第10話 二万
遥はユリウスに連れられ、謁見の間へ進む。
扉が開く。
空気が変わった。
冷えた石と、蜜蝋と、香を焚いた匂い。高い天井から吊るされた旗が、風もないのにわずかに揺れている。左右に騎士と文官が並び、視線が一斉にこちらを向いた。
そして正面。
玉座のそばに立っていた人物を見て、遥は止まった。
明るい金色の髪。
旅人の服ではない。濃紺と銀の正装。肩には、王家の紋章。
レオン。
遥は数秒、何も言えなかった。
「……人徳?」
思わず出た。
謁見の間が、静まり返る。
レオンが吹き出した。
「ごめん。あれはちょっと嘘だった」
隣の老臣が咳払いする。
「殿下」
殿下。
遥の頭の中で、今までの違和感が全部つながった。
兵士が従う。負傷者の天幕へ自由に入る。軍の情報を知っている。旅人にはしない、兵のあの一礼。
「改めて自己紹介させてくれ、ハルカ。私はこの国セルディアの王太子、レオン・セルディアだ」
「……聞いてません」
遥は呟いた。
「聞かれなかったから」
「普通、言います」
「お忍びだったからね」
何それ。
私の知っている王――いや、高位の人も、被災地を見舞ったりする。当然に、姿を曝して。その存在が、みんなを元気づけたり、勇気づけたりできるからだ。
でも、この人は違うらしい。
王太子がいると分かれば、みんな態度を改めてしまう。避難民も、怪我人でさえも。そうでなくても極限にいる人たちの、さらに負担になりかねない。
だから、隠していたのだという。
民や兵と同じ目線で、力になりたいということだろうか。
称賛されない。評価も、されない。
陰徳、というやつだ。
どちらが正しいということもないのだろうけれど。
――私は、この王太子のやり方が好きかもしれない。
*
そんなことを考えていると、謁見の間の横扉が開いた。
黒髪の男が入ってくる。
橋の将軍だった。
磨かれた床に、その足音だけが場違いに硬く響く。
「クラウス。セルディア軍の将軍だ」
レオンが、何でもないことのように紹介した。
橋で部下が呼んでいた名と同じだった。けれど遥の中では、ずっと「橋の将軍」のままだった。
「殿下。何度も申し上げておりますが、臣下の紹介など、率先して行わないでください。発言のお許しをいただければ、自ら名乗ります」
「クラウス、私はそういう息苦しいのは苦手なんだよ。何度も言っているようにね」
冗談めかして返す。
「君も昔のようにレオンと呼んでくれていいんだよ」
クラウスは小さく嘆息した。
目線を移すと、老臣も嘆息していた。
再びレオンが口を開く。
「クラウス、この子だろう? ……ハルカだ」
クラウスは遥を見るなり、眉間に皺を寄せた。
「……なぜ逃げた」
「……なんとなく、です」
少し、間が空く。気まずくなって、遥は口を開いた。
「余計なことを、言ってしまったかと思ったので」
はっと思い直したように、言葉を続ける。
「それに、捕まえろって。あとから知った話ですけど」
クラウスがわずかに目を見開く。
「誰がそんな命令をした」
「軍が」
「俺は探せと言っただけだ」
「同じじゃないですか」
「全く違う。迎え、知る必要があると考えた」
再び、間が空いた。広い空間が、なんとも言えない空気になってしまった。
「――あの」
遥はおずおずと手を挙げた。
「私、捕まったんじゃないんですか。護送の騎士の人が、罪人だと」
クラウスのこめかみに、筋が浮いた。
「……ユリウス」
扉の外から、勢いよく声が返ってきた。
「私はそのように認識しておりました!」
「お前の未熟な認識など聞いていない!」
レオンが吹き出し、老臣が天井を仰いだ。
縄も、護送も、罪人扱いも。
あの新米騎士の早とちりだったのだろうか。
昨日からの恐怖の正体が、それだったのかと思うと、力が抜ける気がした。
*
「本当は色々と聞きたいところなのだけれど」
レオンが言った。
「先にこちらの状況を話させておくれ。クラウス」
「承知いたしました」
クラウスが卓の上に地図を広げた。羊皮紙が、乾いた音を立てる。
「ベルグラント軍が国境を越えた。お前が見たという三千八百は、先遣だ」
唐突に、何かが始まった。
軍? 国境?
何を言っているかは分かる。けれど、何を言われているのかが分からない。
ただ、三千八百という数には覚えがあった。あの仮集落に迫ってきた人数。
自分に関係のある話をされていることだけ、なんとなく分かった。
「本隊は、二万を超える」
二万。
数字が、耳の奥で反響した。
私の知っている二万人。
家族と一緒にライブを見に行った、都会にある大きなアリーナ。少し高い所から見たとき、会場の前や物販が随分遠くから行列になっていて、いつになったら辿り着けるのだろう、と思ったりした。
あの会場の収容人数が、確か二万人。
その人数が国境を越えた、とは?
あの集団、という言葉では生やさしく感じる人の「塊」が、まとまって移動している? 国を越えるほどの、超長距離を?
色々と踏み荒らされるだろうな。ゴミとかすごいだろうな。
「それは、何を考えている顔?」
レオンが言った。
「いえ、あの、……大丈夫なんですか、それ」
我ながら拙いな、と思う。
「由々しき事態だ」
クラウスが答えた。
「ベルグラントが南西への侵攻を成功させるために、我が国は土地も、物資も、人も、搾取されるだろう」
仮集落で、レオンから聞いた話だった。
セルディア南西の山地を越えた先に、別国家へ通じる交易路と鉱山地帯がある。ベルグラントはそこへ進出したい。しかし直接向かうには険しい山脈がある。セルディアの河谷を押さえれば、大軍を通せる。
「言っておくが」
クラウスが続けた。
「二万は、この国を落とすための数ではない。山脈の向こうへ送り込むための数だ」
遥の指先が冷たくなった。
――この国は、数えられてすらいない。
二万は、セルディア軍と戦うために用意された数ではない。山の向こうへ着いたときに、まだ軍として使える数。そこから逆算された数字だ。
通り道。
セルディアは目的ではなく、鍵だ。
似た構図を知っている。ベルギーを通過したシュリーフェン・プラン。緩衝地帯を巡る列強の争い。交通路を確保するための侵攻。
通されたら、どうなるか。
街道は敵の兵站線になる。守るという名目で兵が置かれ、補給のために徴発が始まり、やがて誰の国か分からなくなる。
鍵を奪われた家は、持ち主が権利を主張できなくなる。ルールを決めた共同生活でもない限りは。
レオンが手を差し伸べた、あの避難民のような人たちが、さらに増えてしまう。
私が見た人数とは、比べ物にならないほど。
「こちらには……」
言いかけて、止めた。
聞いて、どうする。言って、どうなる。
「ハルカ」
レオンが呼んだ。
戸惑いながら、遥はそちらを見る。
目が、大丈夫、と言っている気がした。
「こちらには、戦える力はあるんですか」
聞いてしまった。
自分でも、どうしてそんなことを聞きたいと思ったのか分からない。
「王都防衛を含め、すぐ動かせるのは六千」
三倍以上。
考えようとしているわけではないのに、頭が勝手に動く。
二万と六千。正面からぶつかれば、結果は計算するまでもない。
でも、歴史上には――。
「――戦い方は」
そしてレオンの方を見る。
「戦い方は……あると、思います」
謁見の間が、静かになった。
遥は、自分の口を押さえた。
やってしまった。
また、口走った。
ここは王城で、目の前には王太子と将軍がいて、左右には文官が並んでいる。国の方針を決める場所だ。
私が口を出していい場所じゃない。
レオンが促してくれた? それは私の勝手な勘違いだ。
橋のときも、集落のときも、そうだった。そのたびに人が動いて、結果として何とかなっただけだ。
今度は国だ。
越権どころの話ではない。よそ者が、王城で軍略に口を挟んだ。
――処罰される。
レオンから顔を逸らし。
それから、顔を上げられなかった。
遥が思い浮かべたのは、ベルギーを通過して仏へ向かった第一次大戦のシュリーフェン・プラン。「小国は目的ではなく通り道にされる」の史実例です。




