17 女神のおつかい
トレギスの治療を自宅で三日続けた。
漢方薬とツボ押しのおかげか、寝不足で青白かった顔色にも少しずつ血色が戻り、本人も「昨夜は久しぶりによく眠れた」とこぼすようになっていた。
そんな三日目の朝、トレギスが静かに口を開く。
「そろそろ私は王宮へ戻らねばならん」
「父上、何か急ぎの仕事が?」
「ああ。まもなく、隣国テフェンス帝国より、辺境伯の使節団が来る」
「辺境伯、ですか?」
「ああ。お前も知ってのとおり、テフェンス帝国はこの大陸最大の国だ」
「はい。海に面した広大な交易路を持つ国です」
「ああ、そうだ」
ユイも名前は知っていた。
だが、ユイのいた村とは反対側にある国だったので、本当に名前しか知らなかったのだ。
海に面した国なのか。
「我が国と国境を接する辺境伯が、陛下への親書を携えた使節団を派遣すると、少し前に先触れが届いていた。国境を預かる者がわざわざ使者を寄越す以上、粗略には扱えん」
「確かにその通りです。ですが、どのような用件で我が国へ?」
「それは書簡を確認された陛下にしかわからん。その打ち合わせもあることだし、そろそろ王宮へ戻ろうと思う」
「では私とユイ様も一緒に戻ります。ヨーレフ!ヨーレフはいるか!」
レオルドの声に、すぐにこの家の執事がやってくる。
「お呼びでございますか、坊ちゃま」
「うむ。父上とユイ様と急ぎ王宮に戻る故、馬車の支度を頼む」
「かしこまりました」
「そういうわけでユイ様、父の治療の続きは王宮に戻ってからと言うことで……」
「分かった。じゃあ部屋に戻って、帰る支度してくるわ」
ユイは立ち上がり、借りていた客間に戻ると、そこにまメイド長のマリアンヌが待っていた。
「マリアンヌさん?」
「王宮へ戻られると伺いました」
「え、ええ。なので、帰る支度をしようと思って……」
「僭越ですが、こちらにお荷物はまとめておきました」
マリアンヌが、ユイに漢方のバッグともう一つ大きめのバッグを差し出す。
「え?こっちのバッグは私のじゃ……」
「これは私どもからのお礼です」
「お礼?」
何のお礼?
というユイの疑問の視線にマリアンヌが微笑む。
「使用人一同からでございます。旦那様が、あれほどよく眠られたのは何年ぶりでしょう。坊ちゃまも、毎晩遅くまで付き添われて……。私ども使用人一同、本当に感謝しております」
そう言って、大きな鞄をそっと開ける。
「こちらは道中や王宮でお召し上がりいただける軽食です。それから保存の利く干し果物や焼き菓子、お茶も少し」
「えっ、こんなに?」
「旦那様も坊ちゃまも食事も仕事をしながら済ませてしまわれる方でしたので、ユイ様がお食事をきちんと取るよう旦那様と坊ちゃまに言ってくださったことも、皆喜んでおりました」
「そんな、大したことは……」
「いいえ。家の者には分かるのです。旦那様が少し笑うようになられたことも、坊ちゃまが肩の力を抜いて笑われるようになったことも。なにより、ご自分の生活に関しての見直しをされたことも」
その言葉に、ユイは返す言葉を失った。
「あんなに素直な坊ちゃまを見たのは、まだ奥様が生きておられた頃以来です」
「え……?」
「ああ、これはまだユイ様はご存じないことなのですね。では旦那様か坊ちゃまから伺ってください」
これ以上はきっとマリアンヌは話さない。
そう分かったユイはありがたく土産をもらい、トレギスとレオルドの待つ馬車止めへと向かった。
「お待たせしました」
「いいえ、大丈夫ですよ」
「ああ、問題ない。よし、では王宮へ戻ろう」
三日間お世話になった邸宅の前には、ヨーレフとマリアンヌ、そして使用人一同が並び、頭を下げてこちらを見送ってくれていた。それを見たユイは一度頭を下げてから、二人と一緒に馬車に乗り込んだのだった。
王宮に戻ったユイはカルーシャの待つ自分たちに宛がわれた部屋へとまず向かった。
『おかえりなさい、ユイ!』
ソファに座っておやつを食べていたカルーシャが嬉しそうに立ち上がる。
「ただいま、カルーシャ。はい、これお土産」
『お土産、ですか?』
「そう。宰相様の家でいただいた焼き菓子」
『まあ!』
「お茶入れようか?」
『いえ!私はこれを頂いてます!』
とカルーシャが見せたのは、進化したスライムジュースだった。少しとろみを残しているようだった。
『シーラと料理長が二人で作った新作です!ゼリーほどじゃない弱いとろみのあるジュースをマーガレットが飲んでみたいと言い出して』
「へえ、一口ちょうだい」
『はい、どうぞ』
カルーシャからグラスをもらい、一口飲んでみる。味は少し酸っぱめだった。
『マーガレットの好きな酸味の強い果実水にしてみたそうです』
「ふうん。これなら、炭酸水にしたほうがのど越しも良くておいしいかも」
何気なく言った一言だった。
「ユイ様!たんさんすいとはなんですか!」
バターーーン!
突然ドアが開き、飛び込んできたのはシーラだった。
「し、シーラ!?」
「教えてください!ユイ様!たんさんすいとは!?」
いや、目が血走ってて怖いんだけど……。
「……炭酸水っていうのは、舌にピリピリ来る感覚を楽しむ飲み物だよ」
「舌がぴりぴり……?」
「うん」
「刺激性の液体……?」
「うん、まあ刺激はある、かな?」
「弱い麻痺毒では?」
「違う違う。そういうものなの」
炭酸水は前世でもよく飲んでいた。更年期で気分がすっきりしない日でも、あのシュワッとした喉ごしだけは妙に気持ちよかったのだ。
「そのたんさんすいとやらはどうやって作るのですか?」
「どうやって……って私も知らない。普通に売ってたの買ってただけだし」
「売っていた……?」
「うん。ええと……確か、水に『二酸化炭素』っていう気体を溶かしてたはず」
「気体を……水に?」
シーラの目がさらに輝く。
「気体が液体に溶けるのですか!?」
「う、うん。圧力をかけると溶けるって聞いたことある」
「圧力……」
シーラはその場で何かを書き始めた。
「高圧縮の風魔術で気体を閉じ込め、水魔術で封入……いや、魔力膜で容器を密閉すれば……」
「ちょっと待って、今なんか怖いこと言わなかった?」
「料理長ーーーーーっ!!レオルド様ーーーーーっ!!」
「えっ!?」
シーラは部屋を飛び出していく。
バターン!
2人の部屋に静寂が戻る。
「……行っちゃった」
『また始まりましたね』
カルーシャは焼き菓子を口に運びながら、慣れた様子でうなずいた。
『シーラがああなると、誰にも止められません』
「魔術師ってホント……何なの……?」
『しかし、私も炭酸水は気になります。ユイの前世の世界からお取り寄せして来ましょうか?』
「え?なにそれ、できるの?」
『少し面倒ではありますが、できないことはないです。自然世界にもあるものですか?』
「う、うん。自然にもあるよ。地面の下から最初から泡が入った水が湧く場所があるの。前世でも天然の炭酸水って売られてたよ。どこの国だったかな……ヨーロッパの方だった気がする。ごめん国までは覚えてないや」
『それが分かれば十分です。では、少々行ってまいります。シーラが妙なものを作らないうちに、本物を持ってきたほうがいいでしょう』
「……それには同意するわ。あ、でもカルーシャ。炭酸が抜けたらただの水になっちゃうから、密封して持ってきてね」
『密封ですね、分かりました』
カルーシャは小さく両手を合わせる。
ふわり、と金色の光が部屋いっぱいに広がり、幼い体が浮かび上がる。
次の瞬間、カルーシャの姿は跡形もなく消えていた。




