第3章 君が言わなかったこと
放課後の廊下には、声の残骸が落ちている。
相沢遥は、子どもの頃からそう思っていた。
授業が終わった直後の教室。帰り支度をする生徒たち。机の脚が床をこする音。誰かが部活へ走っていく足音。職員室へ提出物を持っていく生徒のため息。笑い声、呼び声、悪口、言い訳、約束。そうしたものは一度空気に放たれると、すぐには消えない。
人の声には、形がない。
けれど、重さはある。
放課後の校舎は、毎日、その重さを少しずつ受け止めているように思えた。
遥は放送室へ向かいながら、昼休みに桃井千夏が泣いたときのことを思い出していた。
湊の声は、桃井の没にした一文を拾い上げた。
放課後の廊下には、まだ誰かの言いそびれた言葉が落ちている。
あの言葉は、今の自分たちに向けられているようだった。
湊が言いそびれたこと。
中尾航が怒りの奥に隠していること。
三枝莉音が怒っていないふりをしながら抱えていること。
北見悠斗が音の奥に聞き取ってしまったこと。
そして、自分がまだ誰にも言っていないこと。
放送室の鍵は、遥のポケットに入っていた。
昼休みの終わりに、森崎へ返しに行こうとしたが、教師は職員会議で不在だった。机の上に置いていくこともできた。だが遥はそうしなかった。鍵を持っていることが、かろうじて自分をこの出来事に繋ぎとめているような気がした。
放課後になると、文化祭前の校舎は一気に騒がしくなった。
廊下では段ボールが運ばれ、教室の窓には模造紙が貼られ、実行委員がガムテープを探して走っている。階段の踊り場では、演劇部が台詞合わせをしていた。校庭からは、軽音楽部のリハーサルの音が漏れてくる。誰かが間違えて鳴らしたギターのコードが、夕方の空気を不器用に震わせた。
文化祭は、近づいている。
湊がいなくても。
その事実が、遥には腹立たしかった。
放送室の前には、すでに北見がいた。
彼は扉の横に立ち、耳を澄ませるように廊下の奥を見ていた。手にはヘッドホンと、小さなノート。ノートの表紙には、細い字で「音」とだけ書かれている。
「早いね」
遥が声をかけると、北見は少し驚いたようにこちらを見た。
「教室にいると、机を引きずる音が多くて」
「文化祭前だから?」
「はい。あと、みんな少し声が大きいです」
その言い方があまりに真面目で、遥は少しだけ口元を緩めた。
「ここも、今日は静かじゃないかもしれないよ」
「放送室の音は、まだ大丈夫です」
「まだ?」
「高村先輩の声が残っている気がするので」
遥は鍵を差し込もうとして、手を止めた。
北見は、自分が何を言ったのか気づいていない顔をしていた。
声が残っている。
その感覚は、遥にもあった。
ただ、口に出せなかった。口に出せば、それが悲しみなのか未練なのか、もっと別のものなのか、確かめなければならなくなるからだ。
扉を開けると、放送室の空気が微かに動いた。
夕方の光がブラインドの隙間から差し込み、ミキサー卓のつまみに細い影を落としている。机の上には、湊のメモがまだ置かれていた。最後の放送は、みんなでやってね。その一文は、朝よりも紙に深く沈んで見えた。
ほどなくして、中尾が来た。
彼は工具箱を持っていた。昼休みに「放課後、また来る」と言ったときの怒りは少し薄れていたが、そのぶん顔の奥に疲れがあった。
「何それ」
遥が訊くと、中尾は工具箱を持ち上げた。
「ケーブル見る。ついでだ」
「ついで?」
「文化祭前なんだから、機材点検は必要だろ」
その声音はそっけなかったが、彼が何から目を逸らそうとしているのかは、誰にでもわかった。
少し遅れて桃井が入ってきた。
目はまだ赤かったが、手にはノートを持っている。昼休みよりも表情は落ち着いていた。泣いたあとに、何かを決めた顔だった。
「書いてみました」
「何を?」
三枝が扉の外から言った。
彼女はいつの間にか来ていた。腕を組み、放送室に入る前に全員を見渡す。
桃井はノートを抱え直した。
「最後の放送で使えるかもしれない言葉です。まだ、全然だめですけど」
「だめなら直せばいい」
中尾が工具箱を開けながら言った。
桃井は少し笑った。
「はい」
三枝は椅子に座らなかった。壁際に立ち、ホワイトボードの十六時十二分という文字を見つめている。
「神谷先輩は?」
遥が訊くと、三枝は肩をすくめた。
「さっき廊下で見た。来ると思う。でも、先に聴いた方がいいんじゃない?」
「いいの?」
「止めても、どうせ気になる」
それが彼女なりの同意だった。
遥はパソコンを立ち上げた。
画面に現れるFinal_Broadcastの文字。フォルダを開くと、六つの音声ファイルが整然と並ぶ。
002_nakao。
003_momoi。
その二つには、もう小さな再生済みの印がついている気がした。もちろん、実際にそんな印はない。だが、遥たちはもう知ってしまった。湊が中尾の怒りを見ていたこと。桃井の消した言葉を覚えていたこと。
次は、004_kitami。
北見は椅子に座らなかった。パソコンの横に立ち、ヘッドホンを握ったまま画面を見ている。
「北見くん」
遥が呼ぶと、彼は頷いた。
「大丈夫です」
「無理なら止めるよ」
「止めません」
いつもよりはっきりした声だった。
「高村先輩が、僕に何を残したのか、聴きたいです」
遥は再生ボタンを押した。
短い無音。
その後に、いつもの湊の声が来た。
「北見くんへ」
北見の指が、ヘッドホンのコードを強く握った。
「北見くんは、たぶん今、音を確認しようとしていると思います。私の声の後ろに何が入っているか、どこで録ったのか、ファイルの日時がどうなっているか。きっと、そういうところから考えてくれていると思います」
中尾が小さく呟いた。
「当たりすぎだろ」
北見は何も言わない。
湊の声は、少しだけ低くなった。
「初めて放送室に来た日のことを覚えています。見学なのに、あなたはずっとスピーカーの下に立っていました。何をしているのか訊いたら、音が痛くない場所を探している、と言った」
北見の肩が小さく動いた。
遥はその話を知らなかった。
「教室の笑い声が苦手だと言っていました。体育館の笛の音が苦手だとも言っていました。怒鳴り声を聞くと、体が固まると言っていました。だから私は、最初、あなたは音に弱い人なのだと思いました」
放送室の中は、湊の声だけになった。
廊下の音も、文化祭準備の喧騒も、壁の向こうへ遠ざかっていく。
「でも、違いました。あなたは音に弱いんじゃない。人が置いていく小さな気配に、誰より早く気づける人なんだと思います」
北見が下を向いた。
「誰かが笑う前に息を吸う音。嘘をつく前に喉が詰まる音。言葉を飲み込んだとき、唇の奥で鳴る小さな音。そういうものを、北見くんは聴いてしまう。だから、疲れるんだと思います」
北見の頬に、涙が落ちた。
彼は慌てて拭わなかった。
泣いていることに気づいていないようにも見えた。
「最後の放送で、あなたにお願いしたいことがあります。私の音声を、ちゃんと聴いてください。私が言っていることだけじゃなくて、言えていないことも。もしかしたら、あなたなら気づくかもしれない。私が、どこでこれを録ったのか。どうして、そこを選んだのか」
湊は少しだけ笑った。
「ごめんね。こんなことを頼むのは、ずるいと思います。でも、北見くん。あなたが見つけてくれる音なら、私は信じられる」
そこで、湊の声はふっと途切れた。
完全な無音ではなかった。
ごく小さな、遠い音が混じっている。
ちりん。
風鈴。
その後に、低い振動のような音が重なった。踏切の警報音に似ていたが、ずっと遠い。さらにその奥で、古い換気扇が回るような音がした。
湊の声が戻る。
「最後にひとつだけ。北見くん。音が多すぎる日は、逃げてもいいです。逃げ場所が放送室なら、鍵は机の下の引き出しにあります」
中尾が机の下を見た。
古い鍵が、テープで貼られていた。
誰も知らなかった。
「ここを、あなたの静かな場所にしてください」
音声は終わった。
北見はしばらく動かなかった。
遥も、何も言えなかった。
北見は泣いていた。声を出さず、表情もほとんど変えず、ただ涙だけがまっすぐ落ちていた。
桃井がハンカチを差し出そうとして、やめた。北見は自分で袖口を目元に当てた。
「すみません」
「謝るなよ」
中尾が言った。
北見は小さく頷いた。
「高村先輩、気づいてたんですね」
「何に?」
遥が訊くと、北見は机の下の鍵を見た。
「僕が、昼休みにここへ来ていたことです」
「来てたの?」
「はい。誰もいないときに。音が少ないので」
「湊先輩は?」
「たぶん、知らないふりをしてくれていました」
その言葉に、部屋の空気がまた少し沈んだ。
湊は、誰かを見ていた。
見ているのに、何も言わなかった。言わないことで、守っていた。そういう人だった。
だが、その湊が、自分のことだけは言わなかった。
中尾は舌打ちし、ミキサー卓の前にしゃがみ込んだ。
「自分のことも、それくらい誰かに言えばよかったんだよ」
その声は怒っていたが、もう荒くはなかった。
三枝は腕を組んだまま、北見を見ていた。
「解析、できる?」
「はい」
北見は涙を拭き、椅子に座った。
「今の音声、もう一度聴いてもいいですか。今度は、後ろの音だけ確認したいです」
「いいよ」
遥は音声を再生し直した。
北見はヘッドホンをつけ、目を閉じた。湊の声が流れている間も、彼は言葉ではなく、その奥に潜るように聴いていた。指先が机の上でわずかに動く。何かを数えているようだった。
一度目の再生が終わる。
二度目。三度目。
中尾は何も言わずにケーブルを確認し、桃井はノートに何かを書き、三枝は窓の外を見ていた。遥は画面の波形を見ていた。人の声が線になる。その線の間に、湊が隠したものがある。
北見はヘッドホンを外した。
「三つあります」
「三つ?」
「風鈴、踏切、換気扇の音です。あと、たぶん紙を破る音もあります」
「紙を破る音?」
桃井が顔を上げた。
「はい。かなり小さいです。でも、湊先輩が話し始める直前に、紙を一枚、手で裂くような音が入っています」
「何でそんな音が」
「わかりません」
北見はノートに簡単な図を書いた。
「踏切の音は遠いです。けれど、風鈴は近い。換気扇は古いタイプで、一定周期で軋んでいます。学校の放送室の換気扇とは音が違います」
「どこなんだよ」
中尾が訊く。
北見は少し考えた。
「市民会館かもしれません」
遥は昼休みの神谷の言葉を思い出した。
放課後、時間があるなら、市民会館の話をしよう。
「どうして?」
「駅の南側にある古い市民会館です。昔、放送コンクールの地方予選があった場所です。母が言っていました。古い建物で、裏に踏切があるそうです。ロビーに、風鈴の展示が夏から置きっぱなしになっているとも」
三枝が眉を寄せた。
「詳しいね」
「母が市の広報で働いているので」
「市民会館」
遥はその言葉を繰り返した。
湊が初めて放送コンクールで賞を取った場所。
たしか、そんな話を聞いたことがある。二年の春、部員紹介の原稿を作るとき、湊は自分の実績をほとんど書きたがらなかった。代わりに神谷が「市民会館の予選で泣いたくせに」と茶化し、湊が珍しく本気で怒った。
あの場所なのだろうか。
湊が音声を残す場所として、選んだのは。
「神谷先輩、来ないね」
桃井が言った。
そのとき、扉が軽く叩かれた。
全員が振り返る。
神谷律が立っていた。
「入っていい?」
中尾が答える前に、三枝が言った。
「どうぞ。逃げないなら」
神谷は少し苦笑して、放送室に入った。
手には薄い封筒を持っている。制服の袖は少しまくり上げられ、顔には疲れが見えた。三年生は受験の時期だ。だが、今の神谷の疲れは、勉強のせいだけではないように見えた。
「続きを聴いたんだね」
「北見宛まで」
遥が答えた。
神谷は北見を見た。
「市民会館の音だった?」
「可能性は高いです」
「やっぱり」
その言い方に、中尾が反応した。
「知ってたんですか」
「全部じゃない」
「またそれかよ」
中尾は立ち上がった。
「全部じゃない、気づいてた、止められなかった。便利ですね、その言い方」
「便利じゃないよ」
神谷は静かに言った。
「言うたびに、自分が嫌になる」
「だったらちゃんと話してください」
遥は言った。
自分の声が思ったより冷たく聞こえた。
神谷は遥を見た。
「高村は、市民会館を大事にしていた」
「知っています。初めて賞を取った場所だから」
「それもある。でも、それだけじゃない」
神谷は放送室の椅子に座らず、ミキサー卓の横に立った。
「去年、僕が部長で、高村が副部長だった。文化祭のあと、僕は放送部を半分逃げるみたいに抜けた。受験を理由にして。実際、受験もあったけど、それだけじゃない」
「何から逃げたんですか」
三枝が訊いた。
「高村から」
放送室に、短い沈黙が落ちた。
神谷は自嘲するように笑った。
「あの子は、声が強すぎた。才能もあった。努力もしていた。僕が教えることは、すぐに吸収して、それ以上のことをやってしまう。僕は先輩なのに、途中から何も教えられなくなった」
遥は、胸の奥が小さく痛むのを感じた。
それは、神谷だけの話ではなかった。
「市民会館の予選で、高村は初めて賞を取った。僕は落ちた。あの子は泣きながら、私だけごめんなさいって言った。僕は笑って、おめでとうって言った。でも、心のどこかで逃げたくなった」
神谷の声は、淡々としていた。だからこそ、嘘ではないとわかった。
「そのあと、高村は部長になった。僕は幽霊部員になった。あの子が一人で抱え込むようになったのは、たぶんその頃からだ」
「それ、神谷先輩のせいなんですか」
桃井が小さく訊いた。
神谷は首を横に振った。
「全部が僕のせい、なんて言うのは傲慢だよ。でも、僕が気づいていながら何もしなかったことは、本当だ」
「湊先輩の事情を、知ってたんですか」
遥は訊いた。
神谷はしばらく黙った。
「家のことが大変らしい、というのは聞いていた。転居するかもしれないことも、少しだけ」
「いつ?」
「一週間前」
その答えに、中尾が机を叩いた。
「何で言わなかったんですか」
「高村に止められた」
「だからって」
「だからって、言うべきだった。そう思ってる」
神谷は中尾の怒りを受け止めた。
「でも、言えなかった。あの子が、文化祭だけは壊したくないって言ったから」
「それで壊れてんじゃねえか」
中尾の声が震えた。
神谷は何も返せなかった。
遥は、自分の手を見た。
文化祭だけは壊したくない。
湊らしいと思った。
同時に、湊らしくないとも思った。
湊は何かを守ろうとしていたのだろう。放送部を。文化祭を。部員たちを。だがその結果、部員たちは今、放送室で置き去りにされた声と向き合っている。
守られたのか。
傷つけられたのか。
その境目がわからなかった。
「高村は、市民会館で音声を録ったんですか」
北見が訊いた。
「たぶん」
「たぶん?」
「僕が最後に会ったのは、そこだった」
神谷は手に持っていた封筒を見た。
「そのとき、高村は台本を書いていた。最後の放送のための台本だと言っていた」
「それが、それですか」
桃井が封筒を見た。
神谷は首を横に振った。
「これは違う。これは、高村から僕に預けられたものじゃない。僕が持っていた古い資料だ。市民会館での予選の録音記録。あの子が初めて賞を取った日のもの」
「今、それが必要なんですか」
三枝が訊く。
「必要かどうかは、わからない。でも、あの子が市民会館を選んだなら、あの日のことが関係している気がする」
神谷は封筒を机に置いた。
「放送って、声を届ける場所だと思っていた。昔の僕は」
誰も口を挟まなかった。
「でも、高村は違うと言った。放送は、返事を待つ場所でもあるって。マイクの前に立つ人は、自分の声が誰にどう届いたか、直接はわからない。だからこそ、届いた先にいる誰かを信じるしかない」
神谷は、湊のメモを見た。
「高村は、今も返事を待っているのかもしれない」
その言葉は、遥の中に深く落ちた。
返事。
湊の声を聴いて、泣くこと。怒ること。謎を解くこと。それだけでは足りないのかもしれない。
湊は、声を残した。
ならば、こちらも声を返さなければならないのかもしれない。
「残り、聴こう」
遥は言った。
全員がこちらを見た。
自分の口から出た言葉なのに、遥自身が驚いていた。
「神谷先輩が来たから?」
三枝が訊く。
「違う」
「じゃあ、どうして」
「私の名前があるから」
遥は画面を見た。
005_haruka。
そのファイル名は、朝からずっと見ないようにしていたものだった。
「怖い。でも、聴かないまま文化祭には行けない」
「相沢」
中尾が何か言いかけた。
遥は首を横に振った。
「大丈夫」
大丈夫ではなかった。
けれど、そう言わなければ再生できなかった。
椅子に座る。
手をマウスに置く。
クリックする直前、遥は一瞬だけ湊の顔を思い出した。
昨日の放課後。
ブラインドの隙間から夕日が差し込む放送室で、湊は文化祭の台本を直していた。赤ペンを動かしながら、遥に言った。
「遥は、読む前に少し考えるよね」
「遅いってことですか」
「そうじゃなくて、言葉を置く場所を探してる感じ」
「褒めてます?」
「うん。たぶん」
たぶん、という言い方に、遥は笑った。
その記憶ごと、再生ボタンを押した。
無音。
いつもより長い無音だった。
そして、湊の声が流れた。
「遥へ」
それだけで、胸が詰まった。
高村先輩ではなく、湊先輩でもなく、湊が自分を呼んだ声。
遥へ。
その二文字に、自分だけが知っている距離があった。
「何から話せばいいのか、ずっと考えていました。中尾くんには謝れる。桃井さんには褒められる。北見くんには頼める。莉音には、たぶん喧嘩できる。でも、遥には何を言えばいいのか、最後までわからなかった」
遥は息を止めた。
湊の声は、静かだった。
「あなたは、いつも私の半歩後ろにいました。副部長だから、と言って。私が前に出るのを待って、私が喋ったあとで、足りないところをそっと埋めてくれた。私はそれに甘えていました」
遥は膝の上で手を握った。
「でも、遥。あなたの声は、いつも少し遅れて届く」
その一文が、胸の奥に刺さった。
湊は優しく言ったわけではなかった。慰めるようでもなかった。ただ、事実を言う声だった。
遥の声は、遅い。
それは遥自身が一番よく知っていた。
湊のように、最初の一声で空気を変えることができない。三枝のように、その場を引っ張る声もない。桃井のように、言葉そのものに柔らかい熱があるわけでもない。北見のように、音の奥へ潜る耳もない。中尾のように、怒りで場を動かすこともできない。
遥は、いつも少し遅い。
気づくのも、決めるのも、言葉にするのも。
湊の声が続いた。
「でも、私はその遅さが好きでした。すぐに返事をしない人は、ちゃんと考えている人だから。すぐに大丈夫と言わない人は、大丈夫じゃない人のことを見落とさないから」
遥は目を閉じた。
やめてほしかった。
褒められることの方が、責められるより苦しかった。
「あなたは、私に憧れてくれていたと思います。たぶん、少しは。違ったら恥ずかしいけど」
湊が小さく笑う。
「でも、同じくらい、私のことが嫌いだったと思います」
放送室の空気が止まった。
誰も動かなかった。
遥は目を開けた。
湊の声は逃げなかった。
「私は、あなたが私を見ている視線に気づいていました。すごいと思ってくれている目。悔しそうな目。私がマイクの前に立つたびに、自分の声をどこかへしまってしまう目。私はそれを知っていて、知らないふりをしました」
やめて。
遥は心の中で呟いた。
声には出なかった。
「ごめんね。私は、あなたの声をもっと前に出すべきでした。でも、怖かった。あなたが本当に自分の声で話したら、私はもう必要なくなるかもしれないと思った」
遥は息を呑んだ。
湊が。
あの湊が、そんなことを思っていた。
「完璧に見えていたら、ごめん。私は完璧じゃありません。いつも怖かった。原稿を間違えることより、誰にも必要とされなくなることが怖かった。放送室でしか、自分がここにいていいと思えない日がありました」
湊の声が、ほんの少しだけ揺れた。
「だから、遥が私を見ていてくれることに、私は救われていました。憧れでも、嫉妬でも、どちらでもよかった。あなたの中に私がいることが、嬉しかった」
遥の目から涙が落ちた。
それは悲しみだけではなかった。
怒りもあった。悔しさもあった。恥ずかしさもあった。
湊は知っていた。
遥が湊を好きだったことも、嫌いだったことも。
湊がいなくなったと聞いた朝、一瞬だけ胸が軽くなったことも、もしかしたら知っていたのかもしれない。
湊の声は続いた。
「もし私がいなくなったと聞いて、あなたが少しでもほっとしたなら、それでいいです」
遥の喉から、声にならない音が漏れた。
中尾がこちらを見た。
三枝が目を伏せた。
桃井は涙を浮かべていた。
北見は、音を聴く人の顔で、湊の声と遥の呼吸を同時に聴いていた。
「そんな自分を責めなくていい。誰かが消える理由を、残された人が全部背負わなくていい。私が言わなかったことまで、あなたが罪にしなくていい」
湊は、深く息を吸った。
「でも、ひとつだけお願いがあります」
遥は画面を見つめた。
「最後の放送で、私の代わりに話さないでください」
その言葉に、遥は眉を寄せた。
「私みたいに読まなくていい。私の声を真似しなくていい。私が言いそうなことを探さなくていい。遥の声で、遥の言葉を話してください。それが、私が一番聴きたい声です」
湊の声が、少し遠くなった。
背後で、紙を破るような音がした。
ちりん、と風鈴が鳴る。
「私は、あなたの声を聴きたかった」
最後に、湊はそう言った。
音声が終わった。
遥は動けなかった。
パソコンの画面には、005_harukaのファイル名が表示されている。再生は終わっている。スピーカーはもう何も発していない。
けれど、湊の最後の一文だけが、部屋の中に残っていた。
私は、あなたの声を聴きたかった。
遥は口を開いた。
言葉は出なかった。
涙だけが落ちた。
情けないと思った。副部長なのに。みんなの前なのに。湊が自分に向けて残した声に、何も返せない。
そのとき、中尾がぶっきらぼうに言った。
「別に、今すぐ返事しなくていいだろ」
遥は顔を上げた。
中尾は工具箱の中を見ているふりをしていた。
「高村だって、一週間かけて録ったんだろ。こっちだけ即答しろってのは、ずるい」
三枝が小さく笑った。
「正論」
桃井がハンカチを差し出した。
「相沢先輩の声、私は好きです」
遥はハンカチを受け取った。
「ありがとう」
かすれた声だった。
北見が静かに言った。
「今の音声にも、紙を破る音がありました」
現実に引き戻されるように、遥は画面を見た。
「紙?」
「はい。004よりもはっきりしています。たぶん、録音中に何かを破っています」
「台本かな」
桃井が言う。
神谷が少し考えた。
「高村は、最後のページを何度も書き直していた」
「見たんですか」
「市民会館で会ったとき、机の上に紙が散らばっていた。あの子は、最後だけ決まらないと言っていた」
「最後?」
「最後の放送の、最後の一文」
神谷は封筒を手に取った。
「高村は、自分で終わらせる気がなかったのかもしれない」
遥は、湊のメモを見た。
最後の放送は、みんなでやってね。
自分の代わりに話さないでください。
その二つの言葉が、ようやく繋がった気がした。
湊は、自分の声を残した。
でも、最後を自分の声で閉じる気はなかった。
彼女が欲しかったのは、自分たちの返事だったのだ。
「市民会館に行こう」
遥は言った。
神谷がこちらを見る。
「今から?」
「はい」
「もう夕方だ」
「閉館時間までは間に合います」
北見が即座に言った。
「市民会館は十九時までです。駅の南側なら、歩いて二十分くらい」
「何を探すの?」
三枝が訊く。
「湊先輩が破った紙」
遥は答えた。
「それと、最後の放送の台本」
中尾が工具箱を閉めた。
「行く」
桃井もノートを鞄に入れた。
「私も行きます」
北見はヘッドホンを首にかけた。
「音を確認したいです」
三枝はため息をついた。
「行かない理由を考える方が面倒になってきた」
神谷は少し迷ったようだった。
「僕も行く」
「逃げないんですね」
三枝が言うと、神谷は苦笑した。
「今日は、たぶん」
放送室を出る前に、遥は006_lastのファイルを見た。
未来の日付。
文化祭当日、午後四時十二分。
まだ開いていない最後のファイル。
そこに何があるのかは、わからない。
けれど、遥は少しだけわかった気がした。
そのファイルは、湊の声では埋まっていない。
たぶん、自分たちがこれから入れるべき空白なのだ。
パソコンを閉じ、放送室の扉を施錠する。
廊下には、文化祭準備の声がまだ満ちていた。紙を切る音。笑い声。誰かが誰かを呼ぶ声。遠くでマイクテストのようなノイズも聞こえる。
そのすべての中に、湊の声が混じっている気がした。
学校を出ると、夕方の風が肌に触れた。
駅の南側へ向かう道は、商店街の外れを通っていた。焼き鳥屋の煙、クリーニング店のビニールの匂い、塾へ向かう小学生のランドセルの音。踏切の警報音が遠くから聞こえてくる。
北見が足を止めた。
「この音です」
全員が耳を澄ませた。
かん、かん、かん。
規則正しい踏切の音が、夕方の町に響いていた。
北見は小さく頷いた。
「001と同じ方向です」
市民会館は、古い建物だった。
入口のガラス戸には、市の講座案内や合唱発表会のポスターが貼られている。ロビーに入ると、少し湿った空気と、古い床材の匂いがした。天井では換気扇が回っている。ぎい、と小さく軋む音が、一定の間隔で混じる。
北見がまた頷いた。
「これです」
ロビーの隅には、季節外れの風鈴が吊られていた。市民講座の展示物らしく、短冊には小学生が書いた願い事が残っている。空調の風に揺れて、ちりん、と鳴った。
湊の音声に入っていた音と、同じだった。
遥の胸が強く鳴った。
湊はここにいた。
ここで、あの声を録った。
受付の女性に事情を話すと、神谷の名前で過去の放送コンクール資料を探しに来たという説明が通った。神谷は昔、ここで表彰されたことがあるらしく、職員は彼の顔を覚えていた。
「視聴覚室なら、今日は空いていますよ」
受付の女性はそう言って、鍵を渡してくれた。
視聴覚室は二階の奥にあった。
古い机と椅子が並び、壁にはホワイトボードがある。隅には録音用の古い機材。窓の外には踏切が見えた。風鈴の音はロビーからかすかに届く。換気扇は、天井で低く唸っている。
北見が言った。
「ここです」
遥は部屋の中央に立った。
湊がここに座り、マイクに向かって声を残していた姿が浮かんだ。
中尾への怒りに感謝する声。
桃井の消した言葉を拾う声。
北見に逃げ場所を渡す声。
遥の嫉妬に名前をつける声。
その全部が、この古い部屋で録られていた。
「探そう」
中尾が言った。
机の引き出し、機材の下、ホワイトボードの裏。全員が手分けして探した。何を探しているのか、正確にはわからない。破られた紙か、台本か、湊の残した何か。
桃井が、窓際の机の下で声を上げた。
「あの、これ」
机の裏に、封筒がテープで貼られていた。
白い封筒。
表には、湊の字でこう書かれていた。
放送部のみんなへ。
遥は封筒を受け取った。
手が震えた。
「開けて」
三枝が言った。
遥は封を切った。
中には、文化祭用の台本が入っていた。
表紙には、太い文字でタイトルが書かれている。
放送室のマイクに、君の声がまだ残っている
桃井が息を呑んだ。
「タイトル……」
遥はページをめくった。
冒頭には湊の挨拶。中盤には部員たちの紹介。桃井の一文も入っていた。中尾の機材担当への言及も、北見が拾う音の演出も、三枝のナレーションもある。
そして、最後のページ。
そこだけが、真っ白だった。
何も書かれていない。
罫線も、メモも、消し跡もない。
ただ、空白だけがあった。
遥はそのページを見つめた。
湊は、ここを書かなかった。
書けなかったのではない。
書かなかった。
その意味が、今なら少しだけわかる。
湊が残した最後の放送は、まだ完成していない。
最後の声は、湊のものではない。
遥は白紙のページに触れた。
紙は冷たく、頼りなかった。
けれど、その空白は、ただの空白ではなかった。
そこには、まだ誰の声も入っていない。
だからこそ、これから入れられる。
窓の外で、踏切が鳴り始めた。
かん、かん、かん。
風鈴が、ちりん、と鳴った。
遥は、湊の声を思い出した。
私は、あなたの声を聴きたかった。
その言葉に返す声を、遥はまだ持っていない。
けれど初めて、探したいと思った。




