第2話 橋を落とせ
夢かどうかを確かめるために頬をつねる、という発想は採用しなかった。痛みを感じる夢を見ることもあるかもしれない。判定方法としては不確かだ。
遥はスマートフォンを取り出した。
圏外。地図は現在地を取得できない。検索もできない。電波を探し続けても無駄だと考え、機内モードに切り替えた。
電池残量、六十八パーセント。
小さな数字の光が、指先に馴染んだ画面の冷たさが、この場でただ一つの「知っている物」だった。この状況でスマホを触って落ち着くのは、スマホ依存ではない、と言いたい。
丘の下では、武装した兵士たちが橋へ油を運んでいる。樽が転がるたび、粘つく油の匂いが風に乗って、ここまで届く。
こちら側へ逃げてくるのは兵士だけではない。老人、子供、荷車を引く人。負傷者。軋む車輪。誰かを呼ぶ声。泣き声は不思議と少なくて、それがかえって、事態の深刻さを物語っていた。泣く余裕さえ、置いてきたのだ。
国境付近の住民ごと退いているのだろう。
橋の向こう、街道の先に土煙が見えた。
遥は、さっき丘の上で感じた数字を確かめるように、もう一度そこへ意識を向けた。
――騎兵、二百八十四。さっきと同じ数字。
「……やっぱり」
目視で数え直したわけでもないのに、数字は揺らがない。そもそも距離があり、土煙の中で姿さえろくに見えない。それでも、二百八十四だと確信できた。
さらに意識を向ける。
二百八十四は、先を駆ける騎兵だけの数だった。その後ろ、約三・二キロ。土煙の奥に、もっと大きな塊がある。
歩兵、三千二百余り。弓兵、四百。まだ数字が伸びる。輜重の列、そのさらに後方――
こめかみの奥で、鈍い光が弾けた。頭の奥が、万力で挟まれたように締めつけられる。
遥はこめかみを押さえ、慌てて意識を切った。耳の奥で自分の鼓動が鳴っている。
全部は数えきれなかった。数えきれないほどいる、ということだけが分かった。
振り返って、今度は川のこちら側へ意識を向ける。
三千百二十。
武器を持っている者、千四百。そのうち、まともに立てる者はもっと少ない。矢はほとんど残っていない。馬は、荷車を引く分しかいない。
数が並んだ瞬間、遥はようやく、目の前の光景の意味を理解した。
この人たちは、負けたのだ。
もう戦って追い返せる軍ではなくて、ただ、生き残った人の集まりだった。
何、これ。
幻覚にしては、情報が細かすぎる。
怖い。
でも、怖いからこそ考える。考えている間だけは、怖さが形を持たないでいてくれる。
情報の入り方には法則があるらしい。意識を向けた対象について、数えられるもの、位置、距離――すでにそこにある事実だけが浮かぶ。深く見ようとすると頭が痛む。相手が何を考えているかも、これから何をするかも分からない。
ファンタジーなら、スキル。
そんな単語が浮かんだ自分に呆れた。
もっと状況を知りたくて、遥は避難民の流れに紛れ、斜面を下りた。すれ違う人々の汗と土埃の匂い。荷車の軋み。誰かの外套が腕をかすめていく。気づけば、橋のたもとの指揮の声が届くところまで来ていた。
「第三隊から連絡は!」
すぐ先で鋭い声がした。
「ありません!」
そこで初めて、遥は別の異常に気づいた。聞いたことのない響きのはずなのに、言葉の意味がそのまま頭へ入ってくる。
「南の森へ散った者も戻っておりません!」
黒髪の若い男が、橋のたもとに立っていた。
泥と煤に汚れた銀の胸当て。周囲より明らかに上等な装備。松明の火が、その横顔に濃い影を刻んでいる。
「クラウス閣下、もう少しだけ待てませんか」
副官らしい男が食い下がる。
「待てば敵の騎兵も着く」
「しかし、まだ七百近くが――」
「分かっている」
短い言葉だった。
けれど遥には、その声が妙に残った。低く抑えられた声の底に、砂を噛んだような音が混じっていた。
分かっている。
この人は、向こうに味方が残っていることを知っている。知らずに切り捨てるのではない。知った上で、橋を落とそうとしている。
クラウスと呼ばれていた黒髪の将軍は、川のこちら側を見た。
避難民。負傷兵。疲れ切った兵士たち。焚かれた松明の火が、何百もの顔を、同じ色の不安で塗っていた。
彼の顔には、迷いがないように見えた。
けれど副官が「まだ七百近くが」と食い下がったとき、男の顎がわずかに強張った。
取り残された者を承知のうえで、それでもこちらの三千を生かすと決めている。
冷酷なのではない。選ばなければ、もっと死ぬ。
自分がこの人の立場なら、七百人を見捨てる決断なんてできない。かといって、七百を捨てられずに三千を死なせることを、優しさとは呼べない。
こういう問いには、採点基準がない。
「橋を残せば、追いつかれる。こちらは、もう一度戦える軍ではない」
誰に説明するでもない声だった。川風が、油の匂いを一段と濃くする。副官が唇を噛む。
「……橋を落とせ」
遥の口から、ほとんど息のような声が漏れた。
「……違う」
言った瞬間、後悔した。心臓が、遅れて跳ねた。
何を言ってるんだろう、私は。この人は考えた上で決めている。私は軍人でもない。ここがどこの国かさえ知らない。
「何が違う」
すぐ近くから声がした。
顔を上げると、黒髪の将軍がこちらを見ていた。松明の逆光で、表情までは読めない。それが余計に怖かった。
自分が口にした日本語も、相手には通じているらしい。が、そのことに気付く余裕はその時は無かった。
「……何でもありません」
「今、橋を落とすなと言ったな」
「言ってません」
「言った」
逃げたい。なのに足が、地面に縫いつけられたように動かなかった。
「理由は」
「……」
「言え」
怖い。でも、怒鳴られている感じはしなかった。この人は本当に、理由を聞こうとしている。
それが、余計に困る。
私の考えなんて。
そう思ったところで、橋の向こう側へ意識が向いた。
七百、近く。軍の人も把握している。もっと正確には――。
頭痛を覚悟して、探る。こめかみの奥で、鈍い痛みが灯る。
残された者、七百八十一。うち負傷者、百二十六。民間人、九十三。
遥は息を呑んだ。
数字になってしまうと、余計に重かった。「七百近く」は群れだ。でも七百八十一は、一人ずつ数えられる誰かだった。
「……まだ、向こうにいますよね」
将軍の目が、わずかに動いた。
「いる」
「七百八十一人。民間人も、九十三人います」
副官が振り返った。
「何?」
しまった。また余計なことを言った。
「……たぶん」
「物見の報告では七百前後だ。なぜ分かる」
「分かりません」
「ふざけているのか」
「私も分からないんです」
これは本当だった。
将軍は数秒、遥を見つめた。松明の火の粉が、二人の間を斜めに流れていく。
そして、橋へ視線を戻す。
「七百八十一だろうが七百だろうが、判断は変わらん」
その声には苦さがあった。
「橋を落とさなければ、こちらの三千が、川を背にして殲滅される」
正しい。遥はそう思った。
しかも、彼の判断は間違っていない。そこへ「別の方法がある」と割り込む方が怖い。この人は、残す命と切り捨てる命を選ぼうとしている。
模試なら、不正解でも赤い線が引かれるだけだ。
ここでは、自分の答えの先に人がいる。
燃え移るのを待つ油の匂い。荷車の軋み。橋板を打つ、疲れた足音。答案用紙は、こんな匂いはしなかった。
七百八十一を救うために、三千を危険に晒すべきではない。
でも。
本当に、二択しかないの?
橋を残す。橋を落とす。
頭の中で、ページがめくれた。乾いた紙の音が、確かに聞こえた気がした。
スブリキウス橋。古代ローマ。敵の進撃を止めるため、一人の男が橋の上で敵を防ぎ、その間に味方が橋を落としたという伝承。橋を壊して、敵を止める。
そして、別のページ。
ベレジナ。一八一二年。撤退するナポレオン軍。川を越える橋は生存路であり、失えば向こう側の人間は取り残される。
橋は敵の道。でも、味方の道でもある。
スブリキウス橋では、「壊すこと」が守ることだった。ベレジナでは、「渡れること」が生きることだった。
二つの歴史を重ねると、橋を「壊す/残す」の二択そのものが、違って見えた。
だったら。
壊すか、残すかではない。
敵には渡れないと思わせ、味方には後で渡れる橋にする。
史実そのものではない。二つの史実の間に、第三の答えが見えた。
「……全部、落とさなくても」
将軍が振り返った。
「何?」
もう言ってしまった。遥は自分の指先が冷たくなるのを感じた。油の匂いも、松明の熱も、急に遠くなる。世界に、自分の心臓の音と、目の前の男だけが残った。
「橋……全部、壊さなくてもいいんじゃないでしょうか」
橋を守って落とす話の元ネタは二つ。ローマのスブリキウス橋の伝承(ホラティウスが橋上で敵を防ぎ、背後で味方が橋を壊した)と、1812年ナポレオン軍のベレジナ渡河。前者は「伝承」で、史実性には議論があります。




