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第7話 教科書にない敵

 成功したと思った瞬間に、失敗が見える。


 遥はその感覚を、初めて知った。


 模試なら、正答を書き終えればそれで正解がもらえる。その結果が変わることはない。


 でも戦場では、相手も考える。こちらが策を使えば、向こうも策を使う。


 当たり前なのに、教科書を読んでいるだけでは実感できなかった。


 ――この戦いでは奇襲が成功した。


 そう書かれていれば、読者は奇襲が成功した世界しか知らない。


 けれど、奇襲する前の指揮官には、敵が気づく未来も、雨が降る未来も、味方が迷う未来も、全部あり得た。


 歴史は、一本の線になった過去。


 今は、まだ線になる前だ。


 その違いが、遥には恐ろしくて、同時に少しだけ眩しかった。


「別働隊、千二百。森の西から南へ回っています」


 レオンはすぐに地図を開いた。羊皮紙が朝の風に鳴る。


「この道か」


「たぶん」


 森へ逃がした集落の人たちの進路と、交差する。


「引き返させる?」


「間に合いません」


 遥は頭の中に浮かぶ数字を視る。あの人たちは遅い。荷を引き、子を背負い、老人の歩調に合わせている。敵は軽装歩兵中心。


 追いつかれる。


 どうする。


 歴史。何か。森。少数。大軍。退路。


 桶狭間? 違う。テルモピュライ? 目的が違う。鵯越? 地形が違う。


 どれも当てはまらないのに、当てはめようとしている。


 昨夜は、それでうまくいった。だから今日も同じやり方で答えが出ると、どこかで思っていた。


 遥は一度、目を閉じた。


 瞼の裏で、めくれ続けていたページが止まる。


 当てなくていい。


 「この場面は何の戦いでしょう」と正解を選ぶ必要はない。必要な部品だけ拾えばいい。


 桶狭間からは、兵力差があっても地形と機を選べば局地的な優位を作れる、という発想。


 テルモピュライからは、狭隘地では数の優位が削がれる、という構造。


 撤退戦の歴史からは、敵を倒さず時間を奪うだけでも意味がある、という考え。


 どれも、そのままでは使えない。


 だから、ばらす。


 名前も時代も捨てて、原理だけにする。


 そのとき初めて、歴史は暗記した答えから、使える材料に変わった。


 狭い場所では、数の優位を生かしにくい。


 時間を奪えば、追う側の優位を削れる。


 兵は敵だけでなく、地形と時間にも縛られる。


「谷はありますか」


 レオンが地図を指す。


「ここ。昔の水路だ。今はほとんど涸れてる」


 幅が狭い。


「ここを通りますか」


「南へ逃がすなら最短だ」


 遥は敵別働隊を視る。彼らも同じ道を選ぶ可能性が高い。


「先に塞げませんか」


「何で?」


「木です」


 森だ。頭上で、朝の光が枝葉に切り分けられている。


「倒木で道を塞ぎます。完全に止めなくていいんです。片づける時間を使わせるだけ」


「遅滞か」


「はい。それを、何か所も」


 レオンはすぐ動いた。


 また、人が動く。


 遥は胸の奥がざわつく。


 慣れてはいけないと思った。自分の言葉で人が走ることに。



     *



 最初の一本が涸れ川へ倒れ込んだとき、木立の向こうに土煙が見えた。


 二か所目を仕掛けている最中だった。


 ――来た。


 そこからは、追いかけっこだった。


 斧が幹を噛む音。裂けながら倒れていく木の、長い悲鳴のような軋み。土砂を崩す掛け声。わざと残した荷車が、道の真ん中で間抜けに傾いている。


 仕掛けて、走る。敵が撤去する。また仕掛ける。


 ひとつひとつは、敵を数分止めるだけだ。


 でも、数分が積み重なる。


 太陽が動いた。木漏れ日の角度が変わり、朝の白い光が、昼の黄色い光になった。


 その間に、集落の人たちと、追う敵との距離が開いていく。


 遥は何度も後ろを視た。


 敵の隊列が伸びている。撤去のたびに前が止まり、後ろが詰まり、また伸びる。


 苛立ちは、動きに出る。撤去が雑になり、迂回を試みて藪に阻まれ、戻ってくる。


 駄目押しに、レオンの弓兵が、最後尾ではなく先頭だけを狙った。


 前が止まる。後ろが詰まる。列がさらに伸びる。


 狭い道では、数が多いほど動けなくなる。


 遥はそれを視ながら、古代から近世まで何度も繰り返された、同じ原理を思った。


 時代が違っても、人間の身体の大きさは大きく変わらない。道の幅に入れる人数も、変わらない。


 歴史が役に立つのは、出来事を覚えているからじゃない。


 同じ制約の中で、人間が何をしたかを大量に知っているからだ。


 初めて、そんなふうに思った。



     *



 夕方。


 集落の人たちは、小さな砦のある村へたどり着いた。


 敵別働隊は、追撃を断念していた。


 歓声が上がる。誰かが泣き、誰かが膝をつき、誰かが子供の名前を何度も呼んでいた。


 遥は、笑えなかった。


 敵の本隊は、集落を素通りして南西へ向かったという。


 河谷だ。


 あの人たちは、まだ道を作り続けている。


 止まったわけじゃない。行き先が、ここではなかっただけだ。


 三千八百は、その一部でしかないのかもしれない。


 そして何より。


「ハルカ」


 レオンが呼ぶ。


 その後ろに、武装した兵士が並んでいた。夕日が、揃いの胸当てを赤く塗っている。


「迎えが来た」


「……誰の?」


「君の」


 兵士の胸当てには、橋のあの夜に見たものと同じ紋章が刻まれていた。


 遥は、一歩下がった。


 やっぱり、捕まる。

桶狭間、テルモピュライ、鵯越(ひよどりごえ)。どれも「そのまま」は使えない、と遥が気づく回。名前と時代を捨てて原理だけ使う――本作の戦い方の宣言です。なお桶狭間の実態(奇襲か正面攻撃か)には近年議論があります。

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