第3話 第三の答え
「橋を半分だけ壊す?」
副官らしき男が、理解できないという顔をした。眉間の皺に煤がたまっていて、それが拭う暇もなかった日々を物語っている。
「正確には……敵に、渡れないと思わせるんです」
遥の声は、自分でも情けないほど小さい。川の音と、橋板を焼く火の音にすぐ溶けてしまいそうだった。
それなのに、周囲の兵士たちは黙って聞いていた。
その静けさが、かえって重い。
やめたい。今すぐ「忘れてください」と言いたい。
作戦が採用されれば、間違いは点数では済まない。ここでは、自分の答えの先に人がいる。
それでも、頭の中ではもう、作戦が組み上がり始めていた。指先は冷たいのに、そこだけが熱を持って回っている。
「中央部を落とします。騎兵が飛び越えられない幅だけ。油を使って、遠くからは橋全体が燃えているように見せる」
「敵が確認に来る」
「確認させない」
自分でも驚くほど早く、答えが出た。
「弓を使える人がまだ少し……いますよね、こちら側の高所に構えて、橋へ近づく斥候だけを狙います。渡ろうとすること自体が危険だと思わせる」
「敵が強行すれば?」
将軍の問いだった。
遥は土煙を見る。二百八十四。先行しすぎた騎兵。本隊との、三・二キロ。
「……しないと思います」
「理由は」
「追ってきているのは先行部隊の、……二百八十四人だけ、だから。後ろの人たちは、……三・二キロも、離れています。橋の状態も分からない。向こうから見れば、こちらにどれだけ弓兵がいるかも分からない。わざわざ馬を失う危険を冒してまで、燃えている橋へ入る理由がないです」
将軍が黙る。火の粉が、二人の間を斜めに横切っていった。
「それで、夜になったら……残した構造に板を渡して、人だけ通れるように戻す……」
「馬車は?」
「無理、だと思います」
「騎馬も」
「……たぶん」
「負傷者は」
遥は詰まった。
そこまで、考えていなかった。
副官が鼻で息を吐く。当然だと思った。素人の、穴だらけの案。喉の奥が塩辛くなる。
「担架を縄で固定すれば渡せる」
将軍が言った。
遥は顔を上げた。
「橋の支柱を残せるなら、滑車も使える。ローディン」
「……はい」
「工兵を呼べ」
「閣下、本気ですか」
「他に七百八十一を拾える案があるか」
副官――ローディンは黙った。
遥の胸が、強く鳴る。
この人は、私の案をそのまま信じたわけじゃない。自分の知識で、穴を埋めている。
それが、少しだけ救いだった。
「待ってください」
将軍が歩き出そうとする。
「何だ」
「本当に、やるんですか」
「お前が言ったんだろう」
「でも、私、……責任取れません」
口にしてから、最低だと思った。言うだけ言って、責任は取れない。
男は、怒らなかった。
「取らせるつもりはない」
「だったら――」
「責任を取るために、俺がいる」
遥は言葉を失った。
将軍はもう遥を見ず、兵へ命令を飛ばした。
「橋の中央部のみ破壊! 西側支柱は残せ! 油を増やして煙を出せ! 弓兵三十、丘へ!」
声が、川岸を叩いた。
人が動く。何十人も。松明の列が伸び、金具が鳴り、走る足が土を蹴る。
私の、一言で。
怖かった。
遥は丘の上で、燃える橋を見つめ続けた。
煙が目に染みて、勝手に涙が滲む。熱気が風に乗って頬へ届き、そのくせ背中は夜気に冷やされていく。体の前と後ろで、まったく違う季節が起きているみたいだった。
遠くで誰かが叫ぶたび、心臓が跳ねた。
「やっぱりやめた方が」と言いたくなる。けれど兵は、もう動いていた。
決断したのは将軍だ。それでも、きっかけは自分の一言だった。
だから私は、今まで何も言わなかったのかもしれない。
意見が通らないことより、通った後の重さが怖かったのかもしれない。
やがて、敵騎兵が姿を現した。
二百八十四。
地平の土煙が形を持ち、蹄の音が地面を伝って、腹の底に響いてくる。
先頭の数騎が橋へ近づく。
弦の唸り。矢が地面へ突き刺さる、短い音。
さらに一騎が前へ出る。今度は馬のすぐ脇へ矢が落ちた。馬が首を振り、いなないた。
騎兵たちは、止まった。
遥は無意識に両手を握っていた。爪が手のひらに食い込んでいた。
お願い。来ないで。
歴史の答案に祈ったことなんて、一度もない。正解は最初から、過去にあるから。
でもこれは、まだ起きていない歴史だった。
騎兵隊が、東へ向きを変えた。
蹄の音が遠ざかり、腹の底の震えが引いていく。
息が抜けた。
「……行った」
誰かが呟いた。
夜になった。
火を消した橋は、焦げた匂いと湯気を上げていた。工兵が板を渡す。木と木が噛み合う、乾いた音が闇に響く。
最初の兵士が、暗闇から現れた。
一人。二人。三人。
板の軋み。荒い息。負傷者が運ばれてくる。泣きながら抱き合う兵士がいる。子供を抱えた女性が、橋を渡ってくる。子供の靴が片方だけなかった。
遥の中に、数字が流れ込む。
百。三百。五百。七百七十九。七百八十。
最後に、片腕を肩に回された若い兵士が渡った。
七百八十一。
全員。
遥は、その場に座り込んだ。膝から力が抜けて、地面の冷たさが、やけに優しかった。
工兵が橋を残した。弓兵が敵を止めた。あの将軍が決断した。
それでも、自分の言葉が役に立ったという事実が、確かにある。
少し離れた場所で、黒髪の将軍が、表情を変えずにその結末を見据えていた。
ローディンが報告する。
「閣下。確認できた者、七百八十一。……全員です」
将軍はしばらく、何も言わなかった。
「……あの娘を探せ」
「は?」
「黒髪の、妙な服の娘だ。見失うな」
命令は、正確にはそれだけだった。
けれど軍隊の命令というものは、人を経るたびに少しずつ形を変える。
翌朝には「将軍閣下が正体不明の少女を捜している」となり。
昼には「黒髪の娘を確保せよ」となり。
夕方には――。
「軍が、黒髪の女の子を捕らえろって」
になっていた。
「二択の外に三つ目を出す」は特定の史実ではなく、本作の軍師観そのものです。歴史は答えを暗記する科目ではなく、選択肢を増やす科目、という話。




