第9話 罪人なのだろう?
翌日。
護送は、思っていたより静かだった。
少年騎士は遥の斜め後ろを歩き、必要なこと以外は喋らない。剣帯の金具が、歩調に合わせて一定の間隔で鳴る。
昼が過ぎた。
朝から何も食べていない。胃の奥が、きゅう、と縮こまる音を立てた。
「……お腹、空いたんですけど」
「…………」
「駄目ですか」
「待て。規則を確認する」
――確認するんだ。
騎士は懐から小さな紙束を取り出し、真剣な顔でめくり始めた。
指が何度も同じ頁を行き来している。表紙に名前らしきものが見えた。ユリウス、と読めた。
ずいぶん待たされた末に、乾いたパンと干し肉が支給された。
「規則には、あったんですか」
「『護送対象の健康は保持せよ』とある」
「……そうですか」
「腹が減っては健康に障る。よって支給する」
大真面目だった。
パンは石みたいに硬く、噛むほど麦の匂いがした。干し肉は塩辛くて、飲み込むたび喉が鳴った。
仮集落で配られていたものと、たぶん同じ種類の食べ物だ。それでも、干し肉が付くだけで、ずいぶん違って感じた。
歩きながら、遥は聞いてみた。
「……私、何をしたんですか」
「俺に聞くな」
「罪人なんですよね?」
「……そう聞いている」
「誰から?」
「…………」
「知らないんですか」
「護送任務に罪状の把握は必要ない!」
だんだん怪しくなってきた。
この人、もしかして。
私について把握できていないんじゃなくて。
誰かを捕まえたこと自体、初めてなのでは。
そう思って見ると、こちらの足が遅れると、必ず歩みが遅くなっていた。
振り返りもしないのに、である。
罪人を運んでいる、という顔をしているのに、やっていることは付き添いに近い。
*
連れて行かれた先は、想像していた牢獄ではなかった。
城壁。
石造りの街。高い塔。
街の匂いが、風向きごとに変わった。パンを焼く匂い。獣脂の匂い。どこかの厩の匂い。人が生きている場所の、雑然とした厚み。焦げた匂いと土の匂いしか知らなかった鼻には、それがひどく眩しく感じられた。
セルディア王国の王都。
初めて国名を知った。
「セルディア……」
地図帳にあった。小さい国。
北と東を大国に挟まれ、西は山脈、南は川。
地図を見たとき、どうしてこんな小国が残っているのだろうと思った。
今なら、少し分かる。
この国を取れば、その先へ進める。だからこそ、誰か一国に取らせたくない国でもある。
緩衝国。
時代も事情も違う例が、次々に浮かぶ。それでも、小国の位置が周囲の大国の行動を左右する構図には、見覚えがあった。
知らない世界でも、過去の記録を足場にすれば、何を見るべきかくらいは考えられる。
役に立たないと思っていたのに。
今は、知らない世界を理解するための、唯一の物差しになっている。
*
城の前で、ユリウスは立ち止まり、遥を上から下まで見た。
泥が跳ね、裂けたスカート。ほつれた袖。三日分の埃。
「……そんな姿では、お目通りはできん」
「お目通り?」
「まずは風呂に入って、衣服を着替えろ、とのことだ」
連れて行かれた扉の向こうを見て、遥は固まった。
湯気が、顔を撫でた。
「……お風呂?」
「浴場だ」
浴場、という規模ではなかった。
白い石造りの床。並んだ柱。天井は高く、湯気の向こうに、いくつもの浴槽が霞んで見える。水音が石の壁に反射して、幾重にも重なって降ってくる。
遥の知っている風呂というより、歴史資料集で見た――
ローマ浴場。
と、また歴史に結びつけてしまう自分がいた。
「入れ」
「……あなたは?」
「ここにいる」
「…………」
「何だ」
「出てください」
「なぜだ」
「なぜって……」
言葉に詰まった。
詰まってから、自分でも意外なくらい、はっきり声が出た。
「お風呂に入るからです」
他に言いようがなかった。
「だから見張るのだ。お前は罪人なのだろう? 罪人が羞恥など――」
遥の眉が、ぴくりと動いた。
遥は背を向けて、ブレザーのボタンを外し、肩から落とした。
……少しムキになってしまった。
「ま、待て」
さっきまで威勢のよかった声が、裏返った。
「……何ですか」
「せめて向こうを向いていてやる」
「…………」
「なんだ、その目は」
「いえ」
くるり。
ものすごい勢いで、ユリウスは壁を向いた。
耳が赤い。首筋まで赤い。
直後、湯桶を抱えた侍女たちがぞろぞろと入ってきて、壁を向いたままのユリウスを「殿方は外へ!」と問答無用でつまみ出した。
「か、監視を――」
「私たちが行いますので、ご心配なく!」
扉が閉まる。
広い浴場に、湯の音だけが残った。
*
湯は、熱かった。
肩まで沈むと、三日分の緊張が皮膚の下からじわじわ溶け出して、指の先まで痺れた。土と煙と汗が湯に流れていく。掌の爪の跡と、右の踵だけが、少しだけ沁みた。
石の天井に、湯気がゆっくりと渦を巻いている。
急に可笑しさが込み上げてきて、遥は少しだけ笑ってしまった。
縄をつけられてから、ずっと胸の奥にあった怖さが、いつの間にかほどけている。
罪人だと言われて、王都まで連れて来られて、そのあげくが、これだ。
――ユリウス。少年騎士。
この人が、私を運んできた。
遥に弟はいない。
だから、本当にこんなものなのかは知らない。
でも、もし弟がいたら。
生意気なことを言って、格好をつけて、それなのに肝心なところで慌てる。
こんな感じだったのかもしれない。
*
湯から上がると、衣裳が用意されていた。
白い長衣。その上から重ねる、濃紺の胴衣。裾と袖口には、細い金の線が糸のように走っている。腰は同じ濃紺の帯で結び、房飾りが一筋垂れた。肩からは薄い紗が掛かり、歩くたび、白い裾の上を霞が流れるように動く。
袖を通すと、絹に似た布が驚くほど軽かった。肌の上を、水が滑るように落ちていく。制服の、体に馴染んだ重さとはまるで違った。
白が、多い。
濃紺は縁取りのように置かれているだけで、身体のほとんどは白い布に包まれている。
入るときに預けた荷物は、脱衣の場所に揃えて置かれていた。一番上で、レオンの外套が丁寧に畳み直されている。誰かが埃を払って、乾かしてくれたらしい。
鏡の中に、知らない国の娘がいた。
濡れた黒髪。見慣れない衣。姿勢だけが、いつもの自分だった。
……借り物だ。
髪も、肌も、洗われて、着せられて。自分で用意したものが、何一つない。
*
浴場の外では、ユリウスが直立不動で待っていた。
遥を見て、一瞬固まる。
「……どうかしましたか?」
「なんでもない! 行くぞ!」
大きな扉の前で、ユリウスは足を止めた。
磨かれた石の廊下に、二人分の足音がやけに高く響いていた。
ストーリーの途中ですが、やや閑話でした。浴場のモデルはローマの公衆浴場です。新米騎士の初仕事に幸あれ。




