第19話 なんで追っちゃダメなの?
異変が起きたのは、その直後だった。
食堂の外を、兵士が走った。
続いてもう一人。
三人目が走ったとき、店の主人が手を止め、卓を拭く布を握ったまま入口の方を見た。
クラウスの顔から、呆れが消えた。
水の杯が、静かに置かれる。
「ここにいろ」
立ち上がる。
三秒後。
夏帆も立った。
「なぜ来る!」
「絶対イベントじゃん!」
「戻れ!」
駆けてきた兵士が、通りの先へ向かって叫んだ。
「東だ! 国境を越えられた!」
その一言で、食堂の中から声が消えた。
匙を置く音。椅子を引く音。誰かが立ち上がり、誰かが窓の外を見る。
*
クラウスは夏帆を連れていくつもりなどなかった。
夏帆はついていくつもりだった。
その二つの意思が衝突した場合、声の大きさだけなら夏帆が勝った。
「久世さんは役に立ったんでしょ? 私だって同じところから来たんだよ? 同じ学校だし、同じ制服だし、絶対なんかあるって!」
「ない」
「あるって! 同じ学校の子が続けて呼ばれたんだよ? そんな偶然ある? 意味もなく呼ばれる人なんかいないの、そういうものなの!」
「根拠を言え」
「異世界もの!」
「だからそれは何なんだ!」
クラウスが折れたわけではなかった。
置いていったところで、勝手に後を追う。
その場にいた全員に、そう見えた。
町の広場が、夜のうちに埋まった。
四隅に松明が立てられ、馬が引き出され、荷車の縁板が上げられ、井戸の脇で水袋が次々に満たされていく。蹄鉄が石畳を打ち、鎧の留め具が触れ合い、名前を呼ぶ声が飛び交った。さっきまで皿を出していた食堂の主人が、店先で干し肉の束を兵に押しつけている。
鎧戸を開けた二階から、女が身を乗り出して誰かの名を呼んでいた。
その声に振り返った兵が、片手を挙げただけで、また列へ戻っていく。
夏帆は、広場の端に立ってそれを見ていた。
祭りの行列は知っている。駅の雑踏も知っている。
人と馬と鉄がこれだけの密度で同じ方向を向いているのを見るのは、初めてだった。
鎧を着けたクラウスが、馬の脇に立っていた。従卒が留め具を締めるあいだ、一度もこちらを見ない。食堂にいた男と同じなのは、背丈だけだった。
すれ違う兵が二度見していく。三人目は立ち止まった。
「どこの娘だ」
「知らん。閣下が連れてこられた。構うなとのことだ」
兵の一人が、革の胴当てと擦り切れた外套を夏帆へ押しつけていった。
胴当ては留め具を一番きつく締めても緩く、外套は丈が余った。
クラウスが示した条件は三つだった。
荷車から降りない。前へは出ない。退けと言われたら、振り返らずに退く。
夏帆は全部に「分かった」と答えた。
うなずく速さが、三つとも同じだった。
*
東へ。
夏帆は荷車の端に乗せられた。麦の袋と、油の壺と、予備の槍の間である。
列は、前も後ろも見えなかった。
土埃が腰の高さで漂い、先頭がどこにいるのかは、旗の先だけが教えてくれる。車輪の音と足音がずっと続いていて、たまに途切れると、かえって耳が落ち着かなくなった。
野営が三度あった。
一度目の夜、夏帆は焚き火のそばで兵に囲まれていた。ガッコウとは何か。海の向こうから来たのか。その髪の色は生まれつきか。答えるたびに輪が増えた。
二度目の夜、夏帆は座る位置を何度も変えていた。
そこへ、クラウスが馬を寄せた。
「食っているか」
「食べてる。お尻は板になったけど」
「そうか」
それだけ言って、列の前のほうへ戻っていく。
三度目の夜には、喋る相手が兵から馬に変わっていた。
「知ってたよ。異世界ものって、こういうとこ書かないよね」
馬が耳を動かした。
「歩いてるあいだのこと。ぜんぶ飛ばして、次はもう着いてるの」
馬は草を食べている。
「ここ、行間なんだよ」
道は少しずつ下っていった。石の多い斜面が消え、刈り入れの終わった畑が広がる。板葺きの小屋。堰。水路。轍が深くなり、車輪の音が石から土の音へ変わった。
畑の中に、人の姿はほとんどなかった。
戸を板で打ちつけた家が、三軒続いた。
やがて、列が膨れた。
東部の所領から出てきた兵が合流し、旗の色が増える。
馬を降りたクラウスが、天幕の前で一人の男へ短く頭を下げた。
年かさの貴族だった。背は高くない。胸に細かな意匠を打った鋼の鎧が、よく肥えた体を窮屈そうに包んでいる。指の太い手で、地図を上から押さえるようにして見ていた。
この土地も、合流してきた兵も、この男のものだった。
指揮を執るのも、この男だった。
*
前方に、敵が現れた。
セルディア側の兵が姿を見せると、小規模な部隊が交戦を避けるように後退していく。
「逃げてる!」
夏帆には、そう見えた。
「……おかしい」
クラウスは、短くそう言った。
「追うな」
列がいったん止まり、天幕の前に人が集まった。
「ゲイル卿、追撃の下知を」
誰かが進言した。
クラウスが、それを遮った。
「お待ちください。罠かもしれません」
「なぜそう思う」
「隊列が……整いすぎています」
「それだけか」
「……それだけです」
「こちらが数で勝っている。敵は背を向けているのだぞ」
天幕の中が静かになった。
地図を押さえていた指が、一度離れて、また置かれた。
「追う」
「卿」
「踏まれているのは、わしの領地だ。ここで逃がせば、次はもっと深く入られる」
命令が下った。
クラウスは何も言わなかった。ただ、手綱を握る手の甲に、筋が立っていた。
軍は追った。
荷車が動き出してから、夏帆は隣を歩く兵に聞いた。
「追うことになったんですね」
「そりゃ追うだろう。勝ったばかりの国が、東から踏み込まれて見送ったんじゃ、格好がつかん」
「勝ったばかりって、北の……?」
「そうだ。ついこの間だ」
答えは、どちらもすぐに返ってきた。
クラウスの馬が、荷車の横を通り過ぎた。
視線は、敵のいる前ではなく、道の両側へ向いていた。
「ねえ、逃げてるのに、なんで追っちゃダメなの?」
答えはなかった。
しばらくして、馬がまた横に来た。
まだ、同じところを見ていた。
夏帆はもう一度、同じことを聞いた。
二度目も、答えは返ってこなかった。
逃げる敵を追いかけてはいけない、というのは昔からの鉄則です。追う側は隊列が崩れ、地形も分からないまま前へ出ることになります。
夏帆は二回聞きました。答えは返ってきませんでした。




