第18話 異世界はごはんが美味しい
異世界召喚後、最初に陽向夏帆を救ったもの。
それは魔法でもなければ、伝説の剣でもない。
異世界のイケメンが払ってくれた、夕食代だった。
食堂は、市場の角にあった。低い梁に鍋が吊られ、土間に長卓が三つ。板戸を半分開けて、外の光を入れている。
先客が二人、奥の卓で肘をついていた。主人はクラウスを見ると、何も聞かずに指を二本立てた。
卓に、湯気の立つ皿が二つ置かれた。
豆と、細かく切った肉と、名前の分からない葉が煮込んである。添えられたパンは、指で裂けるほど柔らかくはなかった。
夏帆は匙を持ったまま三秒動きを止め、いただきます、と手を合わせてから猛然と食べ始めた。
「そうだ、久世さんのことでしたよね?」
言ってから、口のものを飲み込む。
「あとで聞く。ゆっくり食べろ」
夏帆が、一瞬、意外そうな顔をした。
「めちゃくちゃいい人ですね! クラウスさん」
夏帆は、まっすぐにクラウスを見ていた。
クラウスは答えず、匙を取って、皿へ目を落とした。
板戸の隙間から入る光が、土間の上をゆっくり動いていく。
主人が竈の火を落とした。長卓の端では、男が二人、杯を重ねている。外を通る荷車の音が、さっきより間遠になった。
皿が空になる頃、主人が壁の灯りに火を入れた。
「お前たちのことを聞く前に、まず俺のことを話しておく」
夏帆は水の杯を両手で持ったまま、上目遣いにうなずいた。
「名はクラウスという。この町に実家があるのは、さっき聞いたな。だが普段はここにいない。王都で働いている」
「王都! 私、王都へ向かおうと思ってたんです。あ、でも久世さんに会うのが先かな? 久世さんも王都にいるんですか?」
「俺のこと」は、一言目で遮られた。
「クゼ=ハルカは……王都にはいない」
「そうなんだ」
「あ、そうだった。久世さんのこと聞きたいですよね。久世さんは――」
「あとで聞く。先にお前のことを聞かせろ」
夏帆が、また意外そうな顔をした。
「クラウスさん、久世さんのこと聞きたくて私を連れ出したんですよね?」
「そうだが」
「なのに、ゆっくりごはん食べさせてくれて、自分のこと話して、私のこと聞きたがって」
夏帆の頬が、少し赤くなった。
クラウスは表情を変えないまま、視線だけを外した。
「自分の聞きたいことだけ聞ければ、それでいいのか」
夏帆が、杯を持ったまま黙った。
それから、口の中で小さく「あー」と言った。
「お前は、この町で何をしていた」
夏帆は自己紹介をした。
正確には、頼まれてもいない情報まで大量に提供した。
十八歳。高校三年生。陽向が名字で、夏帆が名前。趣味はアニメと漫画とラノベ。好きなジャンルは異世界もの。甘いものに目がなくて、そういえば友だちにハーゲンダッツを奢ってもらう約束がまだ残っている。
そして、地図帳に吸い込まれてここへ来た。日本という、別の国。別の世界から。
「絵空事だな」
「はーい、初手で信じてもらえないのは想定内でーす」
「クゼ=ハルカは、一言も言っていなかった」
そして夏帆は、久世遥について尋ねられた。
同じ学校。同じ学年。名前は知っている。成績優秀な生徒。
ただし、一度も話したことはない。クラスも違う。廊下ですれ違っていても、たぶんお互い気づいていない。
夏帆にとって久世遥とは、それだけの人物だった。
「……それだけか」
「うん。何かあったんですか?」
クラウスは、すぐには答えなかった。
杯の水を一口飲んで、それから短く言った。
北の大国が攻めてきたこと。その戦に、久世遥が関わったこと。
見えるはずのない数を言い当て、この国の戦い方そのものを変えたこと。
夏帆が硬直した。
「鑑定じゃん……」
「なんだと?」
「ご存じないのですか!? 数多くの異世界作品の主人公が習得して、最近では巷で最強クラスのスキルだともてはやされている、鑑! 定! です!」
「知らんな」
「じゃあ千里眼?」
「知らん」
「軍師系ユニークスキル?」
「知らんと言っている」
「覚醒した?」
「さっきから何を言っている」
夏帆の質問は止まらなかった。
クラウスの理解は、一向に追いつかなかった。
途中から、彼は答えるのをやめて、ただ水の杯を傾けていた。
「久世さんは? 今どこにいるんですか?」
杯が止まった。
「いない」
「え、帰ったんですか?」
「消えた」
夏帆の杯が、卓にゆっくりと降りて、小さな音を立てた。
「……消えた?」
「ある朝から、いない」
クラウスはそれ以上言わなかった。
奥の卓の二人が立ち上がり、主人に何か言って出ていった。板戸の向こうは、もう夜だった。
「そういえば」
「どうした」
「実家があるのは聞きましたけど、なんで今日この町にいたんですか?」
唐突に、「俺のこと」が戻ってきた。
「東の国境の様子を見に来た」
「東に何かあるんですか」
「何もないなら、それでいい」
クラウスが、真顔になった。
夏帆も、同じ顔を作って身を乗り出した。
「ちなみにクラウスさんって、何属性ですか?」
「何の話だ」
「見た感じ剣士系だから、無属性ですかね」
クラウスが、短く息を吐いた。
空いた皿を、店の主人が黙って下げていった。
「鑑定」や「ステータス画面」は、もともと遊ぶ側が数字を確かめるための仕組みでした。それが物語の中の力として扱われるようになって、今では異世界ものの標準装備です。
クラウスには通じません。




