第6話 空っぽの集落
――どうして、この人たちは攻めてくるんだろう。
地面に描いた地図を見下ろしながら、遥はそう思った。
そう思いながら、口を開きかけて、閉じた。
私が聞いていいことじゃない。この国の人でもないし、事情を知る立場でもない。知りすぎれば、それこそ間者だと思われる。
「敵はなぜ、と思っているね」
レオンが、枝の先で地図を軽く指した。
顔に出ていたのだろうか。
「……いえ」
「聞いていいよ。戦う相手のことは、知っておいた方がいい」
枝が動いて、地図の南西へ線が引かれる。
「山脈の向こうに、交易路と鉱山地帯がある。ベルグラントは、そこへ手を伸ばしたい」
ベルグラント。
聞いたことのない国の名前だった。
「……直接、そちらへは行けないんですか」
「山が険しすぎる。大軍は通れない」
線が、地図の真ん中へ戻ってくる。
「うちの南西に、河谷がある。そこを押さえれば、大軍が通せる」
遥は、その線を目で追った。
「……通り道」
「そう」
レオンは枝を置いた。
「この国が欲しいわけじゃない。この国を通りたいだけだ」
「じゃあ……放っておけば、通り過ぎますか」
「通り過ぎるよ。蔵を空にして、馬と、若い男を連れて」
レオンは枝で地面を均した。
「殺されはしない。ただ、冬は越せない」
欲しいわけではない。
その一言が、遥の中で妙な重さを持った。
欲しくもない土地のために、あの人は橋を焼く羽目になり、七百八十一人が置き去りにされかけ、この人たちは三日も歩いている。
けれど。
遥の頭の中で、何かが噛み合った。
「……なら、焼かないですよね」
「ん?」
「この集落を焼く理由も、逃げた人を追いかける理由も、ないですよね」
遥は自分の考えを、順番に並べた。
「欲しいのが道なら、必要なのは速さです。時間も、兵も、余計なことには使えないはずです。だったら――」
顔を上げる。
「正体の分からないものを前にしたら、確かめずには入ってこられません。急いでいる人ほど、無駄な損害を出せないので」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
レオンが、しばらく遥を見ていた。
「……ハルカ」
「はい」
「僕は、丘に旗を立てれば足を止めるだろう、としか考えていなかった。……どうして止まるのかまでは、考えていなかったな」
どう返せばいいのか分からず、遥は地図を見たままでいた。
嬉しい、とは少し違った。
自分の中で組み上がったものが、外に出て、形を保っていた。ただ、それだけのことが、こんなに落ち着かないとは思わなかった。
*
翌朝、仮集落は慌ただしく動き始めた。
朝靄の中を、人と荷が流れていく。
老人と子供、負傷者から先に森の奥へ移す。荷車の轍は途中で枝を使って消す。天幕は半分だけ残す。煮炊きの鍋には水を張り、火を絶やさない。
誰も大きな声を出さなかった。指示は囁きで伝わり、泣きそうな子供の口は母親の手で塞がれた。三百人が移動しているのに、聞こえるのは布擦れと足音だけだった。
そして南の丘には、わずかな兵を何度も移動させた。同じ兵士が旗を替え、場所を変えて姿を見せる。遠くからなら、複数の部隊が展開しているように見える。
遥は丘の陰にしゃがみ、それを見ていた。
歴史で似たことは何度もある。兵数を多く見せる。旗や篝火を増やす。行軍の砂埃を利用する。
でも、教科書で読むのと、実際にやるのは全然違う。
風向きひとつで煙は流れる。兵士の歩き方が雑なら、同じ人間だと見抜かれるかもしれない。馬の数は誤魔化せない。
史実は答えじゃない。ただの前例だ。
教科書では、結果を知った状態で戦争を読む。勝った側には勝った理由があり、負けた側には敗因が整理されている。
けれど、いま敵の前に立っている人間には、結末なんて見えない。
ハンニバルだって、ナポレオンだって、織田信長だって。その瞬間には「後世の有名な戦い」を戦っているつもりなんてなかったはずだ。
ただ、目の前の状況から選んだ。
いま自分がやっていることも、それと同じなのかもしれない。
そう考えると、急に歴史上の人物が、遠い物語の登場人物ではなくなった。
紙の向こうにいた人たちが、同じ朝の、同じ冷たい空気を吸っていた気がした。
「来た」
レオンが言った。
北東の街道に、敵軍が現れる。
最初は地面の震えだった。それから土煙。それから、鉄と革と馬の匂いが、風に乗って届いた。
遥には、数が視える。
三千七百九十六。
昨夜より四人減っている。脱落か、斥候として別れたのか。
敵の先頭が止まった。偵察騎兵が左右へ散る。
「慎重になってくれたみたいです」
「良かった?」
「半分は」
「半分?」
「慎重なら騙せます。でも、慎重だから、ちゃんと調べます」
レオンが小さく笑った。
「なるほど」
敵斥候が、南の丘へ近づく。
こちらの弓兵は射たない。遥の提案だった。
――昨夜、レオンは聞いた。
「撃たないの?」
「撃ったら、兵がいる場所を教えることになります。見せたいのは『見えている兵より、もっといるかもしれない』なので」
怖かった。自分の理屈が、本当に通じるのか。
斥候は丘を見て、戻った。
敵軍が停止する。
一時間。
二時間。
その二時間は、遥がこれまで生きてきた中で一番長かった。汗が背中を伝い、乾き、また伝う。地面に置いた指が、いつの間にか土を掴んでいる。
その間に、集落の住民は森の奥へ進んでいく。
遥は何度も人数を確認した。
あと二百。百二十。六十。
敵軍が動いた。
「来ます」
レオンが剣に手を置く。
「まだ四十人残ってる」
遥の喉が乾く。唾を飲もうとして、飲めるものがなかった。
時間が足りない。
敵の前衛が集落へ入る。
誰もいない天幕。燃える焚き火。湯気の立つ鍋。
ついさっきまで人がいたように見える。
敵兵が警戒する。動きが、明らかに鈍くなった。
鍋を覗き込んだ兵が、一度、後ろを振り返った。
――誰かが、いま出ていったばかりだ。
それでいい、と遥は思う。人がいないことより、いたはずの人がどこへ消えたのか、何を企んでいるのかを考えさせる。
そこで、南の丘に旗が上がった。
一つ。
二つ。
三つ。
敵軍が、再び止まる。
残り二十。十。
最後の老人が、森へ入った。
「全員、抜けました」
言ったきり、遥はしばらく動けなかった。握りしめていた指を開くと、爪の跡に土が食い込んでいた。
レオンが息を吐く。
「じゃあ、僕たちも行こう」
「はい」
立ち上がろうとした瞬間。
敵軍の後方に、新しい旗が見えた。
遥の頭に、情報が流れ込む。
別働隊。千二百。位置――森の西側。
「待って」
血の気が引く。指先から、一気に体温が抜けていった。
「どうした?」
「別の部隊が、森の西を回っています」
なぜ。
考えるより先に、答えが出た。
――河谷へ向かうなら、街道だけでは足りない。
迂回できる道を潰しながら進む。側面を固めながら本隊を通す。
通り道を確実にするための、当たり前の手順だった。
そして森の西の道は、住民が逃げていった先と、交わる。
「千二百」
遥は言った。
「――間に合いません」
空っぽの集落の考え方は、いわゆる焦土作戦の裏返しです。土地や物ではなく人を守る、人を守るには帰れる場所が必要、が本作の軸になっていきます。




