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放送室のマイクに、君の声がまだ残っている。 ──消えた声が、放課後の空気をやわらかく震わせた。  作者: 二条理|アコンプリス


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第3章 君が言わなかったこと

 放課後の廊下には、声の残骸が落ちている。

 相沢遥は、子どもの頃からそう思っていた。

 授業が終わった直後の教室。帰り支度をする生徒たち。机の脚が床をこする音。誰かが部活へ走っていく足音。職員室へ提出物を持っていく生徒のため息。笑い声、呼び声、悪口、言い訳、約束。そうしたものは一度空気に放たれると、すぐには消えない。

 人の声には、形がない。

 けれど、重さはある。

 放課後の校舎は、毎日、その重さを少しずつ受け止めているように思えた。

 遥は放送室へ向かいながら、昼休みに桃井千夏が泣いたときのことを思い出していた。

 湊の声は、桃井の没にした一文を拾い上げた。

 放課後の廊下には、まだ誰かの言いそびれた言葉が落ちている。

 あの言葉は、今の自分たちに向けられているようだった。

 湊が言いそびれたこと。

 中尾航が怒りの奥に隠していること。

 三枝莉音が怒っていないふりをしながら抱えていること。

 北見悠斗が音の奥に聞き取ってしまったこと。

 そして、自分がまだ誰にも言っていないこと。

 放送室の鍵は、遥のポケットに入っていた。

 昼休みの終わりに、森崎へ返しに行こうとしたが、教師は職員会議で不在だった。机の上に置いていくこともできた。だが遥はそうしなかった。鍵を持っていることが、かろうじて自分をこの出来事に繋ぎとめているような気がした。

 放課後になると、文化祭前の校舎は一気に騒がしくなった。

 廊下では段ボールが運ばれ、教室の窓には模造紙が貼られ、実行委員がガムテープを探して走っている。階段の踊り場では、演劇部が台詞合わせをしていた。校庭からは、軽音楽部のリハーサルの音が漏れてくる。誰かが間違えて鳴らしたギターのコードが、夕方の空気を不器用に震わせた。

 文化祭は、近づいている。

 湊がいなくても。

 その事実が、遥には腹立たしかった。

 放送室の前には、すでに北見がいた。

 彼は扉の横に立ち、耳を澄ませるように廊下の奥を見ていた。手にはヘッドホンと、小さなノート。ノートの表紙には、細い字で「音」とだけ書かれている。

「早いね」

 遥が声をかけると、北見は少し驚いたようにこちらを見た。

「教室にいると、机を引きずる音が多くて」

「文化祭前だから?」

「はい。あと、みんな少し声が大きいです」

 その言い方があまりに真面目で、遥は少しだけ口元を緩めた。

「ここも、今日は静かじゃないかもしれないよ」

「放送室の音は、まだ大丈夫です」

「まだ?」

「高村先輩の声が残っている気がするので」

 遥は鍵を差し込もうとして、手を止めた。

 北見は、自分が何を言ったのか気づいていない顔をしていた。

 声が残っている。

 その感覚は、遥にもあった。

 ただ、口に出せなかった。口に出せば、それが悲しみなのか未練なのか、もっと別のものなのか、確かめなければならなくなるからだ。

 扉を開けると、放送室の空気が微かに動いた。

 夕方の光がブラインドの隙間から差し込み、ミキサー卓のつまみに細い影を落としている。机の上には、湊のメモがまだ置かれていた。最後の放送は、みんなでやってね。その一文は、朝よりも紙に深く沈んで見えた。

 ほどなくして、中尾が来た。

 彼は工具箱を持っていた。昼休みに「放課後、また来る」と言ったときの怒りは少し薄れていたが、そのぶん顔の奥に疲れがあった。

「何それ」

 遥が訊くと、中尾は工具箱を持ち上げた。

「ケーブル見る。ついでだ」

「ついで?」

「文化祭前なんだから、機材点検は必要だろ」

 その声音はそっけなかったが、彼が何から目を逸らそうとしているのかは、誰にでもわかった。

 少し遅れて桃井が入ってきた。

 目はまだ赤かったが、手にはノートを持っている。昼休みよりも表情は落ち着いていた。泣いたあとに、何かを決めた顔だった。

「書いてみました」

「何を?」

 三枝が扉の外から言った。

 彼女はいつの間にか来ていた。腕を組み、放送室に入る前に全員を見渡す。

 桃井はノートを抱え直した。

「最後の放送で使えるかもしれない言葉です。まだ、全然だめですけど」

「だめなら直せばいい」

 中尾が工具箱を開けながら言った。

 桃井は少し笑った。

「はい」

 三枝は椅子に座らなかった。壁際に立ち、ホワイトボードの十六時十二分という文字を見つめている。

「神谷先輩は?」

 遥が訊くと、三枝は肩をすくめた。

「さっき廊下で見た。来ると思う。でも、先に聴いた方がいいんじゃない?」

「いいの?」

「止めても、どうせ気になる」

 それが彼女なりの同意だった。

 遥はパソコンを立ち上げた。

 画面に現れるFinal_Broadcastの文字。フォルダを開くと、六つの音声ファイルが整然と並ぶ。

 002_nakao。

 003_momoi。

 その二つには、もう小さな再生済みの印がついている気がした。もちろん、実際にそんな印はない。だが、遥たちはもう知ってしまった。湊が中尾の怒りを見ていたこと。桃井の消した言葉を覚えていたこと。

 次は、004_kitami。

 北見は椅子に座らなかった。パソコンの横に立ち、ヘッドホンを握ったまま画面を見ている。

「北見くん」

 遥が呼ぶと、彼は頷いた。

「大丈夫です」

「無理なら止めるよ」

「止めません」

 いつもよりはっきりした声だった。

「高村先輩が、僕に何を残したのか、聴きたいです」

 遥は再生ボタンを押した。

 短い無音。

 その後に、いつもの湊の声が来た。

「北見くんへ」

 北見の指が、ヘッドホンのコードを強く握った。

「北見くんは、たぶん今、音を確認しようとしていると思います。私の声の後ろに何が入っているか、どこで録ったのか、ファイルの日時がどうなっているか。きっと、そういうところから考えてくれていると思います」

 中尾が小さく呟いた。

「当たりすぎだろ」

 北見は何も言わない。

 湊の声は、少しだけ低くなった。

「初めて放送室に来た日のことを覚えています。見学なのに、あなたはずっとスピーカーの下に立っていました。何をしているのか訊いたら、音が痛くない場所を探している、と言った」

 北見の肩が小さく動いた。

 遥はその話を知らなかった。

「教室の笑い声が苦手だと言っていました。体育館の笛の音が苦手だとも言っていました。怒鳴り声を聞くと、体が固まると言っていました。だから私は、最初、あなたは音に弱い人なのだと思いました」

 放送室の中は、湊の声だけになった。

 廊下の音も、文化祭準備の喧騒も、壁の向こうへ遠ざかっていく。

「でも、違いました。あなたは音に弱いんじゃない。人が置いていく小さな気配に、誰より早く気づける人なんだと思います」

 北見が下を向いた。

「誰かが笑う前に息を吸う音。嘘をつく前に喉が詰まる音。言葉を飲み込んだとき、唇の奥で鳴る小さな音。そういうものを、北見くんは聴いてしまう。だから、疲れるんだと思います」

 北見の頬に、涙が落ちた。

 彼は慌てて拭わなかった。

 泣いていることに気づいていないようにも見えた。

「最後の放送で、あなたにお願いしたいことがあります。私の音声を、ちゃんと聴いてください。私が言っていることだけじゃなくて、言えていないことも。もしかしたら、あなたなら気づくかもしれない。私が、どこでこれを録ったのか。どうして、そこを選んだのか」

 湊は少しだけ笑った。

「ごめんね。こんなことを頼むのは、ずるいと思います。でも、北見くん。あなたが見つけてくれる音なら、私は信じられる」

 そこで、湊の声はふっと途切れた。

 完全な無音ではなかった。

 ごく小さな、遠い音が混じっている。

 ちりん。

 風鈴。

 その後に、低い振動のような音が重なった。踏切の警報音に似ていたが、ずっと遠い。さらにその奥で、古い換気扇が回るような音がした。

 湊の声が戻る。

「最後にひとつだけ。北見くん。音が多すぎる日は、逃げてもいいです。逃げ場所が放送室なら、鍵は机の下の引き出しにあります」

 中尾が机の下を見た。

 古い鍵が、テープで貼られていた。

 誰も知らなかった。

「ここを、あなたの静かな場所にしてください」

 音声は終わった。

 北見はしばらく動かなかった。

 遥も、何も言えなかった。

 北見は泣いていた。声を出さず、表情もほとんど変えず、ただ涙だけがまっすぐ落ちていた。

 桃井がハンカチを差し出そうとして、やめた。北見は自分で袖口を目元に当てた。

「すみません」

「謝るなよ」

 中尾が言った。

 北見は小さく頷いた。

「高村先輩、気づいてたんですね」

「何に?」

 遥が訊くと、北見は机の下の鍵を見た。

「僕が、昼休みにここへ来ていたことです」

「来てたの?」

「はい。誰もいないときに。音が少ないので」

「湊先輩は?」

「たぶん、知らないふりをしてくれていました」

 その言葉に、部屋の空気がまた少し沈んだ。

 湊は、誰かを見ていた。

 見ているのに、何も言わなかった。言わないことで、守っていた。そういう人だった。

 だが、その湊が、自分のことだけは言わなかった。

 中尾は舌打ちし、ミキサー卓の前にしゃがみ込んだ。

「自分のことも、それくらい誰かに言えばよかったんだよ」

 その声は怒っていたが、もう荒くはなかった。

 三枝は腕を組んだまま、北見を見ていた。

「解析、できる?」

「はい」

 北見は涙を拭き、椅子に座った。

「今の音声、もう一度聴いてもいいですか。今度は、後ろの音だけ確認したいです」

「いいよ」

 遥は音声を再生し直した。

 北見はヘッドホンをつけ、目を閉じた。湊の声が流れている間も、彼は言葉ではなく、その奥に潜るように聴いていた。指先が机の上でわずかに動く。何かを数えているようだった。

 一度目の再生が終わる。

 二度目。三度目。

 中尾は何も言わずにケーブルを確認し、桃井はノートに何かを書き、三枝は窓の外を見ていた。遥は画面の波形を見ていた。人の声が線になる。その線の間に、湊が隠したものがある。

 北見はヘッドホンを外した。

「三つあります」

「三つ?」

「風鈴、踏切、換気扇の音です。あと、たぶん紙を破る音もあります」

「紙を破る音?」

 桃井が顔を上げた。

「はい。かなり小さいです。でも、湊先輩が話し始める直前に、紙を一枚、手で裂くような音が入っています」

「何でそんな音が」

「わかりません」

 北見はノートに簡単な図を書いた。

「踏切の音は遠いです。けれど、風鈴は近い。換気扇は古いタイプで、一定周期で軋んでいます。学校の放送室の換気扇とは音が違います」

「どこなんだよ」

 中尾が訊く。

 北見は少し考えた。

「市民会館かもしれません」

 遥は昼休みの神谷の言葉を思い出した。

 放課後、時間があるなら、市民会館の話をしよう。

「どうして?」

「駅の南側にある古い市民会館です。昔、放送コンクールの地方予選があった場所です。母が言っていました。古い建物で、裏に踏切があるそうです。ロビーに、風鈴の展示が夏から置きっぱなしになっているとも」

 三枝が眉を寄せた。

「詳しいね」

「母が市の広報で働いているので」

「市民会館」

 遥はその言葉を繰り返した。

 湊が初めて放送コンクールで賞を取った場所。

 たしか、そんな話を聞いたことがある。二年の春、部員紹介の原稿を作るとき、湊は自分の実績をほとんど書きたがらなかった。代わりに神谷が「市民会館の予選で泣いたくせに」と茶化し、湊が珍しく本気で怒った。

 あの場所なのだろうか。

 湊が音声を残す場所として、選んだのは。

「神谷先輩、来ないね」

 桃井が言った。

 そのとき、扉が軽く叩かれた。

 全員が振り返る。

 神谷律が立っていた。

「入っていい?」

 中尾が答える前に、三枝が言った。

「どうぞ。逃げないなら」

 神谷は少し苦笑して、放送室に入った。

 手には薄い封筒を持っている。制服の袖は少しまくり上げられ、顔には疲れが見えた。三年生は受験の時期だ。だが、今の神谷の疲れは、勉強のせいだけではないように見えた。

「続きを聴いたんだね」

「北見宛まで」

 遥が答えた。

 神谷は北見を見た。

「市民会館の音だった?」

「可能性は高いです」

「やっぱり」

 その言い方に、中尾が反応した。

「知ってたんですか」

「全部じゃない」

「またそれかよ」

 中尾は立ち上がった。

「全部じゃない、気づいてた、止められなかった。便利ですね、その言い方」

「便利じゃないよ」

 神谷は静かに言った。

「言うたびに、自分が嫌になる」

「だったらちゃんと話してください」

 遥は言った。

 自分の声が思ったより冷たく聞こえた。

 神谷は遥を見た。

「高村は、市民会館を大事にしていた」

「知っています。初めて賞を取った場所だから」

「それもある。でも、それだけじゃない」

 神谷は放送室の椅子に座らず、ミキサー卓の横に立った。

「去年、僕が部長で、高村が副部長だった。文化祭のあと、僕は放送部を半分逃げるみたいに抜けた。受験を理由にして。実際、受験もあったけど、それだけじゃない」

「何から逃げたんですか」

 三枝が訊いた。

「高村から」

 放送室に、短い沈黙が落ちた。

 神谷は自嘲するように笑った。

「あの子は、声が強すぎた。才能もあった。努力もしていた。僕が教えることは、すぐに吸収して、それ以上のことをやってしまう。僕は先輩なのに、途中から何も教えられなくなった」

 遥は、胸の奥が小さく痛むのを感じた。

 それは、神谷だけの話ではなかった。

「市民会館の予選で、高村は初めて賞を取った。僕は落ちた。あの子は泣きながら、私だけごめんなさいって言った。僕は笑って、おめでとうって言った。でも、心のどこかで逃げたくなった」

 神谷の声は、淡々としていた。だからこそ、嘘ではないとわかった。

「そのあと、高村は部長になった。僕は幽霊部員になった。あの子が一人で抱え込むようになったのは、たぶんその頃からだ」

「それ、神谷先輩のせいなんですか」

 桃井が小さく訊いた。

 神谷は首を横に振った。

「全部が僕のせい、なんて言うのは傲慢だよ。でも、僕が気づいていながら何もしなかったことは、本当だ」

「湊先輩の事情を、知ってたんですか」

 遥は訊いた。

 神谷はしばらく黙った。

「家のことが大変らしい、というのは聞いていた。転居するかもしれないことも、少しだけ」

「いつ?」

「一週間前」

 その答えに、中尾が机を叩いた。

「何で言わなかったんですか」

「高村に止められた」

「だからって」

「だからって、言うべきだった。そう思ってる」

 神谷は中尾の怒りを受け止めた。

「でも、言えなかった。あの子が、文化祭だけは壊したくないって言ったから」

「それで壊れてんじゃねえか」

 中尾の声が震えた。

 神谷は何も返せなかった。

 遥は、自分の手を見た。

 文化祭だけは壊したくない。

 湊らしいと思った。

 同時に、湊らしくないとも思った。

 湊は何かを守ろうとしていたのだろう。放送部を。文化祭を。部員たちを。だがその結果、部員たちは今、放送室で置き去りにされた声と向き合っている。

 守られたのか。

 傷つけられたのか。

 その境目がわからなかった。

「高村は、市民会館で音声を録ったんですか」

 北見が訊いた。

「たぶん」

「たぶん?」

「僕が最後に会ったのは、そこだった」

 神谷は手に持っていた封筒を見た。

「そのとき、高村は台本を書いていた。最後の放送のための台本だと言っていた」

「それが、それですか」

 桃井が封筒を見た。

 神谷は首を横に振った。

「これは違う。これは、高村から僕に預けられたものじゃない。僕が持っていた古い資料だ。市民会館での予選の録音記録。あの子が初めて賞を取った日のもの」

「今、それが必要なんですか」

 三枝が訊く。

「必要かどうかは、わからない。でも、あの子が市民会館を選んだなら、あの日のことが関係している気がする」

 神谷は封筒を机に置いた。

「放送って、声を届ける場所だと思っていた。昔の僕は」

 誰も口を挟まなかった。

「でも、高村は違うと言った。放送は、返事を待つ場所でもあるって。マイクの前に立つ人は、自分の声が誰にどう届いたか、直接はわからない。だからこそ、届いた先にいる誰かを信じるしかない」

 神谷は、湊のメモを見た。

「高村は、今も返事を待っているのかもしれない」

 その言葉は、遥の中に深く落ちた。

 返事。

 湊の声を聴いて、泣くこと。怒ること。謎を解くこと。それだけでは足りないのかもしれない。

 湊は、声を残した。

 ならば、こちらも声を返さなければならないのかもしれない。

「残り、聴こう」

 遥は言った。

 全員がこちらを見た。

 自分の口から出た言葉なのに、遥自身が驚いていた。

「神谷先輩が来たから?」

 三枝が訊く。

「違う」

「じゃあ、どうして」

「私の名前があるから」

 遥は画面を見た。

 005_haruka。

 そのファイル名は、朝からずっと見ないようにしていたものだった。

「怖い。でも、聴かないまま文化祭には行けない」

「相沢」

 中尾が何か言いかけた。

 遥は首を横に振った。

「大丈夫」

 大丈夫ではなかった。

 けれど、そう言わなければ再生できなかった。

 椅子に座る。

 手をマウスに置く。

 クリックする直前、遥は一瞬だけ湊の顔を思い出した。

 昨日の放課後。

 ブラインドの隙間から夕日が差し込む放送室で、湊は文化祭の台本を直していた。赤ペンを動かしながら、遥に言った。

「遥は、読む前に少し考えるよね」

「遅いってことですか」

「そうじゃなくて、言葉を置く場所を探してる感じ」

「褒めてます?」

「うん。たぶん」

 たぶん、という言い方に、遥は笑った。

 その記憶ごと、再生ボタンを押した。

 無音。

 いつもより長い無音だった。

 そして、湊の声が流れた。

「遥へ」

 それだけで、胸が詰まった。

 高村先輩ではなく、湊先輩でもなく、湊が自分を呼んだ声。

 遥へ。

 その二文字に、自分だけが知っている距離があった。

「何から話せばいいのか、ずっと考えていました。中尾くんには謝れる。桃井さんには褒められる。北見くんには頼める。莉音には、たぶん喧嘩できる。でも、遥には何を言えばいいのか、最後までわからなかった」

 遥は息を止めた。

 湊の声は、静かだった。

「あなたは、いつも私の半歩後ろにいました。副部長だから、と言って。私が前に出るのを待って、私が喋ったあとで、足りないところをそっと埋めてくれた。私はそれに甘えていました」

 遥は膝の上で手を握った。

「でも、遥。あなたの声は、いつも少し遅れて届く」

 その一文が、胸の奥に刺さった。

 湊は優しく言ったわけではなかった。慰めるようでもなかった。ただ、事実を言う声だった。

 遥の声は、遅い。

 それは遥自身が一番よく知っていた。

 湊のように、最初の一声で空気を変えることができない。三枝のように、その場を引っ張る声もない。桃井のように、言葉そのものに柔らかい熱があるわけでもない。北見のように、音の奥へ潜る耳もない。中尾のように、怒りで場を動かすこともできない。

 遥は、いつも少し遅い。

 気づくのも、決めるのも、言葉にするのも。

 湊の声が続いた。

「でも、私はその遅さが好きでした。すぐに返事をしない人は、ちゃんと考えている人だから。すぐに大丈夫と言わない人は、大丈夫じゃない人のことを見落とさないから」

 遥は目を閉じた。

 やめてほしかった。

 褒められることの方が、責められるより苦しかった。

「あなたは、私に憧れてくれていたと思います。たぶん、少しは。違ったら恥ずかしいけど」

 湊が小さく笑う。

「でも、同じくらい、私のことが嫌いだったと思います」

 放送室の空気が止まった。

 誰も動かなかった。

 遥は目を開けた。

 湊の声は逃げなかった。

「私は、あなたが私を見ている視線に気づいていました。すごいと思ってくれている目。悔しそうな目。私がマイクの前に立つたびに、自分の声をどこかへしまってしまう目。私はそれを知っていて、知らないふりをしました」

 やめて。

 遥は心の中で呟いた。

 声には出なかった。

「ごめんね。私は、あなたの声をもっと前に出すべきでした。でも、怖かった。あなたが本当に自分の声で話したら、私はもう必要なくなるかもしれないと思った」

 遥は息を呑んだ。

 湊が。

 あの湊が、そんなことを思っていた。

「完璧に見えていたら、ごめん。私は完璧じゃありません。いつも怖かった。原稿を間違えることより、誰にも必要とされなくなることが怖かった。放送室でしか、自分がここにいていいと思えない日がありました」

 湊の声が、ほんの少しだけ揺れた。

「だから、遥が私を見ていてくれることに、私は救われていました。憧れでも、嫉妬でも、どちらでもよかった。あなたの中に私がいることが、嬉しかった」

 遥の目から涙が落ちた。

 それは悲しみだけではなかった。

 怒りもあった。悔しさもあった。恥ずかしさもあった。

 湊は知っていた。

 遥が湊を好きだったことも、嫌いだったことも。

 湊がいなくなったと聞いた朝、一瞬だけ胸が軽くなったことも、もしかしたら知っていたのかもしれない。

 湊の声は続いた。

「もし私がいなくなったと聞いて、あなたが少しでもほっとしたなら、それでいいです」

 遥の喉から、声にならない音が漏れた。

 中尾がこちらを見た。

 三枝が目を伏せた。

 桃井は涙を浮かべていた。

 北見は、音を聴く人の顔で、湊の声と遥の呼吸を同時に聴いていた。

「そんな自分を責めなくていい。誰かが消える理由を、残された人が全部背負わなくていい。私が言わなかったことまで、あなたが罪にしなくていい」

 湊は、深く息を吸った。

「でも、ひとつだけお願いがあります」

 遥は画面を見つめた。

「最後の放送で、私の代わりに話さないでください」

 その言葉に、遥は眉を寄せた。

「私みたいに読まなくていい。私の声を真似しなくていい。私が言いそうなことを探さなくていい。遥の声で、遥の言葉を話してください。それが、私が一番聴きたい声です」

 湊の声が、少し遠くなった。

 背後で、紙を破るような音がした。

 ちりん、と風鈴が鳴る。

「私は、あなたの声を聴きたかった」

 最後に、湊はそう言った。

 音声が終わった。

 遥は動けなかった。

 パソコンの画面には、005_harukaのファイル名が表示されている。再生は終わっている。スピーカーはもう何も発していない。

 けれど、湊の最後の一文だけが、部屋の中に残っていた。

 私は、あなたの声を聴きたかった。

 遥は口を開いた。

 言葉は出なかった。

 涙だけが落ちた。

 情けないと思った。副部長なのに。みんなの前なのに。湊が自分に向けて残した声に、何も返せない。

 そのとき、中尾がぶっきらぼうに言った。

「別に、今すぐ返事しなくていいだろ」

 遥は顔を上げた。

 中尾は工具箱の中を見ているふりをしていた。

「高村だって、一週間かけて録ったんだろ。こっちだけ即答しろってのは、ずるい」

 三枝が小さく笑った。

「正論」

 桃井がハンカチを差し出した。

「相沢先輩の声、私は好きです」

 遥はハンカチを受け取った。

「ありがとう」

 かすれた声だった。

 北見が静かに言った。

「今の音声にも、紙を破る音がありました」

 現実に引き戻されるように、遥は画面を見た。

「紙?」

「はい。004よりもはっきりしています。たぶん、録音中に何かを破っています」

「台本かな」

 桃井が言う。

 神谷が少し考えた。

「高村は、最後のページを何度も書き直していた」

「見たんですか」

「市民会館で会ったとき、机の上に紙が散らばっていた。あの子は、最後だけ決まらないと言っていた」

「最後?」

「最後の放送の、最後の一文」

 神谷は封筒を手に取った。

「高村は、自分で終わらせる気がなかったのかもしれない」

 遥は、湊のメモを見た。

 最後の放送は、みんなでやってね。

 自分の代わりに話さないでください。

 その二つの言葉が、ようやく繋がった気がした。

 湊は、自分の声を残した。

 でも、最後を自分の声で閉じる気はなかった。

 彼女が欲しかったのは、自分たちの返事だったのだ。

「市民会館に行こう」

 遥は言った。

 神谷がこちらを見る。

「今から?」

「はい」

「もう夕方だ」

「閉館時間までは間に合います」

 北見が即座に言った。

「市民会館は十九時までです。駅の南側なら、歩いて二十分くらい」

「何を探すの?」

 三枝が訊く。

「湊先輩が破った紙」

 遥は答えた。

「それと、最後の放送の台本」

 中尾が工具箱を閉めた。

「行く」

 桃井もノートを鞄に入れた。

「私も行きます」

 北見はヘッドホンを首にかけた。

「音を確認したいです」

 三枝はため息をついた。

「行かない理由を考える方が面倒になってきた」

 神谷は少し迷ったようだった。

「僕も行く」

「逃げないんですね」

 三枝が言うと、神谷は苦笑した。

「今日は、たぶん」

 放送室を出る前に、遥は006_lastのファイルを見た。

 未来の日付。

 文化祭当日、午後四時十二分。

 まだ開いていない最後のファイル。

 そこに何があるのかは、わからない。

 けれど、遥は少しだけわかった気がした。

 そのファイルは、湊の声では埋まっていない。

 たぶん、自分たちがこれから入れるべき空白なのだ。

 パソコンを閉じ、放送室の扉を施錠する。

 廊下には、文化祭準備の声がまだ満ちていた。紙を切る音。笑い声。誰かが誰かを呼ぶ声。遠くでマイクテストのようなノイズも聞こえる。

 そのすべての中に、湊の声が混じっている気がした。

 学校を出ると、夕方の風が肌に触れた。

 駅の南側へ向かう道は、商店街の外れを通っていた。焼き鳥屋の煙、クリーニング店のビニールの匂い、塾へ向かう小学生のランドセルの音。踏切の警報音が遠くから聞こえてくる。

 北見が足を止めた。

「この音です」

 全員が耳を澄ませた。

 かん、かん、かん。

 規則正しい踏切の音が、夕方の町に響いていた。

 北見は小さく頷いた。

「001と同じ方向です」

 市民会館は、古い建物だった。

 入口のガラス戸には、市の講座案内や合唱発表会のポスターが貼られている。ロビーに入ると、少し湿った空気と、古い床材の匂いがした。天井では換気扇が回っている。ぎい、と小さく軋む音が、一定の間隔で混じる。

 北見がまた頷いた。

「これです」

 ロビーの隅には、季節外れの風鈴が吊られていた。市民講座の展示物らしく、短冊には小学生が書いた願い事が残っている。空調の風に揺れて、ちりん、と鳴った。

 湊の音声に入っていた音と、同じだった。

 遥の胸が強く鳴った。

 湊はここにいた。

 ここで、あの声を録った。

 受付の女性に事情を話すと、神谷の名前で過去の放送コンクール資料を探しに来たという説明が通った。神谷は昔、ここで表彰されたことがあるらしく、職員は彼の顔を覚えていた。

「視聴覚室なら、今日は空いていますよ」

 受付の女性はそう言って、鍵を渡してくれた。

 視聴覚室は二階の奥にあった。

 古い机と椅子が並び、壁にはホワイトボードがある。隅には録音用の古い機材。窓の外には踏切が見えた。風鈴の音はロビーからかすかに届く。換気扇は、天井で低く唸っている。

 北見が言った。

「ここです」

 遥は部屋の中央に立った。

 湊がここに座り、マイクに向かって声を残していた姿が浮かんだ。

 中尾への怒りに感謝する声。

 桃井の消した言葉を拾う声。

 北見に逃げ場所を渡す声。

 遥の嫉妬に名前をつける声。

 その全部が、この古い部屋で録られていた。

「探そう」

 中尾が言った。

 机の引き出し、機材の下、ホワイトボードの裏。全員が手分けして探した。何を探しているのか、正確にはわからない。破られた紙か、台本か、湊の残した何か。

 桃井が、窓際の机の下で声を上げた。

「あの、これ」

 机の裏に、封筒がテープで貼られていた。

 白い封筒。

 表には、湊の字でこう書かれていた。

 放送部のみんなへ。

 遥は封筒を受け取った。

 手が震えた。

「開けて」

 三枝が言った。

 遥は封を切った。

 中には、文化祭用の台本が入っていた。

 表紙には、太い文字でタイトルが書かれている。

 放送室のマイクに、君の声がまだ残っている

 桃井が息を呑んだ。

「タイトル……」

 遥はページをめくった。

 冒頭には湊の挨拶。中盤には部員たちの紹介。桃井の一文も入っていた。中尾の機材担当への言及も、北見が拾う音の演出も、三枝のナレーションもある。

 そして、最後のページ。

 そこだけが、真っ白だった。

 何も書かれていない。

 罫線も、メモも、消し跡もない。

 ただ、空白だけがあった。

 遥はそのページを見つめた。

 湊は、ここを書かなかった。

 書けなかったのではない。

 書かなかった。

 その意味が、今なら少しだけわかる。

 湊が残した最後の放送は、まだ完成していない。

 最後の声は、湊のものではない。

 遥は白紙のページに触れた。

 紙は冷たく、頼りなかった。

 けれど、その空白は、ただの空白ではなかった。

 そこには、まだ誰の声も入っていない。

 だからこそ、これから入れられる。

 窓の外で、踏切が鳴り始めた。

 かん、かん、かん。

 風鈴が、ちりん、と鳴った。

 遥は、湊の声を思い出した。

 私は、あなたの声を聴きたかった。

 その言葉に返す声を、遥はまだ持っていない。

 けれど初めて、探したいと思った。



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