第5話 聞いてほしい人
レオンはすぐ見つかった。
仮集落の中央、負傷者用の天幕から出てきたところだった。天幕の隙間から、血と薬草の混ざった匂いが漏れている。
なぜ旅人がそんな場所を自由に出入りしているのか、という疑問は後回しにした。
「レオン」
呼び止めてから、遥は息を整えた。
自分から男性の名前を呼んで、追いかけている。
そのことに気づいて、耳が熱くなった。
違う。そういう場合じゃない。
「ハルカ?」
「……来ます」
「何が?」
「兵隊」
レオンの表情から、笑みが消えた。焚き火の照り返しが、その顔から温度を奪ったように見えた。
「どこから」
「北東。三千八百くらい。騎兵もいます。大きな……たぶん攻城用の道具も」
口にしてから不安になる。
どうして分かるの、と聞かれたら説明できない。頭がおかしいと思われても仕方ない。
「ここへ?」
「進路を変えなければ」
レオンは一度だけ、遠くの暗闇を見た。虫の声が、その沈黙の分だけ大きく聞こえた。
「どのくらいで来る」
遥は意識を伸ばす。距離。速度。街道。こめかみが、また鈍く軋む。
「明日の昼より前、です。……たぶん」
「たぶん、か」
「正確には分かりません」
「それだけ分かれば十分だ」
あっさり言われて、遥の方が戸惑った。
「信じるんですか」
「橋の噂を聞いたからね」
「噂です」
「じゃあ、僕が自分で確かめる」
レオンは近くの男へ何かを告げた。男は一礼して走っていく。
一礼。
遥は引っかかった。旅人にする礼ではない。
「あなた、何者なんですか」
「レオン」
「それは聞きました」
「今はそれでいいよ」
ごまかされた。
「それより、ハルカ」
「はい」
「もし本当に三千八百が来るとして、この集落はどうするべきだと思う?」
まただ。
私に聞く。
「逃げるしか……」
言いながら周囲を見る。
負傷者。老人。子供。荷車。
全員が明日の朝までに移動できる? 無理。
地形を見る。北東に街道。西に川。南に低い丘。背後に森。
頭の中で歴史を探す。ページが、勝手にめくれていく。
大軍から住民を逃がす。時間を稼ぐ。正面から戦わない。
焦土作戦? 違う。自分たちの生活基盤まで失う。
遅滞戦術。でも兵力が必要。城壁のない集落で、三千八百を止める方法。
膝の上で、指が勝手に地面の形をなぞっていた。
「……ここを守る必要は、ないですよね」
「うん?」
「土地を守るんじゃなくて、人を逃がせればいい、ですよね」
レオンの目が細くなる。
「続けて」
その一言が、少しだけ遥の背中を押した。焚き火が、ぱちりと爆ぜる。
「敵に、ここにまだ人がいると思わせます」
焚き火。天幕。荷車。そして森。
「撤収したあとも火を残す。天幕も一部残す。見張りがいるように見せる。敵が慎重なら、すぐ突っ込まず偵察します」
「慎重でなければ?」
「……そのときは」
答えが止まる。
歴史は万能じゃない。敵の指揮官がどんな人間か分からない。
不可解なちからで視えるのは兵数や位置。性格までは、見えない。
「分からないです」
遥は正直に言った。
「敵の指揮官が、何を考える人か分からないから」
言い終えてから、肩が下がった。息を止めていたらしい。
レオンは少し笑った。
「いい答えだ」
「答えになってません」
「分からないことを分からないと言えるのは大事だよ」
遥は黙った。
褒められたのかもしれない。でも、どう反応していいか分からない。
「じゃあ、相手が慎重になる理由を作ろう」
レオンは地面に枝で簡単な地図を描いた。枝先が土を掻く、さらさらという音。
「南の丘に兵を置ける。多くはないけど」
「兵がいるんですか?」
「少しね」
確定した。旅人じゃない。
軍の人か、そうでなくても、兵を動かせる立場の人。
私を探していた側かもしれない。
でも、今はそれでいい。むしろ、その方がいい。
遥は地図を見る。丘。森。川。
ひとつ、思いつく。
中国史。空城計。
諸葛亮がわずかな兵しかいない城で、門を開き、自ら琴を弾いて敵を警戒させた――という有名な逸話。
ただし、遥はそこで一度、自分にブレーキをかけた。
これは『三国志演義』で知られる話で、確実な史実とは言えない。
歴史マニアというわけではない。けれど、本当にあったことと、後から作られた話を、混ぜて覚えるのは気持ちが悪かった。
それでも、創作だから使えない、ということにはならない。
必要なのは「実際に諸葛亮がやったか」ではなく、弱者があえて余裕を見せることで、慎重な相手に罠を疑わせる――その心理の構造だ。
「……空城計」
「クウジョウ?」
「昔の話です。たぶん、作り話に近いですけど」
遥は初めて、異世界の誰かに歴史の話をした。
自分の声が、思ったより落ち着いているのが不思議だった。
「弱い側が、逃げずに堂々として見せるんです。相手に『何かある』と思わせる」
レオンが笑った。
「面白い」
「でも、それだけじゃ賭けです」
「なら、賭けじゃなくす方法を考えよう」
また「考えよう」だ、と遥は思った。
この人は、一度も「それは無理だ」と言わない。
二人で、地面の地図を見下ろす。
焚き火が揺れて、枝で描いた線の影が、生き物みたいに動いた。
遥は気づかなかった。
いつの間にか、自分が誰かと「一緒に考えている」ことに。
空城計。『三国志演義』で有名になった逸話で、作中で遥も言うとおり確実な史実とは言えません。でも「不自然な無防備は罠に見える」という心理の構造は本物です。




