏せた。
「怖かったと思う」
「何が?」
「いなくなることより、いなくなったあとも世界が普通に続くことが」
その言葉に、誰もすぐには反応できなかった。
神谷は続けた。
「市民会館で会ったとき、高村は笑っていた。最後の放送の台本を書いている、と言っていた。自分がいなくても放送部が困らないようにしたいって。文化祭の最後が穴にならないようにしたいって」
「そんなの、困るに決まってるだろ」
中尾が言った。
「穴になるに決まってるだろ」
「僕もそう言った」
神谷は静かに返した。
「でも、高村は言った。穴が空くのが怖いんじゃなくて、穴が空いたことに誰も気づかないのが怖いって」
遥の胸に、その言葉が刺さった。
湊は、完璧に見えた。
誰にでも声をかけ、段取りを組み、マイクの前に立てば校舎の空気を変えた。だから、彼女がいなくなっても、誰かが代わりにやれると思われることが怖かったのかもしれない。
必要とされなくなることが怖かった、と湊は遥宛の音声で言っていた。
それは、ただの謙遜ではなかった。
本当に、怖かったのだ。
「湊先輩は、どうして私たちに直接言わなかったんですか」
遥は訊いた。
神谷はすぐには答えなかった。
「言ったら、泣かれると思ったから」
「泣きますよ」
「うん」
「怒りますよ」
「うん」
「引き止めますよ」
「うん」
「それが嫌だったんですか」
「違うと思う」
神谷は、机の上の白紙の台本を見た。
「引き止められたら、残りたくなるからだと思う」
その答えは、残酷なほど腑に落ちた。
湊は残りたかった。
残れないから、言えなかった。
引き止められることがつらいから、声に逃げた。
声でなら、最後まで言える。
マイクの前でなら、泣かずに済む。
けれど、それは残された側にとっては、あまりにもずるい。
遥は台本を閉じた。
「声でなら言えるなんて、ずるいよ」
口に出すと、思っていたよりも強い言葉になった。
神谷は頷いた。
「ずるいよ」
その肯定は、湊を守らなかった。
「だから、返事をするんだ」
放送室が静かになった。
神谷の言葉は、ゆっくりと空気の中に沈んだ。
「高村のやり方はずるい。僕もそう思う。でも、あの子は声を残した。なら、それを聴いて終わりにするんじゃなくて、こっちも声を返すしかない。泣くことも、怒ることも、責めることも、感謝することも、全部、声にするしかない」
中尾が椅子にもたれた。
「マイクで喧嘩しろってことですか」
「少し違うけど、近いかもしれない」
三枝がふっと笑った。
「文化祭の最後に、全校へ向けて痴話喧嘩みたいな放送をするの?」
「痴話じゃないでしょ」
桃井が小さく突っ込んだ。
その場に、ごく薄い笑いが生まれた。
笑っていいのか迷うような笑いだった。けれど、確かに少しだけ息ができた。
遥は台本の白紙を開いた。
「最後の放送、完成させよう」
誰も反対しなかった。
そこからの放送室は、久しぶりに部室らしい音を取り戻した。
中尾はミキサー卓の全チャンネルを確認し、古いケーブルを交換した。ひとつひとつの作業が乱暴に見えて、実際には丁寧だった。接触不良の端子を見つけると、「こんなの使ってたのかよ」と湊に文句を言うように呟いた。
桃井はノートを開き、最後の放送で使う言葉を書き出した。
放課後の廊下には、まだ誰かの言いそびれた言葉が落ちている。
その一文を中心に、何度も書き足し、消し、また書いた。以前のように恥ずかしがってノートを閉じることはなかった。中尾がちらりと覗き込むと、桃井は一瞬顔を赤くしたが、ノートを隠さなかった。
北見は湊の音声をすべて別媒体にバックアップし、波形データを整理した。001から005までの音声には、すべて市民会館の環境音が入っていた。踏切、風鈴、換気扇、紙を破る音。最後の無音部分には、さらに小さな音が隠れている可能性があるという。
三枝はナレーションの構成を組んだ。
湊の声をどこで流し、どこで止め、誰がどの順番で話すか。彼女は感情的になることを避けるように、紙面を整え続けた。だが、湊の名前を書くたび、ペン先がほんの少し止まった。
神谷は古い録音資料を持ってきた。
湊が一年生のとき、市民会館の放送コンクールで読んだ音源だった。再生すると、今より少し幼い湊の声が流れた。
「緊張してる」
桃井が言った。
「声、少し高いですね」
北見が言う。
「下手じゃねえけど、今とは違うな」
中尾が呟く。
遥は何も言わなかった。
その声は、まだ完成されていなかった。少し急ぎ、間の取り方も硬い。けれど、そこには今の湊に繋がるものが確かにあった。必死に誰かへ届こうとする声。
遥は、その声を聴いて初めて、湊も最初から湊だったわけではないのだと知った。
練習し、失敗し、傷つき、誰かを羨み、怖がりながら、あの声になった。
自分が羨んでいたものは、完成品だけだったのかもしれない。
その途中にあった痛みを、何も知らなかった。
放課後の時間は、あっという間に過ぎた。
気づけば外は暗くなり始めていた。文化祭準備の音も少しずつ減り、廊下には清掃用具の匂いが漂っている。
最後に残ったのは、006_lastだった。
未来の日付がついた最後のファイル。
文化祭当日、午後四時十二分。
これだけは、まだ開いていない。
中尾が腕を組んだ。
「開けるか」
三枝は画面を見た。
「ここまで来たら、確認した方がいい」
桃井は不安そうに遥を見る。
北見は、マウスの横に手を置いた。
「再生時間だけなら、先に見られます」
「何分?」
遥が訊く。
北見はファイル情報を確認した。
眉が少し動いた。
「ゼロ秒です」
「ゼロ?」
「音声データが入っていません」
中尾が画面を覗き込んだ。
「壊れてるってことか?」
「違います。空のファイルです」
北見は淡々と言った。
「ファイル名だけがあります。中身は、ありません」
桃井が小さく言った。
「無音ってことですか」
「無音ですらないです。録音されていません」
放送室に、ゆっくりと理解が広がった。
006_lastは、湊の最後の声ではなかった。
湊はそこに何も入れていなかった。
わざわざ未来の日付を設定し、最終放送の開始時刻をつけ、最後のファイルとして残しながら、空にしておいた。
「湊先輩は」
北見は画面を見たまま言った。
「ここに自分の声を入れるつもりじゃなかったんだと思います」
「じゃあ、誰の声を?」
桃井が訊く。
北見は答える前に、遥を見た。
「僕たちの声です」
その言葉が、白紙の台本と重なった。
最後のページ。
最後のファイル。
どちらも空白。
どちらも、湊が残した未完成だった。
中尾が額に手を当てた。
「最後まで段取りいいな、あいつ」
三枝が言った。
「違うよ」
「何が」
「段取りじゃない。たぶん、信じたんだよ」
三枝は白紙のページを見た。
「私たちが、そこを埋めるって」
遥は何も言えなかった。
信じられている。
そう思うと、嬉しいより先に腹が立った。
勝手に信じて、勝手に消えて、勝手に空白を残していく。
けれど、その空白を無視することは、もうできなかった。
「録ろう」
遥は言った。
「今?」
桃井が目を丸くする。
「仮でいい。最後に何を入れるか、まだ決められない。でも、空のままにしたくない」
中尾がミキサー卓の電源を入れた。
「やるならマイク使え。スマホ録音なんかにするな」
「中尾先輩、急に職人ですね」
桃井が言うと、中尾は睨んだ。
「急じゃねえ」
北見が録音ソフトを立ち上げる。
三枝がマイクスタンドの高さを調整する。
神谷は少し離れた場所で見ていた。
遥はマイクの前に立った。
赤いランプはまだ点いていない。これは本番ではない。誰にも流れない仮の録音。けれど、手は震えた。
湊の代わりに話さないでください。
その言葉が、耳の奥で響く。
遥は原稿を持っていなかった。
何も決まっていない。
それでも、声を出さなければならない気がした。
北見が言った。
「録音、始めます」
小さなクリック音。
無音。
遥は息を吸った。
「湊」
それだけで、声が揺れた。
中尾も、桃井も、三枝も、北見も、神谷も、黙っていた。
「まだ、何を言えばいいかわからない」
本当に、それだけだった。
「怒ってる。悲しい。羨ましい。ずるいと思ってる。先輩なのに、どうしてって思ってる。私よりずっと強いと思ってたのに、そんなに怖かったなら言ってよって思ってる」
声が詰まる。
それでも、止めなかった。
「でも、最後の放送はやる。あなたの代わりじゃなくて、私たちの声でやる」
そこで言葉が途切れた。
続きは出てこなかった。
遥は目を閉じた。
「まだ、これしか言えない」
北見が録音を止めた。
短い沈黙のあと、中尾が言った。
「十分だろ、仮なら」
桃井が頷いた。
「相沢先輩の声でした」
三枝は、少しだけ目を逸らしながら言った。
「悪くなかった」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
遥は小さく笑った。
胸の奥はまだ痛かった。けれど、その痛みは少しだけ形を得ていた。言葉にすると、傷は余計に疼く。だが、どこが痛いのかはわかる。
その日から文化祭までの数日間、放送室は忙しくなった。
朝の放送は最低限に絞った。湊のようにはできない。無理に真似ようともしなかった。遥が読む日もあれば、三枝が読む日もあった。中尾は時々文句を言いながら音量を調整し、桃井は原稿の隅に小さな言葉を足し、北見はノイズの処理をした。
湊の不在は、消えなかった。
むしろ、作業をするほど濃くなった。
ここで湊ならどうするか。湊なら何と言うか。湊ならどの音を選ぶか。
そのたびに、遥は自分に言い聞かせた。
湊の代わりに話さない。
自分たちの声で話す。
文化祭前夜、放送室には遅くまで明かりが残っていた。
教師に許可を取り、最終放送のリハーサルをした。体育館へのライン、校内スピーカー、録音用パソコン、非常用マイク。中尾は全ての機材を確認し、最後にマイクのスポンジを外して洗った。
「そこまでやる?」
三枝が呆れる。
「高村が帰ってきても、すぐ使えるようにする」
中尾は、ぶっきらぼうに言った。
その言葉に、誰も笑わなかった。
桃井は原稿を完成させた。
放課後の廊下には、まだ誰かの言いそびれた言葉が落ちている。
その一文から始まる短い文章だった。飾りすぎず、弱すぎず、桃井らしい言葉だった。彼女はそれを読む前に、何度も深呼吸した。
「消さない」
桃井はノートを閉じながら呟いた。
「もう、自分の言葉を消しません」
北見は006_lastの空ファイルに、仮録音ではなく新しい無音トラックを置いた。
「完全な無音ではありません」
「どういうこと?」
遥が訊く。
「放送室の環境音を少しだけ入れています。誰も話していないけれど、ここに人がいる音です」
再生すると、ほとんど何も聞こえない。
けれど耳を澄ますと、遠くの廊下、機材の小さな駆動音、誰かが息を吸う気配があった。
「高村先輩の無音に、返事をするための無音です」
北見はそう言った。
三枝はナレーションを何度も練習した。
彼女の声は、普段通り明るく通る。だが、湊の名前を読むところだけ、ほんのわずかに硬くなる。
「私は、湊先輩みたいな声になりたかった」
リハーサル中、三枝は突然そう言った。
全員が彼女を見た。
「言っておく。明日も言うかもしれないし、言わないかもしれない。でも、今、言っておきたい」
三枝はマイクを見た。
「湊先輩の声は、ずるかった。聞いた人が勝手に安心する。私は、そういう声になりたかった。でも、無理だった」
「三枝の声も、十分すごいと思うけど」
桃井が言うと、三枝は少し笑った。
「ありがと。でも、違うんだよね」
彼女は原稿を置いた。
「だから、自分の声でやる」
それは、遥が言うべき言葉でもあった。
夜の八時近く、森崎が放送室に顔を出し、そろそろ帰れと言った。全員で機材を片づけ、明日の段取りを確認した。
白紙だった最後のページには、まだ完成した言葉は書かれていなかった。
遥は最後まで迷っていた。
何を書くべきか。
いや、書くべきなのか。
湊は、遥の声を聴きたいと言った。原稿を整えすぎれば、また自分の声から遠ざかる気がした。けれど、何も用意せず本番に立つのは怖い。
放送室を出る直前、神谷が言った。
「全部決めなくてもいいと思う」
「でも、本番で止まったら」
「止まっても、それが相沢さんの声ならいいんじゃないかな」
「無責任ですね」
「うん」
神谷は苦笑した。
「たぶん、少しは無責任な方が、声は届く」
遥はその言葉を持ち帰った。
文化祭当日。
校舎は朝から騒がしかった。
教室には飾り付けがされ、廊下には模擬店の匂いが漂い、体育館からはリハーサルの音が聞こえた。受付では来場者にパンフレットが配られ、実行委員が走り回っている。昨日までの準備の混乱が、嘘のように祭りの形になっていた。
放送部は朝から働いた。
迷子案内、落とし物、ステージ進行、模擬店の呼び込み、来場者への注意。湊がいない穴は大きかったが、誰も立ち止まらなかった。むしろ、立ち止まらないことで何とか保っていた。
遥は何度もマイクの前に立った。
最初は声が硬かった。二度目は、少し詰まった。三度目には、中尾が無言で親指を立てた。四度目には、桃井が笑ってくれた。五度目には、三枝が「今の間、よかった」と言った。
湊のようではない。
けれど、遥の声だった。
午後四時が近づくにつれ、放送室の空気は変わった。
最終校内放送まで、あと十二分。
ホワイトボードの十六時十二分という文字が、現実の時刻と重なっていく。
中尾は最後のケーブル確認をしていた。
「マイク一番、遥。二番、三枝。三番、予備。音源はこっち。湊の音声、頭出し済み。途中で止めるタイミングは北見が見る。桃井の原稿はここ。神谷先輩の音源は使わない。いいな」
「なぜ中尾が仕切ってるの」
三枝が言う。
「機材の前では俺が偉い」
「はいはい」
桃井は原稿を握りしめている。
「手、震えてる」
北見が指摘すると、桃井は慌てて原稿を持ち替えた。
「言わないでください」
「すみません」
北見自身も、いつもより早く瞬きをしていた。
神谷は壁際に立っていた。今日は前に出ない。けれど、逃げてもいない。
遥はマイクの前に座った。
机の上には、最後のページが置かれている。
白紙ではなくなっていた。
ただし、そこに書かれているのは、たった一行だけだった。
湊へ。
その先は、空けた。
放送開始十分前。
放送室の固定電話が鳴った。
全員が固まった。
この電話が鳴ることは、滅多にない。外線ではなく、校内連絡か、職員室からの確認に使われる程度だ。
中尾が受話器に手を伸ばそうとした。
遥は反射的にそれを止めた。
「私が出る」
自分でも理由はわからなかった。
ただ、その電話は自分が取らなければならない気がした。
受話器を持ち上げる。
「放送室です」
少しのノイズ。
遠くで風のような音。
そして、声がした。
「遥」
心臓が止まるかと思った。
中尾がこちらを見た。
桃井が息を呑む。
三枝の表情が変わる。
北見はヘッドホンを外した。
遥は受話器を握りしめた。
「湊」
名前を呼ぶと、向こうで少しだけ笑う気配がした。
懐かしい声だった。
けれど、放送室に残された録音の声とは違う。
今、息をしている声だった。
「今から、聴いてる」
それだけだった。
遥は言葉を探した。
どこにいるの。
どうして言わなかったの。
怒ってる。
会いたい。
戻ってきて。
どれも、喉まで来て、そこで止まった。
放送開始まで、あと九分。
湊は電話の向こうで、何も言わない。
遥は、ようやく声を出した。
「返事、するから」
短い沈黙。
それから、湊が小さく息を吸う音が聞こえた。
「うん」
電話は切れた。
受話器を置いたあとも、遥の手は震えていた。
中尾が訊いた。
「高村か」
遥は頷いた。
「聴いてるって」
桃井の目に涙が浮かんだ。
三枝は唇を引き結んだ。
北見は静かに言った。
「なら、届きます」
神谷が目を伏せた。
中尾はミキサー卓の前に座り直し、スイッチに手をかけた。
「やるぞ」
赤い使用中ランプが点いた。
放送室の外で、校舎全体がわずかに静まる気配がした。
午後四時十二分。
最後の放送が始まろうとしていた。




