第16話 人生で一度は言ってみたいセリフ、第二位
「これってもしかして……異世界召喚ってやつ〜!?」
石畳の広場に、その声はよく響いた。
通りかかった老女が振り返り、荷を担いだ少年が足を止め、井戸の脇で寝ていた犬が一度だけ吠えた。声の主は気にしていない。両腕を広げたまま、その場でぐるりと一回転する。ポニーテールが、半周遅れて追いかけてきた。
陽向夏帆、十八歳。
人生で一度は言ってみたいセリフ、第二位。
まさか、本当に口にする日が来るとは。
目の前には、見知らぬ町が広がっていた。
低い石造りの建物が肩を寄せ合い、その隙間から午後の光が斜めに落ちている。軒先から吊られた看板が、風を受けてゆっくり回り、鎖の軋む音を立てていた。見たこともない文字が書かれている。
その間を、見慣れない服装の人々が行き交っている。
自動車はない。
電柱もない。
電線が一本も渡っていないぶん、空がやけに広い。
代わりに、荷を満載した二輪の車を馬が引いていた。
「馬車!」
正確には荷馬車である。
反対側を見る。
腰に剣を下げた男が歩いている。
「剣!」
男が怪訝そうに振り返った。
「あ、すみません!」
勢いよく頭を下げる。ポニーテールが、遅れて前へ跳ねた。
そして夏帆は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
圏外。
念のため機内モードをオンにして、オフにする。
圏外。
「完璧じゃん……!」
電波が入らないことを喜ぶ人間は、あまりいない。
夏帆の顔は、これ以上ない証拠を掴んだと言っていた。
そして、どうやってここへ来たのか。
それについては、心当たりがある。
話は、ほんの少し前に遡る。
*
陽向夏帆は、目立つ。
本人が目立とうとしているかどうかは、この際あまり関係がない。
高い位置で結んだポニーテールは、根元から毛先へ向かうほど色が明るい。窓際の席では、先端が光を透かして金色に近く見えた。
染めたものではない。地毛である。初対面では、だいたい一度は聞かれる。
私立星鳳高等学校、三年。
濃紺のブレザーに、蝶結びのリボン。ブラウスのボタンは一番上だけ外してあり、ブレザーは前を留めていない。同じ濃紺のプリーツスカートは、立てば膝が出る丈。袖は肘の手前までまくり上げてある。
校則へ正面から喧嘩を売るほどではない。本人いわく、「この方が動きやすいから」。
体つきは細くない。甘いものを我慢したことがないからだ、と本人は言う。とはいえ鈍重でもなく、階段はいつも一段飛ばしで下りる。
そして、とにかく表情が動く。笑う。驚く。膨れる。また笑う。
人と話すことについては、少しばかり得意だった。
賑やかな生徒とも話す。おとなしい生徒とも話す。男子とも普通に話す。教師にも話しかける。
陽向夏帆と同じクラスになって、一年間一度も会話をしない。
その方が難しい。
そして、夏帆には好きなものがある。アニメ。漫画。ライトノベル。中でも異世界ものは大好物だった。
「夏帆なら異世界行っても生きてそう」
以前、友だちにそう言われたことがある。
「余裕でしょ! まずステータス確認は絶対」
「ステータスウィンドウ出なかったら?」
「その辺に、女神様が遣わしてくれた妖精とか、ナビゲーターポジのが絶対いる!」
「妖精いなかったら?」
「冒険者ギルドを探す! 適性を確認してもらって、職業を決める」
「ギルドなかったら?」
「王都を目指す。もちろん王城は門前払いだけど、路頭に迷ってたらナビゲーターポジのモブに出会うから大丈夫」
「またナビゲーターポジ……王都なかったら?」
「問題なし! まだまだ無数の異世界を知ってるから、どれかはまる」
陽向夏帆は異世界へ行ったことがない。当然である。にもかかわらず、異世界で生きていくことについては妙な自信があった。
召喚。転生。スキル。レベル。ステータス。
魔法。属性。冒険者。魔物。ダンジョン。
そういう世界なら、任せてほしい。少なくとも現実の歴史の試験よりは、ずっと自信がある。
*
「夏帆」
「んー?」
「これ、返しといて」
放課後の教室は、椅子を引く音と誰かの笑い声で満ちていた。
鞄へ教科書を放り込んでいた夏帆の机に、一冊の本が置かれる。
置いたのは佐藤美咲。
成績は普通。運動も普通。容姿について本人に聞けば「普通」と答えるだろう。夏帆は誰とでも話すが、放課後に隣にいるのは、たいていこの子だった。
「何これ」
「図書室の本。今日までなんだよね」
「自分で返しなよ」
「委員会あるの。お願い」
「アイス一本」
「えー」
「じゃ、返さない」
「分かったって」
「あ、やっぱハーゲンダッツ」
「え、高」
こうして陽向夏帆は、その日、図書室へ向かった。
ハーゲンダッツ一個で請け負った、本の返却のために。
夕暮れの図書室には、ほとんど人がいなかった。
西日が書架の背を橙に染め、床に長い影を何本も引いている。
「すみませーん」
返事はない。声だけが、天井の高い部屋を一往復して消えた。
夏帆はカウンターの前で少し待った。
「返却でーす」
やはり返事はない。
「置いとけばいいのかな」
「こちらで結構ですよ」
「うわっ!」
いつの間にか、男が立っていた。
年齢のよく分からない紳士だった。銀縁の眼鏡。灰色がかった髪。白いシャツに濃紺のベスト。西日を背にしているのに、その姿には影の落ち方が足りないように見えた。
「びっくりした……足音、エスティントなんですけど」
「それは失礼しました」
男は穏やかに笑って、夏帆から本を受け取った。
「これで返却できてます?」
「ええ」
「じゃ、お願いします」
用事は終わった。
夏帆が踵を返す。
「ところで」
呼び止められた。
「はい?」
振り返る。
カウンターの上に、一冊の本があった。
革の表紙が、西日の中でわずかに艶を返している。
刻まれた文字は、見たこともない形をしていた。
なのに、地図帳だと分かった。
「こういう本は、お好きですか?」
「地図?」
「ええ」
「んー……別に」
紳士が本を開いた。
乾いた紙の音が、静かな部屋によく通った。
夏帆の目がページへ落ちる。
「……何これ」
知らない国名が並んでいる。
セルディア。ベルグラント。
学校の地理で見た覚えはない。
「こんな国ありましたっけ?」
「どうでしょう」
「世界史?」
「さて」
「架空地図?」
「そう見えますか?」
「……異世界もの!」
夏帆の目が輝いた。ページを覗き込む。ポニーテールが肩から滑り落ちて、地図の上に影を落とす。
妙に細かい。
川。山。街道。町。国境を示しているらしい点線。
「これ、見ていいんですか?」
「もちろん」
「借りられる?」
「それは、どうでしょう」
「ダメなんだ」
夏帆が、あからさまに残念そうな顔をした。
紳士が、わずかに笑った。
「ですが――」
指先で、開かれた地図を示す。
「きっと、あなたが必要な本ですよ」
「私が?」
夏帆が地図へ手を伸ばした。
指先が、セルディアという文字に触れる。
紙が、指を掴んだ。
ぱらり。
誰も触れていないのに、ページが一枚めくれた。
世界が、白くなった。
*
そして。
話は冒頭へ戻る。
「これってもしかして……異世界召喚ってやつ〜!?」
陽向夏帆、十八歳。
人生で一度は言ってみたいセリフ、第二位。
その日、見事に達成。
広場の隅で、犬がもう一度吠えた。
迎えの馬車も、女神も、光る文字の枠も、現れない。
「……誰も来ないとか、聞いてませんけど」
石畳の上には、制服の少女がひとり立っているだけだった。
陽向夏帆は、異世界について詳しい。
異世界に呼ばれた主人公は、たいてい誰かに待たれています。王様だったり、女神だったり、少なくとも状況を説明してくれる誰かが出てきます。
夏帆の場合は、犬しかいませんでした。
新作のように始まりましたが、ダブルヒロインのもう一人、陽向夏帆をよろしくお願いします。




