第4話 お尋ね者の制服
橋を渡る人波と夜の混乱に紛れ、遥は軍から離れていた。翌朝には行き場を失った人々の列に混じり、そのまま歩き続けて――三日後。
久世遥は、生まれて初めて難民になっていた。
制服は泥だらけ。スマートフォンの電池は四十一パーセント。財布の三千八百二十七円は、ただの紙と金属くずになった。食事は噛むたびに顎が痛くなるパンと、塩の味しかしないスープ。
そして、お風呂に三日入っていない。
髪が重い。首筋がべたつく。自分の匂いが自分で分かるというのは、想像していたより惨めだった。
これが一番つらいかもしれない、と考えられる程度には、最初の恐怖も薄れてきたらしい。
仮集落の端に腰を下ろし、遥はようやく自分の格好を確認した。
「……最悪」
濃紺のブレザーの袖は擦れ、肘のあたりが白く粉を吹いている。ブラウスの襟には泥が跳ね、棒ネクタイは締めたときのまま、三日間ずっと喉元を押さえていた。ソックスは片方だけずり落ちて、ローファーの踵は擦り切れかけている。
三日前まで、この制服は「きちんとした人」の記号だった。今はただ、この世界のどこにも売っていない布の集まりだった。
そして、スカートの左側。
逃げる途中でどこかに引っかけたらしく、裾から上へ大きく裂けていた。立っている間はプリーツに紛れていたが、座ると裂け目が開く。思った以上に、脚が見えた。
外気が直接、太ももに触れる。
遥は反射的に膝を閉じ、布を手で寄せた。
今さら。三日間、この格好で歩き回っていたのに。気づいた瞬間から恥ずかしくなるのは、理不尽だ。
安全ピンはない。ハンカチで縛れるだろうか。
「やっぱりいた」
男性の声。
遥は裂け目を押さえたまま顔を上げた。
日差しの下では茶色にも見える、くすんだ金色の髪の青年が立っていた。逆光で、髪の輪郭だけが白く光っている。
二十歳前後。避難民、というよりは旅人のような――簡素な服。なのに、妙に姿勢がいい。
そして顔がいい。
なんでこの世界、こういう人ばかりなんだろう。橋のところの怖い人も、落ち着いて思い出してみたらかなり整った顔だった。
いや、今はそんなことどうでもいい。
遥は裂けた側を、さりげなく青年から遠ざけた。
……少し露骨に警戒しすぎたかも。
「キミ……」
「ち、違うんです」
「まだ何も言ってないけど」
失敗した。
青年は笑った。悪意のない笑い方だった。
低くはない声だった。張らない。語尾を放り出さない。一語ずつ、置いていくような喋り方をする。
「黒い髪。十八くらいの女の子。『見たことのない服』」
心臓が跳ねる。
「キミ、お尋ね者になってるの、知ってる?」
「……え?」
「軍が探してる」
お尋ね者?
橋の作戦は成功した。でも、あんな情報を知っていたことを怪しまれた? 敵の間者だと思われた?
頭の中に、悪い可能性ばかりが並ぶ。並べるのは得意なのに、消し方は知らない。
「捕まるんですか」
「さあ」
さあって。
「少なくとも、ここまで正式な手配は来てない。この集落は誰がどこから来たのかも分からない人だらけだ。隠れるには向いてる」
「……あなたは、捕まえないんですか」
「僕が?」
青年は自分の服を見下ろした。
「軍人に見える?」
見えない。
でも、周りの人たちとも、なにか、違うような。
――顔じゃなく。
遥は無意識に、橋で兵士たちへしたのと同じように、彼へ意識を向けていた。
服装。所作。この集落での立ち振舞い――。
そこに、厚い霧のようなものがかかった。
「っ……」
こめかみの奥で、鈍い痛みが灯る。
さっきまで兵士たちを見たときは、所属や、装備から分かる兵科なら読めた。なのに、この人だけは、その先へ届かない。橋で見た兵数より、ずっと情報が遠い。
「大丈夫?」
「……何でもありません」
青年が、隣に腰を下ろす。
近い。草の匂いに、かすかに知らない香草の匂いが混じった。
遥はすでに閉じていた膝をさらに寄せた。
青年の視線が一瞬だけ、裂けたスカートを押さえる手元へ落ちた。
見られた。
頬が熱くなる。耳まで熱い。
しかし青年は何も言わず、自分の肩に掛けていた外套を外した。
「これ、使う?」
「え」
「寒そうだから」
そういうことにしてくれるらしい。
「……ありがとうございます」
腰に巻くと、裂け目が隠れた。厚手の布は、人の体温が残っていて、日なたの匂いがした。
ほっとして、そのことに少しだけ動揺した。
「僕はレオン」
「……久世遥です」
「クーゼ、ハルカ? 名前は、クーゼ?」
「ハルカ、のほうです」
「じゃあ、ハルカ」
名前を呼ばれただけなのに、少し落ち着かない。
この世界で自分の名前を知る人が、初めてできたからだろう。
「橋のこと、聞いたよ」
遥の肩が固まる。
「……何のことですか」
「燃やした橋を、夜にもう一度渡れるようにした女の子がいるって」
「私じゃありません」
嘘ではない、と思う。橋を残したのは工兵で、渡すと決めたのはあの将軍だ。私は、思いついただけ。
「そう?」
「そうです」
「じゃあ、どうして軍に追われてるの?」
逃げ道がない。
それでもレオンは、答えを急かさなかった。
さっきからずっとそうだ。遮らないし、詰めない。こちらが黙っている時間を、平気で待っている。
レオンは楽しそうに笑った。
「もしまた何か気づいたら、僕に教えて」
「どうしてですか」
「聞きたいから」
「私の?」
「うん」
「……考えを?」
「そう」
遥は返事ができなかった。
私の考えを聞きたい。
そんなことを、誰かに真正面から言われた記憶がなかった。
学校でも、先生は「久世ならどう考える?」と聞くことがある。けれどそれは、だいたい正解へたどり着くための問いだった。答え合わせのための言葉。
レオンが聞こうとしているのは、たぶん、違う。
正しいかどうかも分からない段階の、自分の考え。まだ形になっていないもの。
そんなものに価値があると、遥自身は一度も思ったことがなかった。
だから、嬉しいより先に戸惑った。
人に必要とされることには、どう反応すればいいのだろう。
教科書には、載っていなかった。
「役に立つとは思えません」
「それを決めるのは、聞いてからでいいだろ?」
レオンは立ち上がった。
「外套はしばらく持ってて」
「でも」
「その格好で歩くよりいい」
やっぱり見てた。
遥は顔を上げられなくなった。
――その夜。
夜の底を撫でるように、遠くで、低い地鳴りのような音がした。
馬?
地面に置いた手のひらに、震えが伝ってくる……気がする。遥は身を起こし、北東の暗闇へ意識を向けた。
情報が浮かぶ。
北東。兵、三千八百。騎兵。攻城具。食糧。
街道上の移動方向。その進路を地形に重ねれば、この集落へ続いている。
遥は起き上がった。
言ったって、何も変わらない。
いつもの考えが浮かぶ。
でも。
橋では、変わった。
遥は外套を掴み、夜の集落へ飛び出した。
焚き火の匂い。誰かの寝息。外套の裾が夜露を掃く。
自分の考えを伝えるために誰かを探すのも、生まれて初めてだった。
お尋ね者回。元ネタ解説はお休みして一言だけ:遥の制服の乱れ方は、かなりこだわりました。異世界ものヒロインに肌色は付き物ですが、露骨にしたくなかったという葛藤の成れの果て。




