第17話 異世界はお金がかかる
異世界召喚というものは、最初の十分くらいは楽しい。
石造りの家を見る。楽しい。
市場を見る。楽しい。
剣を持った人を見る。とても楽しい。
市場は、広場から一本入った通りにあった。
板を渡しただけの台の上に、見たことのない果物が山になって並んでいる。赤いのか紫なのか決めかねたような色。楽しい。
その隣で、串に刺した肉が焼かれている。脂が落ちて、炭が小さく鳴る。おいしそう。
布を被せた籠に、拳ほどのパンが積まれている。おいしそう。
おなかがすく。
この辺りから、少しずつ楽しくなくなる。
「……お金」
財布を開く。
千円札。硬貨。学生証。ポイントカード。
異世界における価値は、いずれも不明だった。
五百円玉を露店の主人へ見せてみた。
主人は手のひらの銀色をしばらく眺め、指で裏返し、爪の先で縁を弾いた。
それから、首を横に振った。
銀ではない、ということらしい。
「……銀貨っぽいし、いけると思ったんだけどなあ」
当然ながら、電子マネーは試すまでもない。
「ステータス」
何も出ない。
「ステータスオープン」
出ない。
「オープン!」
通行人が振り返った。パンを抱えた女が、子どもの手を引いて足を速める。
「……なんでもないです」
幸い、言葉は通じた。
通じたので、道行く人に片っ端から聞いた。
ここはセルディア王国。王都から東へ、歩いて半日ほどの町。
日本を知っているか。知らない。
東京は。知らない。
召喚された人間を保護してくれる役所はあるか。相手は変な顔をして去っていった。
元の世界へ戻る方法は、聞くまでもなかった。
やがて、聞く相手がいなくなった。
市場の台から品が下ろされ、板が裏返され、店主たちが荷を積み始める。
日が傾いて、石壁の影が道を半分まで飲み込んでいた。
「……詰んだ」
陽向夏帆は、道端の石壁にもたれて膝を抱えていた。
おなかがすいた。行くところもない。
異世界召喚されたというのに、初期装備は制服、鞄、スマートフォン。財布の中身は使用不能。
異世界攻略には、驚くほど役に立たなかった。
膝を抱えたまま、道行く人の足を数えていた。二十を過ぎたあたりで数えるのをやめた。
どこかで戸が閉まる音がした。石壁の影が、夏帆の靴の先まで伸びている。
スマートフォンの画面を点ける。
圏外。
電池は、まだ八割あった。使い道がないだけだった。
「……大丈夫! まだやれることはいくらでもあるよね。明日は王都を目指してみよう」
「……ごはんさえ、調達できれば」
「おい」
「なんですかぁ」
光を失った目で、顔を上げる。
若い男が立っていた。
背が高い。黒い髪。整った顔立ち。
「い……」
夏帆の目に、急激に光が戻った。
「異世界イケメンきたー!」
夏帆が勢いよく立ち上がった。石壁から背が離れる音がした。
改めて、男を見る。
簡素な上着だが、立ち姿は妙に隙がない。踵の揃え方が、そのへんの若者のものではなかった。
男の視線が、制服へ落ちる。
濃紺のブレザー。ネクタイではなく、蝶結びのリボン。膝上のスカート。踵の低い革靴。
夏帆が身を捩って、スカートの裾を押さえた。何か勘違いをしたらしい。
この町のどこにも売っていない布の組み合わせだった。
男の眉が、わずかに動いた。
それから、まっすぐに聞いた。
「お前」
「はいっ!」
スカートを押さえていた手が離れ、背筋が伸びた。
「クゼ=ハルカを知っているな?」
「久世さん?」
張り詰めていた肩が、すとんと落ちた。
「久世遥!?」
「やはり知っているのか」
「知ってます! 同じ学校です!」
「ガッコウ?」
「久世さんも召喚されたんですか!? 妖精いました!?」
「待て」
「何のスキルだったんですか!?」
「待てと言っている」
「魔法使えるんですか!?」
「話を――」
「ステータスは!?」
「……」
「レベル!」
男は黙った。
夏帆も黙った。
二人の間を、荷車が一台、のんびりと通り過ぎていった。
「……もしかしなくても、私の言ってること」
「一つも理解できん」
「マジかぁ」
その直後。
ぐう、と、おなかが鳴った。
石壁に反響して、思いのほか大きく響いた。
「……」
「……」
「今のは」
「さすがに、理解できた」
「ですよね」
「食ってないのか?」
夏帆は小さくうなずいた。
男は、しばらく夏帆を見ていた。
それから、来た道を顎で示した。
夏帆は、半歩後ろをついて歩き出した。
市場はもう半分が畳まれていた。売れ残りの果物が籠へ移され、どこかの窓に、最初の灯りが点く。
市場の角で、籠を提げた年配の女とすれ違った。
「あら、クラウス。珍しいわね、女の子を連れているなんて。それも、こんなに可愛らしい」
「食事に連れて行くところです」
女が、夏帆をもう一度見た。
「あら、まあ」
女は笑って行ってしまった。
「お兄さん、クラウスっていうんですね」
「……そうだ」
「可愛い女の子を連れてるね、だって」
夏帆の肩が、小さく揺れた。
「可愛らしい、だ」
「……独り言にツッコまないでくださいよー」
「私も、クラウスさんって呼んでいいですか」
「好きにするといい」
「クラウスさんって、この辺りの人なんですか? みんな知ってるみたい」
「実家がある」
石畳に、二人分の影が長く伸びていた。
五百円玉は、一度も銀貨だったことがないようです。今のものはニッケル黄銅と白銅と銅の三種類でできていて、その前はニッケル黄銅、さらに前は白銅でした。銀色に見えるだけです。
夏帆が最初にぶつかったのは、魔王でも魔物でもなく、これでした。




