第1話 歴史なんて、何の役に立つの?
世界史の教科書は、よくできたファンタジー小説だと思う。
カンナエの平原で、ハンニバルはローマ軍を包囲した。指でなぞれば紙の上のことなのに、五万の足音が聞こえる気がするくらい、あの布陣図はよくできている。桶狭間では、圧倒的に不利な側が雨と地形を味方につけて、大軍の首を取った。国家は婚姻し、裏切り、同盟を結び、条約の一文で昨日までの敵を味方に変える。
どれも、よくできた筋書きだと思う。
夢中になったことはない。けれど、退屈だと思ったこともない。
むしろ久世遥は、そういう話を一度読めば、地図の色分けの端まで覚えてしまう。
だからこそ、ときどき思うのだ。
――これ、どこで使うんだろう。
五時間目の教室は、暖房の乾いた匂いがした。窓際の席まで西日が伸びて、埃がゆっくり光の中を落ちていく。解答用紙の上を走る何十本ものシャープペンの音は、遠くで降る雨に似ている。その雨音の中で、遥のペンだけが、もう止まっていた。
最後の論述まで埋まっている。見直しは二周した。指先に残った黒鉛の匂いを意識しながら、たぶん今回も世界史は満点に近い、と他人事のように思う。
近代史を学ぶ分には、まだ分かる。今の国境、政治制度、民族対立。現代へ続く理由を知るためだと言われれば、納得はできる。
でも、もっと昔はどうだろう。
服装も違う。髪型も違う。言葉も違う。価値観まで違う。二千年前の将軍が敵をどう包囲したかを、十八歳の高校生が覚えている意味は、どこにあるんだろう。
数学なら、いつか何かを計算するかもしれない。英語なら、外国の人と話すかもしれない。
でも私は一生、軍隊を率いない。
私立星鳳高等学校、三年。
濃紺のブレザーに、細い縞の入った棒ネクタイ。ブラウスは一番上まで、ブレザーも下の一つまで、ボタンはすべて留めてある。同じ濃紺の、格子の織り込まれたプリーツスカートは、立てば膝が半分隠れる丈。膝下までの紺のソックスに、焦茶のローファー。
着崩しを指摘されようがない着方をしている、という自覚はあった。
朝、鏡の前でネクタイの縞の角度まで揃えてしまうのは、几帳面だからというより、そうしておけば誰にも何も言われないからだった。
チャイムが、埃の光を揺らして鳴った。
答案が回収されると、教室の空気がほどけて、あちこちで答え合わせのさざめきが立つ。
「最後の論述、何書いた?」
「久世さんに聞いてみよっか」
名前が出た瞬間、遥は筆箱を鞄へしまう手を少しだけ速めた。ファスナーの音が、自分でも意外なほど大きく響く。
聞かれれば答える。答えられるから。
けれど、そのあとに続く「さすが」「また一位でしょ」という言葉の手ざわりが、昔から苦手だった。褒め言葉のかたちをした、そっと遠ざけられる感じ。
別に、すごいことをしているつもりはない。覚えられるから覚えた。問題に合わせて組み替えられるから、そうした。それだけだ。
そして何より、自分の考えを話すのが苦手だった。
正解のある問いなら答えられる。けれど「あなたはどう思う?」と聞かれると、急に言葉が遠くなる。喉の奥で音になる前に、いつも同じ考えが先回りをする。
私がどう思ったところで、何か変わるわけじゃない。
塾へ行くにはまだ早かった。家へ帰るには中途半端だ。遥はいつものように図書室へ向かった。
本が好きだから。
そして、誰とも話さなくていいから。
放課後の図書室は、紙と埃と、少しだけ古い接着剤の匂いがする。暖房の低い唸りが床を伝って、ローファーの裏にかすかに届く。この音と匂いの中でだけ、遥は肩の力の抜き方を思い出せた。
入口を入ったところで、見慣れない男性に気づく。
灰色がかった髪。細い銀縁眼鏡。白いシャツに濃紺のベスト。学校の司書というより、古い外国映画に出てくる執事のような、いわゆる「紳士」の風体を纏っていた。
男性は閉架書庫の近くで本を棚へ戻していた。一瞬だけ目が合う。彼は穏やかに会釈した。眼鏡の奥の目が、なぜか、向こうは遥を知っているような色をしていた気がした。
新しい司書の先生かな。
遥も小さく頭を下げ、それ以上は気にしなかった。
いつもの席へ向かう途中、返却棚の一番下に、妙な本があった。
革装の大判本。図書館のラベルもバーコードもない。手に取ると、革は日なたの石みたいにほのかに温かくて、ずっしりと、生き物の重さがした。表紙には見たことのない文字が刻まれている。
なのに、なぜか分かった。
「……地図帳?」
開く。
古い革の匂いに、なぜか、かすかな水の匂いが混じった。
見たことのない大陸があった。海岸線。山脈。大河。細かく色分けされた国々。そして、あちこちに引かれた点線の国境。
そこに、目が止まる。
点線。国境未確定。係争地。
「ご興味が、おありですかな」
声が出そうになった。
背後だった。妙に芝居がかった口調。さっきまで離れた場所で作業をしていたはずの、あの司書の声だ。
興味があるのか、と聞かれてみると、答えに迷ってしまう。
遥は半分だけ振り返り、顔は上げないまま、それでも意を決したように口を開いた。
「いえ……、……はい」
失礼にならない程度の返事をして、再び地図へ視線を戻す。
また、点線に目が吸い寄せられる。
山脈と河川を自然国境にした地域は安定している。反対に、広い平野では点線が複雑に入り組んでいた。守りにくい土地ほど、奪い合いになる。誰かの創作にしては、妙に筋が通っている。
――やっぱり、歴史とファンタジーって似てる。
少しだけ面白くなって、最も太い点線を、指でなぞった。
紙が、指を掴んだ。
「え?」
紙面が水のように沈む。指先から、川底の砂みたいな冷たさが這い上がってくる。引こうとしても、動かない。
ぱらり。
背後で、ページをめくる音がした。
おかしい。私は両手とも、この本に触れている。
さっきの紳士――?
「きっと、あなたが必要な本ですよ」
振り返るより早く、図書室が白く飛んだ。
暖房の唸りが消える。紙と埃の匂いが消える。一瞬、世界から音がなくなって――それから、まとめて押し寄せてきた。
怒鳴り声。馬の蹄。何かが燃える、乾いた爆ぜる音。
そして、焦げた匂い。木と、油と、それから知らない何かが焼ける匂い。
遥が目を開けると、空があった。
高くて、広くて、電線が一本もない空。頬の下で草が冷たく、土の匂いが濃い。知らない空の下、丘の斜面に倒れている。
眼下には川。橋。逃げ惑う人々。その向こうから迫る土煙。
燃え始めた橋が、夕暮れの川面に逆さに映って、水の上でも火が揺れていた。
その景色を見た瞬間、遥の頭に、教科書の言葉が浮かんだ。
撤退戦。追撃。橋梁破壊。
紙の上の言葉が、匂いと熱を持って、目の前にある。
「……うそ」
歴史なんて、何の役に立つの。
つい一時間ほど前まで、そう思っていた。
その歴史のような光景の中に、いま自分がいる。
怖いはずだった。
知らない土地。知らない服。知らない言葉。燃えている橋。逃げる人。
けれど恐怖より先に、頭の中で状況が整理されていく自分がいて、その冷たさが、少し気味悪かった。
映画なら、たぶん私はもっと叫ぶ役だ。小説なら、「ここはどこ?」と誰かに尋ねて話を進める役。でも実際には――
まず、生き延びなければならない。
そのためには、ここで何が起きているかを知る。
――そう考えた瞬間。
橋の向こうから迫る土煙の中に、遥は"数"を感じた。
二百八十四。
意味が分からない。人数のようだったが、数えたわけではない。そもそも、あんな距離から一人ずつ見えるはずもない。
なのに、知っている。
騎兵、二百八十四。
その事実だけが、最初から自分の記憶の中にあったみたいに、妙に確かだった。
「……なに、これ」
答える人はいなかった。
ただ、風が土煙の匂いを運んでくるだけだった。
ファンタジー脳、いわゆる空想癖持ちで、しかしながらそれをカタチにする能力が無く(カタチにする努力を怠り、とも言える)、無数の物語を頭の中に描いては忘れていきました。未来。カタチにしてくれる技術が誰でも使えるようになりました。




