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放送室のマイクに、君の声がまだ残っている。 ──消えた声が、放課後の空気をやわらかく震わせた。  作者: 二条理|アコンプリス


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第5章 放送室のマイクに、君の声がまだ残っている

 赤いランプが点いた瞬間、放送室の空気が変わった。

 それは、ただの電球の色ではなかった。

 この部屋にいる者は、全員知っている。あのランプが点いたとき、放送室は小さな密室であることをやめる。マイクの前に置かれた息遣いは、廊下へ、教室へ、体育館へ、校庭へ、校舎の隅々へ流れていく。

 言葉は、一度そこから出れば戻せない。

 間違えれば、間違えたまま届く。震えれば、震えたまま届く。泣けば、泣いたことまで伝わってしまう。だから放送部員は、マイクの前に座るとき、いつも少しだけ背筋を伸ばす。

 相沢遥は、マイクの前で息を吸った。

 午後四時十二分。

 文化祭最後の校内放送が始まる時間だった。

 窓の外では、来場者が帰り支度を始めている。廊下の模擬店には、まだ最後の呼び込みの声が残っていた。体育館では後片づけの指示が飛び、校庭では軽音楽部の機材を運ぶ音がする。

 そのすべての上に、これから自分たちの声が降る。

 遥の右側では、中尾航がミキサー卓に向かっていた。ヘッドホンを片耳に当て、指先はフェーダーの上に置かれている。いつもより口数が少ない。だが、彼の機材を見る目は確かだった。怒りや悲しみをどう扱えばいいのかわからない代わりに、ケーブルとスイッチだけは裏切らない。そのことに救われているようにも見えた。

 左側には三枝莉音が立っている。背筋を伸ばし、原稿を持つ指に余計な力は入っていない。アナウンス担当らしく、彼女は本番に強い。ただ、湊の名前が書かれた箇所に視線が落ちるたび、まぶたがわずかに揺れた。

 桃井千夏は、ノートから清書した原稿を両手で抱えている。紙の端は少し曲がっていた。何度も読み返し、何度も持ち直した跡だった。北見悠斗はパソコンの前に座り、湊の音声ファイルの波形を見つめている。彼の仕事は、湊の声を流し、止めること。そして、最後の無音を届けること。

 神谷律は、壁際にいた。

 前には出ない。マイクの前にも座らない。だが、放送室を去ることもしなかった。かつてこの場所から逃げた人が、今は逃げずに立っている。それだけで、遥には十分だった。

 受話器は、机の横に戻されている。

 ほんの数分前、その向こうから湊の声が聞こえた。

 遥。今から、聴いてる。

 それは、録音ではなかった。

 今、この世界のどこかで息をしている湊の声だった。

 どこにいるのかはわからない。県外へ向かう車の中なのか、新しい町の駅なのか、見知らぬ部屋なのか。だが、湊は聴いている。放送室に残した声がどう返されるのかを、どこかで待っている。

 返事、するから。

 遥はそう言った。

 その約束だけが、今の自分をマイクの前に座らせていた。

 中尾が指を一本立てた。

 開始の合図。

 遥は台本の最初の行を見た。

 そこには、湊の音声から始める、と書かれている。

 北見が再生ボタンに手を置いた。

 遥は頷いた。

 スピーカーの奥で、小さなノイズが鳴った。

 そして、湊の声が校舎に流れた。

「こんにちは。放送部の高村湊です」

 その一声で、放送室の誰もが動きを止めた。

 何度も聴いた声だった。

 けれど、本番の校内スピーカーを通して流れると、それはまったく別のものになった。放送室の狭い壁に反射していた声が、廊下の長さを得て、校舎全体の空気を震わせる。

「たぶんこれは、私がこの学校で流す最後の声です」

 遥は目を閉じた。

 校舎のどこかで、誰かが足を止めている気がした。

 体育館で椅子を運んでいた生徒が、手を止める。教室で模造紙を剥がしていた一年生が、顔を上げる。職員室で書類を整理していた教師が、ペンを置く。湊の声を知っている者は、その声に気づく。知らない者も、何か普通ではない放送が始まったことを感じる。

「急にいなくなって、ごめんなさい。直接言えなかったことも、ごめんなさい。これは言い訳ではありません。私は、ちゃんと言う勇気がありませんでした」

 湊の声は、落ち着いていた。

 落ち着いているからこそ、痛かった。

「文化祭の最後の放送を、私はとても楽しみにしていました。放送部のみんなと、最後にひとつの番組を作れることが、本当に嬉しかった。だから、私がいなくなっても、放送を空っぽにしたくありませんでした」

 中尾がフェーダーに置いた指を強くした。

 桃井は唇を噛んでいる。

 三枝は視線を原稿に落としたまま、湊の声を聞いていた。

「でも、それはたぶん、私の勝手です。みんなが怒っていたら、それでいいです。泣いていたら、それでもいいです。私の声を聴きたくないと思ったなら、それも当然だと思います」

 湊の声に、小さな息が混じった。

 北見が波形を見つめる。

 その奥には、市民会館の風鈴がある。踏切がある。換気扇がある。湊が一人で声を残した部屋の音が、今、校舎全体に薄く重なっている。

「私は、放送室が好きでした。マイクの前に座ると、自分がここにいていいような気がしました。教室では言えないことも、廊下では飲み込んでしまうことも、放送室では少しだけ声にできました」

 遥は、湊の横顔を思い出した。

 赤いランプが点く直前、湊はいつも一度だけ目を閉じた。それは集中しているのだと思っていた。これから声を届けるための儀式なのだと。

 でも今は、少し違って見える。

 湊はきっと、怖さを飲み込んでいた。

「この学校で過ごした時間は、短かったかもしれません。でも、私にとっては大切でした。朝の放送を聴いてくれた人。昼の連絡に文句を言いながら耳を傾けてくれた人。文化祭の準備で走り回っている人。放送室の前を通るたび、少しだけ中を覗いていった人。全部、覚えています」

 その言葉を、どれほどの生徒が自分に向けられたものとして受け取っただろう。

 湊の声は、不思議だった。

 全校に向けて話しているのに、一対一で言われているように聞こえる。遥は、その力をずっと羨んできた。そして、今も羨ましかった。

「放送部のみんなへ」

 湊の声が少し変わった。

 放送室の全員が、同時に顔を上げた。

「中尾くん。機材をお願いします。あなたが整えた音なら、きっと最後まで届きます」

 中尾は顔を歪めた。

「うるせえよ」

 小さな声だった。

 マイクには乗らない。

「桃井さん。あなたの言葉を消さないでください。あなたの書いた一文を、私は最後に聴きたいです」

 桃井の目から涙がこぼれた。けれど、原稿を握る手は離さない。

「北見くん。私の無音を聴いてくれてありがとう。言えなかったことまで拾おうとしてくれて、ありがとう」

 北見は画面を見つめたまま、ほんの少し頷いた。

「莉音。あなたの声は、ちゃんと前に進む声です。私の真似をしなくていい。あなたが思っているより、あなたの声は強いです」

 三枝の喉が動いた。

 彼女は原稿から目を離さなかった。

「遥」

 名前を呼ばれた瞬間、遥の胸が跳ねた。

「あなたの声を、私は聴きたいです」

 そこで、湊の音声は止まった。

 北見が決められた位置で再生を止めたのだった。

 放送室の中にも、校舎の中にも、わずかな沈黙が生まれた。

 この沈黙も、放送の一部だった。

 湊の声が消えた後に何を届けるのか。そこからが、自分たちの番だった。

 中尾がマイクの前に立った。

 彼は原稿を持っていなかった。持てと言っても、たぶん拒んだだろう。彼はマイクの高さを少し乱暴に直し、咳払いをした。

「放送部、二年の中尾です」

 校内に、中尾の声が流れる。

 普段は裏方に徹している彼の声を、全校生徒が聞くのは初めてかもしれなかった。

「高村。俺はまだ怒ってるからな」

 放送室の中で、桃井が驚いた顔をした。

 廊下のどこかで、かすかな笑い声が起きた気がした。

 中尾は続けた。

「勝手にいなくなって、勝手に音声残して、勝手に機材を頼んで。ふざけんなって思ってる。直接言えよって思ってる。今でも思ってる」

 言葉は荒い。

 けれど、その声は震えていた。

「でも、機材は直した。ケーブルも替えた。マイクのスポンジも洗った。お前が帰ってきても、すぐ使えるようにしてある」

 中尾は一度、息を吸った。

「だから、帰ってきたら文句言わせろ。以上」

 中尾はマイクから離れた。

 目元を拭うふりもせず、ただミキサー卓に戻った。誰も彼に何も言わなかった。言えば壊れてしまうことがわかっていた。

 次に桃井が立った。

 彼女は原稿を持っていた。紙は震えている。だが、声は思ったよりもはっきりしていた。

「放送部、一年の桃井千夏です」

 桃井は一度だけ遥を見た。

 遥が頷くと、桃井は原稿へ目を落とした。

「放課後の廊下には、まだ誰かの言いそびれた言葉が落ちている」

 その一文が校舎に流れた。

 湊が拾った言葉。

 桃井が消そうとした言葉。

 今、それは全校に届いている。

「文化祭のあと、教室には紙くずが落ちています。剥がした飾りの切れ端や、使い終わったチケットや、誰かが書いた看板の下書き。たぶん明日には片づけられて、いつもの教室に戻ります」

 桃井の声は、少しずつ強くなった。

「でも、片づけられないものもあります。言えなかったありがとう。言えなかったごめん。言えなかった寂しい。言えなかった行かないで。そういう言葉は、たぶん床には落ちません。でも、どこかに残ります。廊下に。教室に。放送室に。誰かの胸の中に」

 放送室の中で、三枝が静かに目を伏せた。

「私は、自分の言葉をすぐ消してしまう人間でした。恥ずかしいから。下手だから。誰かに笑われるのが怖いから。でも、高村先輩が、消さないでと言ってくれました」

 桃井は、紙から目を上げた。

「だから、消しません。言いそびれた言葉を、今日だけは拾います。高村先輩。私たちは、あなたがいなくなって寂しいです。怒っています。悲しいです。でも、あなたの声がここに残っていてよかったとも思っています」

 最後の一文で、桃井の声は少しだけ揺れた。

「この放送が、誰かの言いそびれた言葉を拾う場所になりますように」

 桃井は頭を下げた。

 誰に向けての礼なのか、遥にはわからなかった。湊へか。校舎へか。自分の言葉へか。

 次は北見だった。

 彼はマイクの前に立つと、何も持たずにしばらく黙った。

 沈黙が長い。

 中尾が心配そうにフェーダーを見た。だが北見は、ただ耳を澄ませているのだと遥にはわかった。

「放送部、一年の北見です」

 北見の声は小さかった。

 それでも、マイクはそれをきちんと拾った。

「僕は、大きい音が苦手です。笑い声も、怒鳴り声も、体育館の笛も、苦手です。だから、放送室に逃げていました」

 校内に流すには、あまりに個人的な告白だった。

 けれど誰も止めなかった。

「高村先輩は、知らないふりをしてくれました。鍵の場所も、教えないまま残してくれました。僕はそれが、嬉しかったです」

 北見はパソコンの画面を見た。

「高村先輩の音声には、声以外の音が入っていました。踏切、風鈴、換気扇、紙を破る音。言葉にならないものが、たくさん入っていました」

 彼は息を吸った。

「僕は、それを聴きました。全部はわかりません。でも、先輩が一人で録音していたことはわかりました。怖かったことも、たぶん少しわかりました」

 北見の声は、そこでわずかに震えた。

「高村先輩。あなたの無音、ちゃんと聴こえました」

 短い言葉だった。

 だが、その言葉が一番深く届いたように遥には思えた。

 北見はマイクから離れた。

 そして、パソコンを操作した。

 放送に、数秒の無音が流れる。

 完全な無音ではない。

 放送室の環境音が、微かに混じっている。機材の小さな駆動音。誰かの呼吸。紙がかすれる音。人がそこにいるという、ほとんど聞こえない証拠。

 湊が残した無音への、北見なりの返事だった。

 次に、三枝が立った。

 彼女は原稿を持っている。

 だが、マイクの前に立つと、その原稿を机に置いた。

「放送部、二年の三枝莉音です」

 声は、よく通った。

 いつもの三枝の声だった。明るく、姿勢が良く、聞く人を前へ向かせる声。

「私は、高村先輩みたいな声になりたかったです」

 放送室の誰もが、彼女を見た。

 三枝はまっすぐ前を見ていた。

「高村先輩の声は、ずるいです。聞いた人が、勝手に安心する。大丈夫じゃないのに、大丈夫かもしれないと思ってしまう。私は、そういう声になりたかった」

 少し間を置く。

「でも、なれませんでした」

 言葉は、敗北のようで、どこか清々しかった。

「高村先輩。私はあなたが羨ましかったです。あなたがマイクの前に座ると、みんなが自然に静かになるのが羨ましかった。あなたが褒めた言葉を、みんなが大事にするのが羨ましかった。あなたがいなくなって、怒ったのは、寂しかったからだけじゃありません。置いていかれた気がしたからです」

 三枝の声が、ほんの少しだけ低くなる。

「でも今日からは、自分の声で話します。あなたの真似ではなく、あなたの代わりでもなく、私の声で」

 彼女は原稿を一度見て、笑った。

「だから、いつかまた会ったら、ちゃんと聴いてください。私の声、けっこう強いので」

 その言葉に、放送室の中で少しだけ笑いが生まれた。

 三枝はマイクから離れると、目元を指で押さえた。

「泣いてない」

「まだ誰も言ってない」

 中尾がぼそりと言った。

 最後は、遥だった。

 中尾が視線で合図する。

 湊の音声も、仲間たちの返事も、もう流れた。

 残っているのは、遥の声だけだった。

 机の上には、最後のページが置かれている。

 そこには、たった一行。

 湊へ。

 その先は、空白のまま。

 遥はマイクの前に座った。

 指先は震えていた。

 喉も乾いている。

 心臓の音が、マイクに拾われるのではないかと思うほど大きかった。

 湊のようには話せない。

 湊のように、最初の一声で空気を変えることはできない。

 それでも、湊は聴きたいと言った。

 あなたの声を、私は聴きたいです。

 遥は息を吸った。

「放送部、二年の相沢遥です」

 自分の声が、校舎に流れた。

 少し硬い。少し遅い。けれど、逃げてはいなかった。

「湊」

 名前を呼んだ。

 全校に向けた放送の中で、たった一人へ向けて。

「私は、あなたがいなくなって、少しだけほっとしました」

 放送室の空気が、一瞬止まった。

 中尾も、桃井も、北見も、三枝も、神谷も、誰も動かなかった。

 遥は続けた。

「こんなこと、言うべきじゃないと思います。でも、言わないと、たぶん私はこの放送を終われません」

 声が震える。

 それでも止めなかった。

「あなたがマイクの前にいると、私はいつも自分の声が小さくなる気がしていました。あなたみたいに話せない。あなたみたいに届かない。あなたみたいに残らない。そう思っていました」

 遥は目の前のマイクを見た。

 銀色の網目の奥に、湊の気配があるような気がした。

「だから、あなたがいなくなったと聞いた朝、悲しいより先に、ほんの少しだけ軽くなりました。もう比べられなくて済む。もう、あなたの半歩後ろにいなくて済む。そう思った自分がいました」

 胸が痛かった。

 だが、それは自分がずっと隠してきた痛みだった。

「そんな自分が嫌でした。あなたを好きだったのに。憧れていたのに。あなたの声を誰より近くで聴いていたかったのに」

 遥の目から涙が落ちた。

 涙が原稿の空白に落ちる。

 湊へ。

 その一行の横に、小さな染みができた。

「でも、あなたの声を聴いてわかりました。私は、あなたに勝ちたかったんじゃない。あなたに、私の声を聴いてほしかった」

 放送室の中で、桃井が静かに泣いていた。

 三枝も目元を押さえている。

 中尾は下を向き、北見は波形を見るのをやめて、遥を見ていた。

 遥は続けた。

「湊。あなたはずるいです。声だけ残して、空白を残して、私たちに返事をさせるなんて、本当にずるいです」

 少しだけ笑った。

 泣きながら笑う声は、不格好だった。

「でも、返事をします」

 遥は、マイクに向き直った。

「放送室のマイクには、まだ君の声が残っています」

 タイトルの言葉が、校舎に流れた。

「朝の挨拶にも、昼の連絡にも、文化祭の台本にも、ミキサー卓の前にも、机の下の鍵にも、市民会館で録った無音にも、あなたの声は残っています」

 声が、少しずつ自分のものになっていく。

「でも、そこに私たちの声も重ねます。中尾の怒った声も、桃井さんの消さなかった言葉も、北見くんが聴いた無音も、莉音の前へ進む声も、神谷先輩が逃げずに残った沈黙も、全部重ねます」

 神谷が目を閉じた。

「だからこれは、さよならの放送じゃありません」

 遥は、湊の電話の声を思い出した。

 今から、聴いてる。

「これは、返事の放送です」

 そこで一度、息を吸った。

 最後の言葉は、用意していなかった。

 けれど、不思議と怖くなかった。

「湊。ちゃんと聴いていてください。私たちは、ここにいます」

 遥はマイクから離れた。

 中尾が音量を絞る。

 北見が最後のトラックを流した。

 放送室の環境音。

 ほんの数秒の無音。

 誰も話さない。

 けれど、誰かがそこにいる。

 それは、湊が残した無音への、全員からの返事だった。

 やがて、中尾がフェーダーを下げた。

 赤いランプが消えた。

 最後の放送は終わった。

 しばらく、誰も動かなかった。

 終わったという実感がなかった。言うべきことを言ったはずなのに、胸の中にはまだたくさんの言葉が残っている。だが、それでよいのかもしれない。言葉は一度ですべて伝わるものではない。声も、一度で終わるものではない。

 桃井が最初に泣き出した。

 声を上げず、ただ静かに泣いた。

 中尾は「泣くなよ」と言いかけて、やめた。代わりにティッシュの箱を乱暴に差し出した。

 三枝は椅子に座り込み、天井を見上げた。

「やったね」

 それだけ言った。

 北見は録音データを保存しながら、小さく言った。

「届いたと思います」

 神谷は壁にもたれ、深く息を吐いた。

「うん。届いた」

 そのときだった。

 スピーカーから、微かなノイズが鳴った。

 全員が顔を上げた。

 中尾が慌てて機材を確認する。

「何だ。回線、切ったぞ」

 北見も画面を見る。

「再生は止まっています」

 スピーカーは、確かに切れているはずだった。

 それでも、古いスピーカーの奥から、ざらついた音が漏れた。

 短いノイズ。

 風のような音。

 そして、誰かの声が混じった。

「……ちゃんと、聞こえた」

 一瞬だった。

 それが湊の声だったのか、電話回線の残響だったのか、録音データの誤作動だったのか、誰にもわからなかった。

 中尾は機材を睨んだまま固まっていた。

「今の」

 桃井が言う。

 三枝は、何も言わずに目元を押さえた。

 北見はヘッドホンを耳に当てたが、もう何も聞こえなかった。

 神谷は、静かに笑った。

「放送室って、そういう場所なのかもね」

 遥はスピーカーを見上げた。

 古い灰色のスピーカー。

 何度も湊の声を流したスピーカー。

 今はもう沈黙している。

 それでも、遥は確かに聞いたと思った。

 ちゃんと、聞こえた。

 その一言だけで、十分だった。

 文化祭が終わると、校舎は急に疲れた顔になった。

 飾り付けは剥がされ、模擬店の看板は片づけられ、教室には机と椅子が戻された。昨日まで祭りだった場所が、少しずつ日常へ戻っていく。その変化は寂しかったが、嫌ではなかった。

 湊がいない日常も、きっとそうやって始まるのだと思った。

 次の日の朝、遥はいつもより早く学校へ行った。

 放送室の鍵を借りると、森崎は何も言わずに渡してくれた。昨日の放送について、教師たちがどう受け止めたのかはわからない。注意されるかもしれないと思っていたが、森崎はただ一言だけ言った。

「いい声だった」

 遥は頭を下げた。

 放送室は、朝の光の中にあった。

 文化祭の名残はほとんど片づけられている。ミキサー卓の横には、洗われたマイクスポンジが乾かしてあった。机の下の鍵は、北見のためにそのまま残されている。ホワイトボードの十六時十二分という文字は消され、新しく「朝放送 担当:相沢」と書かれていた。

 机の上に、新しい台本が置かれていた。

 表紙には、桃井の字でタイトルが書かれている。

 放送室のマイクに、君の声がまだ残っている

 その下に、小さく追記があった。

 でも、今日からは私たちの声も残る。

 遥はしばらくそれを見つめた。

 やがて、椅子に座る。

 マイクの前に、台本を置く。

 朝の校内放送まで、あと一分。

 中尾はいない。桃井も、北見も、三枝も、神谷もいない。今日は遥一人だった。

 けれど、一人ではない気がした。

 この部屋には、たくさんの声が残っている。

 湊の声。

 中尾の怒った声。

 桃井の消さなかった言葉。

 北見の静かな声。

 三枝の前を向く声。

 神谷の後悔を含んだ声。

 そして昨日、初めて自分で返した声。

 遥はスイッチに手を伸ばした。

 赤いランプが点く。

 校舎が、朝の放送を待つ。

 遥は深く息を吸った。

 湊の真似ではなく。

 湊の代わりでもなく。

 自分の声で。

「おはようございます。今日も、ちゃんと朝が来ました」

 その言葉が、校舎に流れた。

 かつて湊が言っていた言葉だった。

 でも、もう湊だけのものではなかった。

 廊下の向こうで、誰かが足を止めた気がした。教室で、誰かが顔を上げた気がした。スピーカーの向こうで、校舎が少しだけ息をした。

 遥は台本に目を落とした。

 今日の連絡事項は、文化祭の片づけについて。落とし物の案内。部活動の予定。何でもない朝の放送だった。

 けれど、声は確かに届いていく。

 誰かの声が消えた場所に、別の誰かの声が生まれる。

 消えたわけではない。

 重なっていくのだ。

 放送室のマイクには、今日も誰かの声が残っていく。

 遥は最後まで読み終えると、少しだけ間を置いた。

 そして、台本にはない一言を添えた。

「それでは、今日も、いってらっしゃい」

 赤いランプが消える。

 放送室に、朝の静けさが戻った。

 窓の外で、風が吹いた。

 ブラインドがかすかに揺れ、机の上の台本の端が持ち上がる。

 放課後の空気は、まだやわらかく震えていた。

 了



 最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。


 本作『放送室のマイクに、君の声がまだ残っている』は、「消えた誰かの声に、残された人たちはどう返事をするのか」という問いから生まれた物語です。


 高村湊は、姿を消しました。

 けれど、彼女は完全にいなくなったわけではありません。


 声は、形のないものです。

 録音しなければ消えてしまうし、録音しても、いつか再生されなくなるかもしれない。

 それでも、誰かがかけてくれた言葉や、言えなかった一言や、耳に残った呼吸のようなものは、意外なほど長く人の中に残ります。


 湊が残したものは、完璧な別れの言葉ではありませんでした。

 むしろ、ずるくて、不完全で、残された人たちを困らせる声でした。


 けれど、その不完全さがあったからこそ、遥たちは自分たちの声で返事をすることができました。

 誰かの代わりになるのではなく、誰かの声を消すのでもなく、そこに自分たちの声を重ねていく。

 この作品でいちばん書きたかったのは、その瞬間でした。


 放送室という場所は、小さな密室でありながら、声が校舎中へ広がっていく不思議な場所です。

 ひとりでマイクの前に座っているのに、声は誰かの教室へ、廊下へ、胸の中へ届いていく。

 そんな場所だからこそ、言えなかったこと、隠していたこと、飲み込んできたことが、少しだけ外へ出ていけるのだと思います。


 もしこの物語の中に、忘れられない声や、言いそびれた言葉や、もう返事をすることのできない誰かを少しでも感じていただけたなら、とても嬉しいです。


 あなたの心にも、誰かの声がまだ残っていますように。

 そして、いつかその声に、あなた自身の言葉で返事ができますように。


 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。


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