第8話 拘束
「歩けるか」
武装した兵士に囲まれて、遥はそう聞かれた。
拘束はされず、両手も自由だった。しかし、抵抗したり、逃げようという気は起きなかった。
逃げてどこへ行くのか、という問いに答えられない。
この国のことを、遥は何も知らない。道も、泊まる場所も、明日の食べ物も。
身元不明。敵軍の兵数をなぜか正確に言い当てる。軍の作戦に口を出す。
こんな人間、客観的に考えれば、かなり怪しい。
自分が審査する側なら、たぶん同じように連行する。
囲まれて歩き出す間、遥は一度も顔を上げられなかった。
周りには人がいた。
昨日まで一緒に森を歩いた人たち。荷車を押していた男。子供を背負っていた女。
その人たちが、遠巻きにこちらを見ている。
誰も、声をかけてこない。
助けて、と思ったわけではない。そんな資格はない。
ただ、視線だけは感じていた。
――何をした人なんだろう。
そう思われているのが分かる。
昨日まで「あの子の言うとおりにすれば助かる」と言われていた。同じ人たちの前で、いま私は兵士に囲まれている。
人の見方が変わるのは、こんなに早い。
*
列が組まれ、砦のある村を出た。
街道は、夕暮れから夜へ傾いていった。
規則正しい足音。金具の触れ合う音。誰も喋らない行軍の、単調な揺れ。
兵士たちは、遥を見なかった。
いや、正確には、たまに見る。
目が合いそうになると、逸らす。
小声の会話が、時々、風に乗って届いた。
「――本当に、あの娘が」
「橋の話だろう」
「見てはいないが」
「閣下が捕らえろと仰ったらしい。それ以上は知らん」
遥は、聞こえないふりをして歩いた。
噂は、事実より速く歩く。
橋の話は、たぶん、もう何人もの私になっている。夜に橋を直した娘。数を言い当てた娘。敵の間者。神の遣い。
どれも私ではない、と言ったところで、誰も信じないだろう。
誰も、本物の私に興味はない。噂の方が、ずっと異質で、興味をそそられるから。
空の色が藍から黒へ変わる頃、右足が痛み始めた。
ローファーは、街道を歩くための靴ではない。踵の縁が皮膚に食い込んで、一歩ごとに同じ場所を擦る。
最初は、意識しなければ気にならない程度だった。
それが、一歩ごとに輪郭を持っていく。痛みというのは、こんなに正直に増えるものなのか、と他人事のように思った。
顔には出さないようにした。出したところで、何かが変わるとも思えない。
空腹も、寒さも、汚れも、言ったところで誰も代わってはくれない。
「ハルカ」
隣を歩いていたレオンが、足を止めた。
「足、痛むのかい」
「……気にしないでください」
「歩幅が、さっきから左右で違う」
見ていたらしい。
レオンは近くの兵へ短く告げた。
「処置を。布と、油があればそれも」
兵士が即座に動いた。
遥は、その様子を見ていた。
「……どうしてあなたの言うことを聞くんですか」
「人徳かな」
「嘘ですね」
「へえ、言うようになったね」
からかわれた。
でも、以前なら黙っていたと思う。少しだけ変わったのかもしれない。
*
行列が止まった。
夜営らしい。街道の脇に火が起こされ、兵が順に腰を下ろしていく。
遥は、少し離れた場所に座らされた。
レオンは、兵たちの中にいた。年かさの兵と何か話している。時々こちらを見て、目が合うと軽く手を挙げた。
水が配られた。木の椀を両手で受け取って、飲む。
冷たい。井戸の水だ。
そういえば、ここへ来てから、水の味を考えたことがなかった。
喉が渇いたら飲む。それだけだった。
美味しいとか、冷たいとか、そういうことを考える余裕が戻ってきたということは、少しは落ち着いたということなのかもしれない。
どこへ連れて行かれるのかも分からないのに、落ち着いている。
自分でも、それが少し不思議だった。
顔を上げると、空に星が出ていた。
制服のポケットに手を入れると、指がスマートフォンに触れた。
ここに帰る場所の証拠が一つだけある、という感覚が、いまはありがたかった。
――何をしたんだろう、私。
橋を残すことを、提案した。集落の人を逃がすことを、提案した。それだけだ。
それだけのことで、いま兵士に囲まれている。
役に立つと、こうなるのだろうか。
だとしたら、ずっと黙っていた方が、楽だったのかもしれない。
そう考えて、すぐに打ち消した。
黙っていたら、七百八十一人は渡れなかった。
どれくらい、そうしていただろう。
火が小さくなり、兵の話し声も減っていた。
ふと周囲を見渡す。
レオンがいなかった。
さっきまで、あの火のそばにいたのに。
何も言わずに、いなくなった。
別に、いい。
もともと昨日、会ったばかりの人だ。私を助ける義理なんてない。
それなのに。
知らない兵士たちの中に、知っている顔が一つもないと分かった途端、急に心細くなった。
腰に巻いた外套だけが、まだ他人の温度を覚えている気がした。
*
目の前に、誰かが立った。
若い騎士だった。
遥より、少し背が低い。まだ新しい胸当て――擦り傷ひとつない、支給されたばかりの鉄の色。赤みがかった髪。表情は硬く、腰の剣に手を添えている。剣帯は身体に対して少しだけ長く、留め具の位置を詰めた跡があった。
年は、どう見ても私より下だ。それも、かなり。
「ここからは、俺が護送する」
少年騎士は、精いっぱい低くした声で言った。
「妙な真似はするな」
そして、腰から縄を取り出した。
「え」
「手を出せ」
「あの」
「手を」
断る理由が、思いつかなかった。
差し出した手首に、縄が巻かれる。
硬い麻が、皮膚をちくちくと刺した。
結び目は、やたらと丁寧だった。何度も確かめるように締め直している。
締めすぎては緩め、緩めすぎては締め直す。その繰り返しが、ずいぶん長く続いた。
――手際が悪い。
さっきまで、こんなものはなかった。
どうして急に、処遇が変わるのだろう。
考えても、答えは出そうになかった。
何にしても、私は自分では何も決められない。
転移から次々に『巻き込まれ』た主人公、泣きっ面に蜂ですが、唯一の拠り所といえるレオンに少しだけ打ち解けていきます。キュンキュン




