2 女神との再会
ユイが教会の前で拾われたのは、雪の降る朝だったらしい。
「らしい」というのは、当然ながら本人に記憶がないからだ。
毛布にくるまれていたのは、捨てた側のせめてもの情けだったのか。
「まあ……あらあら」
ユイを抱き上げた老シスターが、目を丸くしていた。
「この子、あったかい」
赤ん坊というのは普通もっと冷えやすいものなのだが、ユイの身体はぽかぽかしていたらしい。
後から思えば、たぶんカルーシャの加護だ。
適温機能。
赤子時代に一番役立っている。
「捨て子かねぇ……」
「かわいそうに」
「でもまあ、この寒さで生きていたのなら女神のお導きでしょう」
そんな会話を、ぼんやり聞いていた気が今ならする。
もっとも、その頃のユイは完全に赤ん坊だったので、前世の記憶も人格もほとんど眠ったままだった。
ただなんとなく。
無理している人を見ると気になる。
それだけは、ずっと変わらなかった。
三歳になった頃には、教会の中で少し有名になっていた。
ユイは結局、教会に併設されている孤児院で育てられることになったのだ。
「ユイちゃん、またそんなところにいたのかい」
洗濯籠を抱えた老シスター・マルタが苦笑する。
ユイは廊下の隅にちょこんと座っていた。
その隣には、居眠りしている老神官がいる。
しかも頭には毛布が掛けられていた。
「ねむそうだったから」
「おやまあ」
マルタは目を瞬いた。
老神官は最近ずっと忙しかった。
冬前の炊き出し準備や、葬儀や祈祷が重なっていたのだ。
「おみずものませた」
「……それで水差しが空だったのかい」
ユイはこくりと頷く。
マルタは思わず笑ってしまった。
この子は妙に人を見る。
誰が疲れているか。
誰が無理しているか。
幼いのに、なぜかよく分かっている。
しかも不思議なことに、ユイに「休みなさい」と言われると、皆なんとなく休んでしまうのだ。
「シスター、ちゃんとねてる?」
今度はマルタに矛先が向いた。
「えっ」
「めのした、くろい」
三歳児に真顔で言われ、マルタは吹き出した。
「ははぁ、これは参ったねぇ」
「おちゃのむ?」
「いただこうかね」
差し出されたのは、ぬるめの白湯だった。
なぜかちょうどいい温度。
マルタは目を細めた。
「ユイは優しい子だねぇ」
するとユイは、なぜか少しだけ困った顔をした。
「……つらいの、やだから」
ぽつりと呟く。
三歳児らしからぬ声音だった。
マルタは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに柔らかく笑った。
「そうだねぇ」
しわくちゃの手が、ユイの頭を撫でる。
温かい。
ユイはその手の感触が好きだった。
四歳になる頃には、教会でのユイの扱いはほぼ「小さな癒やし係」になっていた。
「シスター、すわって」
「まだ仕事が――」
「だめ」
「はい」
なぜか皆、素直に従う。
今日は書類整理をしていた若い神官が捕まっていた。
「かた、いたい?」
「えっ、なんで分かったの」
「かお」
「顔に出てた!?」
ユイはむむっと眉を寄せた。
「むりすると、あとでうごけなくなる」
「……誰に聞いたの?」
「なんとなく」
若い神官は苦笑した。
この子は時々、妙に年寄りくさい。
子供らしく無邪気に遊ぶこともある。
だがその一方で、時々驚くほど達観したことを言うのだ。
「はい、おちゃ」
「ありがとう」
「あと、おふろはいって、はやくねる」
「母親みたいなこと言うなぁ」
思わず笑うと、ユイは少しだけむっとした。
「ねないと、だめ」
「はいはい」
その時だった。
教会の奥から、大きな物音が響いた。
がしゃんっ!
「うわっ!?」
若い神官が飛び上がる。
見ると、奥の倉庫から老シスターがよろよろ出てきた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「ああ、ごめんなさいねぇ……少し立ちくらみが」
顔色が悪い。
ユイはすぐ駆け寄った。
「すわって!」
「ユイちゃん?」
「みずもってきて!」
周囲の大人たちが慌てて動く。
老シスターは椅子に座らされ、水を飲まされた。
「……ふぅ」
「シスター、むりした」
「そうねぇ……」
老シスターは困ったように笑う。
「最近、少し眠れなくて」
「ちゃんとねて」
「でも仕事が――」
「しごとは、にげない」
ぴしゃり、と。
四歳児とは思えない口調でユイは言った。
周囲がしん……と静まる。
ユイ自身も、あれ、と思った。
今の言い方。
なんだか、とても懐かしい。
誰かに。
自分自身に。
何度も言い聞かせてきたような気がした。
「しごとはにげないし、みんなでしたらいいの。だからやすむときにはみんなちゃんとやすもう」
ユイの幼くやわらかな言葉はその場にいる働き者たちにしみた。
ユイが五歳になった春。
教会では、祝福の儀が行われることになっていた。
この国では、五歳になると女神へ祈りを捧げ、加護を授かる儀式を受ける。それは貴族だろうと孤児だろうと一律に。
唯一の例外は王族だ。王族だけは、王になるなら即位の時に女神が降りてきて加護を与える。王になるもの以外は、一律で16歳になった時と決まっていた。そして王として即位したものには、二重に加護が与えられれる。
大人たちは皆、それを当たり前のように受け入れていた。
けれどユイは、朝から妙に落ち着かなかった。
「ユイちゃん、緊張してるのかい?」
髪を梳かしながら、シスター・マルタが優しく笑う。
「……なんか、へんなかんじ」
「へんな感じ?」
「だいじなこと、わすれてるみたいな」
自分でも上手く説明できない。
胸の奥がそわそわする。
誰かを待っているような。
懐かしいものを思い出しかけているような。
そんな感覚。
「大丈夫だよ」
マルタは穏やかに言った。
「女神カルーシャ様は、お優しい方だからねぇ」
――カルーシャ。
その名前を聞いた瞬間。
胸の奥が、どくん、と大きく鳴った。
「……カルーシャ」
「ん?」
「ううん」
なぜか泣きそうになって、ユイは小さく首を振った。
礼拝堂には、柔らかな光が満ちていた。
高い天井。
白い柱。
色硝子から差し込む春の暖かく柔らかな日差し。
初めて踏み入れた礼拝堂はとても厳かで美しい場所だった。
そして正面には、女神カルーシャの像。
長い髪をたなびかせ、穏やかに微笑む女神像を見た瞬間。
ユイの呼吸が止まった。
知ってる。
この人を。
胸がざわつく。
頭の奥が熱い。
「ユイ?」
隣にいたマルタが心配そうに覗き込む。
けれどユイには、その声すら遠かった。
神官が祝詞を読み上げる。
「慈悲深き女神カルーシャよ――」
頭が、痛い。
白い部屋。
汗。
雷。
泣き声。
『つらいですぅ……!』
その瞬間。
ぶわり、とユイの記憶が弾けた。
「――っ!」
病院。
五十八年の人生。
更年期。
死。
白い空間。
汗だくの女神。
『私は、貴女の味方です』
全部。
全部、一気に戻ってきた。
「カルーシャ!!」
幼い声が、礼拝堂に響いた。
周囲がざわめく。
「ユイちゃん!?」
だが次の瞬間。
女神像が、ふわりと光を帯びた。
「なっ……!?」
神官たちが息を呑む。
礼拝堂を満たす空気が変わる。
柔らかく。
温かく。
春の日向みたいな気配。
ユイの目から、ぼろぼろ涙が落ちた。
「カルーシャ、ちゃんと寝てる!?ご飯食べてる!?無理してない!?」
第一声がそれだった。
礼拝堂中が静まり返る。
神官たちがぽかんとしている。
マルタだけが、「ああ……」みたいな顔をした。
すると。
像の前に、淡い光が集まり始めた。
ゆらり、と。
金色の光が人の形を取る。
長い銀髪。
金色の瞳。
見覚えしかない絶世の美女。
女神カルーシャ本人だった。
「ユイ……!」
カルーシャは感極まったように両手を胸の前で組んだ。
「大きくなりましたね……!」
「五歳だよ!」
「十分大きいです!」
なんか感動の基準がおかしい。
だがカルーシャの目にはうっすら涙が浮かんでいた。
「覚えていてくれたのですね……!」
「忘れてたわよ!今思い出したの!」
「それでも嬉しいですぅ……!」
泣いた。
礼拝堂の天井で雷がばりっと鳴った。
「情緒!!」
「最近だいぶ安定してきたんですよぉ!」
「ほんとぉ!?」
五歳児と女神の会話ではない。
周囲は完全についていけてなかった。
老神官など半分腰を抜かしている。
「め、女神様が……降臨なされた……?」
「しかもユイちゃんと知り合い……?」
ざわざわと困惑が広がる中。
カルーシャはふわりとユイの前に膝をついた。
視線を合わせる。
あの日と同じ優しい目だった。
「ユイ」
静かな声。
「約束通り、私は貴女の味方です」
その瞬間。
胸の奥が、じんわり熱くなった。
五十八年生きても。
死んでも。
生まれ変わっても。
味方だと言ってくれる存在がいる。
それは思っていたより、ずっと心強いことだった。
だからユイは、涙を拭きながら笑った。
「……うん。私も、カルーシャの味方だからね」
女神は、今度こそ本当に嬉しそうに笑った。
「では今世での加護を授けましょう」
「もうもらってるよ?」
「それとは別にです。ユイ。あなたに授けるのは、前世のあなたが知る漢方の生成のスキルと知識です。この世界で使っているポーションなどの魔法薬などと違い、すぐに効果が出るものではないですが、あなたなら使い方を良く知っているでしょう?」
「漢方?……うん、まあいっぱいお世話になったし、色々種類もあるしね」
「はい。私もあれからいろいろ勉強しました。あなたのことも。あなたが生きた前の世界のことも。それで、あなたに加護を授ける時が来たならこれにしようと思ったのです」
「それってあらゆる漢方ってことでいいの?更年期だけじゃなく」
「はい。あなたの知識にあるものなら」
「なら、風邪とかそういうのにも対応できるね、ありがとう。これで教会に来る領民のみんなの不調に対応できるようになる範囲が広がるよ」
「私の愛し子たちをあなたが守ってくれる……。なんとすばらしいことでしょうか。頼もしく思いますよ、ユイ」
カルーシャの掌がユイの頭のてっぺんに優しく触れる。
瞬間、眩しい光が礼拝堂いっぱいに広がり、ユイに加護が女神カルーシャ直々に授けられる奇跡をそこにいた全員が目の当たりにした。
その日、前世58歳で生涯を閉じた永井結子という女性は、5歳のユイという女神に選ばれた子になったのだ。
もちろん本人にはそんなつもりはないのだが。
「だって、カルーシャは友達だから」
女神を友達だと言い切るその笑顔は大人びていて5歳の子どものものではなかったけれど。
――そして月日は流れた。
「若いって最高……」
朝。
教会の中庭で、ユイはしみじみ呟いた。
「朝起きた瞬間に身体が軽い……階段を降りても膝が痛くない……昨日ちょっと無理しても翌日に残らない……」
前世の10代のころはこれがどれだけ素晴らしいのか知らなかった。
知らずに消費しているだけだった。
十六歳になったユイは、すっかり教会の仕事を任される年齢になっていた。
長い黒髪を後ろで緩くまとめ、簡素な修道服に身を包んでいる。
見た目だけなら、穏やかで落ち着いた美少女だ。
なお中身は実質アラカンである。
「あと視力!見える!遠くまで見える!老眼で苦しんでいたのがウソみたい!」
「ユイ姉さま、朝から何を……」
呆れた声を出したのは、十歳くらいの見習い少女マリナだった。
ユイは真顔で振り返る。
「マリナ。若さはね、有限なの」
「はぁ……」
「腰痛がないだけで人生はかなり幸福よ」
「十六歳の台詞じゃないですよね?」
教会では、ユイの「時々妙に年寄りくさい発言」はもはや日常だった。
もっとも。
五歳の祝福式以来、彼女が本当に女神カルーシャと話せることは周囲も知っている。
最初こそ大騒ぎになった。
聖女だ。
神の愛し子だ。
奇跡だ。
王都から偉い神官まで飛んできた。
だが当のユイが、女神本人に
「カルーシャ最近ちゃんと寝てる?」
しか言わなかったので、なんか違うな、となった。
ちなみに降臨したカルーシャ本人も
『最近はお野菜も食べています!』
とか報告してきた。
女神と聖女の会話とは思えない。
ユイとカルーシャは「友達だから」と言い合い、それが神殿の公式記録にもなっていた。
女神と友達のユイは、教会内では聖女でも何でもなく、ただのシスター見習いとして生きて来た。
「ユイ姉さまって、ほんと変ですよね」
「失礼ね」
「だって十六歳なのに、いつもお年寄りみたいなこと言うし」
「お年寄りを馬鹿にしちゃ駄目よ。年を重ねるのは大変なんだから」
ユイはほうきを持ったまま空を見上げた。
春の青空。
風が気持ちいい。
前世の五十八歳の頃は、季節の変わり目だけで体調が乱高下していた。
暑い。
だるい。
眠れない。
関節が痛い。
気圧で死ぬ。
更年期も終わりかけではあったけど、しんどさはあった。
今?
走れる。
肩が凝らない。
体力たっぷり。
最高。
「身体が軽いって素晴らしい……」
「だから朝から何なんですか」
だがその時。
「ユイーッ!」
ばたばたと誰かが走ってきた。
若い神官のトーマスだ。
「大変です!」
「どうしたの」
「王都からユイ宛で使者が来ています!」
「へぇ」
「聖女ユイに是非会いたいと……!」
ユイは嫌そうな顔をした。
「めんどくさ……」
「聖女が言ってはいけない顔してますよ!?」
だって嫌である。
権力者。
貴族。
面倒事。
五十八年生きた経験が警鐘を鳴らしていた。
関わるとろくなことにならないと。
「断れない?」
「王命レベルです!」
「うわぁ……」
ユイは頭を抱えた。
すると。
ふわり、と。
春風のような気配がした。
『ユイ』
頭の中に、聞き慣れた声が響く。
「カルーシャ?」
『……ちょっと、お願いがあるのです』
その声音に、ユイはぴくりと眉を寄せた。
「その言い方、不穏なんだけど」
ユイの先攻に、女神は少し言いづらそうに言った。
『この国の女王が……かなりつらそうでして……』
ユイは遠い目をした。
「あー……」
察した。
完全に察した。
『最近ずっと情緒不安定で、突然泣いたり怒ったり、頭痛や不眠も酷くて……』
「うん」
『周囲は呪いではないかと……』
「でしょうねぇ……」
異世界、更年期知識ゼロ問題。
深刻である。
『ユイ』
カルーシャの声が少しだけ真面目になる。
『彼女を助けてあげてくれませんか』
その声音は。
かつて白い空間で。
誰にも「つらいですね」と言ってもらえなかった女神のものだった。
ユイは、小さく息を吐いた。
「……しょうがないわねぇ」
五十八歳の経験なんて、普通なら役に立たない。
でもあの頃の自分みたいに。
初めてカルーシャに会った時みたいに。
己の不調の理由も分からず苦しんでいる人がいるなら、放ってはおけなかった。
「分かった。行くわよ、王都」
その瞬間、カルーシャの声がぱっと明るくなる。
『ありがとうございます!』
「その代わり」
『はい?』
「あなたもちゃんと休むのよ」
少しの沈黙。
それから。
『……はい』
どこか嬉しそうな返事に、ユイは苦笑した。
まったく。
女神というのは案外、手が掛かる。




